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2018年4月 5日 (木)

Biagiの非業の死を無駄にしてはならない

 2002年3月19日,イタリアの労働法学者のマルコ・ビアジ(Marco Biagi)は,赤い旅団(Brigate Rosse)のテロで斃れました。あれから16年。彼の命日の記念式典がなされた日,彼がかつて教壇に立っていたModena・Reggio=Emilia 大学の壁に「マルコ・ビアジは,もう自転車に乗らない。マリオ・ガレージに栄誉を。仲間のテロリストに栄誉を」という落書きがあったそうです。
 このおぞましい落書きについて,ビアジの後継者で,現在,同大学の教授をしている友人のミケーレ・ティラボスキ(Michele Tiraboschi)が,ADAPT International Bulletinの最新号に,エッセイを載せています(英文http://englishbulletin.adapt.it/wp-content/uploads/2018/04/TIRABOSCHI_The_Vicissitudes_of_Marco_Biagi.pdf)。イタリア語の原文は,イタリアの経済新聞のIl Sole 24に掲載されています(http://www.ilsole24ore.com/art/commenti-e-idee/2018-03-19/marco-biagi-conti-mai-fatti-fino-fondo-224035.shtml?uuid=AEabzWJE)。
 マリオ・ガレージは,赤い旅団のメンバーで,ビアジ殺害の実行犯です。なぜ一労働法学者にすぎないビアジが,極左のテロリストに暗殺されることになったのか。このブログでも取り上げたことがあります(削除前のものだったかもしれません)し,詳しくは,ビアジの親友であった諏訪康雄先生の「追悼 自転車はどこへ向かったのか?--マルコ・ビアジ教授のご逝去を悼む」日本労働研究雑誌502号2頁以下をご覧になっていただければと思います。
 ミケーレは,ビアジが進めた労働市場改革が,雇用の不安定化をまねき,それが若者の困窮をもたらしたとする議論に強い反発を感じているようです。自分と見解が違う者を「敵」とみなし,その言うことをあえてねじ曲げて解釈し,敵として純化させ,それへの憎悪により,自分たちの集団の結束を図るというような愚かなことが,ビアジの非業の死につながってしまったことの反省ができていないと,ミケーレには思えるのでしょう。
 ビアジが労働市場改革をしようとした2002年当時,イタリアの労働市場は欧州のなかでも最悪に近い状況だったのです。ビアジがやろうとした労働市場改革をミケーレが引き継いで実現したからこそ,イタリアの労働市場の状況は悪いとはいえ,現状にとどまっているという面があるのです。その功績は冷静にみて評価しなければなりません。それにもかかわらず,いまだにビアジを殺したテロリストを英雄視する声があることに,ミケーレは怒りを感じているのでしょう。イデオローグたちが純粋な若者を洗脳してあおり,言論による対話を避け,問答無用の暴力で敵を殺してしまうというような愚かなこと(日本の五・一五事件で,現職の犬養毅首相が,青年将校たちに銃殺されたときも,同様でした)は,二度と繰り返されてはなりません。
 ミケーレは,「馬鹿げていて,アンフェアな死だ。それは憎悪と不寛容の風潮のなかで起きたことだ。残念ながら,その風潮はまだなくなっていない。それが悪化して,戻れないところにまで至らないようにすることが,私たちみんなに課されたことだ」と述べて,エッセイを結んでいます。
  親日家であったビアジは,当時のイタリアでは珍しく外国法の研究に熱心な研究者でした。日本の労働法にも詳しく,何度も来日していました。彼は比較法の知見を深めるなか,イタリアの労働市場の後進性を強く認識し,その改革を進めようという純粋な意図で,有名な白書(Libro Bianco)を執筆していました。その白書で提案された改革案どおりに立法が進もうとしていたときに,テロリストに狙い打ちにされて殺されるという痛ましいことが起きたのです。なぜ,そんなことが起きたのか。ミケーレは,その総括と反省ができていないということを慨嘆しているのです。
 政府に近い立場にあり,影響力が大きかったとはいえ,学者の学問的信念に基づく言動にテロで反発するということが21世紀の先進国で起きたこと,そして,それになお同調する声もあることに,他国のこととはいえ,私たちは恐ろしさを感じます。今日,アメリカは,あのpolitical correctnessにうるさい国であったとは思えないほど,大統領が,憎悪と不寛容の言葉をまき散らしています。これが世界中に影響しないわけがありません。私たちは,よほどしっかり自分たちの理性と節度をもっていなければ,再び言論が軽視され,暴力がまかりとおる危険な時代に引き戻されてしまうかもしれません。
 その一方で,イタリアの若者たちの間に,現在の社会に対する深い不満があるということも知っておく必要があるでしょう。ポピュリスト政党の広がりは,そうした不満がまだ投票箱に行っているからましなのかもしれませんが,そうした政治過程での行動に限界を感じ,そこに新たな煽動者が出てきて導火線に火をつけるようなことになれば,危険なことが起こりかねません。ミケーレが嘆いた落書きには,そうした危険性が表れているようにも思えます。
 貧困からの脱却や防止と,そのために必要な教育は,社会の安定にとってとても重要なのです。これは日本にだって,もちろんあてはまることです。

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