日記・コラム・つぶやき

2017年4月21日 (金)

中窪裕也・野田進『労働法の世界(第12版)』

 中窪裕也・野田進『労働法の世界(第12版)』(有斐閣)をいただきました。いつも,どうもありがとうございます。ついこの前にいただいたばかりだと思っていましたが,もう2年経過していたのですね。
 まずはコラムに目が行きました。
 48頁のコラムは,「フランスの労働法改革」というタイトルです。季刊労働法の最新号(256号)でも,野田さんが大学院生と執筆されていたので,このコラムも野田さんの執筆でしょう。フランスの改革は,規範のヒエラルヒーを逆転させ,現場に近いところの合意を優先させようとする試みのようであり,まさに分権型規制です(条文のあるHPを開きましたが,あまりに大部なので読むのは諦めました)。
 日本の解雇や労働時間などについて,私は分権型規制をすべきと述べてきています(中央経済社の『解雇改革』,『労働時間制度改革』)が,これについては批判的な意見もあります。野田さんも,フランスの動向について「危うさ」を指摘されています。
 そのとおり危うさはあるのです。ただ,この危うさを乗り越えなければ未来がないと思うのですが,どうでしょうか。
 分権型規制は,広義の労働条件の不利益変更の問題でもあります。そこには,個別レベルにおける合意の問題だけでなく,規範の階層構造論からみた労働条件不利益変更の扱い方もあるのです(拙著の『労働条件変更法理の再構成』(有斐閣)の比較法の部分は,規範の階層構造論とも関わっていました)。フランスの動向がどうかはさておき,分権型を実質化するためにも,労働者代表法制のあり方の根本的な議論が必要でしょう(私は従業員代表の立法化に反対の立場ですが,濱口桂一郎さんは,労働判例1147号の遊筆で,非正社員の組織化という観点から従業員代表法制に賛成していました。非正社員の労働組合の組織化については,ビジネスガイドの「キーワードからみた労働法」の次号では,オリエンタルランドの最近の事例を紹介しながら,その難しさについて論じています。だからといって,従業員代表法制の導入ということにはならないのですが)。
 86頁のコラムは,「大学教員の労働契約と解雇」というタイトルです。どきっとするものです。私もジュリストの連載「労働法なう。」で,「大学教員の辞めさせ方」というものを書いたことがありました(1476号)が,こちらのコラムは,大学教員の雇用保障に肯定的な考え方です。学問の自由,優秀な人材の育成という公的要素が根拠とされています。人材育成という点をあまり強調すると,人材育成に成果を出していない教員は解雇してよいという話になりかねないので,むしろ根拠とすべきなのは学問の自由(憲法23条)だと思います。私立大学であっても,大学教員の学問の自由は保障されていて,ある種の私人間効力があると解すべきでしょう。その意味で,かりに労働契約法16条がなくても,大学教員の解雇は,制限されるべきなのだと思います(解雇自由の国のアメリカも,おそらく同様ではないでしょうか)。
 他方,これからの大学は,研究専従教員と教育専従教員を区別していくようになるかもしれません。大学の大衆化により,教育には中学や高校の先生のような有資格者並みのスキルが必要となると同時に,研究はいっそう高度化していくので,教育負担を重く抱えながら研究することが難しくなっていくことが予想されるからです。もしこのような教員の区分がされるとすると,学問の自由が保障される研究専従教員とそうでない教育専従教員との間で雇用保障の程度が違うということはありうるかもしれません。
 ICTの発達により,高度専門教育は,一部の研究専従教員によってオンラインで発信されるようになり(これにより世界中の優秀な研究者の講義を聴くことができるようになる),教育専従教員は学生に対するチューターや補習に従事するという分業も起きていくでしょう。
 大学教員の雇用保障も大切ですが,今後の大きな大学改革のうねりの中で,教員はいかにして自力で生き残るか(研究で勝負するか,教育スキルを磨いて生き残るかなど)を考えることもまた必要です。コラムで「教員がそれに甘えてはならないのは当然である」と釘を刺していたのは,上に述べたような意味で賛成できるものです。

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2017年4月20日 (木)

リーガルマインド

   何かとトラブルが伝えられるユナイテッド航空ですが,一昨日の夏目三久が司会する『あさチャン!』で,障害のある94歳の女性(オーストラリア人。顔の感じからすると白人ではありません)をビジネスクラスからエコノミークラスに移動させたというニュースが採りあげられていました。この女性はビジネスクラスのチケットをもっていたのですが,同行していた孫はエコミークラスにいて,介助のためにビジネスクラスにときどき行って祖母の世話をすることを許してもらおうと思っていたみたいです。行きの便は問題がなかったのですが,帰りの便では,CAが,孫がエコミークラスとビジネスクラスとの間を行ったり来たりすることはできないといい,孫がビジネスクラスの料金を払って移動するか,女性のほうをエコミークラスに移動させるかを選択せよと言われて,結局,後者となったようです。女性にとっては人生の最後の旅になるかもしれないということで,身体のことも考えて,孫たちがお金を集めてビジネスクラスのチケットを買ったのに,なんてひどいことをするCAだということで,番組ではコメンテータも含め,完全にユナイテッドが悪者扱いされていました。
 しかし,このケースに関しては,ユナイテッド側も十分反論ができそうです。エコミークラスの人が,いくら家族がビジネスクラスにいるとしても,そこに出入りすることが禁じられるのは仕方ないでしょう。一方,孫の女性は,それならCAが介助をしてほしいと申し出たそうですが,一般的な介助であればともかく,それ以上のことであればCAの業務ではないでしょう。介助などのために付き添いが必要な場合には,同伴しなければならないというのが,航空会社のルールでしょう。そうなると,ユナイテッドのCAの取った対応は,それほど問題はなかったのでは,という気もしてきます。とくにビジネスクラスの乗客からすると,同伴者がやるべき介助をCAにさせることによって,自分たちへのサービスが低下する可能性があるので,納得できないという人もいるかもしれません。
 ただもし自分が,この女性の家族の立場にあったら怒り心頭に発するでしょう。行きは良かったのに,なぜ帰りはダメかと言いたいこともわかります。ほんとうは行きもダメだったのでしょうが,CAがちょっとサービスしたのでしょう。そこで帰りも同じと期待したのですが,帰りはルールを厳格に適用するCAにぶちあたってしまったのでしょう。
 どちらに非があったのか,ほんとうのところはわかりません(ちなみに席を移動した新婚カップルやダブルブッキングとなった客を引きずり下ろしたなどのは,やり方には問題があったのでしょうが,テロ対策だった可能性もあります)。ただ,ここで問題にしたいのは,テレビが,可愛そうな乗客と極悪のユナイテッドという単純な図式でとらえ,乗客の立場だけからみた報道をしていたことです。障害者で,高齢者で,おそらく人種的マイノリティとなると,それだけで同情されるべきカテゴリーと推定されてしまいそうですが,そういう思い込みが真実を見誤ることはないか,ということです。   どんなことでも背景をみていけば,双方にそれなりの言い分があると考えるのが法律家です。裁判というのは,そういう発想によって成り立っています。感情論に流されることを避け,まずは逆の立場の人の意見を聞くという手続をふまなければならないというのが,リーガル・マインドなのです(経済学者なら,まずはデータを見ようと言うでしょうかね)。

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2017年4月19日 (水)

今朝の日経新聞から

  今朝の日本経済新聞で,「DeNA元会長のVB,インドの学生とAI開発」という見出しの記事が目に止まりました。DeNA元会長の春田真氏が2016年2月に設立したエクサインテリジェンスという会社が,AI開発について日本では人材が足りないので,インドから人材を調達しようとするという内容です。
 AI時代においては,AIを活用する分野で働くか,AIが苦手な分野で働くかが勝ち組(というか,生き残り組)に入るために必要となるのですが,AIを活用する分野では,すでに人材不足が起きているのです。日本の大学生の多くは,残念ながら,これからなくなっていく衰退分野で働こうとしているのですが,AIを活用する分野のほうは超成長分野です。教育,進路指導などにおいて,このことを真剣に考えていかなければならないでしょう。
 上記の記事は,グローバル化の深化ということも考えさせられます。日本企業は,できれば日本人を採用したいと仮に考えていたとしても,適当な人材がいなければ,世界から優秀な人材をかきあつめようとするのです。技術系の仕事だと,言語の壁は大きくありませんし,ましてやインド人は英語が上手なので(訛が強いですが),他の言語を使う人よりも日本人にとってコミュニケーションをとりやすいでしょう。
 逆に日本人のなかに,どこまで世界の企業からスカウトされるような人がいるかです。人材のグローバル化は,外国からの「輸入」だけでなく,外国への「輸出」もともなっていかなければならないでしょう。最近の日本の大学は,グローバル化を謳うところが増えていますが,ここでもやはり「輸入」超過です。日本の学部学生を,真の意味で「輸出」可能な人材にするためには,ちょっと数ヶ月留学に行かせたからといって十分とせずに,より戦略的に,どのような分野で国際競争力をもつ人材を育成するかを考えていく必要があると思います。

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2017年4月17日 (月)

多文化主義と国際都市

 前にこのブログで日本経済新聞の朝刊のオピニオン欄は充実していると褒めたばかりなのですが,今日のオピニオンはあまり良くなかったですね。イギリスはBrexitなどで孤立化を進めているようだが,多文化主義の先進国であり,日本企業もイギリスの本質を見誤らず,イギリスとの付き合い方を考えた方がよい,という趣旨のメッセージが込められていました。それは全然問題ないのですが,冒頭で,日本では受付嬢が多いがロンドンでは男性の受付もいるといったところから話が始まり,イギリスのほうがあたかも平等が進んでいて,多文化主義もそれとつながっているという論調のようにも読めます。こういう余計なことが書かれているので素直にこの記事を読むことができなかったですね。
 イギリスが多文化主義といっても,みんながイギリスの言語である英語を話すので,自国語を話す者に寛大な姿勢をとるのは当たり前です。イギリスにかぎらず,どの国でも,自国語を話してくれる外国人には,もちろん程度の差はありますけれども,親切なものです(フランスは少し違うかもしれませんが)。そもそも英語という辺境の国の言語が世界中の人によって話されるようになったのは,植民地支配の影響です。イギリスが世界を遠慮なく軍事的に征服してきたために,たとえば高い文明を誇ってきたインド人も英語を話さざるを得なくなったのです。つまりイギリスの多文化主義というのは,侵略の歴史と密接に関係しているのです(イギリスのほうは,途上国の発展に貢献したというのでしょうが)。いろんな国にちょっかいを出して植民地化していた以上,それらの国から来る人たちなど移民に対して寛大になるのは当然のことといえます。現在のロンドン市長は,両親が旧植民地パキスタンからの移民です。これを多文化主義の象徴と,単純に評価する気にはなりません(もちろん,移民の子孫が,市長になれないよりも,なれたほうがいいのですが)。いずれにせよ,こうした侵略の歴史が,今日においても,イギリスの経済の強みと関係しているとなると,非常に複雑な気持ちがします。
 ロンドンにはもう長い間行っていませんが,かつてイタリアのミラノからパリ経由でロンドンに行ったとき,たしかにロンドンは,ミラノよりもパリよりも都会であるという印象を受けました。いろんな国の人がいて,それだけ外国人にとって(物価は高いものの)文化的には溶け込みやすく,住みやすいところだろうなと思いました。そしてそのことがロンドンの大きな魅力にもなっていました。真の国際都市というのはこういうものなのかもしれません。だから,ロンドンから帰ってきた日本人が,日本はとても視野の狭い遅れた国であるという印象を持つのも理解できないわけではありません。
 しかし尺度を変えると,国際都市になることが,ただちに良いといえるかには留保が必要です。都市の価値は,ビジネスだけではないからです。同じように外国人があふれているイタリアのローマでは,ロンドンのようにみんなが英語を話すというような状況ではありません。ローマにいても,イタリア語を話すことは求められません。ただイタリア語を話さない外国人は,しょせんよそ者であり,ロンドンほどビジネス環境はよくないでしょうが,同調圧力はないのです。グローバル化の波に媚びず,それでも外国人を文化的に魅了するという点に,ローマの奥深さがあります。ここに侵略の歴史とは無縁の真の国際都市の姿があるように思えます(もちろん,イタリアもアフリカの一部の国を侵略した歴史がありますが,イギリスとは比べものになりません)。
 ローマでは,受付はおそらく女性でしょうね。

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2017年4月11日 (火)

AIと雇用

 日本経済新聞が,「AIと世界」というタイトルで連載を始めたようです。その初回の今日は「今そこにある未来(1)仕事が消える日 変化に適応可能か」です。そこで扱われているテーマは,まさにAIが雇用に及ぼすインパクトです。最初にインドのIT企業のコールセンター業務で8,000人分以上の仕事が消えたという話が出てきます。コールセンター業務はAIのインパクトを受けやすいものの代表として,私も『AI時代の働き方と法-2035年の労働法を考える』(2017年,弘文堂)で例に挙げていました(25頁)。これがAIのもつ雇用の代替効果です。
 次に出てきたのが,雇用の創出効果に関する記事です。AIによって仕事を奪われたトレーダーが,新たに誕生しているフィンテック企業への転職を目指しているという記事です。技術革新は,雇用の代替と創出をうむのであって,うまく転換することができれば悲惨なことにならないし,むしろ大きな成功のチャンスを掴むことになります。
 ここまではほぼ教科書どおりの内容です。最後に出てきたのが「AIは万能ではない」として,富国生命保険で,AIに入力情報の確認をさせると,約1割のミスがありそれを人間がチェックしなければならないということでした。記者が,この情報に,どのようなニュアンスを込めているのかは,はっきりしていませんが,一見すると,これも教科書的な内容です。
 ただ読者は,AIは万能ではないから,人間にやれる仕事があると思って安心してはなりません。人間は,AIがおかすかもしれないミスの尻拭いをするだけであるという言い方もできるからです。人間が,機械が郵便番号の読み取りができない汚い字やはみ出し文字だけチェックするというのと同じで,まさに人間にやらされているのは単純労働なのです。当然,低賃金となるでしょう(上記の生命保険の確認業務が単純労働かどうかは知りませんが)。
 AIが万能ではないというのは,そのとおりです。しかし残された人間の仕事の内容がどのようなものであるのかも考えておかなければなりません。フィンテック企業への再就職を目指すようなものばかりではないでしょう。
 ところで,私が使っているクレジットカード会社で,私が以前にカードを利用したホテルから個人データが盗まれた疑いがあるという連絡がありました。この会社のクレジットカードの不正使用が発覚したのでしょう。私には実害はなかったですが,念のためということで,そのホテルでクレジットカードを利用した顧客全員に,カードの切り替えの連絡がありました。カードの不正使用の発覚は,おそらくAIによってなされたものでしょう。この分野でのAIの功績には大きなものがあります。
 もう一つ。テレビ東京(私のところではテレビ大阪)の「Newsモーニングサテライト」では,AIによる株価の動きの先読みをしています。株への投資をしていない私ですが,面白半分に予想をみています。そのうちお金が貯まったら,AIに頼りながら,投資でもしてみようかという気になりました。AIが着実に深く生活に浸透しています。

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2017年4月10日 (月)

復興大臣はなぜ激高したのか

 東日本大震災や福島第1原発事故に伴い全国に自主避難した人らへの住宅の無償提供が3月末に打ち切られたことについて,記者会見の場に立った今村雅弘復興大臣が,フリージャーナリストからの質問に,避難するか帰るかは自己責任と答弁したことや,その答弁に対する執拗な質問に対して激高したことが話題になっています。
 そこで興味深かったのは,この大臣が,記者会見は公式の場であって,論争する場ではないと発言していたことです。事前に準備があって,想定問答があるものは答えられるが,大臣の生の意見を聞くことは許されないという意味に受けとめられました。
 アメリカのトランプ大統領も,記者会見の場で,自分に不利な記事を書いていたメディアからの質問に,敵対的な態度をとったことが非難されていましたが,それとはちょっとレベルが違うような気がしました。
 今村大臣は何に怒ったのでしょうか。この記者会見では,別に今村大臣に不利な質問がなされたわけではなく,自己責任だとすることに疑問を投げかけられただけです。こういう質問は,本来なら責任大臣としては当然準備されているべきものです。敵対的な質問はかえって有り難く,それを受けて,準備されているはずの答えを公の場で堂々と発表すればいいのです。
 この大臣は,そういう答えをする準備をしていなかったのでしょう。おそらく,自主避難者に対する政策をどうするかについて,自分なりのしっかりした意見を持っていなかったのでしょう。そこで役人を呼びよせることもできず,かといって自分で答える能力もないため,怒ってその場を去ることしかできなかったのでしょう。
 野党はいつものように大臣の資質が疑わしいので罷免せよ,首相の任命責任はどうなる,と声を上げています。何かあるとすぐに罷免や辞職を求めるのはどうかと思いますが,今回のことについては,そういう要求をされても仕方ないような気もします。
 日本の大臣の多くは,専門外のポストにつけられ,官僚によって支えられているだけで,公式発言は全て官僚によって書かれたセリフどおりのものです。官僚に必要なのは,しっかり自分たちの言っていることを一言一句間違えずに発言するロボット大臣です。しっかり読んだから,立派な大臣だという,驚くべき状況です(ゼミの報告で,学生が自分で入力しているはずの文章の漢字を読むことができず,コピペをしていたことがばれたというケースがありましたが,首相が漢字を読めなかったということもありましたね)。
 これは官僚が役所を支配していることでもありますが,大臣に恩を売るという意味もあるのでしょう。もちろん役人は大臣を表面的には支えますが,心の中では完全に馬鹿にしています。
 役人作成のセリフは,実は,どの役所でもあります。私が経験している範囲でも,たとえば兵庫地方労働審議会では,会長の私にはセリフの書かれたシナリオが渡されます。私はアドリブが好きなので,そのとおりには読みません。ただ,最後の終了などについてセリフを飛ばして突然終わったりすると,役人はうろうろしてしまいます。また,かつては兵庫県労働委員会でも,調査期日における委員のセリフが書かれていました。読み方を間違えそうな漢字にはフリガナも振ってありました。これらは純粋に善意によるものでしょう。ただ,役人以外の人はバカだと思われていて,バカが恥をかかないようにという配慮なのかもしれません。もっとも,そういう準備をしてもらえるのが偉くなった証拠だと勘違いしてる人も多いのですが。
 あまりにもバカバカしい提案なのですが,公式の場で発言する人には,自分の言葉で話せる人を選びませんか。大臣にしろ,政府関係の委員にしろ,です。
 今日も日本中のいろんな役所で,役人がセリフをつくり,それを棒読みする大臣,座長,委員長がいて,タイムキーピングたすべてで,議事がつつがなく終わればよし,とする非生産的なことが行われていることでしょう。情けないことです。

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2017年4月 6日 (木)

役所との付き合い方

 少し前になりますが,4月2日の日本経済新聞の「検証・働き方改革」の内容をみると,今回の改革は,非常に情けない結果になってしまったようです。 
 昨年,私も参加した労働政策決定プロセスの改革の議論はどうなったのでしょうか。せっかく一所懸命にやり,いろいろ考えたのに,政府が働き方改革実現会議なる別ルートを作ってしまい,労政審改革はどこかに吹き飛んでしまった感じです。いま,労働政策決定プロセスは,どうなっているのでしょうか。残業をめぐる労使間の矮小な協議に,どれだけの意味があるのでしょうか。現状では,労働政策決定プロセスは無茶苦茶です。やっぱり2035年を考えたほうがいいですね。
 個人的には,昨年,厚労省のために費やした時間は,それほど多くはないものの,それでも多少は費やしたのであって,むなしさを感じています。やはり私はこういうことに関わってはいけないということを学びました。
 人生50年をすぎると,もっと「やらないこと」を増やしていかなければ,時間がもったいないです。やれることや,やったら意味がありそうなことは沢山ありそうですが,後でむなしさが残るような時間の使い方はしたくありません。もっと若いときなら,それも勉強だと思える余裕がありましたが,いまは違います。勉強するなら,もっと違うことでしたいです。
 若い人には,将来の人生の計画をすっかりもって,今を過ごせと言っているのですが,それは私くらいの年齢で残されている時間が減っていて,若干意味合いが違うとはいえ,基本的にはあてはまります。
 役所関係の仕事に無駄が多いのは,目的がはっきりしていないからです。目的がはっきりしていれば,そのための効率的な「手法」を考えていくという思考が働きます。しかし,役所の「手法」は基本的には先例踏襲で,「目的」も不明確(あるいは本来とは違う省益や,さらに政治的な目的が背後にある)ということであり,そんなところに政治や行政の素人が巻き込まれれば,湯水のごとく時間が奪われ,使い捨てられるだけです。
 役所に時間をとられないようにすることが,普通の国民にとっては大切です。大学関係者からすれば,文科省に時間をとられないすることが大切です(同じ日の社説の「元凶は文科省の大学支配だ」に溜飲を下げた大学関係者も多かったでしょうね)。

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2017年4月 3日 (月)

新入社員への言葉

  今朝の日本経済新聞のオピニオンで論説委員長が執筆した,「新入社員諸君,就職おめでとう」という言葉で始まった「日本型雇用の限界 打破を」という論考は,残念な内容でしたね。
 最初に日本型雇用のことで,JILPTの濱口桂一郎さんの本(『若者と雇用)』にふれて,いつものメンバーシップ型とジョブ型の対比で,日本は前者であり,欧米と違うとしたうえで,それが三つの困難に直面しているとします。その第1がグローバル化への対応です。そこで年次関係なしに給料が決める日立製作所の例を出し,これがジョブ型だと紹介しています。
 グレード制の賃金は増えていますが,これだけでは日本型からの脱却には不十分です。運用が年功型であれば,やはり年次が関係してきますから。また,日立の例がどうであるか知りませんが,一般にグレード制は,ジョブに賃金が直接対応しているわけではないので,ジョブ型とはいえません(これはジョブ型の定義によりますが)。多くの人が誤解しているのですが,年功型賃金でなければジョブ型だということではありません。労働者の従事する職務に対応して賃金が決まっているのが真のジョブ型です。
 その後に,日産のリーダー作りの話が登場します。グローバルな舞台で,若いときから豊富な経験を積ませ,能力に応じて早めに昇進させていくということでしょう。これはたしかに日本型雇用システムとは違うところです。これを可能としているのが,グレード制の賃金体系だと話がつながっていればいいのですが,一方は日立で,一方は日産なので,話がつながっているかどうかはっきりせず,ツギハギ感があります(ちなみに,リーダー作りについては,今日の日経新聞の別のところで,経産省が経営幹部育成指針をまとめたという記事が出ていました。神戸大の経営のMBAでも経営幹部育成をやっています。私は,リーダー作りの要諦は,早い選抜によるエリート教育だと考えていますが,これはいつか書く機会があるでしょう)。
 第2はワーク・ライフ・バランスへの対応で,最近ではお決まりの第2電通事件への言及のあと,鶴光太郎さんのジョブ型社員をつくるべきとの主張を引用しています。ただ,ジョブ型社員を,残業時間や勤務地を限定した限定正社員とする定義をし,そのあとに,そういう社員をつくらなければ「若手に雑務をさせる文化が消えない」としています。ジョブは職務で,ジョブ型は職務限定だから,たしかにそうなると若手に雑務をさせることはなくなるかもしれませんが,それと「残業時間」や「勤務地」を限定した限定正社員をつくることとは別のことです。労働時間,勤務地を限定していれば,自動的に職務も限定されるということなのでしょうか。
 「ジョブ型」というのが,どうもよく定義されないまま,一人歩きをしていて,意味がわかりにくい内容になっているような気がします。
 第3は,非正(規)社員の増加です。ここからは新入社員に呼びかける話ではなくなっています。善解すると,これから政府は非正社員の対策に力を入れるから,正社員の君たちも安心できないよ,ということかもしれませんが……。
 以上は細かいことで,キーワードとエピソードとインタビューを適当に連ねて書いた記事という程度のことですが,より深刻なのは,最後の締めの言葉です。作家の山口瞳のメッセージが引用されています。「会社勤めで何がものを言うかと問われるとき,僕は,いま,少しも逡巡(しゅんじゅん)することなく『それは誠意です』と答えている」。
 タイトルからすると高度経済成長期のモデルを打破せよという話になるのかと思っていると,最後の部分は,精神的なものは,当時のものを維持せよということのようです。支離滅裂ではないでしょうか。
 誠意が大切なのは,人の生き方として当然です。ただ,それ以上に会社勤めをすることに誠意を求めることこそ「社畜」を生み出す元凶なのです。私が新入社員に送る言葉は,この論考を読むな,ということです。私はこういう大人がいるから気をつけろ,という趣旨で,『君の働き方に未来はあるか』と,その続編の『勤勉は美徳か』(いずれも光文社新書)を書いたのです。ぜひ,こちらの本を読んでもらいたいです。できれば論説委員長さんにも。働くうえでの意識が変わります。

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2017年3月29日 (水)

経営者の率直すぎる意見は迷惑だ!

 昨日の日本経済新聞の「私見卓見」には,驚きました。T病院協会会長なる人の,「医療への残業規制,拙速は危ない」は,こんなことを書いてよいのかと心配になるような内容でした。この方は,残業時間の上限が年間720時間,繁忙月100時間未満とされる規制に反対されています。現在でも年間の限度時間は360時間,1ヶ月で45時間であることは,ご存じなのでしょうか。この限度は,特別の事情がある場合で,年間の半分に限定して,特別条項付きの三六協定があってはじめて,超えることができます。例外中の例外なので,720時間や100時間に反対するということは,いまいったいどれだけ働かせているのか,ということになります。
 実は,この方は,その経営される病院の当直業務がすべて時間外業務に認定されると,月の残業時間が62時間となり,月8回の当直だと月間の残業時間が124時間になると言われています。もちろん当直業務は,これまでの判例に照らすと,労働時間に認定され,時間外労働にカウントされます。「時間外業務(残業)に認定されると」という仮定的な書きぶりからは,ひょっとしたら当直の一部の時間は割増賃金の対象にしていない可能性もあるのではないかという疑いもあります。
 いずれにせよ恒常的に時間外労働が月60時間を超えているとなると,これは特別条項を付けることができないケースです。いったいどんな労働時間管理がなされているのでしょうか。
 「勤務医には……自律的裁量を生かすべき体系を適用すべきだ」ということも言っておられます。専門業務型裁量労働制が適用されるべきという主張かもしれませんが,病院が医師を指揮命令下において拘束的に働かせるというのが通常であれば,立法論としても裁量労働制の対象とすべきではないでしょうし,私が主張している日本型ホワイトカラー・エグゼンプションの対象にもすべきではないでしょう(医師のなかでも研究職は別です)。
 おそらくこの方は労働時間の法制度の内容をご存じないのでしょう。そして,労働時間が罰則付きで規制されることもご存じないから,あけすけに実状を書いてしまったのでしょう。
 労働法に対する敬意を払わず,経営者の論理を振りかざすようでは,その他の法律についてのコンプライアンスもどうなっているのだろうかと心配になります。労働時間制度改革は絶対的に必要であり,医師もその働き方によっては,その範囲に含めることはありえるのですが,こういう余計な発言が社会的に地位のある方からなされると,真の改革論に水を差すことであり,きわめて迷惑なのです。
 医師は特別だという傲慢な感じもうかがえます。病院の勤務がたいへんなことはわかっています。それに現在の労働時間規制は窮屈なものなのでしょう。しかし,これを今回の残業規制との関係で述べたのは大失敗です。言うとするならば,現行の規制への批判として言うべきだったのです。現行の規制でも,この方の病院は,違法のオンパレードであった可能性があります。
 人手を増やせばよいという反論に対して,医師の人材育成には時間がかかるという再反論をされていますが,それは現行規制の下でもずっと前からある問題であり,いまここで持ち出すのはやぶ蛇です。むしろ遵法精神をもって対策をとるという努力をしてこなかったのではないか,という批判は避けられないでしょう。    
 ほんとうに改革を主張するのなら,せめて現行法について十分に理解したうえで,いまの自分たちは違法なことをしているけれど,これはやむを得ないことなのだと言うところから出発してもらう必要があります。そして,自分たちの業種は,規制に適しない業種なのだということをしっかり説明するという地道で説得力のある意見表明をしなければ,まともな人は耳を傾けないでしょう(適用除外は,ホワイトカラー・エグゼンプションのような労働時間規制全体の適用除外,裁量労働制のような実労働時間規制からの実質的適用除外,労働基準法32条の法定労働時間の適用除外,三六協定で定める労働時間の上限である限度時間の適用除外,そして新たに導入されようとしている限度時間を超える特別条項付き三六協定の定める労働時間の上限規制の適用除外など,いろいろなレベルがあり,そのどの適用除外を主張するかによって,微妙に論拠は変わってくるでしょう)。
 適用除外の議論が出ているから,自分たちもそこに入れてくれといった話にはうんざりです。労働時間制度改革を,あれもこれもの陳情合戦でもみくちゃにすることはやめてもらいたいです。
 ひょっとしたら,この人は,私が言っているようことはすべてわかったうえで,あえてここで大声をあげたのかもしれません。しかし,それでもし政府の方針が揺らぐようなら,いっそう問題です。

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2017年3月27日 (月)

ゼミ生を送り出す

 24日は恒例の謝恩会の日でした。謝恩会は,年々,ゼミ単位で行うという性格を強めており,今年も大内ゼミのテーブルがあり,そこにゼミ生が集まって歓談しました。謝恩会が開かれたポートピアホテルの料理は,年々少しずつレベルが下がってきている気もしますが,それでもまずまずの味でした。今年は,ゼミ担当教師から学位記を授与するということで,ゼミ生一人ひとりに私から学位記を渡すことができました。その後は,ビンゴゲームをし,花束をもらい,写真を撮影するという,いつもどおりの進行でした。
 2次会は,これも恒例の,大学近くの部屋を借りての追い出しコンパでした。昨年までは3年生主催という形でやっていたのですが,今年は3年生は非常に少ないので,追いコンというより,私が主催の送別会のような形になりました。ここでも,みんなとなごやかにワインを飲みながら話をして,楽しい時間を過ごすことができました。
 そして最後に学生から,記念品をもらい,とても感激しました。この瞬間があるから,ゼミは止められないのです。
 と書いたのですが,実は,私は今年で労働法ゼミを終了することにしました。2002年以降,毎年続けてきたのですが,ついに終了です。「惜しまれながら……」かどうかはわかりませんが,何年か前から,3・4年生ゼミは教授の義務ではなくなり,開講するかどうかは教授の選択に任されていました。もちろん授業負担が減れば,他の授業科目を担当しなければならなくなるので,多くの教授は,学生との接点があり,自分の勉強にもなる3・4年生ゼミ生を選択してきました。
 今年度が最後のゼミなるかもしれないということは,学期中から学生に何度か告げていました。理由はいくつかありますが,一つは,私が考えているようなゼミができなくなったという点も大きいです。とくに前期の大事な時期に就活などでゼミ参加がままならなくなることに,私は悩んでいました。ゼミは毎回の議論の積み重ねで,毎回全員出席が原則です。かつては,それが結構守られていたのですが,数年前からなんとなく全回出席という意識が学生のなかから弱まり,就活以外でも簡単に休む学生が増えていました。
  このゼミは4年生が中心で3年生に模範を示すというスタイルでやってきたのですが,これがうまくいかなくなってきていました。そのため,ちょっとしたアクシデントで3年生が激減し,来年の新4年生が少数となることが確実である今年が,潮時だと思いました。
 最終年度の今年は,例年やっていた実務家訪問,ゼミ旅行,BBQなどのイベントはやらなかったのですが,ゼミそのものの内容としてはかなり満足しています。パワーポイントでの報告を義務付けて,学生のプレゼン能力の向上を図ること,4年生に司会をやってもらって,私はコメンテーター的な役割に徹したことにより,いっそう意見が出やすくなったことなども感じていました。ここで止めるのはもったいないですが,いつかまた再開するかもしれません。
 もちろんOB会は残ります。OBだけでも200人近くいるでしょう(そのうち連絡がとれそうなOBは半分以下かもしれませんが)。どの教員も感じることでしょうが,ゼミ生は財産です。2年間,学期中は毎週1回2~3時間議論し続け,その間に教員の影響を少なからず受けながら成長していく学生は,自分の子供のように可愛いところがあります。私の目の黒いうちは,労働法ゼミの卒業生たちが集まって懐かしく語れるような機会を毎年設けていきたいと思います。

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