映画

2018年1月 6日 (土)

Moglie e Marito

    国際線でみたイタリア映画です。日本語で言えば,「妻と夫」です。脳神経関係の医師である夫Andreaとテレビのキャスターの妻Sofiaは,互いの仕事が忙しく,二人の子育ても大変ということもあって,仲が険悪となります。そんな二人がカウンセリングを受けているところから映画が始まります。
 あるとき夫の研究として,互いの思考を移転する機械がようやく発明できて,試験的に,Sofiaとの間で行おうとします。その試験をしていたところ,誤作動が起きて,妻と夫の肉体が入れ替わってしまいます(思考が入れ替わったといってもよいのですが)。とはいえ,二人には仕事があり,Sofiaは,Andreaの身体になったので,Andreaの職場に行かざるを得ず,Andreaも,Sofiaの身体になったので,Sofiaの職場に行かざるを得ません。当然,そこでトラブルが起きてしまいます。フェミニストであったSofiaが,突然,フェミニストの欺瞞を語り始め,最初はたいへんな反発を受けたり,一方,Andreaは友人のMicheleと進めていた上記の研究を,Micheleの許可なく,ライバルに研究資料を渡してしまいテーマを横取りされたりと,問題が起きます。
 また,Andreaは,ときどきフラッシュバックのように戻ってくるSofiaの記憶から,Sofiaが離婚を考えて,銀行口座の整理をしていたことを知り激怒したりもします。しかし,そうした混乱の末,SofiaもAndreaも互いのことが理解できるようになります。
 最後は,二人は肉体をもとに戻すために機械を使って,二人の思考を入れ替えようとします。でも,できれば二人が入れ替わっていたときの思考も残せればとSofia(肉体はAndrea)は願います。さて再度の実験の結果は,どうなったのでしょうか。二人は元に戻ったのでしょうか。
 最後のシーンは,息子からママと呼ばれたときに,二人が同時に振り向いたところです。そのときのAndreaは男らしくなって,Sofiaは女性らしくなっていたので(入れ替わっているときのAndreaのフェミニンな動きとSofiaのマスキュリンな動きは笑えます),肉体と思考は元に戻ったようです。でも,入れ替わっていたときの思考も残っていて,結果,二人は思考を共有できるようになったということを示唆しているのかもしれません。
 グラマラスで美人のSofiaとひげ面でマッチョなAndreaの対比。肉体的には男女間であまりにも大きな格差があるけれど,でも男女は平等ということがあるのだろうか,というテーマについて,肉体を入れ替えてしまえばどうなるのか,という思考実験をしてみたということかもしれません。そして結論は,しっかりコミュニケーションをとれば男女は理解できるのであり,それでよいのではないかということを,究極のコミュニケーション(肉体を入れ替える)をとらせる思考実験をして描いてみせたのかもしれません。
   (★★★☆☆ ストーリーよりも,入れ替わっているときの俳優の演技に★三つ)    

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2017年10月 1日 (日)

セールスマン

  イラン映画を観たのは初めてです。夫婦で劇団に所属している教師のエマッドは,住んでいたアパートが崩壊しそうになるという災難にあい,知人の紹介で,別のアパートに引っ越すことになります。前の居住者の荷物が残っているなど,なかなか引っ越しがスムーズにいかないなか,ある夜,妻のラナが暴漢におそわれて,頭や顔に大けがをします。ラナはレイプされた疑いがあるのですが,それははっきりわかりません。ラナは,シャワー中に,インターホンが鳴ったので,エマッドが帰ってきたと思い,鍵をあけ,またシャワーに戻ったのですが,鳴らしたのはエマッドではなかったのです。この事故後,ラナは精神的にもダメージを受け,エマッドももちろんショックを受けます。夫婦の関係は冷えてしまいます。
 エマッドは警察に届けようとしますが,ラナはそれをいやがります。表沙汰にされたくなかったのでしょう。そのことにラナは不満をもちます。そしてエマッドのほうにも隙があったのではないか,という態度をみせるようになります。その一方で,エマッドは,妻に黙って,自力で犯人を探そうとします。自ら復讐するつもりなのです。現場に犯人が残していった車がありました。夫は,生徒の一人に警察官の息子がいることを知り,車の番号から持ち主を探してもらいます。そして,ようやく犯人をつきとめます。犯人は心臓を患っていた年配の男性でした。
 実は,エマッドたちが引っ越してきた家の前の居住者は,自宅で売春をしていたようなのです。知人はそのことを事前に知らせていなかったのですが,知人にしても,住むところがなくなって困っているエマッドたちを助けてあげたいということで,問題のある物件であっても,紹介したのでしょう。
 ラナを襲った犯人の男性は,売春客だったのです。引っ越しがあったことを知らず,そして鍵も開けられたことから,家に入ってきました。エマッドは,今回の件について,この男性のやったことを,その妻や息子に伝えると告げるのですが,男性はそれだけは許してくれと懇請します。ラナのほうも,そこまでするなと夫に言います。結局,夫は,この男性の家族を呼び寄せますが,男性を一発殴っただけで,家族と一緒に帰るのを許します。しかし,その途中で,男性は心臓発作を起こし,救急車で搬送されます。おそらく死亡したのでしょう。ラナは何も言わずに去って行きました。

 理不尽に,住んでいたアパートから去らざるをえなくなった夫婦に,妻が自宅で襲われるという理不尽が重なって起こります。悪いのは犯人ですが,夫婦の怒りの方向は一つになりません。復讐に走る夫と,時間をかけて心の傷が癒やされることを望んでいる妻は,気持ちが重ならず,やがて離反していきます。クライマックスは,夫は自らがあたかも検察官そして裁判官となり,犯人の男性を裁こうとするシーンです。しかし妻は,それを許しませんでした。目の前にいる男性は,家族思いで,病をかかえた老人でした。老人の妻は,夫の身を心より案じていた普通の老女でした。息子は近日中に結婚することになっていて,婚約者と一緒に駆けつけていました。憎き犯人ではあっても,この男性を罰して,この男性の人生すべてをめちゃくちゃにすることを,妻は望まなかったのです。おそらく,そのようなことをすれば,妻の心の傷はいっそう深くなったのでしょう。夫も,最後は妻の気持ちをくみ取りましたが,すでに遅かったのです。

 誰が一番悪かったのでしょうか。犯人の男性でしょうか。この男性を客として迎えていた前の居住者でしょうか。そのことを告げずにアパートを紹介した知人男性でしょうか。夫であることをきちんと確認せずに鍵をあけた妻でしょうか。
 一方,最愛の妻を傷つけられた夫が,妻の願いを聞いて,警察に届けなかったとき,自分で復讐をしようとしたことを責められるでしょうか。普通の生活を送っている憎き犯人を目の前にして,この犯人に自分たちの苦しみをぶつけようとした夫を責められるでしょうか。
 とても深い映画でした。ただ,劇中で「セールスマンの死」という劇が演じられ,これが映画のタイトルにも関係していることからわかるように,おそらくこの映画のポイントのようなのですが,私はそこはよく理解できませんでした。そのため,私には十分な評価能力はありません。「セールスマンの死」を観てから,もう一回,この映画を観てみたいと思います。ただ,いまの時点でも,★★★(★三つ)はつけたいと思います。

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2017年9月30日 (土)

Circle

 インターネットとソーシャルメディア。これが極端に進んだ社会を描いたCircleという映画を,休暇から帰るときの国際線の飛行機のなかで観ました。もうすぐ日本にも来るようです。
 冴えない事故対応の仕事をしていたMae Holland(Emma Watsonが演じています)は,親友のAnnieの紹介でCircleという有名な会社に就職することができました。Circleの社員たちは,すべての個人情報を共有していました。あるとき,全社員が集まったミーティングで,社長のEamonが見せたのが,ビー玉くらいの大きさの超小型カメラでした。このカメラを世界中にとりつけることにより,世界で起きていることを画像として共有できるのです。SeeChangeと呼ばれるこの技術は,究極のプライバシーゼロを実現するものでした。
 Maeも最初はこうしたものに懐疑的でしたが,趣味のカヤックをしていて溺れかけたとき,SeeChangeのおかげで救われて,考え方が変わりました。彼女は,Eamonに「完全な透明化」の提案を受け,起きているすべての時間(トイレの時間などは除く)に,SeeChangeで自分の私生活を公開することを決めます。この決断で,彼女は徐々にカリスマ性をもつことになります。ただ,彼女と話をしていたAnnieが,Maeのカメラに映り,その疲れた顔がそのまま世界中に流れたというようなアクシデントがあったり,さらに,Maeが,カメラを通して,両親を探しているとき,両親がちょうどセックス中で,これがネットで全世界に流れてしまったりというようなことがあり,彼女はショックを受けます。彼女が私生活を完全公開することにより,周りの人のプライバシーを犠牲にされていたのです。
 それでも彼女は,Eamonのプロジェクトには賛成でした。Eamonは,政治家も,Circleのアカウントをもって,隠し事なしに有権者に情報を公開すべきだと主張していました。Maeも,投票はCircle のアカウントを通して行うべきだと提案をしたりして,どんどん活動が先鋭化していきます。
 あるとき,Maeは,社員集会で,SeeChangeの威力を示すために,脱走した囚人を短時間で見つけると豪語し,見事にそれを実現します。彼女は,プライバシーをなくすSeeChangeが,社会のためになると心の底から思っていました。
 彼女の友人のMercerは,鹿の角で出来た装飾品を作っていたのですが,その写真をMaeがCircleの自分のプロフィールのところにアップしてしまったため,Mercerは,動物虐待者として世間から非難されます。彼は世間から逃れるために,姿を消してしまったのです。社員集会の場で,そんなMercerを,SeeChangeを使って見つけようという声がかかります。Maeは渋っていましたが,結局,受け入れます。Mercerは隠れていた山小屋にいるという情報がすぐに届き,逃げる彼を追いかける映像がずっと流れます。そしてMercerは,運転を誤って事故死します。
 ようやくMaeは自分が間違っていたことに気がつきます。そして,最後にEamonにしっぺ返しをします。そこは映画で確認してください。
 プライバシーなしで,みんながつながる社会。究極のtransparencyです。国家権力のtransparencyは,ある面では,重要なことかもしれません。でも私人間ではどうか。純粋な若者をマインドコントロールする,一つの宗教のようなもので,とても危険ではないか,ということを,この映画は問いかけます。友人を失い,両親からも離れるというのは,カルトに嵌まった若者と同じようなことです。そして実はtransparency を謳いながら,intransparentに儲けている輩がいるのです。ネット社会のdystopiaを描いたこの作品は一見の価値があるでしょう。 ★★★★(★4つ)

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2017年9月24日 (日)

三度目の殺人

 この映画をみたのが,ちょうど2週間前で,三宮のミント神戸にある映画館では初日でした。ちょうどVenezia映画祭のコンペに出ていて,賞をとるかどうかと言われていた時期でもあり,とりあえず観ておこうという感じでした。良い映画だったと思いますが,難解でした。「3度目」の殺人の意味が,実はよくわかりませんでした(後述)。以下,ネタバレではないですが,それに近いものあり。
 いきなり役所広司演じる三隅が,人を殺して焼却するシーンから始まります。三隅には殺人の前科がありました。この弁護人を事務所の同僚から押しつけられたのが,福山雅治演じる重盛です。三隅は,被害者である山中(自分を解雇した食品加工会社の社長)から金品を強奪する目的で殺したと自供しており,そうなると強盗殺人であり,30年前にも殺人で無期懲役判決を受けて仮釈放中であったこともあり,死刑を免れることは難しそうでした。ただ重盛は,三隅が盗んだ山中の財布にガソリンがかかっていたことから,三隅は当初は強盗目的ではなかったので,減刑できるのではないかと考えます(殺人と窃盗[占有離脱横領?])。
 そんなとき,三隅は重盛に無断で,週刊誌の記者に,山中の妻の美津江から依頼されて保険金目的で殺人をしたという話をし,それが記事になります。重盛が確認すると,証拠のメールもあるとします。そして,三隅には美津江から50万円が振り込まれていました。こうして一転して,事件の主犯は美津江というストーリーで公判に臨むことにします。
 そういうなか,美津江の娘の咲江(広瀬すず)が,三隅の家に尋ねていたという事実が出てきます。足に障害のある咲江は,三隅の娘にも同じような障害があったことから親近感をもったのではないかと考えます。三隅の自宅に行った重盛は,三隅が,犯行前に飼っていたカナリアを殺して埋めていたことを突き止めます。三隅は最初から刑務所に入る覚悟だったのです。強盗目的であれば,これは奇異なことです。
  その後,咲江は,重盛に対して,衝撃の告白をします。それは咲江は実の父の山中から性的虐待をずっと受けていて,三隅はそんな自分を助けるために実父を殺したのだというのです。そして,公判でその証言をすると重盛に申し出たのです。
 ところが,そのことを聞いた三隅は激しく狼狽し,重盛をなじります。そして,また新しい事実が出てきます。それは美津江から振り込まれた50万円は,山中の会社がやっていた食品偽装の口止めだったというのです。こうなると,保険金目的の殺人という線も消えます。そして,三隅は再び供述を覆します。殺人をしたのは娘のほうであり,自分は何もしていない,というのです。そして実は,逮捕された当初は,そう供述していたというのです。殺人をしたと供述したのは,重盛の同僚で,当初この事件を担当していた弁護士から,そのほうが刑が軽くなると言われたからだ,というのです。
 重盛は,三隅の気持ちがわかった気がしました。咲江を守るために供述を変える,ということです。三隅が供述を覆しても,誰も信用せず,死刑は確実です。そして,咲江は守られます。結局,重盛は,咲江には,父とのことを証言しないように頼みました。公判では,三隅は自分はやっていないと証言し,咲江は証言台で三隅には同情的な発言はしたものの,重盛との約束どおり,自分の性的虐待のために父を殺したということは言いませんでした。
  公判で三隅が犯行を否定したため,手続をやり直すべきかどうかを,裁判官と検察官と重盛たち弁護団との間で協議をします。裁判官は訴訟経済をいって手続の続行を提案し,担当検事は争点が変わるので,手続のやり直しを主張しました。しかし,ここで裁判官が目でサインを出し,それを受けてベテラン検事は担当検事に耳打ちします。手続を続行させても,三隅の証言は受け入れられないからよいだろう,というサインだったのです。
 三隅は,そこまで想定していたのでしょうか。自分が無実だと供述すること(それが皮肉なことに,自分の死刑を決定づける)によって,咲江を守れるのです。咲江が証言を言い出さなければ,三隅が違った供述をして,ひょっとしたら減刑を勝ち取れたかもしれないのです。
 もちろん,三隅が守ったのは,咲江が犯人だったからではないでしょう。咲江が実父から性的暴行を受けていたということを公判で証言して世間に知られるということを避けたかったからでしょう。三隅の情状に有利な発言をして死刑にならないようにするために,咲江がそんな証言をしてしまうのは,三隅の本意ではなかったのでしょう。
 弁護人の重盛は,結局,三隅の次々と変わる供述に,振り回わされました。重盛は,真実の追求ではなく,その事件でいかにして被告人に有利になるかという戦術こそが大切だと考えていました。そのため三隅の供述が変わるたびに戦術を変えることになり,いったい誰が何の目的で殺人をしたのか,ということに迫ることができなかったのです。しかし最後は,三隅が死刑になることをわかって,咲江がするはずの三隅に有利な証言をさせませんでした。重盛が,三隅との接見を繰り返すなか,心境が変わっていくところが,この映画の最大の見所でしょう。
 三隅の心の闇は誰にもわかりませ。多くの人は,三隅という人間に迫ることができず,中身が空っぽな器に思えてしまいました。もとより裁判官も検事も三隅という人間に迫っていく気はありません。むしろ担当検事は,いったん自白をしている三隅に対して,それを弁護する弁護士たちを,犯罪者をかばう存在として非難します。重盛の父で,かつて三隅の初犯時の殺人(借金取り2名を殺していた)に死刑を宣告しない温情判決をした元裁判官さえも,いまとなっても死刑判決をしなかったことを後悔していました。
 では重盛は,最後は三隅の心に少しは迫れたのでしょうか。それはやはり無理だったかもしれません。
 法廷は真実に迫る場ではなく,また法曹三者の誰も真実に迫ろうとしないとうことへの強烈な皮肉がこめられている映画だと思いました。映画のなかでは,何が真相かは,最後まで明かされませんでした。法廷,そして法廷をとりまく法曹たちの手では,真実がわかりようがないというメッセージなのでしょう。そして,ひょっとしたら映画のタイトルの「3度目の殺人」は,死刑判決を受けた三隅が,過去の2回の殺人に加え,今度は,真実を殺した(隠しきった)という意味が込められているのかもしれません。 ★★★★☆(法曹関係者に観てほしい映画ですね)  

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2017年7月 9日 (日)

ローマ法王になる日まで

 最近,映画をみていなかったので,うずうずしていました。「ローマ法王になる日まで」というイタリア映画をみました。原題は,「Chiamatemi Fancesco - Il Papa della gente」(私をフランチェスコと呼んで-みんなの法王)というもので,現法王Francescoの半生を描いたものです。
 アルゼンチン出身のFancescoの本名は,Jorge Mario Bergoglio(ホルヘ マリオ ベルゴリオ)です。彼は学生時代に化学の研究をしていましたが,その後,イエズス会に入り,神父になることにします。順調に出世し管区長になりますが,ときはちょうどVidela軍事独裁政権の支配下の時代でした。反政府武装闘争をしている人たちをかくまったりしていた司祭たちが,次々と殺されていきます(拷問や虐殺のシーンは,それほどリアルには描かれていませが,恐怖は十分に伝わってきました)。Bergoglioも間一髪で難を逃れることになります。大統領に直訴して,武装勢力と関係のない者の救済を求めますが,一定の効果はあったものの,恩師のEstherは無残に殺されてしまいます。
 Bergoglioは,軍事政権が終わったあと,神学を学ぶためにドイツにいき,そこで知った「結び目を解くマリア」の絵の信仰に心を打たれ,アルゼンチンに帰り,田舎で家畜に囲まれながら神父としての仕事を細々としていました。そうした活動が評価がされて,法王の命令でブエノスアイレスに戻ることになります。そこでも貧民地区の土地開発をめぐる当局側とのトラブルでは,住民側の立場で戦います。そんなBergoglioが,ついに法王に選出されるところで映画は終わります。
 決して順風満帆ではなかったBergoglioの人生。仲間を助けきれなかったという深い挫折も経験しています。それだけにドイツから帰国したBergoglioは,困っている人に寄り添うことのできる筋金入りの宗教者になったのです。
 まだ存命していて,かつ世界最大の権力をもつ人の半生記なので,ノンフィクションのドキュメンタリー的な映画だとは受け止めることはできません。それでも,一人の青年が法王に登り詰めるまでの人生物語はそれなりに楽しめます。 ★★★(法王ものの映画は,いつも面白いですね)

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2016年10月26日 (水)

神様の思し召し

   原題は「Se dio vuole」(神様が望むなら)。
 Tommasoは,評判の高い心臓外科医ですが,傲慢で,イヤな感じの男です。家はローマにある豪邸。ただし家庭はちょっと複雑です。奥さんのCarlaは,南米系のお手伝いの女性がいる専業主婦で,養子をとっている上流婦人です。二人の子供がいて,姉がBianca。不動産事業を営むGianniと結婚していますが,料理ができないので,両親の隣に住んで夕食はともにしています。もう一人はAndrea。大学の医学部に通っています。
 このAndrea の様子が最近おかしいのです。部屋にこもっていたり,行き先も言わずに夜出かけたりしていました。Tommasoは,Andreaが若い男と一緒に出かけてるのをみて,ある疑惑を覚えます。あるとき,Andreaがみんなに話したいことがあると宣言したので,TommasoはAndreaがゲイであることをカミングアウトすると思い込んで,家族に覚悟を促して,Andreaに理解を示すように伝えます。ところが,予想に反してAndreaの告白は,神父になりたいということでした。息子が医師になることを期待していたTommasoは,この告白にゲイであることよりも悪いとショックを受けます。合理主義者のTomassoは,宗教の世界を最も忌み嫌っていたからです。しかしAndreaの前では,Andreaに理解を示した態度をとっていました。
 あるとき,TommasoaはGianni と一緒にAndreaが夜にどこに出かけているのかを突き止めようとします。そこで出会ったのがPietroという神父でした。Pietroは,若者たちを集めて集会を開き,説法をしていました。それをみたTommasoは,AndreaがPietroに洗脳されていると考え,宗教家のPietroの化けの皮をはがすために,Pietroに身分を偽って接近していきます。
 そこからドタバタが始まるのですが,その間も,実はキッチンドランカーであったCarlaは学生運動に参加して逮捕されてしまったり,BiancaはAndreaの影響で福音書を読み始め,生殖目的のセックスはしないと宣言したり・・・。そんななか,TommasoとPietroの間には友情が徐々に芽生えてきます。そしてGianniは,神父になることをやめて,医学の道に戻るですが。
 最後のシーンは難解です。Pietroが車にはねられてTommasoの病院に運び込まれます。担当する医師は,Tommasoに対して,奇跡でもなければ助からない,と伝えます。Tommasoは,この映画の冒頭に,命を助けた患者の家族から「奇跡的だ」と感謝されたとき,「奇跡ではない。俺が優秀だったからだ」と感じの悪いことを言っていたことが想起されます。Tommasoは,奇跡を信じない男でした。
 翌朝Tommasoのところに電話がかかってきます。おそらくPietroの手術の結果を伝える電話でしょう。しかし,彼はそこにおらず,かつてPietroがTommasoに自分の過去を語ってくれた場所で一人座っていました。そこではTommasoに神を信じるようになった話をしたPietroを,Tommasoは少しからかって「梨が木から落下するのも,神の思し召し?」と言い,Pietroは「Bravo」(そのとおり)と答えていました。その思い出の場所で,実際に梨が木が落ちるシーンで映画は終わります。
 Pietroが助かったのかどうかはわからないので,私もそうですが,映画を見ていた人はみなびっくりしたでしょう。「おいおい,オチはないのか」と。しかし,このシーンは,私たちが解釈すべきなのでしょう。私は,この映画は,奇跡などは起きない,すべては神の望むとおりである,ということで,Pietroが助かったかどうかは大切なことではない,というメッセージを伝えたかったのかなという気もしますが,自信はありません。
 この映画では,健常者が,知的障害者や身体障害者のまねをして,不幸な家族であることを演じるというシーンが出てきます。これは笑いを誘うシーンなのですが,私はドキッとしました。日本ではこういうシーンを入れると抗議が殺到するでしょう。ゲイや外国人に対するある種の差別的な態度も出てきます。
 イタリア映画では,私の経験では,障害者をからかうようなシーンがときたま出てきます。そこには,人間にはそういう心理があるのは当然であり,妙にそういうことに触れないほうが不自然だということかもしれません。そして,そのことと実際に差別的な行動をとること(それはやってはならない)とは別の問題だという割り切りがあるような気がします。
 もう一つ驚いたのが,Tommasoがカトリックのことをボロカスにいうシーンです。でも,この映画は,最後は宗教的なところに帰るという意味もありそうなので,これはカトリックにとって悪い映画ではないのでしょうね。  ★★★(観る価値はあると思います)

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