日記・コラム・つぶやき

2018年5月14日 (月)

アメフトのラフプレイ

 日大と関学のアメフトの試合におけるラフプレイが大きな問題となっていますね。レイトタックルというレベルの話ではなく,単なるラフプレイだったようです。私はアメフトに詳しいわけではありませんが,多くの人と同様,この映像をみて戦慄を感じました。
 日頃,下りの坂道を猛スピードの自転車が私の側を走り抜けていくことをよく経験しており,ちょっとでも接触したら,どう責任をとってくれるんだと思うことがよくあるのですが,あんな露骨なタックルを背後からくらうと,猛スピードの自転車どころではないでしょう。脊髄損傷といったことにもなりかねない話です。
 日大の監督が選手に命じたという話もあり,真相はよくわかりません。選手の将来性を考えて,監督に詰め腹を切らせるということになるのか,それとも本当に命じていたのか。もし監督が命じて,選手が「犯行」におよんだのであれば,日大のアメフト部は解散となるべきでしょう。
 これは犯罪なのです。そもそもタックルは本来的には刑法の暴行罪の構成要件に該当しますし,ケガをさせれば傷害罪の構成要件にも該当するものです。スポーツで行う場合には,正当業務行為となり違法性が阻却されるだけです(刑法35条)。しかし今回は,ルールの範囲を逸脱しているもので,違法性は阻却されません。もちろん,犯罪のもう一つの成立要件の故意も認められるでしょう。
 スポーツだから,多少のことは許されると思っていないでしょうか。プロ野球でも,故意にデッドボールをあてるような行為は,やはり犯罪に該当すると思います。デッドボールをあてた投手に殴りかかる行為は,もちろん犯罪です。プロ野球の解説でそれを推奨するようなことをいう人もいますが,それは規範意識がどこかおかしいです。あれはみていて愉快なものではありません(私は殴り合いが嫌いというわけではなく,ボクシングや格闘技は好きですが,それはそういうルールでやるものだからです)。
 暴行罪や傷害罪は親告罪ではありません。検察も動くかもしれません。スポーツ上の逸脱行為のすべてを犯罪として処罰することが妥当とは思えませんが,その一方で,大学生だからといって甘くみるのは問題でしょう。
 今回のケースは事実関係がまだよくわからないところもあるので,これ以上はコメントできません。今後の推移を見守りたいですが,一般に,こういう肉体が接触するスポーツは,そもそも危険な行為をしているので,信頼関係が何よりも大切だと思います。お互いがルールを守っている範囲では,暴行や傷害があっても許し合おうというところで,こういうスポーツは成り立っているのです。ルールを大幅に逸脱すれば,それが市民社会で行われているものである以上,犯罪として処罰されるのは仕方ないことです。スポーツだからといって大目にみるのは,ほんとうのスポーツマンに対して失礼なことではないかと思います。  

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2018年5月10日 (木)

小学生に何を学ばせるべきか

   2020年度から公立小学校の3年から6年で英語が本格導入されるそうです。英語の進出はここまで来ました。欧州の辺境の言語が侵略を繰り返した末に,世界共通言語の座を奪取し,被侵略国でない国でも,子に勉強させるまでになりました。
 もちろん,英語は,そんな大げさなとらえかたをしなくても,たんに国際的なコミュニケーションのツールにすぎないという程度に思っておけばよいのでしょう(それにしては,発音や聞き取りが難しい言語です)。英語ができない人間は,手先が不器用なのと同じような意味で道具の利用(たとえば工作や裁縫)が苦手というにすぎません。本人の知性には関係ありません。でもこの道具は,生きていくうえで重要だから,英語を母国語としない国の小学生にも勉強させようということでしょう。
 ところで,神戸大の法学部では,外国語文献購読というのをやります。大学院の授業でも,外国語文献を読ませることがよくあります。自分の大学院生時代も,そうやってドイツ語やフランス語を教わりました(イタリア語は独学です)。もちろんこれは文学部などでの購読とは異なり,あくまで法学の専門文献の購読です。正しく読むということだけが目的です。法学系で読む外国語文献は,最低限の文法がわかっていれば,あとは単語はネットなどで意味を調べることはできるので,(法学の専門知識があるかぎり)正しく読解できるかどうかのポイントは,論理的な思考力がどれだけあるかにかかります。
 優秀な法学部生は,外国語もきちんと読めます。伝統的なリベラル・アーツ(artes liberales)のなかのtriviumは,文法(grammer),修辞学(rhetoric),論理学(dialectic)の3つを指します。これは大学院での法学文献購読に,まさに求められる技芸(arts)といえるでしょう。言語の基礎を知り(文法),相手に効果的に伝える表現方法を学び(修辞法),論理的な議論をとおして真理に近づく(論理学)ということが求められるからです。それは外国語文献の購読についての授業内容と同じです。
 もちろん小学校では,こうしたリベラル・アーツそれ自体は難しすぎるのですが,その基礎となるものを教えてもらわなければ困ります。ちなみに,リベラル・アーツには,上記の言語系のtrivium(artes sermocinales)以外に,数学系のquadrivium (artes reales)があります。それが算術(arithmetic),幾何学(geometry),天文学(astronomy),音楽(music)の4つです。音楽もピタゴラス音律からもわかるように,もともとは芸術というより数学の領域のものです(音「学」と書くべきかもしれませんね)。
 こうしたリベラル・アーツの基礎として,とくに小学校で教えてもらいたいのは,やはり論理学(なかでも言語を論理的に操り思考し議論していくこと)であり,そして算数となりましょう。これが大人になってからの教養の基礎となります。これに加えて,現代のリベラル・アーツには,歴史や科学(テクノロジー)も含まれてくるはずです。
 私はさらに,リベラル・アーツ以外にも,これからの時代は,職業基礎教育を早い段階で行ってよいのではないかと考えています。その具体的な内容の一つが情報リテラシー(AIリテラシーも含む)であり,中学生くらいになると,契約や金融に関するリテラシーも教えられてよいのではないかと考えています。情報リテラシーが大切なのは,学習そのものが,今後はITやAIを使ったものとなるからです。
 こう考えていくと,小学生や中学生の限られた時間で,みんなに英語を教育することが,優先順位としてどれだけ高いのかは疑問でもあります。機械翻訳のレベルが上がることも考慮しておかなければなりません。学習や教育の問題は,労働の話にもつながるので,現在,週刊労働新聞に連載中の「雇用社会の未来予想図」でもとりあげるつもりです。

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2018年5月 1日 (火)

5G時代を想像し,創造する

 今朝の日経新聞の経済教室で澤田康幸氏が書かれていた「アジアの技術革新と雇用 所得・需要増大の恩恵大 労働規制規制緩和・再分配カギ」という記事は,細かいところはともかく,ほぼ日本にもあてはまる話です。課題であげられている教育政策,労働・雇用政策,租税政策は,第4次産業革命と経済・雇用政策というのを考えている者にとっては,おなじみの三大テーマです。
 なかでも教育政策は重要なのですが,政府関係の会議では,教育というと理系人材の育成,AI技術者の育成というレベルの話になってしまうことがあり,普通の人がどうやって生きていくかということを大事に考える私とは関心が合わないことが多いです。
 一方で,インタビューなどを受けたとき,これからは創造的な人材を育成する必要があると話すと,そんな能力をもつことができるのは優秀な人の話であって,一般の人はとても無理と反論する人もいます。しかし,それは間違いなのです。私がいつも述べているのは,現在優秀とされる人こそ危険であり,受験秀才のような頭でっかちでない人にこそチャンスがあると述べています。なんとなく世間には,自分のことを一流大学を出ていないし,たいした資格やスキルも身についておらず,努力するしか能がないと決めつけている人も多いのです(そういう人が年齢を重ねて上司になると,困った人になってしまうのです)が,そうではなく,AI時代だからこそ発揮できる能力というものがあり,それこそが受験秀才にはないものである可能性が大なのです。つまりAI時代の到来で,これまでどちらかというと不遇であった人にもチャンスが来るのです。
 教育政策では,こうした時代の到来を予想して,先手を打ったカリキュラムを展開していってもらう必要があります。
 ところで上記の澤田氏の記事以外に,もう一つ注目される記事が5Gのことです。ソフトバンクグループは,5Gの商用化に向けた大型投資をしようとしています。通信の技術革新は,今後5Gに突入するにともない,大きな変化を社会にもたらすでしょう。働き方への影響も甚大だと思います。もっとも,大容量のデータを瞬時に送信できるということが,何を意味するのかについては,自動運転などはすぐに思い浮かびますが,ほかに広がるかは少し想像力が必要でしょう。
 私は次のように妄想しています。
 何かをするために自宅から出るということがなくなります。企業のオフィスはなくなり,多くの人が自宅に仕事部屋(アトリエ)をもつようになります。住宅も,それにあった規格になっていくでしょう(「自宅にアトリエを」というキャッチコピーを使った住宅販売がなされるでしょう)。買い物に出かけるということもなくなります。自宅にバーチャル店舗が現れるからです。自宅にいながら世界中の旅行体験もできます(ローマの「真実の口(Bocca della verità)」に手を入れる疑似体験ができます)。人びとが通貨を得る手段も変わっていくでしょう。物理的な労働をして通貨を得るのではなく,他人がほしがるようなアイデア,情報などをネットをとおして提供できる人が,より多くの通貨を得て,そしてより価値の高いものを入手できるでしょう(芸術的な才能をもつ人が輝く時代が来るでしょう。)。通貨は暗号通貨(仮想通貨)のようなバーチャルなものとなるでしょう。運動不足となる心配がありますが,ウエアラブル機器による健康管理でばっちり対応できるでしょう。

  教育を考える前に,まず想像して楽しんでみることから始めたほうがいいですね。そこから新たな時代を切り拓く創造性が生まれてくるはずです。

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法学教育は必要,されど法学部は必要か?

   正義というと法学の専売特許のような感じもしますが,社会の構成員の誰もが個人の正義感というものはもっているはずです。正義感というと,社会的弱者のために立ち上がることといった話が想起されますが,これはむしろ勇気などの別の「徳」としてみたほうがよく,私は社会の出来事の「公平性」を追求する姿勢が正義感だと思っています(もちろん,正義とは何か,公平とは何かというのは,法哲学の大議論なので,ここではとても論じられません)。
 たとえば,森友問題や加計問題で国民が怒っているのは,そこに不公平があると考えているからです。一方,消費税増税に意外に反発が少ないのは,みんな一律に課されるために公平だと感じているからでしょう(逆進性の問題はあるのですが)。法学というのは,それぞれの分野における特有の公平性が具体的なルールに凝縮したものといえます(労働法学は,労働者と使用者の実質的非対等性に着目し,それを是正して実質的対等性を追求するという公平性の学問です。一方で,私が同一労働同一賃金などの非正規問題に冷ややかなのは,不公平性に疑問を感じているからです)。
 しかし,公平感は,前述のように,国民の誰もがもちうるものなので,法学における公平性が,国民の多数の公平感とずれてくれば,すりあわせることも必要となります。その意味で,法学というのは,一見敷居が高そうですが,国民の誰もが自由に参入してよいものなのだと思います。
 とはいえ,国民は時には大事なことを忘れてしまうこともあるので,法学が引き継いできた歴史的知恵は,ときには上から目線であっても国民に伝えておく必要があります。そのような法学の代表が憲法でしょう。前にも書きましたが,たとえば憲法で示されている刑事手続における手続的正義というのは,国民が権力者によって恣意的に不公平に扱われないようにするための知恵であり,それは国民にきちんと認識してもらう必要があります。近視眼的な「正義感」が暴走しないようにするための知恵が,法学には含まれているのです。表現の自由や思想・良心の自由なども同様です。
 法学の勉強は,知識を詰め込むだけではつまらないものです。知識だけの教育であれば法科大学院のような職業専門学校でやれば十分です。むしろ大切のは,それぞれの法分野がなぜ成立し,そこでどのような公平性が考えられてきたのか,ということを知ることだと思います。そして社会の諸問題を,公平性の視点から解決する立場にたつ人材を養成することが法学教育のやることでしょう(もちろん効率性など非法学的視点を学ぶことができれば,もっとよいです)。
 ただ,こうした基礎的な法学教育は,必ずしも法学部がやる必要はないと思っています。法学教育は,教養教育としてやるべきなのです。義務教育でやってもいいですし,大学でやるなら教養課程(いまはこう言わないかもしれませんが)でやればいいのです。そしてそれ以上の専門的なことは,法科大学院や研究者用の大学院でやればよいのです。
 法学部は社会のニーズに合っていないのではないか,他方で,法学的思考が社会に浸透していないのではないか,という問題意識からすると,法学教育を薄くても広く伝えるためにはどうすればよいかを考えるべきであり,そうすると現在の法学部という「規格」が社会に合っていないという問題にたどり着きます。法学部の教師のくせに,法学部不要論をいうのはけしからんと言われるかもしれません。反論も多いでしょうが,最近,そういうことを語る機会があったので,ここにメモとして書いておきます。

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2018年4月26日 (木)

がっかりさせる記者たち

 先日,ある知り合いから「読売新聞に出ていましたよね」と言われて驚きました。確かに取材は受けましたが,掲載前には内容を確認することになっていたからです。しかし内容確認もなく,掲載した旨の連絡もありません。もちろん掲載号も送ってきていません。テーマは副業で,1時間近く電話取材にこたえていまいた。読売新聞はとっていなかったので,大学に行って確認したところ,確かに掲載されていました。掲載されていた分量は,ほんのわずかでしたが。とにかく何も連絡がないのは,ありえない話です。抗議するエネルギーも無駄なので,今後はいっさい読売新聞の取材には応じないことにします。別に私以外にいくらでも聞く人がいるでしょうから,何も問題はないでしょう。
 日経新聞も取材を受けたけれど掲載されていないものが残っています。知らぬ間に掲載されているかもしれませんが,日経新聞は毎日みているので,見落としはないでしょう。日経新聞は,私にとってイエローカードです。次に何かあれば取材拒否対象にします。NHKは,これまでの対応がひどすぎたので,取材拒否にしていましたが,あるときのディレクターの対応が良かったので,レッドからイエローに戻しました。でも警戒心は持ち続けています。
 朝日新聞はかつて横柄な記者に不快感をもったことがあったのですが,その後,澤路さんや村井さんのようなきちんとした対応をして下さる記者にあって印象が変わりました。毎日新聞も,テレビで一緒になった阿部周一さんに好印象をもちました。
 せっかく私にたどりついて質問をしにきているのだから,忙しくてもできるだけ丁寧に答えようというのが私の姿勢ですが,マナーの悪い記者には厳しい対応をしていきます(マナーといっても私が求めているのは一つだけで,それは取材後の事後報告です)。巨大なメディアにとっては,私などは虫けらのようなものでしょうが,一寸の虫にも五分の魂です。個人の資質が大きくかかわっているのはわかっていますが,会社の看板で取材を申し込んでいる以上,個人の責任は会社の責任です。
 子供のときに新聞記者という仕事にあこがれをもっていた私ですから,がっかりするような新聞記者にはできるだけ会いたくないです。

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2018年4月16日 (月)

新聞

 週刊労働新聞は,自分が連載をしておきながら言うのも変ですが,誰がこういう新聞を誰が読んでいるのだろうと思いながら書いていたのですが,結構,読んでいる人がおられるようで驚きです。日経新聞の経済教室と同じくらいの反応かもしれません。確かに送っていただいた掲載誌を読んでいると有益な情報が豊富で,固定客が多いのでしょうね。
 小学校6年生のときの将来になりたいものに「新聞記者」と書いていた私ですが(なぜそう書いたのか記憶にないのですが),こうやって新聞に書く機会を与えてもらっているのは,有りがたいことです。幼いころの希望は,いつか実現することもあるということでしょう(このことは前にも書いたような気がします)。
 ところで,最近,若い人は新聞を読まなくなっていて,Yahoo ニュース,Live door ニュースなどで情報を得ているだけのようです。新聞くらい読まなければダメだよ,と小言も言いたくなるのですが,でも新聞もたいしたことを書いているわけではないので,あまり強く言うことはできません。
 実は私も紙媒体の新聞は購読していません。日経と毎日と朝日はネットかスマホで読んでいます。実はYahooニュースも,スマホやPCでみています(アプリを入れています)。スポーツ系は,PCでニッカンをときどきみて,阪神が勝ったときはデイリーもしっかりみるという感じです。ほんのときたま出張したときに,ホテルで紙媒体の新聞を届けてもらうと新鮮な感じもしますが,いまさら紙の新聞を購読する状況には戻れないですね。
 さて,週刊労働新聞の話にもどると,4月16日号は,「テレワークを普及させるために」です。前に予告したように,前回に続いてテレワークの話題です。テレワークとしつこく言い出して,もうかなりになりますが,世の中はようやく変わりつつあるようです。積極的にテレワークをする人はまだ少ないようですが,たとえば,奥さんに今日はママ友とランチにでかけるから,子供の面倒をみてと言われたら,在宅勤務にして子供をみる,というような若い夫婦が出てきているようです。こういうフレキシブルな勤務を可能とする会社が増えてきて,それを実際に活用する人が増えてくれば,もっとテレワークは世間に認知されるかもしれません。おそらく一番の問題は,夫が在宅勤務となり家にずっといるようになると,それをいやがる奥さんがかなりいるのではないか(「昼ご飯まで作るのは面倒!」),ということです。
 テレワークの普及の鍵となるのは,良好な夫婦関係かもしれませんね(自宅にいてもランチはデリバリーなんていうニーズは,かなりあるのではないでしょうか)。

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2018年4月 6日 (金)

年度末に駆け込み?

 JILPTの「メールマガジン労働情報」は,いつも非常に役立っていて,助かっています。神戸にいると,行政の動きの最新情報がなかなか入ってこないのですが,このメルマガのおかげで最新情報に疎い私もなんとか世間の動きについていけています(JILPTの宣伝的な部分は不要ですが)。時々さぼって読んでいないこともあるのですが,そうすると,たちまち行政の動きから遅れてしまいます。
 今日,届いたのをみると,3月30日に,厚生労働省が「職場のパワーハラスメント防止対策についての検討会」報告書(これは前にコメントしましたね)と「年齢にかかわりない転職・再就職者の受入れ促進のための指針」を出したことが書かれていました。後者は,私も委員の末席にいた会議に関係しているもののような気もします(勘違いだったらすみません)。でも,とくに連絡がなかったので,関係していないのかもしれません(もともと,その会議には,私はほとんど何も貢献していないので,関係しているなどといえたものではありませんし)。そのほか,「雇用類似の働き方に関する検討会」の報告書も出ていましたね。こちらはずっと気になっていたものですが,コメントが難しいです。
 それはともかく,役所関係のこの種のものは,とくに受託事業のものについては,年度末に仕上げるということのようです。これはなんとかならないでしょうかね。3月末から4月にかけて,いろんな行政系の文書が出てくると,追いつくのが大変です。私たちが,読まなくていいと思っているわけではないでしょう。予算の関係なのでしょうが,期日を決めてやるのは,締切があってよいかもしれませんが,拙速となる危険性も大です。こういう習慣は断ち切ったほうがいいです。それと4月に異動,7月に異動というのも,継続するプロジェクトの場合の担当者についてはやめたほうがいいです。一つのプロジェクトの間は異動なしにしてもらいたいものです。自分を口説いた彼女がいるからと思って参加したら,別の女が出てきたというのでは困ります。前にも同じような愚痴を書いたかもしれませんが……。
 

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2018年4月 4日 (水)

県の個性

   滋賀県の現在のイメージは「禁煙」県であり,それが見事に結果を出して,日本一の長寿県となりました。実に素晴らしいことですし,大の嫌煙家の私には,うらやましいです。兵庫県も見習って,「受動喫煙ゼロのお店ステッカー」というのを作ってほしいですね。はじめていくような店は,ネットで調べて禁煙かどうか確認するのですが,その手間を省くことができて助かります。
 県の個性は何かが問われている時代において,滋賀県は実によいところに着目しました。徳島県のように,情報通信関連産業に力をいれて,テレワーク先進県となったところもあります。これらの県の知事は,発信力も高いです。
 では兵庫県の個性は何でしょうか。兵庫には五国と呼ばれる摂津・播磨・但馬・丹波・淡路があり,それぞれ独自の文化をもっています。摂津には,神戸港のある県庁所在地の神戸だけでなく,芦屋,宝塚など日本中に知られた都市があり,衣食住のいずれも日本の最高クオリティを誇っています。そのほかにも,有馬温泉,西宮戎など歴史的な文化遺産もあります。播磨は,世界文化遺産に登録されている姫路城があり,最近では将棋で有名な加古川や赤穂浪士で有名な赤穂もあります。日本海に面している但馬には,世界的に有名な「但馬牛」がありますし,城崎温泉も有名でしょう。丹波は,やや地味かもしれませんが,「黒豆」は兵庫県の代表的な農産物の一つです。淡路は,誰もが知っている日本で最大の島ですが,歴史的にも,神話で最初に創られた島が淡路島であり,日本の原点ともいえます。
 これだけの歴史,文化,グルメ,観光の資産をもっている兵庫県です。問題は,この五国の個性をどう統合して,兵庫県らしさを打ち出すかです。若い人材がなかなか兵庫県を出ると帰ってこないと言われていますが,若者にもっと強くアピールするような県作りが,いま求められているのです。とはいえ,おじさんやおばさんが,どんなに頑張っても良いアイデアは浮かんでこないでしょう。できるだけ若い人を登用して,その柔軟な発想で大胆な県作りをしてもらいたいものです。

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2018年4月 1日 (日)

これは1発レッドカード

 私は自分自身が清く正しくというようなタイプではないし,正義の味方ヅラができるような人間ではないことも自覚しているので,他人の失言的な発言を批判することは気が進まないのですが,今回の件については,きちんと発言をしておかなければ,このブログをやっている意味がないように思えたので,あえて書きます。 
 日本経済新聞の3月31日の夕刊に,次のような記事が出ていました。
 「東京労働局の○○局長は30日の定例記者会見で,マスコミ各社の記者に『何なら皆さんの会社に行って,是正勧告してもいいんだけど』と脅しとも取れる発言をした。局長は直後に発言について謝罪した。」(○○は筆者)
 野村不動産に対する裁量労働制の違法適用についての特別指導のあり方が問題となっているのですが,それを追及するマスコミに対して恫喝的な発言をしたようです。その恫喝は,労働局に与えられている権力の行使をちらつかせたものでした。これが事実であれば,1発レッドカードでしょう。
 国民と権力との間には常に緊張関係があります。行政が強大な権力をちらつかせて,国民を萎縮させるのは,独裁国家にはよくあることです。民主主義国家で自由な政治的言論が保障されていて,なかでも国民の知る権利に重要な意味が与えられている戦後憲法体制の下で,行政がマスコミを恫喝するというようなことは,絶対にあってはならないことです。
 そもそも,労働局(その下にある労働基準監督署)になぜ強力な権力が与えられているのでしょうか。労働者の保護のために制定されている労働基準法等の労働保護法規の実効性を担保するため,行政による監督に強い役割が与えられているのです。その権力の矛先は,通常は,労働法の遵守義務がある使用者に対してです。弱い立場にある労働者を守るために,行政がいわば正義の味方として,使用者に対して権力的作用を行使することが特別に認められているのです。しかし,それでも,労働法は私人の間の関係を規律するものであることを考慮すると,労働法違反に罰則を課したり,臨検などの強制的な権限を行政に与えることには,立法論としては疑義がありうるところです。監督行政機関のもつ権力というのは,それほどデリケートなものです。労働基準法,労働安全衛生法などでは,労働者の基本的な権利を守るための必要悪として,私人である使用者に対する権力の行使が特別に認められているという意味を権力をもつ者はよく理解しておく必要があります。最近,労働局が労働法の出前授業をやるという話を聞きますが,まず教育を受けるべきは,権力をもつ者のほうでしょう。
 今回の労働局長の発言は,たとえば国税庁長官がマスコミに追及されたとき,これ以上何か言ったら税務調査に入るぞ,というのと同じようなものです。あるいは警察の不祥事を追及すると,逮捕するぞというのと同じともいえます(ちなみに労働基準監督官は,司法警察官の職務を行うことができる[労働基準法102条]ので,逮捕権などもあるのです)。
 この局長は後で謝罪していますが,それは意味がありません。最初のような発言をすること自体が問題なのです。今後の厚生労働省の労働政策に支障が出てきます。労働政策の立案において,行政監督によるエンフォースメントは,権力濫用の危険があるので,できるだけ行政監督はさせないほうがよいという議論にもなりかねません。労働基準監督官をはじめ多くの現場の職員(そのなかには私のゼミ生もいます)は,まじめに働いているのです。彼ら,彼女らの名誉のためにも,今回のことは放置できません。信頼回復のために何をしたらよいか,厚生労働省は早急に考え,対応を講じるべきです。

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2018年3月23日 (金)

Facebook問題に思う-同意とは何か-

 私が何か執筆する際にはネットからの情報を活用することは不可避です。その際にはGoogle検索を出発点とすることが多いのですが,これは無料です。しかし,代償なしにサービスを提供してくれるような甘い企業はありません。私たちは個人情報を提供し,そのデータが企業によって活用されるという代償を払っているわけです。Facebookの今回の問題も,十分に想定内のことでしょう。
  ただここで気になるのは,Facebookが,情報の外部提供に関して利用者に同意を求めていたという点です。問題は二つあります。
 まず利用者側が,同意なんてよく考えずにやっているから,後から「同意していただろう」と言われても困るというのは,どうかという点です。確かに同意の条件はわかりにくく,それをきちんと理解するのは,一般の利用者にとって大変なことかもしれません。約款は合理的な内容となっていると信じ込んで,しっかり確認しない人も多いでしょう。ただここに落とし穴があるのです。日本の企業のように役所が監督しているところならともかく,そういう規制から外れている企業の約款は,どこまで信用できるでしょうか。
 ところで日本の消費者契約法3条は,第1項で,「事業者は,消費者契約の条項を定めるに当たっては,消費者の権利義務その他の消費者契約の内容が消費者にとって明確かつ平易なものになるよう配慮するとともに,消費者契約の締結について勧誘をするに際しては,消費者の理解を深めるために,消費者の権利義務その他の消費者契約の内容についての必要な情報を提供するよう努めなければならない」としています。「明確かつ平易なものになるよう配慮」というのは,企業対一般市民の契約すべてにあてはめるべきものでしょう。
 他方で,同条2項は,「消費者は,消費者契約を締結するに際しては,事業者から提供された情報を活用し,消費者の権利義務その他の消費者契約の内容について理解するよう努めるものとする」と規定しています。消費者のほうにも契約内容の理解に向けた努力義務があるということです。契約内容を理解するよう努めるという行動は,一般市民にはかなりハードルの高いものなのですが,これからの社会では,企業のやることを信用せず,一人ひとりがリーガルなことについても自衛していくことが必要でしょう。
 この点と関係して,問題の二つ目は,同意の有効要件について,もう少しきちんとした議論が必要ということです。個人の判断に限界があるとすれば,そこに法が介入しなければなりません。
 たとえば日本の個人情報保護法は,情報の取得や利用について,「本人の同意」を得ることを重視していますが,「本人の同意」がどのような場合に有効となるかの要件は示していません(私の見落としがなければですが)。民法の一般法理にまかされているのでしょう(なお定型約款については,改正民法では548条の2以下に規定があり,契約内容への組み入れ合意があれば,個別の条項に合意したものとみなされますが,利用者の同意の要件については特に定められていません)。しかし,労働法的にいうと,同意はそれがあるだけではダメで,さらに要件を課す必要があるという議論が普通です。たとえば,労働条件の不利益変更の同意をめぐってはかなり議論があり,私もそれに関する論文を書いています(「労働契約における対等性の条件-私的自治と労働者保護」『西谷敏先生古稀記念 労働法と現代法の理論(上)』日本評論社415-432頁(2013年))。医療における「インフォームド・コンセント」の議論とも共通します。一般市民に不利益が及びかねない同意については,労働法の議論もふまえて,アカデミックに検討されていく必要があるでしょう(自由意思とは何かといった哲学的な議論にもつながっていく難問ですが)。
 ところで,この5月に発効するEUのGDPR(一般データ保護規則)でも,やはり個人データの利活用について,対象者個人(subject)の同意(consent)が重視されています。その同意については,前文32項で説明があります。長いので訳しませんが,平易な英語なので意味はわかると思います。
 Consent should be given by a clear affirmative act establishing a freely given, specific, informed and unambiguous indication of the data subject's agreement to the processing of personal data relating to him or her, such as by a written statement, including by electronic means, or an oral statement. This could include ticking a box when visiting an internet website, choosing technical settings for information society services or another statement or conduct which clearly indicates in this context the data subject's acceptance of the proposed processing of his or her personal data. Silence, pre-ticked boxes or inactivity should not therefore constitute consent. Consent should cover all processing activities carried out for the same purpose or purposes. When the processing has multiple purposes, consent should be given for all of them. If the data subject's consent is to be given following a request by electronic means, the request must be clear, concise and not unnecessarily disruptive to the use of the service for which it is provided.

  デフォルトを「同意」に設定することは許されないのは当然として,全般的に形式的な要件が中心となっています。それほど厳しい要件規制はないようにみえます。日本だと,同意について,もっと有効要件を制限していこうとする議論が学者の中からは出てきそうです。ただそれをやりすぎると訴訟が頻発してたいへんなことになるでしょう(もしそうするなら,別途に苦情処理手続が必要でしょう)。私自身は外形上から判断しやすい手続的要件を重視する立場です。対面交渉ではないネットの場合における手続要件は,情報提供に加えて,契約内容の明確性・平易性がとりわけ重要だと考えています(+不明な点についてのチャットボットの設置など)が,そこをクリアしていれば,あとは個人の自助努力(同意をするかについて自分でしっかり判断する)にゆだねざるをえないのではないかと思っています。EUの方向性もおそらくそういうものなのではないかと思います。

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