社会問題

2018年5月 2日 (水)

憲法記念日を前に起訴便宜主義を考える

 「山口メンバー」は「山口さん」になりました。起訴猶予になったからだそうです。
 日本の刑事訴訟法248条は,「犯人の性格,年齢及び境遇,犯罪の軽重及び情状並びに犯罪後の情況により訴追を必要としないときは,公訴を提起しないことができる」と定めています。これを起訴便宜主義といいます。日本の検察官は,状況によっては,起訴(公訴提起)しないこともできるのです。
 強制わいせつ行為が確認されても,被害者と示談が成立していて,初犯であるというようなことがあれば,起訴猶予となるのが相場なのかもしれません。ただ示談が成立していれば起訴しないのであれば,非親告罪にした意味が減殺されるような気もします。もちろん公訴提起により被害者が裁判に出廷することなどによる二次被害が起こらないようにするための配慮は必要ですが,性犯罪が社会にとって危険な犯罪であり,かつ加害者本人が社会復帰を望んでいることを考慮すると,社会にとっての危険性はいまだ軽微とはいえない可能性があります。
 ところで,イタリアでは憲法112条に次のような規定があります。
 「Il pubblico ministero ha l'obbligo di esercitare l'azione penale.」 
    検察官は公訴提起をする義務がある,という規定です。これを起訴法定主義といいます。犯罪行為があったと確認した以上は,起訴しなければならないということです。あとは裁判官が量刑も含めて判断するということでしょう。検察官は行政官であり,犯罪の嫌疑があるときに,司法の判断に服せしめるかどうかを自分で勝手に判断してしまってはだめということです。これが憲法で定められているのです。
 日本の検察官の起訴便宜主義の運用を信用していないわけではありませんが,起訴猶予によって(元)容疑者の扱いが一変してしまったことで,ちょっと心配になりました。禊ぎが済んだとまでは誰も考えていないでしょうが,そういうムードがやや現れているような気がするのが心配です(メンバーたちまで厳しい意見を加害者に言うにつれ,世論は加害者に同情論が出てくる可能性があり,これが危険です)。
 性犯罪は再犯率が比較的高いようです。データでは裁判で有罪判決を得た場合のものがありますが,起訴猶予になったものも含めるともっとあるのではないでしょうか(憶測なので間違っていればすみません)。別に今回の「山口さん」に個人的な恨みはありませんが,書類送検までされる性犯罪は相当悪質なものであったはずです(クラブで酔ってホステスの胸をむりやり触ったというたぐいのものではないでしょう)。マスコミも,そのあたりをよく考えたうえで,横並びではなく,各社で報道姿勢を考えてほしいものです。
 なお,直接この話に関係しませんが,イタリアでは,対象が存在してない場合(たとえばカーテンの向こうに殺そうとしている相手の人間がいると思ってそこに向かってピストルの引き金をひいたが,そこには誰もいなかったとか),犯罪を引き起こすことに適しない行為(単なる胃腸薬を毒薬と誤信して,それを飲ませて殺そうとしたとか)である場合は不能犯(reato impossibile)とされ,罪には問われません(イタリア刑法典49条2項)が,その場合には,裁判所は保安処分(misura di sicurezza)を命じることができます(同条4項)。不能犯は,当該行為については犯罪を起こす可能性がなく,問題なく無罪ですが,それでも社会への危険がある以上,裁判官は保安処分をして社会の安全(sicurezza)を図る責任を負うのです。日本の刑法では,そもそも不能犯の規定がないですし,不能犯に保安措置を命じるといった規定もありませんが,イタリアでは歴史的に有力である「新派」的な思想により,犯罪をする危険のある者から,いかに社会を守るかを大事にしているのではないかと思います(刑法における旧派と新派の議論については,ぜひ刑法の専門書を読んで確認してください)。
 ということで,私が言いたいのは,不能犯的な無罪であっても,起訴猶予であっても,社会を守るという視点も大切ではないかということです。それはとくに性犯罪にあてはまることではないかと思うのです。
 加害者の人権も大切ということを,いつも述べていますが,今回はマスコミ報道をみながら,あえて報道に批判的なことを言ってバランスをとったほうがよいということで書いてみました。なおいつも断っています(ときどき忘れています)が,刑法や刑事訴訟法や憲法のほんとうの専門的な議論については,労働法屋の私には責任を負えませんので,ご自分でご確認ください。

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2018年4月28日 (土)

山口メンバー

 TOKIOのメンバーの犯罪に関する報道で,報道機関は,被疑者(容疑者)のことを,「山口容疑者」や「山口」とはせず,一部の例外を除くとすべて「山口メンバー」に統一していました。例外もあったことから,何か明確な根拠に基づいてやっているわけではなく,とりあえずこれで統一しようとの合意があり,その合意に参加した報道機関が呼び方を統一したのかもしれません。しかし,この呼び方に違和感をもっている人は多いようです。
 強制わいせつだけれど,示談も成立しており,逮捕されているわけでもないので,「容疑者」という呼び方を避けたのかもしれませんが,逮捕されるかどうかは,証拠隠滅や逃亡のおそれがあるかどうかの違いで,逮捕されていないから軽いというものではありません。
 一応条文で確認しておくと,刑事訴訟法199条1項本文は,「検察官,検察事務官又は司法警察職員は,被疑者が罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由があるときは,裁判官のあらかじめ発する逮捕状により,これを逮捕することができる」と定め,同条2項は,「裁判官は,被疑者が罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由があると認めるときは,検察官又は司法警察員(警察官たる司法警察員については,国家公安委員会又は都道府県公安委員会が指定する警部以上の者に限る……)の請求により,前項の逮捕状を発する」としたうえで,「但し,明らかに逮捕の必要がないと認めるときは,この限りでない」とし,刑事訴訟規則143条の3は,この「明らかに逮捕の必要がない」について,「逮捕状の請求を受けた裁判官は,逮捕の理由があると認める場合においても,被疑者の年齢及び境遇並びに犯罪の軽重及び態様その他諸般の事情に照らし,被疑者が逃亡する虞がなく,かつ,罪証を隠滅する虞がない等明らかに逮捕の必要がないと認めるときは、逮捕状の請求を却下しなければならない」となっています。逮捕の理由があっても,逮捕の必要性がなければ逮捕されないわけで,今回は被害者側の捜査機関への申告から,捜査機関からの被疑者への通告までに1か月以上かかっていて,その間に容疑事実を固めていたため証拠隠滅のおそれがなく,また被疑者が有名人であるため逃亡のおそれがなく,示談も成立しているということで逮捕されなかっただけなのでしょう。
 ということで,容疑者(被疑者)という表現を使わないことには,違和感があります。もちろん今回は示談が成立しているので,書類送検されても,起訴はされないでしょう(起訴猶予)。報道機関はそこに配慮したのかもしれませんが,起訴猶予となるまでは容疑者であることに変わりはありません。
 そもそも被疑事実を認めなければ勾留が長引き,その間は容疑者と呼ばれ続けるわけで,しかし元厚生労働省事務次官の村木さんのように,冤罪事件もあるのです。彼女の場合はある意味で名誉が回復し,次官ポストという政府からの贖罪もあったのです(事件がなくても次官になっていたかもしれませんが)が,普通の場合は冤罪となったときの名誉回復はほとんどされないでしょう。容疑者と呼ばれたままでの放置です。ところが,被疑事実を認めれば逮捕されず,犯罪をしていたのに容疑者とも呼ばれないのです。このあたりの均衡は取れていない感じがします。今回のケースで「山口メンバー」というような言い方をするのならば,すべての人に対して,逮捕されても有罪が確定するまでは「容疑者」と呼ばないことにし,推定無罪の原則を貫くべきともいえます。
 今回のさらなる違和感は,被疑事実が「強制わいせつ」ということです。容疑者本人は事実を認めているから良いということではなく(涙の謝罪会見は,演出の可能性がゼロではない以上,これで判断を揺るがされてはいけません),また,この犯罪が親告罪でなくなったから,被害者が告訴をしなかったり,その取り下げがあったりしても捜査が続くことになったのでアンラッキーというものでもなく,そもそも容疑者本人が認めた事実はかなり悪質なものなのです(女子高校生をもつ親なら許しがたいことでしょう)。
 本人が否定しているセクハラが嫌疑(犯罪かどうかも不明)があるだけの状況でこれだけたたかれる風潮(それはそれで時代の流れだと思いますが)のなかで,明らかな刑事犯罪をしていた者への取扱いの違いも気になります。有名人やそのバックにいる芸能事務所に遠慮したということではないと信じたいですが,いずれにせよ報道機関の考え方を各社ごとにしっかり明示すべきではないでしょうか。
 なお誤解なきよう言っておきますと,私は山口氏をはじめとする犯罪被疑者を「容疑者」と呼ぶことを強く求めているわけではありません。前述のように有罪が確定するまでは普通の人と同じように扱うのも一つの見識だと思っています。それも含めて,どういう問題をどういうように伝えるかは,各社の自由だと思っています。だからこそ,今回の強制わいせつ事件報道に関する各社の報道の姿勢を,セクハラ問題などとの比較も通して,明確に示してもらえればと思うのです。

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2018年4月18日 (水)

手続的正義は重要

 財務事務次官のセクハラ問題は,これを政治的な問題として扱うのなら,政治家に好きなようにやってもらっていいのですが,法的な観点からは,週刊誌の記事だけで,かつ,被害者不詳ということでは,セクハラがあったと認定することはできません。そんなことが認められれば,一般市民だって,どんな疑惑をかけられて加害者に仕立て上げられるわからない危険な社会が来ることになります。週刊誌報道は,これからの手続のきっかけにすぎないのであり,その内容の正否は検証を要するはずです。
 人を断罪するためには,最低限,「いつ,どこで,何があったか」が具体的に示されていなければなりません。大学のアカハラ的セクハラのケースで,被害者がセクハラと申告しているだけで,セクハラがあったものと認められるのです,と堂々と言った人もいるのですが,これが世間の人権感覚であれば,それを是正する必要があります。たしかに真の被害者であれば,申告するのは勇気がいることで,それにもかかわらず申告している以上,セクハラの事実があったと認めてもよいという意見は感情的には理解できますが,しかし,かりに真の被害者でなかった場合,「冤罪」により「断罪」された人の受けたダメージは計り知れないものがあります。このバランスをとるためには,手続をきちんとふんで事実を確認することが大切なのです。こうした手続をふんでこそ,加害者を裁くという手続が正当なものとなるのです。
 ここに効率性的な発想をいれて,たとえばこれだけの証拠があれば95%の蓋然性で事実があるという因果関係が立証されれば後の手続は省略してよいというようなことは,法的な発想と相容れないのです。それについては公正な手続(事実の摘示,反論機会の付与,公正な第三者の裁決や異議申立の可能性など)を経ていなければいけないというのが法的思考だと思います(効率性と正義のバッティングはいろいろなところで言われますが,こういう点に最も顕著にあらわれてくるような気がします)。
 それはさておき,被害者への配慮を十分にしたうえでの公正な手続の進め方もあるはずです。この点で,財務省が,その顧問先の弁護士事務所へ,被害者に名乗り出るように求めたという報道が確かであれば,気になるところはあります。これは公益通報の場合にも出てくる論点ですが,公益通報者は,会社側が給与を払っている弁護士は,会社とグルであると考えて,なかなか公益通報しにくいという話があり(実際には弁護士は公正に働いているのでしょうが),同じようなことが今回にもあてはまるような気がするからです。名乗り出る先をもう少し工夫したほうがよいでしょう。また「名乗り出る」というのは言い方が強くて,何かもう少し穏やかな表現はないものか,という気もします。
 手続的には,その先もあります。かりに事実関係が明らかになっても,それがどの規範に抵触するかを明らかにすることが必要だからです(というか,これが本来は先決事項のはずです)。刑法か,民事上の不法行為か,服務規律か,倫理・道徳かなど。他人を批判する場合には,そこがしっかり明確にされておく必要があると思います。
 こういうのがごちゃごちゃのまま,雰囲気で他人を批判するようなことがあってはならないと思います。疑惑をもたれている人の人権に配慮することこそ,実は長い目でみれば,みんなのためになるのです(憲法がなぜ刑事手続での人権に考慮した条文[31条から40条]をたくさん含んでいるかの理由を考えてみてください)。ここからの手続は,世間の誰がみても,納得の行くような形で進められることを期待します。

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2018年4月14日 (土)

セクハラ問題に思う

 行政官のセクハラが次々と取り沙汰されています。昨年あたりからハリウッド発の「#Me Too」でアメリカも大変な問題となっていますし,最近では韓国でも起きています。
 もっともよくよくみていると,セクハラといっても,いろいろなものがあって,かなり次元が異なるものが含まれているような気がします。どれもセクハラはセクハラで被害女性がいやがっていたのだから同じという言い方もできそうですが,やはり事の軽重はよくみておかなければなりません。
 アメリカの「#Me Too」の多くは,きわめて直接的な性的被害のようです。レイプであったり,強制猥褻であったり(あるいはその未遂)するものが多いようです。韓国の現在報道されている案件も同じようです(あくまでネットや報道で知ったかぎりのことですが)。
 一方,日本の行政官のものは,そのレベルにまでは言っていないようです。いずれにせよ,セクハラというと,マスコミが大きく反応するのですが,加害者と被害者の関係が上司・部下関係にあるかで,問題の性格が変わってきますし,刑法犯に該当するようなセクハラか,職場規律に違反するというセクハラか,たんに道徳的に望ましくないセクハラかなどによっても見方が異なってきます。そのどれもが許されるものではないとしても,許されない程度にかなりの程度の違いがあると思います。
 日本ではセクハラという言葉が,比較的軽く広く使われがちなので,セクハラの行為類型ごとにレベルで分けたらよいかもしれません(自動運転車のレベル分けのような感じです)。あくまで例ですが,セックスの強要(未遂も含む)はレベル4,そこまでいかない身体的接触はレベル3,執拗なデートの誘いや頻繁な卑猥な発言はレベル2,その他の性的に不快となるような言動はレベル1といったような区別をし,報道では,「今回はレベル3のセクハラの疑いがもたれている」といった書き方にすればどうでしょうか。「レベル1」であっても,セクハラはセクハラなのですが,「レベル4」も「レベル1」も同じ「セクハラ」で括られてしまうと,読者や視聴者をミスリードすることにならないでしょうか。
 ところで企業内でのセクハラは,人事管理的には,「レベル1」であっても見逃すなという方向の話になります。セクハラに対しては,もちろん被害者の保護と加害者への責任追及がベースになりますが,企業にとっても,職場環境が悪化して従業員が仕事以外のことでエネルギーをとられたり,モチベーションがさがったりすることは,深刻な問題です。上司が部下に頻繁に「セクハラメール」を送るというのは,上記の分類でいうと「レベル2のセクハラ」かもしれませんが,こういうことが行われているだけで,企業経営(行政なら公務の遂行)に大きく影響する可能性があります。その意味で,企業は,セクハラがたとえ「レベル1」であっても見逃すことはできないし,セクハラと呼ばれないほどの言動であっても,個々の従業員が不快に考えている案件であれば,それに対処していくことが経営的には大切だと思います。そういう職場になれば,セクハラのみならず,パワハラも含めた快適職場環境の阻害要因が取り除かれていくでしょう。
 このようにみると,現在,セクハラとマタハラは男女雇用機会均等法に規定があり,育児ハラスメントは育児介護休業法に規定がありますが,労働安全衛生法の「第七章の二 快適な職場環境の形成のための措置」のなかに,これらバラバラに規定されているセクハラ,マタハラ,育児ハラスメントをまとめて置いたほうがよいかもしれません。そうすると懸案のパワハラも追加しやすくなるのではないかという気がします。
 なお追記すると,財務次官のセクハラは,報道されているとおりであるとすると,記者がどこかの会社の従業員であれば,その会社のほうに,安全配慮義務違反あるいは職場環境配慮義務違反があるということになりかねませんね。女性記者(に限りませんが)を使う場合には,そのような点への配慮も必要なのです(取引先のセクハラから部下を守る義務)。色仕掛けでも何でもネタを取ってこいと言うのは論外です(本人が色仕掛け戦略に真に納得していれば別ですが)。

 

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2018年3月26日 (月)

エネルギー政策について考える

 エネルギー政策は,素人にとって非常にわかりにくいです。現在の電力は,原発の大半が止まったままとはいえ,安定供給がなされているようです。ただ,火力発電中心の発電にも反対が強いです。J-PowerのHPをみると,石炭火力発電でも大丈夫と思いたくもなるのですが,世界の流れは反対一辺倒です(Trump大統領を除く)。環境省だけでなく,外務省の有識者会議(「気候変動に関する有識者会合」)も,石炭エネルギー廃止論です。
 自然再生エネルギーの活用にはまだ時間がかかるなか,火力発電のなかでも石炭と石油はともかく,液化天然ガス(LNG)は比較的クリーンではないかと思っている人も多いと思います。原発の再稼働の動きが鈍いなか,当面はこれでいくのかなと思っていたら,昨日の日経新聞で,「火力発電LNGにも逆風 JXTG,静岡拠点の新設白紙 老朽設備の更新難しく」という記事が出ていました。理由は「景観を損ねると反対した地元の声に配慮したため」です。
 NIMBY(Not in My Back Yard)問題は,私たちが社会生活をしていくうえで重要な課題です。誰もが自分の家の裏庭に迷惑施設が来てもらっては困ると思うのでしょう。私だって同じです。かりに国のため,公共のためということであっても,火力発電そのものに対して反発があるなかで,そんなものを自分の家の裏庭につくるなという気になってもおかしくはないでしょう。せめてこれからのエネルギー供給においてきわめて重要で,国民の多くからも支持され,それゆえ国民(税金)によるしかるべき補償が約束されてはじめて,迷惑施設を受け入れることに同意するかどうかの議論が始まるのではないでしょうか。
 環境と電力の安定供給の両立をどう図るのかは,難問です。だからといって,後者を重視しない議論には与することはできません。しょっちゅう停電があるような国に,いまの日本人が住めるでしょうか。「エレベーターは途中で止まることがありますのでご注意ください」なんてのは困るでしょう。冷蔵庫が停電になると,どれだけの被害が生じるでしょうか。安定供給は犠牲にできません。だからこそ,原子力発電,火力発電(石油,石炭,LNG),太陽光発電などの,それぞれのメリットとデメリットを教えてもらいたいのです。今朝の朝刊では,三菱商事が,イギリスとオランダの(洋上)風力発電に参画するというニュースが出ていました。日本でも風力発電という手もあるのですよね。
 いずれにせよ,業者からの説明ではどうも信用できません。政府も,役所ごとの縄張り争いのようなものがあって,どの役所から聞いてもなかなか信用できません。政府お抱えの有識者というのも,実は何かの利害の代弁者という疑いがあって,信用しきれません。
 こういうときこそ,真に中立的なメディアやシンクタンクに出てきて欲しいところです。何が中立的かというのは難しいのですが,国民としては,それを何とか探し出して,信頼できるところから情報を得て,そのうえで考えていこうとする姿勢が必要なのでしょう。ネットの情報は,玉石混淆です。私の専門の労働法だけをみても,よくこんな情報を流しているな,というものもあります。書籍もそうで,専門家の本と非専門家のあやしげな本が並べて売られていたりします。素人には,何が本物かわからないでしょう。だから私も自分の専門分野のところでは,できるだけ正しい情報を流そうと努めているつもりです。
 もちろん,人間の流す情報には,本人の価値観が混入することは避けられないのであり,そういうのを超越した中立性というのはありえません。そうではあるのですが,特定の利害団体の代表者の情報,とくにそこに金銭がからむような場合は論外で,国民は要注意です。その点では,きちんとした出版社が,著者をセレクションして刊行している書籍は比較的信頼できるとはいえます。
 いずれにせよ,エネルギー政策は,私たちの生活の質に直結する重要なものです。巨大な利権がからむ分野であるからこそ,国民が賢くならなければなりません。イデオロギーとからんでいる運動論にも要注意です。小泉純一郎元首相はおそらく利権やイデオロギーから遠そうにみえるので,その反原発運動は注目に値するものですが,原発に代わる方法でどれだけエネルギーの安定供給ができるかを,もっとわかりやすく説いてもらえればと思います。

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2017年11月14日 (火)

特区の効用を国民にもっと説明すべきでは?

 加計学園問題については,多くの国民は,首相が逃げている,あるいは側近達がかばっているとみていると思います。でも,「人の噂も75日」ですので,風化が徐々に起きつつあるようでもあります。そもそも説明をすると言っても,きちんと説明することなんてできないのだと思います。首相の本音は明白で,それを周りが忖度したというのが真相でしょう。首相としては自分は何もしていないというのは真実なのでしょう。あとは良心の問題ですが,こんなことで良心の痛みを感じるような繊細な人では政治家になることはできていないでしょう。周辺の者は首相のために動いた忠義心があり,やはり良心は痛まないでしょう。国民目線をもたない忖度役人は,組織防衛という大義には絶対服従であり,役人をつついても,これ以上は何も出てこないでしょう。
 ところで,文部科学相の諮問機関である大学設置・学校法人審議会が設置を認める答申を出し,どうも林芳正文科相は認可する方向のようです。審議会が答申を出してしまった以上,大臣は認可しないことが難しくなるでしょう。その意味で,この審議会の答申は重かったですね。
 日本社会では,いったん動き始めたことをご破算にするということには,すさまじい抵抗があります。おそらくここまで手続が進んでいるのだから,いまさらゼロにすることは無理でしょう,と言われると,日本では分別のある人ほど説得されてしまいます。日本人には,これまで使った費用は,無駄に埋没させてはならず,必ず活用しきらなければならないというDNAがあるのかもしれません(「もったいない」意識)。でも,サンクコストをめぐる議論は,こうした発想が,非効率である場合があることを教えてくれます。戻ってこないコストにこだわることによって,より大きなコストを生む可能性があるのです。損切りの発想が必要です。だから審議会では,いまこれから認可することが,ほんとうに国民にとって必要かを,これまでのコストを忘れて議論をすべきだったのですが,そういう議論がなされたのでしょうか。
 日経新聞の一昨日の社説のタイトルは,「「加計」乗り越え特区の再起動を」となっていました。官僚が牛耳る岩盤規制を打ち破るのが特区であり,その効用は大なので,加計問題にとらわれて,その本質を見誤るな,ということでしょう。気持ちはわからないではないのですが,現時点では,特区により国民にどんな利益が生じているのかが,国民によく伝わっていないのではないか,という点が気になります。 
   特区による効用を感じている人は,岩盤規制に阻まれてきた特定の業界や業種の人たちです。こうした人たちが参入して競争が促進されることによって,実は国民にも利益が及ぶはずなのですが,それまでにはもう少し時間がかかります。残念ながら,獣医学部の新設についても,日経新聞の社説では,「獣医学部をめぐっては,法的根拠なしに新設を阻んできた文科省の行政指導にこそ問題がある。教育と研究の質を高め,食の安全や感染症対策で消費者に恩恵をゆき渡らせるには,意欲ある大学経営者に広く参入を認めるべきだ」と書いていますが,ちょっとこじつけ感があります。
 加計問題で,特区には味噌がついた気がします。特区の効用について,もっと明確に説明する責任が政府にはあると思います。前掛かりで次々とやってしまうと,国民の支持を得られなくなるでしょう。労働法規制などで,わかりやすい特区があればいいのですが(外国人労働の特区は若干地味です。福岡の雇用創出特区はもともと効用が疑わしかったのですが,あれはどうなったのでしょうね?)。

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2017年11月 4日 (土)

裁判官の廉潔性

   11月2日の日本経済新聞朝刊で,裁判官のアパート経営について,最高裁が認めなかったという記事が出ていました。夫婦で賃貸アパートを新築して賃料収入を得ようとした男性裁判官に対して,賃料収入が年間約1100万円に上り,「最も公正かつ廉潔であることが求められる裁判官には認められない」と判断したそうです(詳しい事実関係はわからないので,以下のことは,普通に市民が銀行から借金をしてアパートを経営しようとしたのと同じようなことを裁判官がしようとしたという前提で書きます)。
 裁判官の兼業は,公務員の兼業規制とは違う趣旨がありそうです。記事によると,「私的な争いを審理・判断する職務の性質上,一般の国家公務員以上に公正さが求められることが理由とされる。」となっていました。裁判官に廉潔性や公正さが求められるのは当然です。国によっては裁判官の買収なんて当たり前というところもあるようです(友人の外国人に聞きました)。裁判官が妙に政治的な考慮をする国もたくさんあります。それに比べれば日本の裁判官は格段に信頼できる存在でしょう。
 もっとも裁判官にも,ある程度の私的自由が保障されてしかるべきです。憲法76条3項は,「すべて裁判官は,その良心に従ひ独立してその職権を行ひ,この憲法及び法律にのみ拘束される。」と定めており,裁判の公正さは,裁判官が良心に従い,憲法と法律のみにしたがって裁判をするということにあるのです。アパート経営がそれとどう関係があるかははっきりしません。アパート経営をしている裁判官に裁かれたらといって,国民は裁判の公正さへの疑念をもつでしょうか。むしろそういう普通の市民が合法的にできることができないような窮屈な世界で生きている裁判官が,現実から遊離した裁判をすることへの懸念のほうが大きくないでしょうか。
 以前にここでも書いたかもしれませんが,私は,転勤命令に対する裁判所の判断が使用者に甘いのは,彼らが転勤を普通に経験しているからではないか,という仮説(?)を提示してきています。東亜ペイント事件・最高裁判決(拙著『最新重要判例200労働法(第4版)』(弘文堂)の第35事件)では,転勤命令は,「労働者に対して通常甘受すべき程度を著しく超える不利益を負わせるもの」であるときは,権利濫用となるとしていますが,これがめったに肯定されないのは,「通常甘受すべき」の判断や「著しく超える」の尺度が,裁判官に任されていて,法律が何も縛っていないからです。だから世間を知らない裁判官が,正社員に転勤はつきものという常識にしばられ,そこに規範的なメスを入れる発想をもたないということが起こりうるのです。法律にしたがった裁判というのは,権利濫用法理など一般条項が活用されるケースでは,裁判官の社会通念にしたがった裁判に置き換わり,その社会通念がゆがんでいると,たいへん困ったことになるのです。
 だからといって,裁判官に遠山の金さんのように市井の暮らしを実地でみろと言うつもりはありません。裁判官は,あくまで法律にしたがって裁判をする存在です。そこにちょっとした裁判官のもつ社会通念の改善があれば,国民は満足するのです。そう考えると,アパート経営も悪くないのではないでしょうか。
 裁判官の公正さをどのように担保するかは大きな問題であり,これまでの日本の裁判官はおそらく国際レベルでみても信頼性はきわめて高いものであったのですが,あまりにも過度に廉潔性を追求することは,副作用のほうを心配すべきなのかもしれません。世間から遊離すると,偏った独善的思考をもつ同質的な集団となりかねず,ひいては,その集団内部の評価で出世が決まっていくことから,裁判官の独立性という憲法上の要請と矛盾することにもなりかねません。
 今回のケースをきっかけに,裁判官の独立性や裁判の公正さは,どういうものかを,みんなで考えていくことが大切であると思いました。

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2017年10月18日 (水)

神戸製鋼の不正問題がもたらす影響

 前に日産自動車の不正問題が出たときに,これがどの程度深刻な問題なのか,日経新聞にはもう少し詳しく伝えてもらいたいという趣旨のことを書いたのですが,そのあと,いろいろもう少し詳しい説明が出てきました。良かったと思います。
 今回の神戸製鋼のデータ改ざん問題は,早い段階から,これがどのような問題であるのかということも,比較的よく解説されていたと思います。少なくとも私の知りたいことは,書かれていました。もっとも,神戸製鋼の闇がどこまで深いのかはよくわかりませんが,これについては新聞から情報を得るのには限界があるでしょう。
 私が疑問をもったのは,今回は管理職からの情報で明るみにでたということのようですが,過去何十年も不正があったとの記事もありました。その間,一回も上に情報が上がってこなかったのでしょうかね。
 それよりも気になるのは,外部へ漏らす社員が一人もいなかったのかです。会社内部の不正を外部にもらすというのは,たいへん勇気ある行動です。でもデータ改ざんが不正であるということは小学生でもわかることで,一人くらい外部にもらす勇気ある社員がいてもよさそうです。関与している社員はおそらく大勢いるはずです。組織内の鉄の結束かもしれませんが,誰も落伍者がいないとすると,そこはかえって不気味な感じがします。思想統制が行き届きすぎているといいますか……。
 ところで先週,消費者委員会の人がやってきて,公益通報者保護法についてのヒアリングを受けました。いろんな研究者のところを回っているそうです。私はSkypeでお願いしたのですが,どうしても直接面談したいということなので,仕方なく会うことにしました。1時間以上話をしましたが,基本的には,公益通報者保護法は,国民目線ではないので機能しないのは当然で,0から見直すべきだというのが私のコメントの要点です。あの法律を知っている人がどれだけいるか,また仮に知っていたとしても,実際に内部告発をする人がどれだけいるだろうか,ということです。通報対象事実の範囲もよくわからないし,「不正の利益を得る目的,他人に損害を加える目的その他の不正の目的でなく」という要件もあいまいで,会社への恨みがベースにあるが,図利加害目的がなかったら安心して告発できるのか,「公益通報をしたことを理由として」なされた解雇等の不利益取扱いが無効となるとしても,自分の勤務成績が悪いときには,それを理由とされてしまうと裁判では勝てるだろうか(動機の競合の問題),など考え出したら,とても告発する気にはなれないはずです。
 公益通報者保護法は,法律家が関与して,ブラッシュアップしても意味がないのです。これは裁判規範であるよりも,労働者が内部告発しやすいようにするための行為規範としての面が中心であるべきで,そう考えると,裁判となったときに事後的に妥当な解決ができるということでは足りないのです。労働者にとって,どうすれば安心して告発できるかということがポイントです(本気で内部告発させるなら,労働者が被った不利益は全額国家補償をするというアイデアがありますが,実現は難しいでしょうね)。そのためにはルールはできるだけシンプルにということになります。これは法律家が関与していてはだめでしょう。多くの労働者は弱い存在です。内部告発など怖くて仕方ないでしょう。普通はそんなことをする勇気などありません。そういう普通の人が内部告発できるようにするためにどうすればよいか。それは過去内部告発をしたような勇気ある人の意見を聞くだけでは不十分ですし,官僚が頭で考えているだけでもだめです。法律家も不適格です。
 もう一つは,内部告発は,企業にとってもウイン・ウインとなるということです。そのウイン・ウインを実現するためには,企業への内部通報を促進するようなルールが重要です。現行法でもそういう作りになっているのですが,やはり不十分です。今回,もし神戸製鋼が過去の内部への通報をもみ消していたというような組織ぐるみの不正があったとすれば,これは大変大きな問題です。現行法では,前述のように,社員は外部への通報がしづらいのです(神戸製鋼のデータ改ざんが,公益通報者保護法の定める通報対象事実に該当するかどうかは分明ではありませんが)が,内部への通報が機能して企業が自浄作用をもてばよいともいえるのです。それが機能しなかったと仮にすれば,これは経営陣には大きな責任を負ってもらう必要があるでしょう。
 企業が利益を追求する存在で,不正をすることは不可避だという性悪説には私は立っていませんでした。企業は経済的合理性を追求する存在で,不正などはいつか必ずばれるので(天網恢々疎にして漏らさず,です),それにより従業員,株主,取引先などに多大な迷惑がかかるということを,合理的な経営者は考えるはずであり,そういう意味で企業性悪説に立って議論をするのはおかしいというのが,私の考えでした(私が編者をした『コンプライアンスと内部告発』(2004年,日本労務研究会)は,そうした考え方をベースにしたものでした)。しかし,神戸製鋼の今回の事件で伝わってくるのは,利益優先で多少の不正には目をつぶるという企業体質です。これでは企業性悪説がいっそう強まってくるかもしれません。
  社長が,神戸製鋼の信用は0になったと語っていましたが,意外に思った人も多かったのではないでしょうか。不正公表前に株価が不自然な動きをしており,インサイダー取引の疑惑もあるようです。信用は,0ではなく,マイナスでしょう。そこの現状も甘いのです。まず自分たちの置かれている現状をしっかり認識し,そこから必死に這い上がる覚悟をみせ,それを実行しなければ,神戸製鋼の未来はないでしょうし,そうしたことをもししない会社であれば,即刻,退場してもらいたいですね。神戸という何を冠する会社に対する,神戸人からの厳しい叱咤激励と考えてください。

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