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2018年5月 7日 (月)

江國香織『きらきらひかる』 

 江國香織『きらきらひかる』(新潮文庫)を読みました。ずいぶん昔の作品であり,なぜ買ったか覚えていないのですが。
 昨日,紹介した映画と同様,これも同性愛が関係しています。同性愛者である夫の睦月と,アル中の妻の笑子が結婚しました。睦月には紺という名の愛人(男性)がいます。妻はそれを最初からわかっていますが,許しています。
 夫婦間にはセックスはありませんが,互いが互いを慈しみ大事にしています。作品では,夫からみた妻,妻からみた夫が交互に描かれていきますが,二人の夫婦愛が十分に伝わってきます。
 こうした愛の世界を邪魔するのが,家であったり,世間の常識であったりするのです。睦月の両親は息子が同性愛者であることを知っていますが,跡継ぎが必要ということで,人工授精を勧めます。一方,笑子の両親は,睦月がホモであると知って激怒します。しかし,二人は別れるつもりはなく,人工授精による子をもつ気もありません。そうして最後にたどりついた方法は,思わぬものでした(読んでのお楽しみ)。
 これは純愛小説なのでしょうか。セックスがないから「純」なのでしょうか。そもそも結婚というのは,セックスが公認され,推奨される関係に入るということではないかと思います。建前はセックスは生殖ですが,本音では肉体的快楽もあります。見合い結婚であれば,愛が付着するかどうかは運次第ですが,釣書で事前にしっかり身元確認している相手と長年一緒にいると愛も深まるというのが経験上あるようです。つまり,セックスに事後的に愛情(精神的快楽)が付着してくるのが,伝統的な結婚なのです。
 一方,現代社会は,恋愛結婚が普通なので,最初からセックスに加えて愛情も付着しています。では,愛情だけの結婚がありうるのか。それが本書が問いかけたテーマなのでしょう。夫が必要とする肉体的快楽は,妻には提供できず,男の愛人にしか提供できません。もし他の生殖方法がないのなら,睦月の実家は最初から結婚を認めていなかったかもしれません。
 しかし現代は,生殖は人工的にもできるのです。睦月の両親は,結婚の目的のうち生殖さえきちんとしてくれれば,あとは好きなようにしろという立場です。ある意味での割り切りです。一方,笑子の両親は,睦月がホモであることを知らされていなかったので,この結婚は詐欺だと言って激怒します。それは感情的にはわからないではありませんが,ただ冷静に考えると,生殖が可能であっても反対するということは,あとは肉体的快楽を与えられない娘が不憫ということを親が言っているようにも聞こえてしまいます。それは娘にとっては余計なお世話となりましょう。
 生殖が人工的にコントロールされるようになると,セックスの主要な意味は肉体的な快楽のみになるかもしれません。肉体的な快楽を与えるのは,異性間によるセックスとは限りませんし,むしろそれを要しないという人もいるでしょう。そうなると結婚というものの形が変わってきても不思議ではありません。それに肉体的欲求はいつかは枯れていくものであり(おそらく),精神的な快楽のほうが持続性があり,より大切にすべきものともいえます。誰と精神的な関係を結び,そして誰と肉体的な関係を結ぶかの組み合わせは多様なものとなっていくのでしょう。本書とは逆に,男性と結婚して,女性を愛人にするなんてこともあるかもしれません。
 そうした多様性に対して,慣習や宗教,世間体や社会常識などが抵抗勢力としてのしかかってくるのでしょうが,その圧力も徐々に弱まっていくかもしれません。フランスなど外国で徐々に同性婚が認められるようになっているのは,文化的な要因以外にも,生殖技術の発達で,結婚に生殖のためにセックスが推奨される制度という位置づけが不要となってきていることと関係しているのかもしれません。
 この本を読んで,そんなことを考えていました。     ☆☆(星二つ)

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