政治

2018年6月 2日 (土)

イタリアの混乱と大統領の存在感

 長澤運輸事件とハマキョウレックス事件の最高裁判決が出て,これから少し労働法業界は騒がしくなるかもしれません。両判決とも,労働契約法20条に私法上の効力を認めるべきではないという私の立場からは,そもそも理論的に受け入れられない面がありますが,それはさておき最高裁の判断がこういうものになるだろうということは十分に予想されたものであり,むしろ長澤運輸事件の高裁判決の判断がほぼ維持されたことは,実務的な混乱を回避できたことで,まずまずの結果だったのかもしれません。詳しくは別の機会に書きますので,ここではこの程度にとどめておきます。

  イタリアの首相選びが混乱していることをブログで書こうと思っていたら,破棄され,また戻るといった大混乱で,書くタイミングを失っていました。個人的には,大学教授が首相になると言われていたので,友人のDel Conteがなってくれたら,「友達にイタリアの首相がいて家に来たこともあるぞ」と周りに自慢できるのではないかとミーハーなことを思ったりもしていたのですが,新首相はちょっとだけ苗字が違っていて Conte 氏でした。彼はフィレンツェ大学のcivilista(民法学者)で,M5S(五つ星運動)の法律関係のブレーンだっだようです。先の選挙で勝ったM5SとLega(同盟)が連立協定を結び,Conteを首相に選びました。当初の組閣名簿は,Sergio Mattarella大統領から,経済・財務大臣の候補としていたPaolo Savona(なんと81歳のエコノミスト)がイタリアをユーロから離脱させる政策を進める懸念がありイタリアにとって望ましくないということから難色を示され,Conteは組閣をやめることになりました。そこでMattarella大統領は,IMFの高官の経験もあるエコノミストCarlo Cottarelli氏に実務家政権の組閣を命じたものの,最終的に必要となる国会の承認が得られる見通しはなく,再度の選挙が必要となるなど,混乱が続くことが必至の状況となりました。ここにいたりイタリアの国債は暴落し,ユーロ高が進み,その反動でドルと円は上がって,ニューヨークダウも日経平均も大きく下がるということで世界中に大混乱を引き起こしました。最近は有事の円ということでもなく,アメリカが混乱しても円高になびくことは少なくなっていたのですが,まさかイタリアの政局混乱が円高懸念を引き起こし,輸出産業主体の日本株の下落を引き起こすとは驚きです。イタリアの経済規模の大きさとグローバルな経済の結びつきを再確認できました。
 結局,Mattarella大統領は,国会で承認される可能性が高い(それは,直近の選挙で示された民意に忠実ということでもあります)M5SとLegaが支持するConteに首相指名をし直し,Conteも,経済・財務大臣を,Giovanni Triaという経済学者にし,Savonaは欧州担当大臣(Ministro per gli Affari Europei)に起用し直しました。Savonaの起用は,この連立政権が反EUである以上仕方ないことであり,大統領は経済・財務大臣につけるよりは,まだ欧州担当大臣のほうがマシだと考えたのでしょう。
 労働大臣は誰だろうとみてみると,なんとM5Sのリーダーで副首相にもなっているDe Maioが,そのポストについています(経済成長・労働・社会政策大臣)。Legaの党首であるMatteo Salviniは,副首相兼内務大臣です。これで大丈夫かと不安になる布陣です。
 Conte新首相は,海外経験豊富とされていますが,留学歴があやしいと早速マスコミにたたかれているようです。ただ研究者としての実績は十分で,さらに学外の公職の経験もきわめて豊富です。もっとも性格は物静かということで,すでにDe MaioとSalviniの操り人形という噂も出ています。EU内でMerkelやMacronと対峙してうまくやっていけるのかと不安をもつ国民も多いようですが,そもそも両党とも反EUですので,うまくやっていけなくもてかまわないということかもしれません。
 まあお手並み拝見というところですが,そんな悠長なことを言っている余裕はないかもしれません。サッカーのワールドカップに出場できなかったイタリア人の関心は,いっそう政治に向かうかもしれません。
 とはいえ,今朝の日経新聞の大機小機であったように,イタリアのことよりも日本こそ危機であるという自覚が必要かもしれません。日本はイタリアよりも財政状況が悪いにもかかわらず,イタリアの大統領のような,国の未来を考えて危機感をもって警鐘を鳴らす存在がいないのです。もちろん大統領が,選挙で選ばれた上位2党の連立政権の推す首相候補をリジェクトするのは,民主主義という観点からは問題があったのでしょうが,いわば高次の観点からイタリアの行く末を考えて,せめて経済・財務大臣は変えろという指示をし,それを受け入れさせたところに,イタリア的な民主主義の奥深さをみたような気がします。

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2018年5月 4日 (金)

みどりの日に考える

 日本人は,祝日がたくさんあって休めるから,年次有給休暇(年休)の消化が進まない,という珍説を聞いたことがあります。日本の祝日は多いものの,年休を不要とするほど多いわけではありません。あえていうなら,むしろ日本の祝日と,労働法上の休日は連動していないところに問題があるといえそうです。それに加えて,趣旨の不明確な祝日が多いのも問題ではないかということをかつて指摘したことがあります(拙著『勤勉は美徳か?-幸福に働き,生きるヒント』(光文社新書)の第6章「休まない労働者に幸福はない-日本人とバカンス-」を参照)。今日5月4日「みどりの日」は,新設された「山の日」と並んで意味不明の祝日です。
 ちょっと過激なことをいうと,どうせ祝日を増やすのなら,原爆投下の屈辱を忘れないという意味で,広島に最初に原爆が投下された日(8月6日)を「国民の休日」にするということにしてはどうかと思っています。戦勝した国や国家が侵略から解放された国では,そういう日を祝日とするのでしょうが,原爆投下は「祝」ではないので,「国民の休日」にしたらどうかと思うのです。同様のことは,ソ連が日ソ中立条約を勝手に破棄して,原爆投下以上の死者を結果として日本にもたらすことになった日(8月8日)にもいえます。もちろん原爆は長崎にも投下されているので8月9日も加えることができます。そうなると,8月6日~9日を連続させて「国民の休日」にしてもいいです(11日は平日に降格させましょう)。そして,これらの日に,ゆっくりと自分たちの国の歴史(とくに昭和史)を振り返り,そして未来のことを考えるということにしたらというのが私の提案です。
 現実には,こういう提案は受け入れられないでしょうが,山の日のような意味不明の祝日を追加するくらいなら,もっと真剣に,国にとってどの日が大切だったかを考えてもよいでしょう。
 ところで話は変わりますが,かつて祝日には,国旗がかかげられている家をよくみました。私も,たしかカブスカウトに入っていたときに,教わったような記憶があります。共産主義者の父は,私がまじめに国旗を掲揚するのを,心の中では複雑な思いでみていたかもしれませんが,何も言われたことはありませんでした。
 今日,国旗を掲揚するとしても,4月29日のときならともかく,現在の「みどりの日」に,国旗を掲揚する意味はありましょうか。「山の日」や「海の日」やハッピーマンデーもそうなのですが。
 そもそも国旗はかつては慣習的なものでしたが,現在では,「国旗及び国歌に関する法律」で法制化されています(平成11年制定)。国旗は日章旗で,きちんと日の丸の大きさ(制式)も決まっています。国家は君が代であり,歌詞も楽譜も,法律で書かれています。  若い頃のイタリア留学時,日本の国歌(inno nazionale)は何かと聞かれて歌わされた覚えがあります。歌いにくいし,歌詞の内容は天皇家賛美のようなもので,あまり良い気分はしませんでした。イタリアの国歌は,「Inno di Mameli(マメーリ賛歌)」で,このメロディーが流れるとイタリア人は盛り上がります(歌詞の中に「Italia」という言葉が入っているのもいいです)。ただイタリアにせよ,フランスにせよ(La Marseillaise),アメリカにせよ(星条旗),歌詞は国威発揚というか,武力や血のにおいがぷんぷんするものです。とくにフランスの国歌は露骨です。祖国というのは,先人が血を流し,必死に守ってきたから,いまの自分たちがいるという思いが込められている感じです。サッカーの試合前に流れる国歌について,あの歌詞を口にすると,フランス人は,まさに戦争に行くような気持ちで士気が高まるでしょう(もっともフランスに侵略されて事後的にフランス人になった選手も多いようですが)。日本の国歌は,それに比べると平和ですね(それが悪いわけではないのですが)。
 血なまぐさい国はいやです。でも血なまぐさくならないようにするために,国民にも覚悟が必要です。自分たちが武器をとって国を守るなんてことはできません。やっても意味がないことです。だからこそ,税金を払って自衛隊を「雇い」,祖国を守ってもらうのです。それと同時に,外交力を発揮して戦争を回避するために,私たちは一票を投じて政治家を選び,税金で給料を払い,この任務を託しているのです。
 二度と他国から原爆を落とされたり,国民を海外に拉致されたりしないことが大切なのです(北朝鮮の拉致被害者の取り戻しをアメリカの力に頼っているようでは,ほんとうはダメなのでしょうが,いまは仕方がありません)。
 いずれにせよ,自分たちの国にとって一番大切なことを考えるとき,いまの内閣をいまの時点で倒そうとすることが,ほんとうに国民の利益にかなうかは冷静に判断しなければなりません。私の立場からはもちろん労働政策や経済政策が大切なのですが,そんなものは,国の安全が損なわれれば吹き飛んでしまうことなのです。 

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2018年5月 3日 (木)

憲法記念日に民主主義と請願権を考える

 昨日,イタリアの刑法のことにふれたので,そのついでに,ぜひ紹介しておきたい本があります。それがBeccariaの『Dei Delitti e delle Pene(犯罪と刑罰について)』です。大学で法律を勉強したことがある人なら,誰でも名前くらいは知っているものですが,有りがたいことに,この本の訳書があります。ずいぶん前にいただいて,たぶん紹介をしていなかったと思うのですが,それがお茶の水大学の小谷眞男さんの翻訳したチェーザレ・ベッカリーア『犯罪と刑罰』(東京大学出版会)です。小谷さんには心より御礼を申し上げたいです。素晴らしい訳であり,解説もきわめて充実しています。
 ところで,この本のなかにBeccariaが死刑について語ったところがあります(第28章)。彼は死刑反対論者です。終身刑の支持者です(ちなみにイタリアでは死刑は憲法で禁止されています[27条4項])。なぜ死刑がダメなのかということが,実に説得的に論じられています。ここですべてを紹介しきれませんが,最も有力な論拠としているのは,死刑では,犯罪抑止につながらないということです。
 死刑というものを,犯罪の予防という観点から考えた場合,死刑という手段のもつデメリットと,死刑により解決されるべき政策課題(犯罪抑止)との間の関係を検証するというアプローチが必要となります(Beccaria は旧派の代表的論者ですが,ここは新派的発想ではないかとも思えますが,自信はありません)。Beccariaは,終身刑で長期間隷属的な状況が続くほうが,犯人には過酷なものとなり,それだけ市民に対して抑止力が働くというのです。死刑に処されてこの世から消えることができるというのでは,本人の犯罪抑止力は弱い,ということです。
 Beccariaは,懸命なる君主は死刑廃止論のもつ真理性に気づくはずだけれど,それを妨害するのが中間的特権層だと述べています。君主のなかには,ローマ時代の五賢帝のような人も出てくるが,おそらく中間的特権層は徳も見識もなく,権力をほしいままにした存在とみているということでしょう。特権層は変化を望まず,先例を踏襲するものであり,新しい提案に耳を傾けないものです。Beccariaは,「もし王座にまで届くようなことがあれば,つねに傾聴されたであろう人々の率直な請願を,さえぎり押し殺してきたのは,中間層の専制なのだ!」,「だからこそ,光で照らされた市民たちは,ますます熱心に君主たちの権威の継続的増大を求めているのだ」(小谷訳,100頁)。
  君主の権威の増大をいうのは現代の感覚からはおかしいような気もしますが,当時を考えるとそうおかしいことではありません(1764年の本です)。国家の統治を社会契約的に考えた場合,ボッズブ(Hobbes)的にいうと「リバイアサン(Leviathan)」が生まれますが,それをプラトン的な哲人政治に変えるためにも,中間的な権力を排除し,権力をもつ君主を教化していくことが必要だということでしょう(この本が出てから25年後にフランス革命が起きていますが,そこでも中間団体の否認思想が重要な意味をもっています)。
 その意味で請願権というものは,ひょっとするともっと注目されてもいいのかもしれません。実は日本国憲法にも請願権の規定があります。それが16条です。長谷部恭男『憲法(第7版)』(新世社)によると,「請願は,議会制度が十分に発達していなかった過去においては,被治者の意見を為政者に伝える一つの経路として機能したが,国民主権が確立し,国民の参政権が十分に保障された現代社会においては,もはや意義は有しないと考えられている」と書かれています(305頁)。
 しかし,アメリカでTrumpが登場して民主主義のプロセスに十分な信用がおけなくなりつつある現在,Beccariaのいう「光に照らされた市民たち」による請願のプロセスというのは,もっと考えられてもいいのかもしれません。CNNでアメリカの元国務長官Albrightが,Trump政権を暗に批判するために,HitlerもMussoliniも民主主義から生まれたと言っていました。民主主義は手段ではありますが,唯一絶対的なものではないというのは,Churhillに言われるまでもなく,多くの人がわかっていることです。間違った人が選ばれたときの対策を,暗殺やクーデターのような暴力的な方法に頼るべきではないでしょう。これでは民主主義の正面からの否定です。民主主義から生まれた強大な権力を抑制するのは,最後は「知の力」であると信じたいものです。Albrightは,ある種の請願をしたのかもしれません。 
 振り返って日本はどうでしょうか。現在の首相は,直近の選挙でも大勝し,民主的なプロセスで大きな権力をもつようになっています。側近や忖度する官僚が中間的専制者になって賢政を妨げているとすれば,懸命な市民が立ち上がらなければなりません。Beccariaが現在に生きているなら,打倒安倍にエネルギーをかけるよりも,中間的専制者を排除して,いかにして首相を,知の力で賢政に導くかを考えるべきだと言ってくれるかもしれません。憲法学者は,こうしたことは非民主的として否定するでしょうか。憲法記念日にみんなで考えてもらいたいことです。

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2018年4月21日 (土)

シリア空爆に思う

 映像でみると,現実性がないのが問題なのですが,いかに人道上の理由があるとしても,他国に空爆(air attack)するということへの違和感は強いです。ましてや日本の民間人を虫けらのように原爆まで用いて大量殺戮したアメリカ人のやることですから,なおさらです。
 たまたまみていたCNNのニュースでは,爆撃前の空撮と爆撃後の空撮とを比較して,空爆により建物が完全に消滅しているところが示されていました。そのニュースでは,きちんと狙っていた化学兵器関連施設だけがピンポイントで攻撃できたということを示していたのですが(だから問題がないと言いたいようです),かつてこの世に存在していたものがあっという間に消滅するということに対する底知れぬ恐怖を感じないわけにはいきません。
 シリア政府を擁護するつもりはまったくありませんが,化学兵器利用の証拠はあったのでしょうか。利用の疑いは濃厚でしたが,攻撃時にどの程度の確証があったのでしょうかね。CNN以外に,これもたまたまみていたBBCのトーク番組で,イギリス人の評論家(?)に加えて,アラブ人とロシア人のジャーナリストも入って議論をしていました。ロシア人は,化学兵器利用はフェイクニュースだと言っていました。イギリス人はそれに反論していましたが,その根拠は,SNSでアップされている写真だということでした。写真では,化学兵器が利用された場合の症状がでていたということのようですが,SNSだけではねつ造の可能性もあるので,これは証拠として弱いです。アラブ人ジャーナリストは,欧米人の攻撃では,アサドを止めることはできないと主張していました。国連も無力です。彼は,トランプは,金正恩に直接会うのなら,なぜアサドとも会わないのかと言っていました。解決は,アサドに対する説得しかない,ということです。
 トランプにとっては,北朝鮮のICBMが脅威であるから直接交渉をしようとしたのに対し,シリアにはそのような脅威がないからということでしょうか。イスラム教徒とはディールはできないということでしょうか。
 こう考えると,シリア攻撃には,手続の正当性ももちろん求められましょうし(国際法上の問題でもあります),それ以上に,問題解決の手段としての合理性にも疑問があることになります。ただ,そうした正当性や合理性といった面倒な話は,国際政治の力関係でふっとんでしまうものなのかもしれません。
 立憲民主党の枝野党首は,今回のシリア攻撃について「やむを得ない側面がある」が,「必要最小限の人道的なもの」かどうかを見極めると言ったそうです。ここでは人道というワードが問題です。人道目的と言われたら政治家としては反論しにくいのでしょうが,そもそも兵器そのものが非人道的なもので,それが空から降ってくるということ自体が,たとえ建物にピンポイントを爆撃したものであるとしても,非人道的ではないでしょうか。
 そこで日本共産党のHPをみてみました(その前に公明党のコメントも確認しましたが,がっかりするものでした)。次のように書かれていました。
 「国際社会による事実の確認もなく,国連の授権もないまま,米英仏が一方的に軍事攻撃を開始したことは,国連憲章と国際法をふみにじる行為であり,厳しく抗議する。
 一,米国は,昨年4月にも,化学兵器使用を理由にシリアを攻撃しているが,軍事攻撃では問題解決にならないばかりか,シリアと中東の情勢をいっそう悪化させることにしかならないことは,事実が証明している。
 国際社会が協力して,化学兵器使用の真相をつきとめ,化学兵器を全廃させ,シリアに関する国連安保理決議が提起しているように政治対話による内戦解決にむけた外交努力を強めることを求める。」
 共産党は,労働問題に関しては,現実をみているつもりでいて実はみていないダメな政党だと思っていますが,このシリア爆撃に関する意見は,まさに正論だと思いました。しかし,そこでふと不安になりました。共産党と意見が同じということは,私が国際問題について,現実をみているつもりでいるだけで,実はみていないということなのかもしれない,と。もう少し勉強してみます。

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2018年4月 5日 (木)

Biagiの非業の死を無駄にしてはならない

 2002年3月19日,イタリアの労働法学者のマルコ・ビアジ(Marco Biagi)は,赤い旅団(Brigate Rosse)のテロで斃れました。あれから16年。彼の命日の記念式典がなされた日,彼がかつて教壇に立っていたModena・Reggio=Emilia 大学の壁に「マルコ・ビアジは,もう自転車に乗らない。マリオ・ガレージに栄誉を。仲間のテロリストに栄誉を」という落書きがあったそうです。
 このおぞましい落書きについて,ビアジの後継者で,現在,同大学の教授をしている友人のミケーレ・ティラボスキ(Michele Tiraboschi)が,ADAPT International Bulletinの最新号に,エッセイを載せています(英文http://englishbulletin.adapt.it/wp-content/uploads/2018/04/TIRABOSCHI_The_Vicissitudes_of_Marco_Biagi.pdf)。イタリア語の原文は,イタリアの経済新聞のIl Sole 24に掲載されています(http://www.ilsole24ore.com/art/commenti-e-idee/2018-03-19/marco-biagi-conti-mai-fatti-fino-fondo-224035.shtml?uuid=AEabzWJE)。
 マリオ・ガレージは,赤い旅団のメンバーで,ビアジ殺害の実行犯です。なぜ一労働法学者にすぎないビアジが,極左のテロリストに暗殺されることになったのか。このブログでも取り上げたことがあります(削除前のものだったかもしれません)し,詳しくは,ビアジの親友であった諏訪康雄先生の「追悼 自転車はどこへ向かったのか?--マルコ・ビアジ教授のご逝去を悼む」日本労働研究雑誌502号2頁以下をご覧になっていただければと思います。
 ミケーレは,ビアジが進めた労働市場改革が,雇用の不安定化をまねき,それが若者の困窮をもたらしたとする議論に強い反発を感じているようです。自分と見解が違う者を「敵」とみなし,その言うことをあえてねじ曲げて解釈し,敵として純化させ,それへの憎悪により,自分たちの集団の結束を図るというような愚かなことが,ビアジの非業の死につながってしまったことの反省ができていないと,ミケーレには思えるのでしょう。
 ビアジが労働市場改革をしようとした2002年当時,イタリアの労働市場は欧州のなかでも最悪に近い状況だったのです。ビアジがやろうとした労働市場改革をミケーレが引き継いで実現したからこそ,イタリアの労働市場の状況は悪いとはいえ,現状にとどまっているという面があるのです。その功績は冷静にみて評価しなければなりません。それにもかかわらず,いまだにビアジを殺したテロリストを英雄視する声があることに,ミケーレは怒りを感じているのでしょう。イデオローグたちが純粋な若者を洗脳してあおり,言論による対話を避け,問答無用の暴力で敵を殺してしまうというような愚かなこと(日本の五・一五事件で,現職の犬養毅首相が,青年将校たちに銃殺されたときも,同様でした)は,二度と繰り返されてはなりません。
 ミケーレは,「馬鹿げていて,アンフェアな死だ。それは憎悪と不寛容の風潮のなかで起きたことだ。残念ながら,その風潮はまだなくなっていない。それが悪化して,戻れないところにまで至らないようにすることが,私たちみんなに課されたことだ」と述べて,エッセイを結んでいます。
  親日家であったビアジは,当時のイタリアでは珍しく外国法の研究に熱心な研究者でした。日本の労働法にも詳しく,何度も来日していました。彼は比較法の知見を深めるなか,イタリアの労働市場の後進性を強く認識し,その改革を進めようという純粋な意図で,有名な白書(Libro Bianco)を執筆していました。その白書で提案された改革案どおりに立法が進もうとしていたときに,テロリストに狙い打ちにされて殺されるという痛ましいことが起きたのです。なぜ,そんなことが起きたのか。ミケーレは,その総括と反省ができていないということを慨嘆しているのです。
 政府に近い立場にあり,影響力が大きかったとはいえ,学者の学問的信念に基づく言動にテロで反発するということが21世紀の先進国で起きたこと,そして,それになお同調する声もあることに,他国のこととはいえ,私たちは恐ろしさを感じます。今日,アメリカは,あのpolitical correctnessにうるさい国であったとは思えないほど,大統領が,憎悪と不寛容の言葉をまき散らしています。これが世界中に影響しないわけがありません。私たちは,よほどしっかり自分たちの理性と節度をもっていなければ,再び言論が軽視され,暴力がまかりとおる危険な時代に引き戻されてしまうかもしれません。
 その一方で,イタリアの若者たちの間に,現在の社会に対する深い不満があるということも知っておく必要があるでしょう。ポピュリスト政党の広がりは,そうした不満がまだ投票箱に行っているからましなのかもしれませんが,そうした政治過程での行動に限界を感じ,そこに新たな煽動者が出てきて導火線に火をつけるようなことになれば,危険なことが起こりかねません。ミケーレが嘆いた落書きには,そうした危険性が表れているようにも思えます。
 貧困からの脱却や防止と,そのために必要な教育は,社会の安定にとってとても重要なのです。これは日本にだって,もちろんあてはまることです。

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2018年3月27日 (火)

残念なこと

 予想されたとおりとはいえ,今日の佐川宣寿氏への証人喚問では,新しい事実は何も出てきませんでした。文書改ざんは明らかに違法なことですが,それについて佐川氏にいくら理由や経緯を聞いても答えるはずがありません。刑事訴追の可能性を理由として証言を拒否するのはわかっていたことです。質問するだけ時間の無駄です。
 首相夫人の影響も何度も問われていましたが,それを佐川氏が否定したのも予想どおりです。肯定することは考えられません。追及側に決定的な証拠があれば別ですが,籠池氏の発言だけでは証拠にはなりません。たぶん首相夫人を国会に呼んでも,「私の軽率な行為で社会に多大なご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。ただ国有地の売却については,私は何も存じ上げません」と答えるだけでしょう。国民はひょっとすると首相夫人が出てくることを望んでいるかもしれませんが,これは面白いショーをみたいのと同じ感覚ではないでしょうか。
  私は一国民として思うのは,籠池氏が,お金もないのに小学校をつくろうと思い,補助金を強引にとってきて,さらに8億もディスカウントされた額で国有地を買えたのはなぜかということです。補助金関係のほうは,詐欺でつかまってしまいましたが,あの財務省相手にそんな値引き交渉がよくできたなということです(交渉したかどうかは争いがありましたが)。権力者に近い,あるいは近いフリをするというのが,役人相手には効果的なのだなという印象を与えたことが,残念な気分なのです。首相夫人や政治家の直接の指示があったかなかったかはともかく,また売却価格が佐川氏がいうように適正価格であったかどうか(ゴミの償却費用の算定も国民の目にはあやしいです)などはともかく,籠池氏が首相(夫人)に近い人であり,結果として,国有地が破格の値段で売却されたようにみえているのです。そこが国民としてとても残念なのです。どこかの後進国と同じだからです。政治家があやしいことはわかっています。でも,役人には,権力者にあまりなびかず毅然としていてほしいと願うのは,無理なことなのでしょうか。

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2018年3月22日 (木)

労働時間問題に政治的エネルギーを使うな!

 労働時間規制の適用を受けない労働者は,現行法上の例としては管理監督者が有名です(労基法41条2号。機密の事務を取り扱う者も同様)。これに加えて,現在,政府は,高度プロフェッショナル制度を追加しようとしていますし,私は個人的により包括的なホワイトカラー・エグゼンプションの導入を主張しています(拙著『労働時間制度改革』(中央経済社)を参照)。現行法上は,このほかに,労働密度の薄い監視断続労働に従事する者を,労働基準監督署長の許可があれば適用除外とすることができ(同条3号),これに加えて,農業・畜産・養蚕・水産業に従事する者も適用除外となっています(同条1号)。
 農林水産業という言葉はありますが,労働時間規制の適用除外を論じるときは,「林」業は別扱いで,適用除外となりません。農業・畜産・養蚕・水産業が適用除外となるのは,「事業」の性質上,天候等の自然的条件に左右されるため,労働時間規制になじまないからです(林業は,この趣旨に該当しないとされています)。
 他方,「業務」の性質上,労働時間規制になじまないということで労働時間規制の緩和がなされているのが,裁量労働制です(労基法38条の3と38条の4)。
 ところで,「事業」については,かつては労基法の適用範囲に関係する概念として,8条に規定されていました。現在では,この規定は削除され,その内容は,労基法の別表1で単に事業区分を示すものとして残されています。この区分は労働時間規制の適用除外や特例との関係で意味をもっています。農業は別表第1の6号,畜産・養蚕・水産業は7号です。
 ところで,これからの農業や水産業などは,どこまで自然的条件に左右されるのでしょうか。例えば,ハイテク農業は,できるだけ自然的な条件に左右されないようにテクノロジーを使おうとしたものといえます。AIによる天候予測をはじめ,悪天候でも農薬散布などをしてくれるドローンの登場など,農業の中心的な業務が,ITやAIを利活用したデスク業務になりつつあります。
 これからは,主たる農業従事者の労働時間規制の適用除外の根拠が,労基法41条1号ではなく,38条の3(専門業務型裁量労働制)となるかもしれません。そして,デジタライゼーションの時代は,あらゆる産業にこうした現象が起こることになるでしょう。したがって,労働時間規制の適用緩和や適用除外の拡張に,膨大な政治的エネルギーを使うなんてことはやめたほうがよいのです。新しい時代に求められるのは,”労働時間を規制することにより健康を守る”といったことではないのです。
 人びとはテクノロジーを使って働くようになりますし,同時に,自分の健康はテクノロジーを使って守るようになるのです。私の頭に描かれている未来の働き方は,労働時間規制が意味のなくなった働き方です(これは現在週刊労働新聞で連載中の「雇用社会の未来予想図」の4月3日号でも取り上げます。その前の3月26日号では,HRテックをとりあげます)。

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2018年3月20日 (火)

政治家の人品

 すでにネットで話題になっているようですが,私も昨日ニュースを見ていて驚いたのは,自民党の議員が,太田理財局長に対し,かつて野田首相に仕えたことがあることも指摘したうえで,「増税派だからアベノミクスを潰すために,安倍政権を貶めるために,意図的に変な答弁してるんじゃないですか」と質問したことに対して,太田氏が色をなした場面です。「それだけはご容赦ください」というのは悲痛な叫びのようにもみえました。
 自民党議員の質問は品がなく最低なのですが,それに対する「公務員としてお仕えした方に一生懸命お仕えする」という太田氏の答弁もちょっと気になりました。野田首相のときは野田首相のために,安倍首相のときは安倍首相にお仕えするということでしょうか。
 「すべて公務員は,全体の奉仕者であつて,一部の奉仕者ではない」(日本国憲法15条2項)。
 しかし,現在の公務員,とくに高級官僚は,政治家にべったりです。政治家に奴隷のごとく使われているのかもしれません。図に乗る自民党議員の財務省役人に対する攻撃的な姿勢は,目にあまります。太田氏にすれば,「おまえところのボスの不始末のために,これだけやってあげているのに,その言い草は何だ」と思っていることでしょう。あの怒りと悲しみの表情は,信じていた主人に裏切られた使用人のそれのようでした。
 その太田氏も,今回の文書改ざん問題は,おそらく自民党と手を組んで,佐川氏に全責任を押しつけて幕引きを狙っているのかもしれません。佐川氏はどんな気分でしょうか。それも役人の仕事と割り切っているのでしょうか。

 国家も地方もそうですが,議員となると,役人に対して,居丈高にふるまう輩がいます。役人の多くは頭脳明晰で優秀であり,議員たちの多くは頭脳ではかないません。しかし,議員という地位があると,力関係が逆転して,役人を顎で使えるようになるので,勘違いが起こるのでしょう。そんな議員を腹の底では馬鹿にしながら,ぐっとこらえるのが役人の仕事なのでしょうか。
 太田氏の姿をみて,あるいは佐川氏の姿をみて,これから役人になりたいと思う人が出てくるでしょうか。優秀な人であればあるほど,あんなやつらに偉そうに言われるのなら,役人になんてなりたくないと考えるかもしれません。
 文科省の元事務次官であった前川喜平氏の名古屋の学校での授業への文科省の介入も,自民党議員が関係しているようです。教育への行政の介入の危険性をきちんとわかっていない自民党議員には猛省を促したいと同時に,さすがに文科省はわかってはいたのでしょうが,政治家の圧力には抗することができなかったとするならば,やはりそれも情けないことです。
 能力のある人たちが,政治家にいいように使われる。こんな国が良い国なわけがありません。改ざん問題など,行われたことの事実解明やそのための追及はきちんとすべきです。しかし,その際も,人としての敬意は,きちんとはらわなければなりません。そういうことができない政治家の人品を国民はしっかり見ているはずです。 

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2018年3月16日 (金)

役人と文書

 役人にとって文書はとても大切です。最近はようやく重い腰をあげてペーパーレスに踏み切るところも増えてきたようですが,メンタリティとしては,作成した文書の量こそが,自分たちの仕事の証と考えている人がまだ多いことでしょう。
 役人の作成する文書には,役人の思惑がこめられています。私は,そういう思惑に無頓着で,ある研究会で文面どおりにとらえて発言して,馬鹿にされた(?)ことがありました。役人の文書を鵜呑みにして真面目に考えるなんて愚かなことというのが,霞ヶ関の常識なのでしょう。
 それでも(あるいは,それゆえこそ)文書は役人にとって大切なのです。自分たちのやりたい政策を,いかに首相の施政方針演説などにもりこめるか,日本再興戦略などの閣議決定される文書のなかにもりこめるかといったことが勝負なのです。自分たちで作文して政治家に発言させ,そこから有識者会議などの会議を立ち上げて委員に適当に議論させて,そこでとりまとめ文書に盛り込みて,お墨付きを得たうえで,予算をとってくるというのが大切なのでしょう。大学教授が関係させられるのは,その会議のところですが,あんまりとんがった意見をいう人は敬遠されます(たとえば厚生労働省系では,とんがったプロレイバー系の意見を言う人はまず委員に選ばれません)。とりわけ座長というのが大切で,それなりの名声がある人でなければ箔が付かないし,でも露骨に御用学者っぽい人でも困るし,でも役人のいうことを聞かない人でも困るということで,この人選は難しく,適任者も限られているので,どうしても同じような人に集中しがちとなります。
 個人的にいうと,自分の考えている政策と近い会議も存在していて,そういうところに参加するときは自由に発言できる研究会のノリでいけるので問題ありませんが,何をやりたいかわからなくて,たんに実績だけほしい会議とか,そういうものになるとフラストレーションがたまります(今後は引き受けません)。私は,これまでは一委員にすぎなくても,いかにしてこの会議が成果を出すことができるかということを真面目に考えていたりもしていたのですが,徐々にそんなことは誰も求めていないということがわかってきました(繰り返しますが,すべてがそうではなく,例外もあります)。
 ところで,ここで言いたいことはその先にありまして,役所とはそういうところなので,とにかく文書がきわめて大切なのです。正式な文書に書いてあることが「憲法」なのです。だからその文書を勝手に書き換えるということは,おそらく役人レベルでは恐ろしくてできないだろうと思えるのです。現在の森友文書改ざん問題も,財務省の職員が亡くなられるという実に痛ましい出来事がありましたが,その原因の一つは,まったくの推測ではありますが,自分たちにとって何よりも大切な文書について,虚偽の内容に書き換えを命じられることが,自分の職業上のアイデンティティの喪失につながり,精神的に耐えられなかったということがあったのではないでしょうか。現実の仕事の世界は,正直すぎるのではいけないのでしょうが,それは事と次第によります。今回は融通を利かすという次元を超えることだったのでしょう。
 その職員に改ざんを命じた財務省の幹部だって,そんなことはやりたくなかったはずです。文書の信用性が軽視されたら,彼らの仕事は成り立たないからです。政治家をうまく使って,自分たちの思うような文書を作り上げ,その文書の権威と付託に基づき行政を行うというのが役人の仕事なのです。文書の権威がなくなれば,政治家に対抗できなくなります。
 ということで,この問題は,やはり政治家が関与しているとしか考えられません。忖度程度で動くには大きすぎることでしょう。それでもかつての財務省,大蔵省なら政治の圧力に抵抗することができたかもしれません。それだけ現在,政治側の力が強くなっているのでしょう。何よりも,元の文書がやばすぎて,このままなら首相退陣となりかねず,そうならないために,いわば「憲法」を上回る「超法規的な」措置が必要という判断を役人が下したのかもしれません。財務省にとっては,安倍首相にもう少し続けてもらいたかったのでしょう。しかし,この判断がまずかったのです。
 これ以上,役人から死者が出てはいけません。守るべきは組織でも政治家でもありません。役人の方には,何を守るべきか,よく考えていただければと思います。

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2018年3月11日 (日)

米朝電撃会談と歴史の教訓

 昨日に続いて,日本経済新聞の「春秋」についての話です。3月10日の朝刊で,1939年の独ソ不可侵条約のことがとりあげられていました。
 「そのころ日本はノモンハンでソ連と戦っている最中」でしたが,「仲間と頼んでいたドイツが,敵のソ連と握手した衝撃はいかばかりだったろう」。「こんどの米朝の複雑怪奇も相当なものだろうから,日本外交のまさしく正念場である。かの不可侵条約には,じつはポーランド分割を決めた秘密議定書が付属していた。歴史は多くのことを教えてくれる」。
 昨日も取り上げた半藤一利『昭和史-1926~1945』(平凡社)では,日本政府が情報戦でいかに遅れをとっていたかが克明に描かれています。とくに悲劇的なのは,最後の最後までソ連の仲介による戦争終結を信じ続けて,結局,ソ連の対日参戦というひどい裏切りで終わったことです。
 米朝会談が日本の頭越しに行われることの危うさをよく理解しておかなければなりません。日本は,第2次世界大戦でソ連に裏切られたように,今回もアメリカを信じていながら最後は裏切られるということがないように用心しなければなりません。米朝韓が日本抜きで何らかの秘密合意をしてしまう可能性はないでしょうか。米韓が北朝鮮への制裁は継続するという話だけ聞いて,安心しているようでは甘いと思います。
 森友問題で安倍政府の力が急速に弱まりつつあることも心配です。森友問題は公文書の書き換え(刑法犯にも該当しかねない)のような,政権を揺るがしかねない問題になっていますが,同時に国際情勢も風雲急を告げています。
 ノモンハンでソ連と死闘を繰り広げていた日本の政府は,まさか日本と防共協定まで結んでいたドイツがソ連と手を組むとは夢にも思っていませんでした。「ときの平沼騏一郎首相は『欧州の天地は複雑怪奇』なる言葉を残して退陣した」のです。そして現在,トランプと金正恩,この二人の間で何か複雑怪奇なことが起こらないとは限りません。「異形の2人の接近が日本に,東アジアに何をもたらすのか凝視せねばなるまい」と春秋は結んでいます。
 安倍政権は,先進国のなかでも最も安定的な政権であることが,日本の外交上のポジションを高めていました。私は別に安倍政権の応援団というわけではありませんが,国益に沿った行動はどいうものかを,野党もよく考えてもらいたいと思っています。外交と内政をうまく切り分ける知恵はないでしょうか。

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