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2017年5月26日 (金)

大学教育無償化について考える

 昨日の日本経済新聞の「大機小機」のタイトルは「憲法もポピュリズム」です。かなり厳しい論調で,安倍政府の大学無償化を批判していましたね。私も大学教育無償化や出世払いのような案には,大いに違和感をおぼえています。憲法改正が必要かどうかという点もそうですが,そもそも大学教育の無償化の必要があるのか,というところから疑問があるのです。
    同新聞では,「教育政策 データで読む」で,冷静な分析をしています。「(上)「無償化」一人歩き」では,4年制大学進学率は両親の年収1000万円超なら62%,400万円以下なら31%という格差があるとします。現在は,大学は選ばなければ誰でも入れる時代なので,この格差は子の勉強の能力よりも,親の学費負担能力によると分析されてもおかしくはありません。
 教育の重要性は政府も唱えているし,私も述べています。教育には正の外部性があるので(産政研フォーラム113号で,大阪大学の大竹文雄さんが,正の外部性のことを論じておられましたね),政府が公費を投入することには合理性があるともいえます。
 一方で,日本経済新聞の記事では,「財務省は大学無償化について『自己投資の性格が強い』と否定的だ」となっていました。教育を自己投資にゆだねていると,投資が過小になるということなので,これだけでは否定論としては十分でないでしょう。むしろ,学生時代だけでなく,就職後の労働者の職業教育にも,もっと公的費用をつぎこむという考え方もありえます。
 それにもかかわらず,大学教育の無償化に賛成できないのは,今日の日経新聞の「(下)『人への投資』の虚実」にも出ていたように,大学教育の内容や質に問題があると感じているからです。記事では,「今の日本の大学にタダで行かせることが,将来を担う人材を育てることにつながるのかに疑念をはさむ向きもある」となっていました。無償にしたとしても,現在の大学教育では,人材育成に貢献できないので,無駄金になる可能性があるということです。
 私が唱えるAI時代に備えた人材教育をどこが主として担うかというとき,本来,大学も候補には入っているはずなのです。しかし,大学研究者が多数集まっていた会合で,この話をしたときに,私が大学も候補に入ると述べたとたん失笑がおきました。大学で,そんな人材育成なんてできるわけがないと,大学関係者たちがわかっているのです。
 現実的な政策として,私は,義務教育段階でもっとやるべきことがあると考えています。大学教育の無償化は,実は,現在の義務教育のカリキュラムを見直して,AI時代における人材育成に必要な基礎教育をするということで,実質的にはかなり実現できるのです。
 現在の大学は高等教育機関の役割をはたしていないという印象をもっています。自分自身の経験でいっても,私の奉職している大学で,私が本気で自分の研究水準に合った授業をしたら,学生のほとんどがついてこれないでしょう。本来,教授の研究成果を伝える授業についてこれる人が入試で選抜されているはずなのですが,それは幻想にすぎません。現実の大学の授業は,頭脳労働の要素3,肉体労働の要素7という感じです。教授の本気のレベルに接した勉強をしたい人は大学院に来るのでしょうが,すでにそこで本来のスタートより4年遅れているともいえるのです。
 私の働いている大学の学生は,全国レベルでみるとかなり優秀なのですが,それでもこういう状況です。全国の大学でどういうことが起こっているかと想像すると背筋が寒くなります。学部の授業は,わかりやすさが重要で,教科書もわかりやすさを競い合っています。(少なくとも法学では)全国の大学で,学問的な刺激のない薄味の教科書を使いながら,教育がなされているのではないでしょうか。大学がこんな状況であることを考えて,無償化の議論をすべきです。
 それならお前たち大学関係者が何とかしろよ,と言われそうです。実は,大学の授業のレベルを上げることは簡単です(もちろん,研究をほとんどやっておらず,高いレベルの授業ができない教員も少なからずいるでしょうが,そういう教員は本来大学で教えるべきではありません。御用学者として役人にいいように使われるだけで,社会に有害です)。試験を厳しくすることも簡単です。でも,それをやることがほんとうに求められているのでしょうか。企業も,文部科学省も,学生も,その親も,本気でそれを望んでいるのでしょうか。無償化の前に考えるべきことがあるのです。

*後で本日の経済教室でも,このテーマについての立派な論考があることに気づきました。ぜひ読んでみてください。

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