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2017年12月12日 (火)

AIに過大評価も過小評価もいけない

 AI時代の教育の続きです。人工知能によって何がどこまでできるかについては,期待するところがどこにあるかによって議論がかなり変わってくることに注意する必要があります。汎用AIを想定すれば,そんなものは出てこないという話になり,それと特化型AIを比較すると,やれることは限られているということになります。しかし,特化型AIでも,人間の仕事を代替していくことは十分にあるので,そうすると意外にいろんなことができるな,ということになります。
 人工知能の専門家の方の間で,人工知能はたいしたことがないという意見と,結構,いろんなことができるという意見があるのは,見解の違いというより,視点の違いなのかなという気がしないわけではありません。
 また人工知能を使った雇用代替の可能性でも,たとえば「教師付き学習」をさせるときには,データがたくさんなければコンピュータの学習の精度が高まらない(現実と推論との誤差を小さくできない)ことから,データの収集にコストがかかると考えれば,なかなか人工知能の実用性が高まらないということになりますし,またどのように学習するかの設定(たとえば誤差関数の設定)そのものは,人間がやらざるをえないことから,その設定作業のコストをどう見積もるか(ここは私にはよくわかりません)も関係してくるでしょう。ただコストの問題であれば,かなりの部分が克服可能なような気もします。そこのあたりの評価は,技術レベルの問題であると同時に,どれだけの資源を投入するかという政策判断(企業でいえば経営判断)の問題でもあるでしょう。
 ただ,ビッグデータ時代なので,データはそろいやすい環境にあり,さらにコンピュータに指示する人間側のやるべき作業が減っていくと,人工知能の機械学習効果はかなりのインパクトがあるのではないか,あるいはそう予想して政策を進めておくべきではないか,というのがいまの私のスタンスです。
 もう一つ重要なのは,機械の学習能力はたいしたことがないとみても,安心はできないということです。それは現に人間が機械に負けているということがあるからです。たとえばGoogle 翻訳は,文章を理解できず,統計的に処理しているだけで,細かいニュアンスのある表現などは翻訳できないなどといって,馬鹿にしていてはいけないのです。通常の文章について,人間がGoogle翻訳を上回る翻訳ができないかぎり,やはり馬鹿にできないところがあるのです(機械が80点しかとれなくても,人間が70点しかとれなければ意味がないのです)。AI時代の学習のあり方とは,機械がどうこういう前に,そもそも人間のレベルが問われているということでもあり,雇用への影響はこういう相対的な優劣から生じるということを知っておく必要があります。
 

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