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2018年5月

2018年5月26日 (土)

スポーツと暴力と正当行為

 アメリカンフットボールのようなフルコンタクトのスポーツはケガがつきものです。そういうスポーツをする環境で育った人たちは,少し乱暴で粗野であっても大目にみられてきたのかもしれません。大人しい性格であれば,気合い負けしてしまうのでしょう。ラグビーのニュージーランドチームの「ハカ」などをみてもわかるように,自分たちを鼓舞し相手を威嚇するくらいのデモンストレーションが必要なものでしょう。相撲の仕切りにおいて顔が紅潮してくる様子も,フルコンタクトのスポーツには気合いが大切だということを示しているのだと思います。
 しかし,これが暴力を許容することにつながってしまっては,元も子もありません。傷害事件を起こした元横綱の日馬富士が廃業に追い込まれたのも当然です。兄弟子が「無理偏に拳骨」と言われていたような時代では,もはやないのです。貴乃花親方はいろいろ言われていますが,暴力に対して厳しい態度をとり,自分の息子ともいえる弟子を守ったのは立派なことだと思っています(彼の別の弟子が暴力行為をしていたのは残念でしたが)。
 現在の日大のアメフト部の問題も,いろんな取り扱われ方をしていますが,基本的には,自分の子を攻撃対象にされた親の怒りがベースにあるのでしょう。大学のスポーツで,相手をケガさせよと命じたことが事実であれば,これは部の存続は認められるべきものではないでしょう。反社会的集団と変わりがないからです。
 スポーツのなかでも,相手とのコンタクトのあるスポーツは,行き過ぎがないように注意をしなければなりません。教育者はそこから教えていくべきでしょう。実際,どれだけの教育者が,自分たちのスポーツは,犯罪の構成要件に該当しているけれど,刑法35条の正当行為であるから,特別に違法性が阻却され,刑事免責がなされているにすぎないという意識をもっているでしょうか。刑法38条3項本文は,「法律を知らなかったとしても,そのことによって,罪を犯す意思がなかったとすることはできない」となっていることも想起すべきでしょう。知らなかったでは通らないのです(違法性の意識をめぐっては,刑法上も議論があるので,詳細はそちらの議論にゆだねます)。
 ところで,労働組合の活動は,労働法ができる前の時代は,違法行為のオンパレードでした。そもそもストライキは,労働契約上約束している義務をはたさないことなので,債務不履行ですし,使用者の業務に支障を与えるので,業務妨害罪になります。仕事以外の理由で,会社施設に乗り込んで,団体交渉を求めば,それは建造物侵入罪となるかもしれません。ビラを貼ることは器物損壊罪になるかもしれません。労働協約の締結に応じなければストライキをすると威嚇することは強要罪にあたるかもしれません。でも,こういうことを言っていれば,労働組合は争議行為その他の組合活動ができなくなります。
 だから労働組合法は,労働組合の正当な行為には刑法35条が適用されて,違法性が阻却されるとしてきたのです(1条2項)。刑法35条の典型事例は,前にも書いたようにスポーツの場合で,ボクシングは刑法35条があるから犯罪行為にならないのです(昨日の井上尚弥は強すぎましたが,彼は歴史を作るチャンピオンになるでしょう)。労働組合の活動も,それが正当なものであれば,たとえ刑法の犯罪の構成要件に該当するようなものでも,違法とはされません(いわゆる刑事免責)。
 ところで,労働組合法のこの条文には,但し書きがついています。「但し,いかなる場合においても,暴力の行使は,労働組合の正当な行為と解釈されてはならない」。当然のこととはいえ,暴力をふるってしまうと,いっさい言い訳ができないということです。
 労働組合の活動とスポーツとはもちろん違います。労働組合の活動は,肉体のフルコンタクトが前提とはなっていないので(かつては激しいピケストなどで,そういうこともありましたが),暴力は論外と言いやすいかもしれません。
 ただ,フルコンタクトのスポーツであればこそ,節度が必要だともいえます。スポーツとして認知されていれば,誰もその犯罪的性格は意識しなくなるかもしれませんが,競技者自体は忘れてはいけないことだと思います。今回の日大の加害学生の勇気ある謝罪関係それ自体は賞賛に値しますが,やったことが悪質であることに変わりはありません。スポーツ教育を根本から見直さなければなりません。
 繰り返しますが,肉体的なコンタクトのあるスポーツは,ルールに基づいているかぎりにおいて,正当な行為となるにすぎません。そこから逸脱した瞬間,たんなる野蛮行為になりさがることに注意すべきでしょう(もちろん過失だけでは刑事責任は問われないので,あまりびくびくしすぎる必要はありません)。「つぶしてこい」は,「ハカ」のような選手を鼓舞する発破のつもりかもしれませんが,スポーツ教育の場では,そもそも適切な言葉ではないでしょう。
 結局,ありきたりのことですが,ルールをよく知り,それを守ってこそのスポーツです。そういうことを教育の場で徹底的にたたき込んでもらいたいです。もちろん,ルールそのものも常に見直していく必要があるでしょう(柔道で蟹挟みを禁止したのは適切です。大相撲の張り手はみていて気持ちが良いものではないので禁止してもいいのでは)。

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2018年5月22日 (火)

鳥谷の扱い

 阪神タイガースが苦戦しています。とにかく打線がダメです。新外国人選手ロサリオも期待はずれですし,昨年活躍した中谷は2軍くらしですし,2年前の新人王の高山も打てません。梅野は肩はいいけれど打てなくて,捕手も固定できません。一度は捕手失格にしたはずの原口をまた捕手として使うという一貫性のなさも問題です。なかでも困ったものなのが鳥谷です。とにかく連続出場がかかっているので,必ず試合に出させなければなりません。代打だと調子がでないだろうということで先発させることもありますが,今期は不調で打率は1割台の前半で低迷しています。野手でこの打率ではいけません。とはいえ今期の主軸に据えるはずの大山も2割を切る打率で低迷し,絶好調であった上本がケガをするなど,鳥谷に頼りたくなる気持ちもわかるのですが,現時点のチームと本人の成績(守備力も低下しています)を考えると,鳥谷は2軍に落として,もっと若手にチャンスを与えるべきでしょう。鳥谷のこれまでの功績はわかりますが,プロ野球は実力の世界です。記録への配慮もプロ野球の楽しみの一つですが,成績をともなっていなければ意味がありません。
 アメリカでは,純粋に投げて,打って,力を出している大谷翔平選手が大活躍です。二刀流という無理なことを,実力で認めさせているところが凄いです。プロ野球は,実力で出場を勝ち取るべきところで,金本監督は決断をしなければなりません。打撃コーチに任せるという次元の話ではありません。ファンがあってのプロ野球という原点に立ち戻ってほしいです。金本監督の現役時代の末期にも,同じような不満があって,しつこくこのブログでも批判をしていました。まさか自分がそうであったから,鳥谷も同じようにしてやらないと可愛そうということではないと思いますが……。

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2018年5月21日 (月)

田村和大『筋読み』

  田村和大『筋読み』(宝島文庫)を読みました。「このミステリーがすごい」大賞の優秀賞受賞作です。
 女性モデルの宮原が生き埋めされた殺人事件で,山下という男性が出頭しました。山下の供述は当初は殺害して埋めたというものですが,後に宮原が生き埋めされて殺されたことを捜査官のミスで知ってしまい,供述を翻しました。供述の信憑性はあやしいのですが,宮原の殺害現場である彼女の自宅で採取されたDNAが山下のものと一致しました。山下の自供もあったので,起訴が決定されました。
 もっとも,警視庁捜査一課の刑事である飯綱だけはこれに異議を唱えたため,捜査から外されてしまいます。ちょうど同じ頃,ある交通事故がありました。自動車から飛び出た男が車に轢かれましたが,飛び出した車から出てきた男女につかまり,そのまま連れ去られるという奇妙な事件でした。管理官の迫口は,飯綱に対して,この事件の応援に行くよう命じました。
 車に轢かれたのは少年(ツェットと呼ばれていました)でした。ツェットは,サクラ・ウエルネスという会社の遺伝子組み換えなどの研究をしている研究所で,水野という女性研究者の治療を受けていました。警察は,この少年を病院に移送したのですが,略取されてしまいます。ツェットにはタグが埋め込まれていて,そこから居場所がわかったからです。
 そんなとき,ツェットと山下のDNAが一致したという驚くべき情報が届けられました。可能性としては,ツェットは山下のクローン人間ではないか,ということでした。
 山下を問い詰めると,山下はあっさりとこれを認めました。山下と水野は付き合っていましたが,水野は子供を産めない身体なので,宮原を代理母として,山下のクローンを妊娠させようとしていたこと,しかし水野は結局は妊娠しなかったと山下に伝えて,その後二人は別れていたこと,ところがあるとき実はクローン(ツェット)が生きていて宮原を殺していたこと,この殺人は宮原が水野に金銭の要求をしていさかいになって,ツェットが水野を守ろうとしてなされたものであること,そして水野が山下に身代わりになるよう頼んだことを自白したのです。
 これにより事件の構図は大きく変わり,山下は犯人の身代わりで,実行犯はツェットで,そこに水野が事件に大きく関わっていることになってきました。そこで警察は水野を探して,八ヶ岳の研究所に行きます。そこで,水野と研究所の所長の竹内の会話を耳にすることになります。
 というようにダラダラと書いていくと大変なので,ここで終わりにしますが,最後のほうで,次々とドンデン返しがあって,それなり楽しめました。     ☆☆☆(五つが満点。☆四つにしなかったのは,研究所の所長の竹内の悪事を暴くということにしては,仕掛けが大きすぎて無理な感じがしてしまったので。でもそう感じなかった人が多いから大賞をとったのでしょうね)

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2018年5月20日 (日)

労働法の教科書

 労働法の教科書を相次いでいただきました。どうもありがとうございました。1冊目は,野川忍『労働法』(日本評論社)です。労働法の教科書は次々出るので,もう十分ではないかと思っていましたが,いただいたこの本をパラパラとみていくと,まさに帯にもありましたように「労働法の到達点」だということを実感でき,これだったら刊行する価値があると思いました(比較法がしっかり含まれているところも,本書の特徴です)。分量も多いですが,これだけの内容のものであれば,分量が増えるのも仕方ありません。むしろ,みごとに整理して書かれていて,労働法はこれ1冊で十分というものです。おそらく現時点でどの労働法の教科書かを1冊選べと言われれば,私はこの本を推薦すると思います。
 もう1冊は道幸哲也『労働組合の基礎と活用-労働組合のワークルール-』(日本評論社)です。帯にもありますように「法的知識を身につけ,自然体で組合を作るための基礎を伝授する」ということですが,何か実践的な知恵というよりは,労働組合法の入門編です(それよりややレベルは上のもの)。随所に道幸先生の得意な「問題の整理」が箇条書きでなされていて,頭がクリアになります。何かもっと考えてみたいという人にはやや物足りないでしょうが,それはこの本の狙いではないのでしょう。
 それにしても,日本評論社は,次々と重鎮の本の単著を刊行して精力的ですね。労働法の本の市場がどれくらいのものかわかりませんが,怪しげなマニュアル本のようなものも多い中で,きちんとした研究者の本が続々と刊行されるのは,労働法の正しい発展のためにもよいことだと思います。

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2018年5月19日 (土)

藤井聡太七段

 藤井聡太六段は,竜王戦5組ランキング戦準決勝に加古川出身の船江恒平六段に勝ち,決勝進出と同時に4組昇級を決め,同時に2期連続昇級となり七段に昇段となりました。16歳の七段は史上最年少です。
 対局は,藤井六段は後手でしたが,猛烈な攻め合いとなり,後手の敵陣の2八に打った銀がよく利いて,先手のと金よりも働きました。最後は先手の攻撃をかわして,詰ましてしまいました。これで今期も5連勝と好調です。5組で優勝すれば,竜王戦挑戦への道が開かれます。これが同じようにクラスがある名人戦とは違う竜王戦の特徴で,そこを勝ち上がり続けると1期で竜王になれるという大下克上がありうるシステムとなっています。
 王位戦挑戦者決定リーグは,紅組は羽生善治竜王が4勝1敗で優勝です。谷川浩司九段は最終局で近藤誠也五段に勝ちましたが,2勝3敗で残念ながらリーグ陥落です。また頑張ってほしいです。白組は,澤田真吾六段が,せっかく前局で豊島将之八段に勝って単独チップに立ったのですが,最終局に阿久津主税八段に負けて4勝1敗で,佐々木大地四段に勝った豊島八段と星が並びプレーオフとなりました。勝ったほうが,菅井竜也王位への挑戦をかけて,羽生竜王と戦います。
 王座戦の挑戦者決定トーナメントも進行中で,谷川浩司九段は,初戦で渡辺明棋王に負けてしまいました。こちらはベスト8が決まりつつあり,渡辺棋王以外にも,菅井王位がいるし,藤井聡太新七段も残っています。中村太地王座への挑戦をかけての戦いです。
 名人戦の第3局は,羽生挑戦者が勝ち2勝1敗でリードしました。羽生竜王はすべての棋戦で勝ち残っており,タイトルを失っても依然として好調です。今日から第4局です。
 新しい棋戦の叡王戦は,高見泰地六段が3連勝で,タイトル奪取に王手となりました。金井恒太六段の調子があまりよくないようです。3局目は千日手指し直しで,将棋の内容はワンサイドになっていました。

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2018年5月18日 (金)

西城秀樹

 西城秀樹というと,私たちの世代の子供のときの大スターです。西城秀樹を嫌いという人はいなかったと思うくらい,老若男女から愛された国民的スターでした。彼の初期のころの曲の多くは,いまでも歌詞をみなくても歌えます。毎日テレビでみかけて,こちらも毎日振り付けをまねて口ずさんでいました。あの髪型はあこがれで,大人になったらやってみたいと思っていました(結局似合わないのでやりませんでしたが)。
 「YMCA」が代表的のようになっていますが,それよりも初期の曲のほうがよく,「チャンスは一度」(経済学者の玄田有史さんが昔,論文のタイトルに使っていて,やられたと思いました)「青春に賭けよう」「情熱の嵐」「薔薇の鎖」「ちぎれた愛」「激しい恋」「傷だらけのローラ」「恋の暴走」あたりまでは,どっぷり西城秀樹に染まっていました。その後も「君よ抱かれて熱くなれ」「ラストシーン」「ブーメランストリート」あたりまでは覚えていますが,徐々に私も秀樹から卒業していきました(オフコースのカバーの「眠れぬ夜」,もんたよしのりの「ギャランドゥ」も記憶に残っていますが)。
 いま聞き直しても,初期の曲はかっこいいです。昭和の匂いがムンムンしていて,それが懐かしいのです。彼の独特の声は,歌謡曲の正統派からは外れていたのでしょうが,ボーカリストとしての彼の魅力となっていました。
 少し年上のお兄さん世代と思っていましたが,かなり若いときから脳梗塞で倒れるというニュースもあって心配はしていました。こんなに早く鬼籍に入るとは……。とても残念です。久しぶりにカラオケに行って,秀樹の曲を歌いまくりたくなりました。ご冥福をお祈りします。

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2018年5月17日 (木)

公益通報とは

 数日前の報道で,テレビ朝日の女性記者が,福田淳一前財務次官から受けたとされるセクハラに関する情報を週刊新潮に提供した行為について「公益通報」には該当しないとする閣議決定をしたというニュースが流れていました。すでに野党と消費者庁のやりとりで,公益通報に当たらないという消費者庁の結論が出されていたようです。なぜ野党が「公益通報」ということを言い出したのかというと,女性記者が週刊誌に情報を流したことに批判の矛先が向いてきたので,女性記者を救うということから「公益通報」だという話が出てきたのだと推測しています。
 しかし,この行為が公益通報者保護法による保護の対象とするのは,はじめから無理筋です。公益通報者保護法は,そもそも消費者庁が所管していることからもわかるように企業不祥事が消費者の利益を損なっていることから,不祥事情報を知りやすい立場にある従業員からの告発を促進して消費者の利益につなげるというのが主たる目的で,そのためには告発した従業員を保護する必要があるということで,内部告発に対する解雇その他の不利益取扱いを無効としたり禁止したりした法律なのです。従業員の保護という点だけをみると労働法とも関係しますが,この部分はこの法律の目的を実現するための手段という位置づけとみるべきです。
 公益通報者保護法で保護されるためには,いろいろ要件があります。とくに保護される通報対象事実は刑事罰に関係するものとなっているので(法律は列挙されています),その範囲がかなり限定されています。たとえば男女雇用機会均等法はセクハラ行為に対する刑事罰を課したものではないので,通報対象事実には挙げられていません。直接,刑法犯にあたることもあるではないか,ということが言われそうです(野党の議員もこういうことを言っているのでしょう)が,そこには大きな誤解があります。そもそも通報対象事実というのは,「労務提供先」に生じているもの(あるいは,まさに生じようとしているもの)でなければならないからです。だからテレビ朝日内部においてセクハラがあって,それが刑法の犯罪に該当するようなものであれば,通報対象事実になりえます。ただ,その場合でも,労務提供先への通報(1号通報),処分権限を有する行政官庁への通報(2号通報)以外の,外部への通報(3号通報)の場合には,いくつかの保護要件があり,それを充足していなければならないというハードルもあります。
 公益通報者保護法は,基本的には内部での通報を促進して,企業が自ら不祥事を正すインセンティブを与える内容となっているのであり,外部への通報をとくに推奨する内容のものではありません。外部通報の要件が厳しいのは,それなりに理由があるのです。
 いずれにせよ,今回は一般の企業でいえば,取引先の重役にセクハラをされたというような事案であって,公益通報者保護法でいう「公益通報」に該当しようがないと思います。前述のように,企業内の不祥事は,従業員は従属的な立場にあって通報しにくいであろうから,特に保護するのが公益通報者保護法の内容であり,今回はそういうものではなかったのです。もちろん,女性記者の被害を,雇い主のテレビ朝日がもみ消そうとしていたのであれば,外部に通報した女性記者の行為には同情の余地はありますが,これは公益通報といったことではなく,職場環境配慮義務といった別の問題となります(立法論としては,企業のそういう取引先の違法行為のもみ消しも不祥事の一つとして,公益通報者保護法の範囲内に入れていこうとする議論はありえるでしょうが)。 
 公益通報者保護法の見直しは,政府の懸案事項です。そこでは公益通報者の範囲を広げていこうという議論(退職者,役員,取引先など)もありますし,保護要件の緩和もありますし,通報対象事実を広げていこうとする議論もあります。他方で,内部通報制度の促進という動きも出ています(認証制度の導入など)。公益通報者保護法は,従属労働者(労働基準法3条)の保護がベースにある法律なのですが,こうした新しい動きは,従属労働論と関係しないところにまで保護を及ぼそうとしている面があります。そうなると,法の体系が変わってくるので,理論的にはいろいろ難しい問題が生じてくることになるでしょう。それに新たに制度設計するなら,報奨金の導入なども候補にあげるべきであり,そのコスト・ベネフィットの緻密な算定が必要となるでしょう。
 一方で,公益通報者保護法は,そもそも必要だったのか,という議論もありえます。こうした法律がなくても,公益通報者を保護することは,現在の労働法でも十分に可能だったからです。実際,公益通報保護法を適用して解雇や懲戒を無効とした裁判例は聞いたことがありません(もしかしたら私が知らないだけかもしれませんが,いずれにせよごく少数でしょう。不法行為事件で,神戸地裁の司法書士事務所事件というのがあります)。
 公益通報者の保護は,コンプライアンスの手法の一つという観点からみたほうがよいでしょう。その意味で,これは法のエンフォースメントの問題の一つなのですが,同時に経営問題とみるべきなのです。不正をした企業は長い目でみれば損をするのであり,それは株主の利益を損ないます(その意味で,コーポレートガナバンスの問題でもあります)。最も望ましいのは,企業が自発的に内部通報制度を設け,それを実際に機能させて,内部告発(外部通報)が起こらないようにすることです(この点は,大内伸哉編著『コンプライアンスと内部告発』(2004年,日本労務研究会)199頁以下も参照してください)。それが出来ていないことが現在の問題なので,前述の内部通報制度の認証というような誘導的手法が注目されているのです。
 ということで,ビジネスガイドの次号のテーマは,「公益通報者保護法」です。6年前にもとりあげているので,part2です。また『雇用社会の25の疑問-労働法再入門』では初版から内部告発の問題をとりあげており(第4話「会社が違法な取引に手を染めていることを知ったとき,社員はどうすべきか」)が,昨年出た第3版では大幅にリニューアルしていますので,関心がある方はぜひ読んでみてください。 

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2018年5月14日 (月)

アメフトのラフプレイ

 日大と関学のアメフトの試合におけるラフプレイが大きな問題となっていますね。レイトタックルというレベルの話ではなく,単なるラフプレイだったようです。私はアメフトに詳しいわけではありませんが,多くの人と同様,この映像をみて戦慄を感じました。
 日頃,下りの坂道を猛スピードの自転車が私の側を走り抜けていくことをよく経験しており,ちょっとでも接触したら,どう責任をとってくれるんだと思うことがよくあるのですが,あんな露骨なタックルを背後からくらうと,猛スピードの自転車どころではないでしょう。脊髄損傷といったことにもなりかねない話です。
 日大の監督が選手に命じたという話もあり,真相はよくわかりません。選手の将来性を考えて,監督に詰め腹を切らせるということになるのか,それとも本当に命じていたのか。もし監督が命じて,選手が「犯行」におよんだのであれば,日大のアメフト部は解散となるべきでしょう。
 これは犯罪なのです。そもそもタックルは本来的には刑法の暴行罪の構成要件に該当しますし,ケガをさせれば傷害罪の構成要件にも該当するものです。スポーツで行う場合には,正当業務行為となり違法性が阻却されるだけです(刑法35条)。しかし今回は,ルールの範囲を逸脱しているもので,違法性は阻却されません。もちろん,犯罪のもう一つの成立要件の故意も認められるでしょう。
 スポーツだから,多少のことは許されると思っていないでしょうか。プロ野球でも,故意にデッドボールをあてるような行為は,やはり犯罪に該当すると思います。デッドボールをあてた投手に殴りかかる行為は,もちろん犯罪です。プロ野球の解説でそれを推奨するようなことをいう人もいますが,それは規範意識がどこかおかしいです。あれはみていて愉快なものではありません(私は殴り合いが嫌いというわけではなく,ボクシングや格闘技は好きですが,それはそういうルールでやるものだからです)。
 暴行罪や傷害罪は親告罪ではありません。検察も動くかもしれません。スポーツ上の逸脱行為のすべてを犯罪として処罰することが妥当とは思えませんが,その一方で,大学生だからといって甘くみるのは問題でしょう。
 今回のケースは事実関係がまだよくわからないところもあるので,これ以上はコメントできません。今後の推移を見守りたいですが,一般に,こういう肉体が接触するスポーツは,そもそも危険な行為をしているので,信頼関係が何よりも大切だと思います。お互いがルールを守っている範囲では,暴行や傷害があっても許し合おうというところで,こういうスポーツは成り立っているのです。ルールを大幅に逸脱すれば,それが市民社会で行われているものである以上,犯罪として処罰されるのは仕方ないことです。スポーツだからといって大目にみるのは,ほんとうのスポーツマンに対して失礼なことではないかと思います。  

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2018年5月13日 (日)

労働新聞とビジネスガイドの新作

 連休明けには,「連休中はどうしていましたか」と聞かれることが多いのですが,私はとくに外出もせず,いつもどおりの生活をしていました。連休中は人が多くて出かける気にはなりませんし,連休の合間も授業があるので,連続休暇をとれるわけでもありませんでした。たまっている仕事をこなす程度ですが,思うようには進みません。確実に生産性は落ちていますが,事前にスケジュールだけは,若いころと同じように立ててしまうので,帳尻合わせに苦労して,いろいろ周囲に迷惑をかけてしまうことが増えています。
 そんななかでも連載原稿は穴をあけることはできないので,必死に頑張っています。1週お休みになっていた週刊労働新聞の「雇用社会の未来予想図-技術革新と働き方-」の第17回は,「労働組合は今後どうなるか」です。たまたま先日刊行された「電機連合NAVI」とテーマがかぶっていますが,雇用社会の未来を語るときには労働組合のことは避けて通れません。
 現在,労働組合を政策的に論じるときには,現状の衰退傾向にどう対処するか,労働委員会の実務でいうと,コミュニティユニオンや実質個別紛争をどうみるか,また労政審などでの労働組合の代表性をどう考えるかといった問題が思い浮かびますし,AI時代との関係では,自営的就労者が増加するなかでの働く人の新たな組織のあり方というものがあり,それと関係する独禁法関係の論点もあります。これらをすべて論じる必要があるのが,現在の労働組合に関する法政策論の状況であり,まだまだやることはたくさんあります。
 ちょうど先日の大学院の授業で,労働組合と独禁法の関係について少し議論をすることがあり,そこでわかったのは,まずは日本法の枠内で,労働組合がなぜ独禁法の規制を受けないのかというところを,歴史的,比較法的かつ原理的に考える必要があるということでした。
 ビジネスガイドの「キーワードからみた労働法」の第131回は「アブセンティズムとプレゼンティズム」というテーマです。このブログで最近よくとりあげている健康確保とAIという問題と関係しています。
 連休が終わると,もうすぐ梅雨で,そして夏がやってきます。そんななか国会の動向も気になりますし,長澤運輸事件とハマキョウレックス事件の最高裁判決も出される予定であるなど,労働法ウオッチャーにとって熱い夏がやってきそうです。

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2018年5月12日 (土)

講談社現代ビジネスに登場

  講談社現代ビジネスというところから,労働時間について何か書いてもらえないかという依頼があったので,書いてみました(http://gendai.ismedia.jp/articles/-/55457)。ネットの商業媒体に直接寄稿したものは,ひょっとしたら始めてかもしれません(だんだん,どこに何を書いたかわからなくなってきています)。一文ごとに改行されるのには抵抗もありますが,ネット上はそのほうが読みやすいということでしょうね。
 読者は一般人ということで,正確性は多少犠牲にしても用語が堅くならないように注意し,ただ内容は少しエッジを効かせて書いたつもりです。内容への読者の反発はすでに強いようですね。解雇の問題と同様,労働時間の問題も,労働者の関心が高いので,いろいろ個人の思いも強いのでしょう。私の意見が政府寄りだという頓珍漢なコメントもあります(以前に出した新書に対してもそういうコメントがあった)が,「あいつはどっち側の人間か」と決めてから評価するのは誤ることが大きいので要注意です。
 私自身は,労働時間制度改革は,目の前の問題としては大事かもしれませんが,将来を考えると,政策的な重要性は低いと最近よく主張しています。このメッセージは,どちらかというと政治家や政策担当者にこそ向けるべきなのでしょう。私はほんとうは「高プロ」に賛成ではないのですが,その理由は,もっと徹底した規制緩和をすべきというものです。この程度の妥協的な案しか出せない政府に失望すると同時に,それに反対する野党たちにさらに失望しているのです。
 とにかく,労働時間に関して,改革が損か得かという目先の話ではなく,どういう雇用社会を想定して,そのためにどういう法制度が必要かということについて,今回の寄稿が,みんなで議論するきっかけになればと思います。

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2018年5月10日 (木)

電機連合NAVIに登場

 電機連合NAVIの66号に,拙稿「改革の時代に,労働組合は何をすべきか-原点に立ち戻り,未来をみる-」が掲載されています。「労働組合の過去,現在,未来」というコンセプトで書いてみました。「働き方改革」との関連での依頼でしたので,それにからめながら,やや辛口のことを書きました。
  「労働組合」と言っていますが,政策に関して論じる際に念頭においているのは,政策形成に強い影響力をもっている連合です。連合の問題点や課題を指摘し,どうすべきかを,私なりに提言しているつもりですが,耳を傾けてもらえるでしょうか。
 労使自治や組合自治と関連づけた労働組合論は,私が好んでしてきたものです。最近では,あまり書く機会がなく(「不当労働行為」は別),今回のエッセイは,3年前に法学教室416号に書いた論文「憲法の沈黙と労働組合像」以来のまとまった書き物です。
 近年,労働組合を法的に研究する研究者は激減しているのですが,何とか若手のなかから,運動論から一歩距離を置いた労働組合論をやる人に出てきて欲しいものです。ただ,そのためには,労働組合のほうも,もっと魅力的になってもらわなければ困ります。
 ビジネスの世界でもイノベーションが言われています。組織は変革をしなければ衰退していきます。労働組合も同じです。労働組合は何のための存在か,新たなテクノロジーの発展の前で,労働者のために何をしなければならないのかを考えていかなければなりません。まず組織ありきではなく,労働者の利益を代表するという使命や機能を基礎とした労働組合の大胆な刷新と再編がなければ,労働組合の未来は暗いものとなるでしょう。 

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小学生に何を学ばせるべきか

   2020年度から公立小学校の3年から6年で英語が本格導入されるそうです。英語の進出はここまで来ました。欧州の辺境の言語が侵略を繰り返した末に,世界共通言語の座を奪取し,被侵略国でない国でも,子に勉強させるまでになりました。
 もちろん,英語は,そんな大げさなとらえかたをしなくても,たんに国際的なコミュニケーションのツールにすぎないという程度に思っておけばよいのでしょう(それにしては,発音や聞き取りが難しい言語です)。英語ができない人間は,手先が不器用なのと同じような意味で道具の利用(たとえば工作や裁縫)が苦手というにすぎません。本人の知性には関係ありません。でもこの道具は,生きていくうえで重要だから,英語を母国語としない国の小学生にも勉強させようということでしょう。
 ところで,神戸大の法学部では,外国語文献購読というのをやります。大学院の授業でも,外国語文献を読ませることがよくあります。自分の大学院生時代も,そうやってドイツ語やフランス語を教わりました(イタリア語は独学です)。もちろんこれは文学部などでの購読とは異なり,あくまで法学の専門文献の購読です。正しく読むということだけが目的です。法学系で読む外国語文献は,最低限の文法がわかっていれば,あとは単語はネットなどで意味を調べることはできるので,(法学の専門知識があるかぎり)正しく読解できるかどうかのポイントは,論理的な思考力がどれだけあるかにかかります。
 優秀な法学部生は,外国語もきちんと読めます。伝統的なリベラル・アーツ(artes liberales)のなかのtriviumは,文法(grammer),修辞学(rhetoric),論理学(dialectic)の3つを指します。これは大学院での法学文献購読に,まさに求められる技芸(arts)といえるでしょう。言語の基礎を知り(文法),相手に効果的に伝える表現方法を学び(修辞法),論理的な議論をとおして真理に近づく(論理学)ということが求められるからです。それは外国語文献の購読についての授業内容と同じです。
 もちろん小学校では,こうしたリベラル・アーツそれ自体は難しすぎるのですが,その基礎となるものを教えてもらわなければ困ります。ちなみに,リベラル・アーツには,上記の言語系のtrivium(artes sermocinales)以外に,数学系のquadrivium (artes reales)があります。それが算術(arithmetic),幾何学(geometry),天文学(astronomy),音楽(music)の4つです。音楽もピタゴラス音律からもわかるように,もともとは芸術というより数学の領域のものです(音「学」と書くべきかもしれませんね)。
 こうしたリベラル・アーツの基礎として,とくに小学校で教えてもらいたいのは,やはり論理学(なかでも言語を論理的に操り思考し議論していくこと)であり,そして算数となりましょう。これが大人になってからの教養の基礎となります。これに加えて,現代のリベラル・アーツには,歴史や科学(テクノロジー)も含まれてくるはずです。
 私はさらに,リベラル・アーツ以外にも,これからの時代は,職業基礎教育を早い段階で行ってよいのではないかと考えています。その具体的な内容の一つが情報リテラシー(AIリテラシーも含む)であり,中学生くらいになると,契約や金融に関するリテラシーも教えられてよいのではないかと考えています。情報リテラシーが大切なのは,学習そのものが,今後はITやAIを使ったものとなるからです。
 こう考えていくと,小学生や中学生の限られた時間で,みんなに英語を教育することが,優先順位としてどれだけ高いのかは疑問でもあります。機械翻訳のレベルが上がることも考慮しておかなければなりません。学習や教育の問題は,労働の話にもつながるので,現在,週刊労働新聞に連載中の「雇用社会の未来予想図」でもとりあげるつもりです。

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2018年5月 8日 (火)

公明新聞に登場

 4月30日の公明新聞の第5面に私のインタビュー記事が出ています。私は,公明党や創価学会とはまったく関係ないというのは,いつも述べていることですが,どういうわけかよく声をかけてくださいます。別にとくに回避する理由もないので,私の主張を丁寧に聞いてくださるかぎり,取材に応じたり,原稿執筆をしたりしています。
 今回は「フリーランスという働き方」という見出しがついています。最近の私の研究領域は労働法よりも,フリーランス関係にシフトしつつあります。いろいろな人と議論をしたり,勉強をしたりしながら,今後の政策の方向性についても,徐々に固めていこうと考えています。
 ジュリストで4月号から連載が始まっている「働き手・働き方の多様化と労働法」という特集で,私は来年3月号の最終回に登場予定となっています。テーマは,「雇用以外の働き方」で,おそらく番外編という位置づけなのでしょうが,個人的には,大トリで主役をはる気分でいます。こういうテーマで,私に書かせるのは危険であることは,有斐閣のほうも十分に分かっているでしょうから,できるだけ期待にたがわないような大胆なものを書いてみようと考えています。
 そのほかにも,フリーランス関係の仕事がいろいろ舞い込んでいます。労働法以外にも,税法,社会保障法,競争法などの知識が必要となっており,自分自身の問題意識がどんどん広がると同時に,新たな勉強に追われています。こういうなかで他分野の標準的な教科書は入門用として非常に助かります。この点でやはりたどりつくのは,有斐閣のものが多いです。労働法の教科書については,薄味のものには批判的なのですが,他分野の本ではそういうものが助かるのを実感していることからすると,やはり労働法の教科書も薄味であっても,普及という点では意味があるのだなということがわかりました。

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2018年5月 7日 (月)

江國香織『きらきらひかる』 

 江國香織『きらきらひかる』(新潮文庫)を読みました。ずいぶん昔の作品であり,なぜ買ったか覚えていないのですが。
 昨日,紹介した映画と同様,これも同性愛が関係しています。同性愛者である夫の睦月と,アル中の妻の笑子が結婚しました。睦月には紺という名の愛人(男性)がいます。妻はそれを最初からわかっていますが,許しています。
 夫婦間にはセックスはありませんが,互いが互いを慈しみ大事にしています。作品では,夫からみた妻,妻からみた夫が交互に描かれていきますが,二人の夫婦愛が十分に伝わってきます。
 こうした愛の世界を邪魔するのが,家であったり,世間の常識であったりするのです。睦月の両親は息子が同性愛者であることを知っていますが,跡継ぎが必要ということで,人工授精を勧めます。一方,笑子の両親は,睦月がホモであると知って激怒します。しかし,二人は別れるつもりはなく,人工授精による子をもつ気もありません。そうして最後にたどりついた方法は,思わぬものでした(読んでのお楽しみ)。
 これは純愛小説なのでしょうか。セックスがないから「純」なのでしょうか。そもそも結婚というのは,セックスが公認され,推奨される関係に入るということではないかと思います。建前はセックスは生殖ですが,本音では肉体的快楽もあります。見合い結婚であれば,愛が付着するかどうかは運次第ですが,釣書で事前にしっかり身元確認している相手と長年一緒にいると愛も深まるというのが経験上あるようです。つまり,セックスに事後的に愛情(精神的快楽)が付着してくるのが,伝統的な結婚なのです。
 一方,現代社会は,恋愛結婚が普通なので,最初からセックスに加えて愛情も付着しています。では,愛情だけの結婚がありうるのか。それが本書が問いかけたテーマなのでしょう。夫が必要とする肉体的快楽は,妻には提供できず,男の愛人にしか提供できません。もし他の生殖方法がないのなら,睦月の実家は最初から結婚を認めていなかったかもしれません。
 しかし現代は,生殖は人工的にもできるのです。睦月の両親は,結婚の目的のうち生殖さえきちんとしてくれれば,あとは好きなようにしろという立場です。ある意味での割り切りです。一方,笑子の両親は,睦月がホモであることを知らされていなかったので,この結婚は詐欺だと言って激怒します。それは感情的にはわからないではありませんが,ただ冷静に考えると,生殖が可能であっても反対するということは,あとは肉体的快楽を与えられない娘が不憫ということを親が言っているようにも聞こえてしまいます。それは娘にとっては余計なお世話となりましょう。
 生殖が人工的にコントロールされるようになると,セックスの主要な意味は肉体的な快楽のみになるかもしれません。肉体的な快楽を与えるのは,異性間によるセックスとは限りませんし,むしろそれを要しないという人もいるでしょう。そうなると結婚というものの形が変わってきても不思議ではありません。それに肉体的欲求はいつかは枯れていくものであり(おそらく),精神的な快楽のほうが持続性があり,より大切にすべきものともいえます。誰と精神的な関係を結び,そして誰と肉体的な関係を結ぶかの組み合わせは多様なものとなっていくのでしょう。本書とは逆に,男性と結婚して,女性を愛人にするなんてこともあるかもしれません。
 そうした多様性に対して,慣習や宗教,世間体や社会常識などが抵抗勢力としてのしかかってくるのでしょうが,その圧力も徐々に弱まっていくかもしれません。フランスなど外国で徐々に同性婚が認められるようになっているのは,文化的な要因以外にも,生殖技術の発達で,結婚に生殖のためにセックスが推奨される制度という位置づけが不要となってきていることと関係しているのかもしれません。
 この本を読んで,そんなことを考えていました。     ☆☆(星二つ)

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2018年5月 6日 (日)

Call me by your name

  少し前の日経新聞の夕刊の映画紹介で高い評価だったので,みてみることにしました。男性の同性愛の話と言ってしまえば,身も蓋もないのですが,少し前のイタリアの美しい風景を背景に,思春期の感受性の強い美少年Elioとマッチョでハンサムなアメリカ人Oliverの妖しい恋愛の世界が見ものの映画でしょう。
 時代はイタリアの社会党政治家で首相にもなったことのあるCraxiの名前が会話に度々出てくる1980年代。まだ同性愛が社会的に認知されていなかったころのことです。そんな時代であっても恋愛感情は抑えられるものではありません。
 アメリカの大学院生であるOliverは,考古学の教授であるElioの父のところに勉強のために北イタリアに来ています。夏の6週間しか滞在しないのですが,その短期性が恋の炎を強めたのかもしれません。これは男女に関係のないことでしょう。いよいよ帰国となったとき,二人はついに肉体的に結ばれることになります。
 Elioの両親は二人の愛に気づいていましたが,黙認していました。大学教授の父と語学堪能のインテリの母,そしてElio自身も読書と音楽(古典の編曲)をするなど,教養高き一家には,息子がとらわれてしまった世間の常識から逸脱した愛を許容する度量があったのでしょう。それと両親の息子への深い信頼と愛情がとても印象的でした。父はOliverが帰ったあとに悲嘆に暮れているElioに優しい言葉をかけます。青春時代の貴重な経験として大切に思い続けるべきと語りかけたので,この父の言葉に息子は救われます。
 個人的には,同性愛は,画像としてあまり好きではないのですが,それでも客観的にみて,とてもきれいな映画に仕上がっていると思いました。
 ところで,この映画の監督Luca Guadagnino は,かつて「ミラノ,愛に生きる」(原題は「Io sono amore」)で星二つと厳しい評価をしたことがありました(そのときのブログは,誤って削除してしまったもので,いまはネットのアーカイブでしかみることができません)。あの映画よりも今回の映画のほうが印象は良かったと思います。同性愛が社会的に禁忌であった時代の描写ということで,歴史的な意味もあるでしょう(Oliverは,結局,普通に結婚し,そのことを聞いてショックを受けたElioの何とも言えない悲しげな表情をアップで映しながら,映画は終わります)。でも,ちょっとElioのシーンが長すぎないでしょうか。監督はよほどElioが気に入っていたのではないでしょうか(監督の主演俳優への同性愛的な思い入れという点では,かつてRené Clément監督,Alain Delon(アラン・ドロン)主演の「Plein soleil (太陽がいっぱい)」をみたときにも感じたことがありました)。
 夏のイタリアが懐かしかったこともあり,今回は☆三つにします(5点満点)。☆☆☆

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2018年5月 4日 (金)

みどりの日に考える

 日本人は,祝日がたくさんあって休めるから,年次有給休暇(年休)の消化が進まない,という珍説を聞いたことがあります。日本の祝日は多いものの,年休を不要とするほど多いわけではありません。あえていうなら,むしろ日本の祝日と,労働法上の休日は連動していないところに問題があるといえそうです。それに加えて,趣旨の不明確な祝日が多いのも問題ではないかということをかつて指摘したことがあります(拙著『勤勉は美徳か?-幸福に働き,生きるヒント』(光文社新書)の第6章「休まない労働者に幸福はない-日本人とバカンス-」を参照)。今日5月4日「みどりの日」は,新設された「山の日」と並んで意味不明の祝日です。
 ちょっと過激なことをいうと,どうせ祝日を増やすのなら,原爆投下の屈辱を忘れないという意味で,広島に最初に原爆が投下された日(8月6日)を「国民の休日」にするということにしてはどうかと思っています。戦勝した国や国家が侵略から解放された国では,そういう日を祝日とするのでしょうが,原爆投下は「祝」ではないので,「国民の休日」にしたらどうかと思うのです。同様のことは,ソ連が日ソ中立条約を勝手に破棄して,原爆投下以上の死者を結果として日本にもたらすことになった日(8月8日)にもいえます。もちろん原爆は長崎にも投下されているので8月9日も加えることができます。そうなると,8月6日~9日を連続させて「国民の休日」にしてもいいです(11日は平日に降格させましょう)。そして,これらの日に,ゆっくりと自分たちの国の歴史(とくに昭和史)を振り返り,そして未来のことを考えるということにしたらというのが私の提案です。
 現実には,こういう提案は受け入れられないでしょうが,山の日のような意味不明の祝日を追加するくらいなら,もっと真剣に,国にとってどの日が大切だったかを考えてもよいでしょう。
 ところで話は変わりますが,かつて祝日には,国旗がかかげられている家をよくみました。私も,たしかカブスカウトに入っていたときに,教わったような記憶があります。共産主義者の父は,私がまじめに国旗を掲揚するのを,心の中では複雑な思いでみていたかもしれませんが,何も言われたことはありませんでした。
 今日,国旗を掲揚するとしても,4月29日のときならともかく,現在の「みどりの日」に,国旗を掲揚する意味はありましょうか。「山の日」や「海の日」やハッピーマンデーもそうなのですが。
 そもそも国旗はかつては慣習的なものでしたが,現在では,「国旗及び国歌に関する法律」で法制化されています(平成11年制定)。国旗は日章旗で,きちんと日の丸の大きさ(制式)も決まっています。国家は君が代であり,歌詞も楽譜も,法律で書かれています。  若い頃のイタリア留学時,日本の国歌(inno nazionale)は何かと聞かれて歌わされた覚えがあります。歌いにくいし,歌詞の内容は天皇家賛美のようなもので,あまり良い気分はしませんでした。イタリアの国歌は,「Inno di Mameli(マメーリ賛歌)」で,このメロディーが流れるとイタリア人は盛り上がります(歌詞の中に「Italia」という言葉が入っているのもいいです)。ただイタリアにせよ,フランスにせよ(La Marseillaise),アメリカにせよ(星条旗),歌詞は国威発揚というか,武力や血のにおいがぷんぷんするものです。とくにフランスの国歌は露骨です。祖国というのは,先人が血を流し,必死に守ってきたから,いまの自分たちがいるという思いが込められている感じです。サッカーの試合前に流れる国歌について,あの歌詞を口にすると,フランス人は,まさに戦争に行くような気持ちで士気が高まるでしょう(もっともフランスに侵略されて事後的にフランス人になった選手も多いようですが)。日本の国歌は,それに比べると平和ですね(それが悪いわけではないのですが)。
 血なまぐさい国はいやです。でも血なまぐさくならないようにするために,国民にも覚悟が必要です。自分たちが武器をとって国を守るなんてことはできません。やっても意味がないことです。だからこそ,税金を払って自衛隊を「雇い」,祖国を守ってもらうのです。それと同時に,外交力を発揮して戦争を回避するために,私たちは一票を投じて政治家を選び,税金で給料を払い,この任務を託しているのです。
 二度と他国から原爆を落とされたり,国民を海外に拉致されたりしないことが大切なのです(北朝鮮の拉致被害者の取り戻しをアメリカの力に頼っているようでは,ほんとうはダメなのでしょうが,いまは仕方がありません)。
 いずれにせよ,自分たちの国にとって一番大切なことを考えるとき,いまの内閣をいまの時点で倒そうとすることが,ほんとうに国民の利益にかなうかは冷静に判断しなければなりません。私の立場からはもちろん労働政策や経済政策が大切なのですが,そんなものは,国の安全が損なわれれば吹き飛んでしまうことなのです。 

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2018年5月 3日 (木)

憲法記念日に民主主義と請願権を考える

 昨日,イタリアの刑法のことにふれたので,そのついでに,ぜひ紹介しておきたい本があります。それがBeccariaの『Dei Delitti e delle Pene(犯罪と刑罰について)』です。大学で法律を勉強したことがある人なら,誰でも名前くらいは知っているものですが,有りがたいことに,この本の訳書があります。ずいぶん前にいただいて,たぶん紹介をしていなかったと思うのですが,それがお茶の水大学の小谷眞男さんの翻訳したチェーザレ・ベッカリーア『犯罪と刑罰』(東京大学出版会)です。小谷さんには心より御礼を申し上げたいです。素晴らしい訳であり,解説もきわめて充実しています。
 ところで,この本のなかにBeccariaが死刑について語ったところがあります(第28章)。彼は死刑反対論者です。終身刑の支持者です(ちなみにイタリアでは死刑は憲法で禁止されています[27条4項])。なぜ死刑がダメなのかということが,実に説得的に論じられています。ここですべてを紹介しきれませんが,最も有力な論拠としているのは,死刑では,犯罪抑止につながらないということです。
 死刑というものを,犯罪の予防という観点から考えた場合,死刑という手段のもつデメリットと,死刑により解決されるべき政策課題(犯罪抑止)との間の関係を検証するというアプローチが必要となります(Beccaria は旧派の代表的論者ですが,ここは新派的発想ではないかとも思えますが,自信はありません)。Beccariaは,終身刑で長期間隷属的な状況が続くほうが,犯人には過酷なものとなり,それだけ市民に対して抑止力が働くというのです。死刑に処されてこの世から消えることができるというのでは,本人の犯罪抑止力は弱い,ということです。
 Beccariaは,懸命なる君主は死刑廃止論のもつ真理性に気づくはずだけれど,それを妨害するのが中間的特権層だと述べています。君主のなかには,ローマ時代の五賢帝のような人も出てくるが,おそらく中間的特権層は徳も見識もなく,権力をほしいままにした存在とみているということでしょう。特権層は変化を望まず,先例を踏襲するものであり,新しい提案に耳を傾けないものです。Beccariaは,「もし王座にまで届くようなことがあれば,つねに傾聴されたであろう人々の率直な請願を,さえぎり押し殺してきたのは,中間層の専制なのだ!」,「だからこそ,光で照らされた市民たちは,ますます熱心に君主たちの権威の継続的増大を求めているのだ」(小谷訳,100頁)。
  君主の権威の増大をいうのは現代の感覚からはおかしいような気もしますが,当時を考えるとそうおかしいことではありません(1764年の本です)。国家の統治を社会契約的に考えた場合,ボッズブ(Hobbes)的にいうと「リバイアサン(Leviathan)」が生まれますが,それをプラトン的な哲人政治に変えるためにも,中間的な権力を排除し,権力をもつ君主を教化していくことが必要だということでしょう(この本が出てから25年後にフランス革命が起きていますが,そこでも中間団体の否認思想が重要な意味をもっています)。
 その意味で請願権というものは,ひょっとするともっと注目されてもいいのかもしれません。実は日本国憲法にも請願権の規定があります。それが16条です。長谷部恭男『憲法(第7版)』(新世社)によると,「請願は,議会制度が十分に発達していなかった過去においては,被治者の意見を為政者に伝える一つの経路として機能したが,国民主権が確立し,国民の参政権が十分に保障された現代社会においては,もはや意義は有しないと考えられている」と書かれています(305頁)。
 しかし,アメリカでTrumpが登場して民主主義のプロセスに十分な信用がおけなくなりつつある現在,Beccariaのいう「光に照らされた市民たち」による請願のプロセスというのは,もっと考えられてもいいのかもしれません。CNNでアメリカの元国務長官Albrightが,Trump政権を暗に批判するために,HitlerもMussoliniも民主主義から生まれたと言っていました。民主主義は手段ではありますが,唯一絶対的なものではないというのは,Churhillに言われるまでもなく,多くの人がわかっていることです。間違った人が選ばれたときの対策を,暗殺やクーデターのような暴力的な方法に頼るべきではないでしょう。これでは民主主義の正面からの否定です。民主主義から生まれた強大な権力を抑制するのは,最後は「知の力」であると信じたいものです。Albrightは,ある種の請願をしたのかもしれません。 
 振り返って日本はどうでしょうか。現在の首相は,直近の選挙でも大勝し,民主的なプロセスで大きな権力をもつようになっています。側近や忖度する官僚が中間的専制者になって賢政を妨げているとすれば,懸命な市民が立ち上がらなければなりません。Beccariaが現在に生きているなら,打倒安倍にエネルギーをかけるよりも,中間的専制者を排除して,いかにして首相を,知の力で賢政に導くかを考えるべきだと言ってくれるかもしれません。憲法学者は,こうしたことは非民主的として否定するでしょうか。憲法記念日にみんなで考えてもらいたいことです。

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2018年5月 2日 (水)

憲法記念日を前に起訴便宜主義を考える

 「山口メンバー」は「山口さん」になりました。起訴猶予になったからだそうです。
 日本の刑事訴訟法248条は,「犯人の性格,年齢及び境遇,犯罪の軽重及び情状並びに犯罪後の情況により訴追を必要としないときは,公訴を提起しないことができる」と定めています。これを起訴便宜主義といいます。日本の検察官は,状況によっては,起訴(公訴提起)しないこともできるのです。
 強制わいせつ行為が確認されても,被害者と示談が成立していて,初犯であるというようなことがあれば,起訴猶予となるのが相場なのかもしれません。ただ示談が成立していれば起訴しないのであれば,非親告罪にした意味が減殺されるような気もします。もちろん公訴提起により被害者が裁判に出廷することなどによる二次被害が起こらないようにするための配慮は必要ですが,性犯罪が社会にとって危険な犯罪であり,かつ加害者本人が社会復帰を望んでいることを考慮すると,社会にとっての危険性はいまだ軽微とはいえない可能性があります。
 ところで,イタリアでは憲法112条に次のような規定があります。
 「Il pubblico ministero ha l'obbligo di esercitare l'azione penale.」 
    検察官は公訴提起をする義務がある,という規定です。これを起訴法定主義といいます。犯罪行為があったと確認した以上は,起訴しなければならないということです。あとは裁判官が量刑も含めて判断するということでしょう。検察官は行政官であり,犯罪の嫌疑があるときに,司法の判断に服せしめるかどうかを自分で勝手に判断してしまってはだめということです。これが憲法で定められているのです。
 日本の検察官の起訴便宜主義の運用を信用していないわけではありませんが,起訴猶予によって(元)容疑者の扱いが一変してしまったことで,ちょっと心配になりました。禊ぎが済んだとまでは誰も考えていないでしょうが,そういうムードがやや現れているような気がするのが心配です(メンバーたちまで厳しい意見を加害者に言うにつれ,世論は加害者に同情論が出てくる可能性があり,これが危険です)。
 性犯罪は再犯率が比較的高いようです。データでは裁判で有罪判決を得た場合のものがありますが,起訴猶予になったものも含めるともっとあるのではないでしょうか(憶測なので間違っていればすみません)。別に今回の「山口さん」に個人的な恨みはありませんが,書類送検までされる性犯罪は相当悪質なものであったはずです(クラブで酔ってホステスの胸をむりやり触ったというたぐいのものではないでしょう)。マスコミも,そのあたりをよく考えたうえで,横並びではなく,各社で報道姿勢を考えてほしいものです。
 なお,直接この話に関係しませんが,イタリアでは,対象が存在してない場合(たとえばカーテンの向こうに殺そうとしている相手の人間がいると思ってそこに向かってピストルの引き金をひいたが,そこには誰もいなかったとか),犯罪を引き起こすことに適しない行為(単なる胃腸薬を毒薬と誤信して,それを飲ませて殺そうとしたとか)である場合は不能犯(reato impossibile)とされ,罪には問われません(イタリア刑法典49条2項)が,その場合には,裁判所は保安処分(misura di sicurezza)を命じることができます(同条4項)。不能犯は,当該行為については犯罪を起こす可能性がなく,問題なく無罪ですが,それでも社会への危険がある以上,裁判官は保安処分をして社会の安全(sicurezza)を図る責任を負うのです。日本の刑法では,そもそも不能犯の規定がないですし,不能犯に保安措置を命じるといった規定もありませんが,イタリアでは歴史的に有力である「新派」的な思想により,犯罪をする危険のある者から,いかに社会を守るかを大事にしているのではないかと思います(刑法における旧派と新派の議論については,ぜひ刑法の専門書を読んで確認してください)。
 ということで,私が言いたいのは,不能犯的な無罪であっても,起訴猶予であっても,社会を守るという視点も大切ではないかということです。それはとくに性犯罪にあてはまることではないかと思うのです。
 加害者の人権も大切ということを,いつも述べていますが,今回はマスコミ報道をみながら,あえて報道に批判的なことを言ってバランスをとったほうがよいということで書いてみました。なおいつも断っています(ときどき忘れています)が,刑法や刑事訴訟法や憲法のほんとうの専門的な議論については,労働法屋の私には責任を負えませんので,ご自分でご確認ください。

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2018年5月 1日 (火)

5G時代を想像し,創造する

 今朝の日経新聞の経済教室で澤田康幸氏が書かれていた「アジアの技術革新と雇用 所得・需要増大の恩恵大 労働規制規制緩和・再分配カギ」という記事は,細かいところはともかく,ほぼ日本にもあてはまる話です。課題であげられている教育政策,労働・雇用政策,租税政策は,第4次産業革命と経済・雇用政策というのを考えている者にとっては,おなじみの三大テーマです。
 なかでも教育政策は重要なのですが,政府関係の会議では,教育というと理系人材の育成,AI技術者の育成というレベルの話になってしまうことがあり,普通の人がどうやって生きていくかということを大事に考える私とは関心が合わないことが多いです。
 一方で,インタビューなどを受けたとき,これからは創造的な人材を育成する必要があると話すと,そんな能力をもつことができるのは優秀な人の話であって,一般の人はとても無理と反論する人もいます。しかし,それは間違いなのです。私がいつも述べているのは,現在優秀とされる人こそ危険であり,受験秀才のような頭でっかちでない人にこそチャンスがあると述べています。なんとなく世間には,自分のことを一流大学を出ていないし,たいした資格やスキルも身についておらず,努力するしか能がないと決めつけている人も多いのです(そういう人が年齢を重ねて上司になると,困った人になってしまうのです)が,そうではなく,AI時代だからこそ発揮できる能力というものがあり,それこそが受験秀才にはないものである可能性が大なのです。つまりAI時代の到来で,これまでどちらかというと不遇であった人にもチャンスが来るのです。
 教育政策では,こうした時代の到来を予想して,先手を打ったカリキュラムを展開していってもらう必要があります。
 ところで上記の澤田氏の記事以外に,もう一つ注目される記事が5Gのことです。ソフトバンクグループは,5Gの商用化に向けた大型投資をしようとしています。通信の技術革新は,今後5Gに突入するにともない,大きな変化を社会にもたらすでしょう。働き方への影響も甚大だと思います。もっとも,大容量のデータを瞬時に送信できるということが,何を意味するのかについては,自動運転などはすぐに思い浮かびますが,ほかに広がるかは少し想像力が必要でしょう。
 私は次のように妄想しています。
 何かをするために自宅から出るということがなくなります。企業のオフィスはなくなり,多くの人が自宅に仕事部屋(アトリエ)をもつようになります。住宅も,それにあった規格になっていくでしょう(「自宅にアトリエを」というキャッチコピーを使った住宅販売がなされるでしょう)。買い物に出かけるということもなくなります。自宅にバーチャル店舗が現れるからです。自宅にいながら世界中の旅行体験もできます(ローマの「真実の口(Bocca della verità)」に手を入れる疑似体験ができます)。人びとが通貨を得る手段も変わっていくでしょう。物理的な労働をして通貨を得るのではなく,他人がほしがるようなアイデア,情報などをネットをとおして提供できる人が,より多くの通貨を得て,そしてより価値の高いものを入手できるでしょう(芸術的な才能をもつ人が輝く時代が来るでしょう。)。通貨は暗号通貨(仮想通貨)のようなバーチャルなものとなるでしょう。運動不足となる心配がありますが,ウエアラブル機器による健康管理でばっちり対応できるでしょう。

  教育を考える前に,まず想像して楽しんでみることから始めたほうがいいですね。そこから新たな時代を切り拓く創造性が生まれてくるはずです。

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法学教育は必要,されど法学部は必要か?

   正義というと法学の専売特許のような感じもしますが,社会の構成員の誰もが個人の正義感というものはもっているはずです。正義感というと,社会的弱者のために立ち上がることといった話が想起されますが,これはむしろ勇気などの別の「徳」としてみたほうがよく,私は社会の出来事の「公平性」を追求する姿勢が正義感だと思っています(もちろん,正義とは何か,公平とは何かというのは,法哲学の大議論なので,ここではとても論じられません)。
 たとえば,森友問題や加計問題で国民が怒っているのは,そこに不公平があると考えているからです。一方,消費税増税に意外に反発が少ないのは,みんな一律に課されるために公平だと感じているからでしょう(逆進性の問題はあるのですが)。法学というのは,それぞれの分野における特有の公平性が具体的なルールに凝縮したものといえます(労働法学は,労働者と使用者の実質的非対等性に着目し,それを是正して実質的対等性を追求するという公平性の学問です。一方で,私が同一労働同一賃金などの非正規問題に冷ややかなのは,不公平性に疑問を感じているからです)。
 しかし,公平感は,前述のように,国民の誰もがもちうるものなので,法学における公平性が,国民の多数の公平感とずれてくれば,すりあわせることも必要となります。その意味で,法学というのは,一見敷居が高そうですが,国民の誰もが自由に参入してよいものなのだと思います。
 とはいえ,国民は時には大事なことを忘れてしまうこともあるので,法学が引き継いできた歴史的知恵は,ときには上から目線であっても国民に伝えておく必要があります。そのような法学の代表が憲法でしょう。前にも書きましたが,たとえば憲法で示されている刑事手続における手続的正義というのは,国民が権力者によって恣意的に不公平に扱われないようにするための知恵であり,それは国民にきちんと認識してもらう必要があります。近視眼的な「正義感」が暴走しないようにするための知恵が,法学には含まれているのです。表現の自由や思想・良心の自由なども同様です。
 法学の勉強は,知識を詰め込むだけではつまらないものです。知識だけの教育であれば法科大学院のような職業専門学校でやれば十分です。むしろ大切のは,それぞれの法分野がなぜ成立し,そこでどのような公平性が考えられてきたのか,ということを知ることだと思います。そして社会の諸問題を,公平性の視点から解決する立場にたつ人材を養成することが法学教育のやることでしょう(もちろん効率性など非法学的視点を学ぶことができれば,もっとよいです)。
 ただ,こうした基礎的な法学教育は,必ずしも法学部がやる必要はないと思っています。法学教育は,教養教育としてやるべきなのです。義務教育でやってもいいですし,大学でやるなら教養課程(いまはこう言わないかもしれませんが)でやればいいのです。そしてそれ以上の専門的なことは,法科大学院や研究者用の大学院でやればよいのです。
 法学部は社会のニーズに合っていないのではないか,他方で,法学的思考が社会に浸透していないのではないか,という問題意識からすると,法学教育を薄くても広く伝えるためにはどうすればよいかを考えるべきであり,そうすると現在の法学部という「規格」が社会に合っていないという問題にたどり着きます。法学部の教師のくせに,法学部不要論をいうのはけしからんと言われるかもしれません。反論も多いでしょうが,最近,そういうことを語る機会があったので,ここにメモとして書いておきます。

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