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2017年3月

2017年3月24日 (金)

今朝の日経新聞に登場

  今朝の日経新聞に,村山恵一氏による「Deep Insight 働き方 21世紀型の条件」というタイトルの「オピニオン」が出ていました。そこに私も登場しています。2週間ほど前に,取材にこられて1時間ほどお話をしたのですが,拙著の『AI時代の働き方と法』(弘文堂)を事前に読んで準備されていたので,とても話しやすかったことを覚えています。
 村山さんは,現在の働き方改革論に物足りなさを感じ,もっと未来志向でいくべきではないかという問題意識をもっておられたようです。そこが私と共鳴するところでした。
 今回,私が登場したのは,「これからは自営的な働き方が増える。変化に適応できる基礎能力を身につける教育が大事だ」という発言部分です。もちろん,取材では,いろいろなことを話しましたが,自営と教育という二つの論点が印象に残ったのでしょう。そういえば昨年あたりから私の発言でメディアでとりあげられる内容は,この2つの論点に関するものが増えています。インタビューで,知らぬうちに,私がそこを強調しているのかもしれません。
 いろんな記者の方と会ってきましたが,村山さんのような法学部出身の方からの取材は珍しいです。村山さんが,法学の素養をもちながら,IT関係の企業などへの取材などを続けてこられ,そして働き方の問題にたどりついたということの意味は大きいと思います。取材では,ジャーナリストの仕事も,AI時代には大変ですよ,と失礼なことを言ってしまいましたが,未来志向で独自の視点で取材を続けるかぎり,AIには簡単には代替されません。これからも村山さんにはぜひ頑張ってもらいたいです。
 ところで私は,この記事では,神戸大学教授と紹介されていました。読者には,私が何の専門をしているかわからないかもしれません。そういえば,前に別のメディアからの電話取材で,「ご専門は何ですか」と聞かれたことがありました。ネット情報から私のことを知った人は,専門不明のあやしげな研究者になってしまっているかもしれません。でも,それは,私にとってイヤなことではありません。 

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2017年3月23日 (木)

岩木一麻『がん消滅の罠』

  「このミステリーがすごい」大賞の受賞作品である,岩木一麻『がん消滅の罠-完全寛解の謎』(宝島社)を読みました。評判通りの素晴らしいミステリーでした。以下,ネタバレあり。  余命数ヶ月の末期がんの患者のがんが完全寛解するということは,およそありえないことではないそうです。しかし,これが立て続けに起こると,どこかおかしいという疑いが出てきます。  この作品の最初は,単純な詐欺事件から始まります。双子の姉妹のうち末期がんとなった1人がまず診断を受け,健康なもう1人がその後に診断を受け,その間に,何らかの薬を飲んだことにすると,その薬の効用でがんが消えたという宣伝となります。  やっぱり,がんが消滅するなんてないよね,というイントロから始まるのですが,ほんとうに詐欺でもなんでもなく,末期ガンとなった人のがんが消滅するという出来事が起こりました。小暮という中年女性の患者は,日本がんセンター研究所の夏目医師から,余命数ヶ月の宣告をされ,生命保険のリビングニーズ特約に基づき多額の保険金を受け取っていました。その後に,ガンが完全寛解したため,保険詐欺の疑惑が生じました。保険会社の森川は部下と一緒に調査を始めますが,怪しいところがまったくありません。むしろこの患者は,障害を抱えた娘を抱えていて,保険金を有効に使おうとする普通の善良な市民でした。  夏目の大学時代の恩師は,突然,東都大学の教授を退職して行方がわからなかったのですが,実は湾岸医療センターに移っていました。夏目は,恩師が,辞職する前に,「医師にはできず,医師でなければできず,そしてどんな医師にも成し遂げられなかったこと」をすると述べていたことが気になっています。  夏目と友人の羽島は,保険会社の情報などから,湾岸医療センターにおいて,西條が弱者の救済のために,ある種の保険金詐欺をしているのではないかという疑いを持ちます。それは,次のような仮説によるものでした。このセンターで画期的ながんの治療方法を見出したとします。そして小暮のような弱者に対して保険金を得ることができるようにするために,生命保険に加入させてリビングニーズ特約をつけさせたうえで,一旦末期がんの宣告を受けさせて保険金を受け取らせ,その後,その画期的な治療方法によってがんを寛解させるというのです(救済者仮説)。  ところが,湾岸医療センターでは,小暮たちとは異なり,富裕層など社会的な有力者に対してもがん治療を行って成果をあげていました。特別な救済をする必要もないような人たちに対してです。  そんなとき,湾岸医療センターに肺がんで通院していた柳沢という厚生労働官僚が,夏目のところにやってきます。   そのころ,夏目と羽島は,新たに,出来レース仮説というものをもっていました。それは,早期ガンを発見した患者に対して,手術で切除し(転移の可能性はこの時点では低い),切除したがんを培養して既存の抗がん剤の効果を確認し,よく効く抗がん剤が見つかった場合にだけ,がん細胞を患者に注射して人工的に転移させ,その後,効果が分かっている抗がん剤を投与して,がんを消滅させる,というものです。  抗がん剤の投与を条件に,西條たちが,患者に何か要求をしているのではないか,という疑惑が出てきたのです。夏目と羽島は,柳沢を味方につけようとしますが,失敗します。柳沢は,自分の命を守るために,西條の要求に屈したからです。  西條には大きな野望がありました。日本をよくするために,社会的に影響力のある人を支配しようとしていたのです。   夏目と羽島は西條と対決することになります。実は,その前に,夏目たちは,小暮の体内にあったがん細胞が,小暮のものではないということを確認していました。小暮には,他人のがん細胞が注入されていたのです。通常は,がん細胞を注入しても,免疫機能が働いて死んでしまいます。しかし小暮はちょうど湾岸医療センターでアレルギーの治療をしていて,免疫を抑制する薬が投与されていました。そのため,がん細胞が増殖したのです。この場合の治療は簡単です。免疫抑制の薬を止めるなど,本人の免疫機能を元に戻せばよいのです。  西條は,夏目たちの仮説を認めはしませんでしたが,別のことを言い始めました。羽島のDNAが,西條の亡くなった娘の体内から出てきたということを明かしたのです。西條は,娘の恵理香が乱暴されたという告白を信じていたため,娘の体内に残されたDNAをもつ者をみつけて復讐しようとしていたのです。ところが,DNAが一致した羽島は,暴行犯でありました。羽島と恵理香は恋人同士でした。  夏目たち3人の会談が終わったあと,西條は拉致され,バラバラ死体で発見されます。頭などは見つかっていませんが,DNA鑑定から恵理香との親子関係が一致したので,西條の死が確認されました。  夏目は,いったい恩師の西條がなぜこんなことを企んだのか,ということを不思議に思っています。娘の仇討ちのために力をもちたいという理由だけだったのでしょうか。夏目は次のように考えています。「先生は弱者を救済し,有力者の運命を支配していた。榊原[患者の一人]は先生を悪魔と評したが,先生が目指していたものは悪魔というより神であるように夏目には感じられた。人はどんな時に神に近づこうとするのか。……人は虚無感にとらわれると,神に近づき全能感を得るために宗教の熱心な信者になることがある。西条先生は自らが神のように振る舞うことで,巨大な虚無を満たすための全能感を得ていたとは考えられないだろうか。そうだとすると,それほどの虚無を先生にもたらしたものは何だったのか」(304~305頁)。  ここから残り10ページ弱で驚く展開が待っています。ほんとうのネタバレになります。  まず,がん完全寛解の謎は,一つは小暮たちにやったような手法です。これに対して有力者たちにやったのは,早期がんを発見できたとき,その早期がんに自殺遺伝子を組み込むという方法でした。柳沢たちには,出来レース仮説ではなく,本人の切除したがん細胞自殺するような遺伝子を組み込んで本人の体内に戻し,あとはこの遺伝子を作用させるホルモンを投与するという治療をするということでした。そのホルモン投与料を調整することによって,がんが進行したり,減ったりするということが可能となるというものです。死の淵に瀕した有力者は,ホルモン投与を求めて,西條たちの要求を飲むのです。患者にしてみればまさに「悪魔」でしょう。  西條が,これを始めたのは,実は,妻への復讐のためでした。恵理香のDNAは,西條のDNAと一致していませんでした。妻は不倫をしていたのです。西條は,不倫相手をつきとめ,その男に復讐をします。がんを移植し,末期がんの苦しみと完全寛解とを繰り返すという拷問をしたのです。これが湾岸医療センターでの試みの始まりでした。  西條のやっていることは,その秘密を守ることが何よりも大切です。治療を実際に行っていたのは,宇垣という女性の医師です。西條の妻が不倫をしていたのは,西條が学生時代にボランティアで精子バンクに登録したことに不満をもったことがきっかけでした。どこかに夫の子がいることに耐えられなかったのでしょう。宇垣こそが,西條の実の娘であることが最後のページで明かされます。  それでは,西條の死体の一部のDNAは,なぜ恵理香と一致したのでしょうか。それは,そこで採集されたDNAは,妻の不倫相手であった男(つまり恵理香)のDNAだったのです。ということで,西條は生きていたことになります。  夏目が疑問に思っていた西條の大きな虚無は,妻の不倫,娘がその不倫相手の子であったという絶望からきたものなのでしょう。  最後に,この本を読むと,がんのことを身近に感じることができます。がんというのは,そう簡単になるものではないということが,夏目と妻との会話のところに出てきます(100頁以下)。要するに,細胞には本来寿命があって自然に死んでいくはずなのに(アポトーシス),突然変異で死ななくなってしまうというところが,がんの原因なのです。がん細胞にアポトーシス機能を付与することができればいいということです。今回のこの本で紹介された自殺遺伝子が実用されているかどうか不明ですが,夢のがん治療薬となるはずです。  アポトーシスは,そもそも人間はなぜ死ぬかということと関係していて,1年ほど前に田沼靖一『人はどうして死ぬのか-死の遺伝子の謎』(2010年,幻冬舎新書)という本を読んで勉強したことがあります(ブログで消化したかどうか忘れましたが)。きっかけは,人間とロボットとの違いから,人間はなぜ死ぬのか,という問題意識をもっていたからです。その本では,まだがん細胞とアポトーシスとをつなげる薬はできていないとなっていました。  長く紹介しましたが,素晴らしい本でした。多くの人に勧めたいです(★★★★ ただミステリーとしては,まだ改善点があるかもしれません)。

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2017年3月22日 (水)

労災支給決定の取消訴訟における使用者の原告適格

 労災保険の申請に対する労働基準監督署長の決定に対する不服申立てについては,労災保険法38条以下に規定があり,労働者災害補償保険審査官への審査請求,労働保険審査会への再審査請求を経て取消訴訟を行うことができるとされています。労働基準監督署長の決定は,労働者の申請に対するものなので,不服申立ても労働者からなされることが前提となっています。一方,当該被災労働者を雇用している使用者のほうは,この手続の直接の当事者ではないので,労働基準監督署長の決定の内容を直接知る手続はありません。
 しかし使用者としては,労災保険支給決定があった場合には,事後の安全配慮義務違反による民事損害賠償等において,事実上不利となることもあり,その結果に関心がありますし,そうである以上,使用者としての言い分を労災の認定手続においても十分にしておきたいと考えることにはそれなりの理由があるようにも思えます。
 判例は,レンゴー事件(最高裁判所第1小法廷判決平成13年2月22日)において,不支給決定に対する取消訴訟で,使用者の補助参加を認める判断を下しています。このときの理由は,労災民訴事件における事実上の不利益のほうではなく,メリット制が適用される保険料の不利益を考慮したものです。つまり,最高裁は,不支給決定が取り消されると保険料が高くなる可能性のある事業主は,「労働基準監督署長の敗訴を防ぐことに法律上の利害関係を有し,これを補助するために労災保険給付の不支給決定の取消訴訟に参加をすることが許される」としたのです(行政事件訴訟法22条1項,民事訴訟法42条も参照)。
 それなら,使用者は,より直接的に,労働基準監督署長の支給決定について,原告適格を認めてもよいのではないのか(行政事件訴訟法9条1項の「取り消しを求めるにつき法律上の利益を有する者」に該当するか),という考え方が出てきてもおかしくはありません。
 この点について,最近,使用者の原告適格を肯定する裁判例が出ました。神戸大学の行政法の同僚から情報を得ました。東京地方裁判所平成29年1月31日判決・平成26年(行ウ)第262号労働保険料認定決定処分取消請求事件です。
 事件そのものは,労災の保険料の決定に対して取消訴訟が提起されたものですが,そのなかで,当初の支給決定に関する使用者の手続保障が問題となり,この点について,裁判所が判断をしたのです。そこで明確に,メリット制の適用により,保険料が上昇する可能性のある使用者は,支給決定の取り消しについて「法律上の利益」があると判断されました。レンゴー事件・最高裁判決とも,整合性のある判断です。 
 メリット制が実際に労災予防のインセンティブとして機能することが期待されている以上,この点は制度の根幹に関わるものであり,支給決定について使用者から争う余地がないということには,違和感もあります。
 その一方で,労災に対する補償という事柄の性質上,できるだけ迅速に補償がなされるべきという要請もあり,当初の労基署での決定手続に使用者を正式に関与させることには疑問があることもまた,そのとおりです。
 問題は,支給決定について,使用者から取消訴訟の原告適格を奪う実質的必要性がどこまであるのかです。たしかに,せっかく労働基準監督署長が支給決定をしているのに,保険料が上ることを防ぎたい,あるいは,労災民訴への事実上の大きな影響があるということから,使用者のイニシアチブで支給決定を覆すことを認めることは妥当でないという意見が出てくることは,労働者保護を目的とする労働法的発想からすると,理解できないわけではありません(なお,東京地裁判決は,保険料の認定決定処分の違法性を争ううえで,支給決定処分の違法性を主張することができるかという,この事件のメインとなる「違法性の承継」の論点では,これを否定しており,その際に,事業主は,支給決定手続においても相応の手続的保障があるという判断もしています。しかしこの点については,この判決も認めているように,事業主には支給決定の通知がなされないなどの問題があり,はたして現行法においてすでに使用者への手続的保障は十分にあるといえるかには疑問もあります)。
 少なくとも前述のようにメリット制が労災保険制度におけるインセンティブやモラルハザード回避のための中核的な制度と位置づけられる以上,この点について,使用者が争うことができるとしておいたほうが,制度の信頼性を高めるという点からも望ましいのではないかとも思えます。
 これとは別に,行政訴訟の原告適格をどこまで広げるかという一般的な論点もあります。使用者は強者だから,使用者にはこの拡大論は適用すべきではないという議論もありえるかもしれませんが,そのような使用者強者/労働者弱者論は,もはや適切ではないと思っています。
 労働法と行政法が交錯する重要な判決で,これまで労働法上論じられてこなかった盲点のような論点が扱われていますが,控訴審の判断に注目すると同時に,労働法学からの検討の発展にも期待したいところです。

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2017年3月21日 (火)

労働基準監督業務の民間委託について思う

  3月16日に,政府の規制改革推進会議は,労働基準監督業務の一部を民間に委託することを検討するための初会合を開いたそうです。その背景には,長時間労働などの労働基準法違反の事例が目立つなか,労働基準監督官が不足しているため,行政監督が十分になされていないという認識があります。委託先として社会保険労務士等も候補に挙げられているようです。
 たしかに,都市部では,労働基準監督官の業務は激務となっており,監督官の過重労働という洒落にならないような状態が生じているとおう話も耳にします。民間委託そのものが悪いとは言えませんが,厚生労働省はこれに難色を示しているようです。 
  ここで一つ浮かびあがる疑問は,社会保険労務士は,監督業務を受託するでしょうか。業務の範囲の拡大は,社会保険労務士にとって悪いことではないでしょうが,これまでは監督される企業の側で業務をすることが多かったでしょうから,監督業務までやると,本業のほうに支障が出てこないかという心配があります。たとえば,自分が顧問などをした企業について監督業務の受託は認められないでしょうし,監督業務を受託した企業と将来的に顧問契約を結ぶことも原則としては認められないでしょう。監督業務という権力的な業務の民間委託である以上,委託先にいろいろな規制がかかってくることは避けられないでしょう。
 ちなみに,兵庫県労働委員会の公益委員には弁護士が3名おられますが,慣例として,労働事件を扱ってこなかった弁護士の方が選任されているようです。監督業務とは違いますが,労働委員会の業務も公権力の発動という面があるのであり,これまでの本業との関係で中立性が損なわれないようにすることへの配慮だと思います。
 それでは,監督業務を労働問題を扱っていない者に委託すればよいということになりそうですが,そうなると今度は専門性の点から問題が出てくるでしょう。どのような業務を民間委託するかにもよりますけれども,労働基準法の解釈や通達に精通していなければならない監督業務においては,専門性を軽視することはできません。しかし専門性のある社会保険労務士の多くには,すでに企業側に立った自分のビジネスがあるのです。というような堂々巡りの議論となり,このあたりのことが,うまく解決しなければ,なり手が出てこないのではないか,という気もします。
  そもそも警察を増やせば治安が良くなる的な発想でよいのかということも問題となります。公務員減らしの対象に労働基準監督官も含めてしまったことには問題があるということは以前に私も『君の働き方に未来はあるか?』(光文社新書)に書いたことがあります(81頁)が,ブラック企業対策には,もう少し別のものもあるのではないかという気がします。私は,その本では,労働者側に立ってブラック企業対策を書きました(81頁以下)が,それに加えて企業側の法律知識の向上も必要です。殺人,放火,強盗,窃盗をしてはならないということは誰でも知っているのに対して,監督業務は,「使用者」(労働基準法10条の定義を参照)という限られた主体による,あまり詳しく知られていない労働基準法という法律の違反をターゲットとするものです。ここに労働基準監督業務の特殊性があり,上述のような問題点が出てくる背景的原因があります。
 とはいえ批判ばかりをしてもいけません。良い民間委託案が出てくれば応援するにやぶさかではありません。厚生労働省も職分を侵されるという視点ではなく,労働基準法のエンフォースメントをいかにして高めるかという大局的な視点で建設的な対応をしてもらいたいです。今後の議論の進展に注目しましょう。

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2017年3月19日 (日)

ハッシー敗れる

 先ほど終わったNHK杯戦は,佐藤和俊六段がハッシーに勝ちました。ハッシーはあと一歩だったですが残念でした。私は対局中,ハッシーが2八歩を見落として,また二歩をやらかさないかハラハラしていました。 
 佐藤六段は,順位戦は最も下のクラスのC級2組ですが,これで決勝進出となりました。佐藤というと,現名人の佐藤天彦,決勝の相手の元名人でA級棋士の佐藤康光九段など数名いますが,最もマイナーであった和俊六段も,これで一躍有名になったでしょう。大波乱の優勝が起こるでしょうか。C級2組は,かつて櫛田陽一当時の四段が優勝したことがありました。今回は,和俊六段は,何と言っても羽生善治三冠に勝っていますし,前回優勝の村山慈明七段にも勝っており,これで康光九段に勝って優勝すれば,誰もフロックとはいえないでしょう。
 王将戦は,久保利明九段が勝って,王将に復位しました。これで5期目となります。郷田真隆九段は3連敗後,2連勝して粘りましたが,最後に力尽きました。久保九段は,兵庫県加古川市出身の私にとっての地元棋士です。41歳の差し盛りの世代です。まだまだ頑張って欲しいです。久保九段は,順位戦でもB級1組首位で見事にA級復帰を決めていて,好調な1年の締めくくりとなりました。
 A級では振り飛車党は久保九段だけです(かつては広瀬章人九段も振り飛車党でしたが,いまは違います)。振り飛車はアマチュアにとって,わかりやすい戦法なので,久保九段の将棋は人気があります(とはいえ,「さばきのアーティスト」と呼ばれるところなど,レベルが高い将棋です)。
 B級1組からもう一人の昇級は,これまた関西勢の豊島将之(新)八段です。もっと前に昇級しそうでしたが,やっと昇級できました。最後は幸運で,山崎隆之八段が勝てば昇級だったのですが,阿久津主税八段に敗れて,糸谷哲郎八段に勝った豊島七段が昇級を決め八段になりました。一方,山崎八段は大きなチャンスを逃してしまいましたね。豊島七段との直接対決で敗れたのが痛かったです。
 降級のほうは,郷田(前)王将が,飯島栄治七段と,負けた方が降級という戦いに勝ってかろうじて残留となりました。最後に2連勝しての残留はさすがですが,王将は久保九段にとられてしまったので,来年度は再起の年になります。
 B級2組からは,斎藤慎太郎(新)七段が,1期で抜けて昇級。また菅井達也七段もようやく昇級で,次年度のB級1組は,関西勢が,谷川浩司九段というレジェンドがいて,山崎八段という若大将がいて,糸谷八段,斎藤七段,菅井七段という将来有望な若手がそろう激戦となります(ちなみに,糸谷八段は大阪大学の修士号をとったことがニュースになっていましたね)。A級からは森内俊之九段が落ちてくるので,おそらく来年度のB級1組は,谷川・森内という二人の永世名人や丸山忠久元名人,郷田真隆元王将らが降級候補とならざるをえない厳しい展開です。もちろん,谷川ファンとしては,降級しないように,ひたすら応援です。
 棋王戦は,これまた関西勢の千田翔太六段が渡辺明竜王に勝って2勝1敗になり,奪取に王手をかけています。
 何年か前から関西の若手勢は注目を集めてきましたが,2年前の糸谷八段の竜王奪取あたりから,ようやく形になって現れてきているようです。

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2017年3月17日 (金)

日本労働研究雑誌の学界展望へのコメントその2

 昨日の続きです。もう一つ「労働委員会制度に未来はあるか?―その専門性を問い直す」季刊労働法252号も採りあげていただきました。中窪さんから,「この著者にしては……比較的穏当な,かなり現実に即して議論をしているように思います」というコメントを頂きましたが,私はいつも「現実に即して」議論しているつもりであり,その現実の見方が他の人と違っていることが多いだけなのだと思っています。たとえば,昨日も触れた労働者弱者論こそ現実に即していないと,私のほうでは思っているのです。今回の労働委員会に関する議論については,おそらく中窪さんと現状認識が一致したのでしょう。内容自体は,かなり過激な論文で自分では思っています。
  この論文は,労働委員会の実務を10年近くやってきたなかで,ずっと書きたくて,うずうずしていたテーマでした。労働委員会の本来の仕事は何なのか,とくに1号事件(不利益取扱い事件)について,労働審判などの司法手続との違いを意識していない実務は適切かなど,労働委員会の独自性や存在意義に関わる論点を,理論的に詰めていきながら,労働委員会制度や運用の問題点を指摘することを試みたものです。
 結論としては,労働委員会は,不当労働行為救済や争議調整という集団的労使紛争の解決機関としての原点に返って,その専門性を磨くことに専念すべきであり,個別労働紛争のようなものにウイングを広げるべきではない,ということです。それこそが労働委員会制度を真の意味で大事にすることだというメッセージも込めています。
 今回の討論に対する若干の不満は,労働委員会をできるだけ活用したほうがよいという議論は,わからないではないのですが,紛争解決システムの中で,なぜ労働委員会を使わなければならないのか,ということについては,十分に意識して議論されていないように思える点です。たとえば,個別紛争事件を労働委員会で扱うことについて,緒方さんの「労働審判の役割と重なるかもしれません」という発言に対して,川田君は「労働審判の場合,建前では,実務経験者である労働審判員は労使それぞれの代表者ではないということなので,労働委員会の労使委員と比べると当事者との接触の密度は違うということは言えるかと思います」と述べていますが,この程度のことでは,私にとっては全然説得力はないのです。とくに労使委員の出身母体と,実際に紛争になることが多い地域合同労組と中小企業との間には,大きなズレがあるので,いっそうそう感じてしまいます。
 紛争解決チャンネルがたくさんあればいいという考え方には,私は与していません。労働委員会の本来の専門的任務を果たすためには,まだまだやるべきことがあって,その専門性を磨いてほしいということ(本当に意味のある研修をすべきであること),一方で事件数が少ない県においては,専門外のことに手を出すのではなく,そもそもなぜ各県に労働委員会がなければならないのか,ということを考えてほしいということを強く訴えかけたいです。
 討論の最後のほうで検討していただいた中労委改革は,中窪さんも,緒方さんも,方向性としては賛成してくれているようです。
 いずれにせよ,現状維持あるいは膨脹主義的な組織の論理を捨て,限られたリソースをいかにして効率的に使って(とくに税金が無駄に使われていないかという視点),ほんとうに国民のためになるような労働紛争解決サービスを提供するか,ということを考えた改革が必要です。本論文で,いろいろとアイデアを出している(すべてが私のオリジナルというわけではありません)ので,会長も代わり新体制となった中労委のほうで,ぜひ真剣に取り組んで頂ければと思います。

 と,いろいろ書きましたが,今回は多くの論文のなかで,私の論文を2本も検討していただきました。個人的には,ICT関係の論文も検討してもらいたかったという気持ちはありますが,これは「派手な」論文で,これに対し,今回の2本は「地味な」論文です。地味だけれど,かなり力を入れて書いた論文に光をあててもらったことには,たいへん感謝しています。ありがとうございました。

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2017年3月16日 (木)

日本労働研究雑誌の学界展望へのコメントその1

 日本労働研究雑誌680号の「学界展望 労働法理論の現在―2014~16年の業績を通じて」で,私の論文が2本採りあげられていました。1本目は,「就業規則の最低基準効とは,どのような効力なのか」(山田省三・青野覚・鎌田耕一・浜村彰・石井保雄編『労働法理論変革への模索』(信山社)という,毛塚勝利先生の古稀記念論文集に寄稿したものです。
 最近は政策論をやっていることが多いのですが,それとは全く異なる「解釈論」100パーセントの論文で,まさに労働法研究のプロ向けに書いたものです。上智大学の富永晃一君が紹介してくださり,一橋大学の中窪裕也さんから「虚をつかれる」「アクロバティック」と評価(?)していただいたものです。
 討論者からは疑問続出という感じの論文ですが,それは当然で,この論文は,労働基準法93条などの条文の解釈をめぐる既存の常識を覆すために書いたものなので,そう簡単に同意されても困るものなのです。次々とわき出る疑問について,どう斬ってくれるか,斬る方の力量が問われる論文だと思っています。単純に背を向けることも簡単な論文ですから。そのようななか,富永君が,民法の故平井宜雄先生の言葉を引いて,「反論可能性の高い議論というのは価値のある議論だ」といってもらえたことには,私としてはたいへん満足しています。
 筑波大学の川田琢之君は,本人の書いたものはあまり見たことがないですが,批評家としてはなかなか優れていて,今回の論文についても,労働契約法7条や10条の契約規律効と比べて,「最低基準効に関しては,そもそもなぜそんな効力が必要とされるのかという点について,なんとなく自明のように考えられてきたのではないでしょうか。この論文の意義は,そのあたりを突き詰めて考えてみたことにあるのではないか」は,この論文のポイントをしっかり突いてくれています。
 論文の内容に少し触れると,そもそも就業規則にしろ,労働協約にしろ,条文上は,なぜ労働者を拘束するのかということについて明確になっていません。明確なのは,就業規則については労働基準法93条(労働契約法12条)の効力が,労働協約については労働組合法16条の定める効力があるということだけです。ではこの明文の効力が,労働者を拘束する根拠となるのか,そんなことは書かれていないではないか,というのが私の議論のもともとの出発点です。私は労働者を拘束する根拠は,労働者の意思に求められるべきとする立場にたち(私的自治的正当性),それなら労働基準法93条や労働組合法16条はどういう規定なのかを考えてみようというのが,この論文です。実はこの論点は,私の博士論文をまとめた『労働条件変更法理の再構成』(1999年,有斐閣)でも扱っているのですが,学界ではほとんど注目されていませんでした。
 そこで,毛塚先生の古稀記念において,毛塚説(労働基準法93条を禁反言で根拠づける見解)を採りあげながら,もう一度この議論をしてみようと思ったのです。実は,毛塚先生の議論は,私が博士論文を書いたとき,学説上の議論としては,私が戦うべき最も有力な見解の一つであり,深くリスペクトしていました(毛塚先生は,1990年刊行の『労働法の争点(新版)』で就業規則のところを担当されていました)。こうして,私としては20年前の議論を持ち出したのですが,前著ではいろんな論点を総合的に扱っていたので目立たなかったかもしれません。今回の論文は論点を絞ったことから,私の主張がより鮮明になったということでしょう。これが今回の4名の討論者の目に止まったということは,たいへん有り難いことです。
 ところで,討論のなかでは,情報の非対称性などについても議論されていますが,これは私が西谷敏先生の古稀記念に寄稿した論文「労働契約における対等性の条件-私的自治と労働者保護」で書いていることと連動しており,そちらもあわせて論評してもらえると有り難かったです。今回の討論では,南山大学の緒方桂子さんをはじめ,全体的に労働者弱者論が漂っていて,私には旧体制の議論という印象も受けました。西谷古稀の論文のタイトルでもある「対等性の条件」をもっと追求していかなてはならないと個人的には考えています。
 このあたりは,今回は対象外となりましたが,「労働法は,『成長戦略』にどのように向き合うべきか」季刊労働法247号のなかでも,違った観点から論じているところです。

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2017年3月15日 (水)

士業受難の時代

 3月6日の日経新聞の夕刊で,アサヒグループホールディングス会長の泉谷直木氏の「あすへの話題」の「AIにはビールは飲めない」が面白かったです。そのなかで,泉谷氏は,マキャベリの『君主論』を引用しながら,人間には「自分で考えることができる人間,人の言うことは理解できる人間,どちらもできない人間」がいて,「AI時代には後二者はヤバイということになるのかもしれない」と述べています。
 そして,「ギリシャ・ローマ時代の自由人(非奴隷)は基本的知識・技能として文法学、修辞学,論理学,算術,幾何学,天文学,音楽の自由七科を身に付けることが求められたという。現代のビジネスパーソンは,これらに加えてロジックを基にしたアイデア創造力が今後磨くべき能力領域になるのだろう。おもてなしやホスピタリティといった情緒面も同じ領域だろう。」と書かれています。
 これは私がこれからは知的創造性が必要で,そのための基本的な素養としてリベラルアーツが重要と言っていることと同じことです。
 この観点から重要なのは,知的創造的な働き方は,強いられた長時間労働では生まれてこないということです。長時間労働の弊害は健康に有害ということだけでなく,労働者から考える力を奪うこと,あるいは自己研鑽の意欲・時間を奪うことにあります。知的創造的な働き方は,「時間主権」を個人に取り戻すところから始まるのです。拙著『勤勉は美徳か?』(光文社新書)で,時間主権や時間についての自己決定権を強調したのは,それを得ることこそが自分らしい働き方をして,幸福になるための鍵となるからです。
 ところで,日経新聞朝刊に連載中の「断絶を超えて」で,今朝は「知識から智恵へ-AI襲来 眠れぬサムライ」という洒落たタイトルの記事が出ていました。AI代替と士業のことです。そこでは会計士や弁理士のことが紹介されていましたが,税理士,社会保険労務士,弁護士だってAIの影響と無縁ではありません。
  1年半前に,LSの講義の最初に,弁護士業務におけるAI代替のことを話しましたが,このとき学生は,おそらくこの先生何を言っているだろうと思っていたかもしれません。しかし,AI代替は現実になりつつあります。自分たちが「知的」にやっていると思っていることについては,AIのほうが遙かに賢くやってしまう可能性があるのです。知的であって,かつ創造的でなければならないのです。当面はAIの活用も創造性を支えるでしょう。しかし,それも改良していかなければ,創造性がなくなっていくでしょう。知的であって,定型的なものは,AIが最も得意な分野です。これが,知識だけであっても,智恵がなければダメということの意味です。
 AIが人間を「完全に」代替することはないということも,よく言われます。AIは意外にできないことが多いよ,と言われることもあります。ビールを飲むことができないのも,そのとおりでしょう。だから心配する必要はないという楽観論もよく耳にします。
 しかし,ある人のやっている10の作業のうち7が代替されてしまうとどうでしょうか。そのときには,また新たに7の作業が出てくるだろうから,食い扶持はあると思っている人も少なくようです。しかし,その新たな7の作業が,それまでの技能を活用できるものでなければどうですか(「活用できない」作業にも二つのタイプのものがあります。きわめて難しい作業か,単純な作業だけれど人間しかできないようなもの[葉書で欄外に書かれていて機械で読み取れない郵便番号の読み取り]のどちらかです)。あるいはAIが人間の仕事を代替すると,もっと難しい仕事が振ってくるから困るなどという,能天気なことを言う人もいます。私はそれでも仕事があるだけ良しとすべきであり,むしろ仕事を振ってもらえない危険があるほうを懸念すべきだと思うのです。
 働くとは耐えることで,耐えていれば働き口はあると思っている人は,すぐに考えを改めなければなりません。働くとは考えることで,自分で働き口をみつけなければならないのです。数年後にはリタイアするAIとは無縁のおじさん上司に引きずられて,AI時代にどっぷり浸からなければならない自分の将来を潰されないようにすることが大切です。
 自分の将来を考えるうえでは,光文社新書の私の二冊『君の働き方に未来はあるか?』『勤勉は美徳か?』をまず読んで,それから『AI時代の働き方と法』(弘文堂)を読めば,自分がどうすべきかが見えてくるでしょう。『勤勉は美徳か?』の最後に,IAA(Information,Analysis,Action)を強調しています。まずは行動をするうえで必要な情報を入手し,考える(分析をする)ことが必要なのです。私としては拙著を推薦しますが,その他にも,考えるヒントになる本はたくさんあるでしょう。まずは本屋(バーチャル店舗でもいいですが)に足を運びましょう。

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2017年3月14日 (火)

フリーランスの保険

 経済産業省で設置されていた「雇用関係によらない働き方研究会」の報告書案がネットでアップされています。私も一度ゲストでプレゼンをした関係で,連絡を受けていました。私が12月にしたプレゼンでは,労働法の観点から,非労働者についての政策的対応のあり方や理論的位置づけについて話をしていました。
 雇用関係による働き方が厚生労働省の管轄であるのに対し,雇用関係によらない働き方は経済産業省の管轄ということかもしれません。昨年の厚生労働省の「働き方の未来2035」で,私は自営的な就労に対する政策的対応の重要性を主張し,厚労省の方にも自営的就労のことを扱うつもりがあるのかと会議の場(私はWEB参加)で質問したことがありました。そこでは肯定的な返事でしたが,力強さはありませんでした。おそらく,このテーマに最も的確に反応してくれているのが,現時点では経済産業省です。もちろんこれからは,関連省庁が手を携えて政策立案をしていく必要があるのは言うまでもありません(とくに経済産業省は,「熱しやすく冷めやすい」傾向があるように思えますので……)。
 今回の資料を見てると,経済産業省は,伝統的な働き方である正社員から外れるものとして,①兼業・副業,②雇用関係によらない働き方,③テレワークという3つの分野に狙いを定めているようです。兼業・副業やテレワークは雇用関係による働き方でもあり得るのですが,自営で働くほうが,この働き方をより活かすことができるでしょう。
 つまり自営的テレワークがこれからの働き方の主流になるわけで,そうなると自営的な副業もふえ,さらに独立してもっぱら自営的に働くということも増えていくでしょう。このシナリオは,私には現実的なものと思えていて,今回の「雇用関係によらない働き方研究会」は,まさにタイムリーなものでした。
 研究者の立場から,私たちは,自営的就労の問題にできるだけ早く取り組んで,きちんとした法体系を構築することが必要と考えています(このことは,日本労働法学界の新しい講座にも書いているので,早く刊行されて欲しいですね。原稿が遅れに遅れていた私が言うのも何ですが)。残業規制や同一労働同一賃金などは,大きな改革の流れのなかでみると,実はそれほど重要ではないのです。拙著の『AI時代の働き方と法-2035年の労働法を考える』(弘文堂)で,長時間労働や非正社員問題の扱いが大きくないのも,そのためです。自営的就労を視野に入れた政策については,同書の第7章をぜひご覧になってください。
 ところで,今朝の日経新聞では,「政府は特定企業に属さずに働くフリーランスを支援するため,失業や出産の際に所得補償を受け取れる団体保険の創設を提言する。損害保険大手と商品を設計し,来年度から民間で発売してもらう。」と出ていました。
 報告書の中に,働き手のセーフティネットとして,「新たな民間保険の創設の検討・周知・活用による,休業時の補償制度の充実」とあり,これに連動したものでしょう。相変わらず日経新聞と経済産業省の連携は早いですね。拙著では,社会保険制度の見直しということを書いていますが,経済産業省の報告書なので,厚生労働省の本丸にまでは,いきなり手をつけはしないということでしょうか。
 また,「政府は契約ルールを明確にしたガイドライン作成を企業に求める」と記事に出ていました。民法や商法が適用されることになる自営業者の契約について,何らかの契約ルールが必要であるということも,拙著では書いていました。
 この点については先日の北九州市立大学でのシンポジウムで,静岡大学の本庄淳志君が,自営業者の契約には約款が使われるのではないかと予想し,債権法改正で新たに導入される約款規制の適用や解釈について検討してくれました。私は個別的な契約が増えるのではないかと漠然と考えていたのですが,たしかに仕事によっては約款が使われる可能性は高いのでしょう。今後は民法学の動向も気にしながら,自営(独立)労働契約のルールのあり方について考えていくことが必要だと再認識させられました。

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2017年3月13日 (月)

使用者申立てなしの金銭解決なんて,メインのないコース料理のようなものだ!

  今朝の日経新聞の「法務」で,「解雇の金銭解決」の紹介がなされていたのですが,「政府は,解雇された人が望めば,職場復帰を諦める代わりに会社に解決金の支払いを求められる『金銭解決制度』を検討している。」と紹介されています。これは「労働者申立て」の金銭解決制度のことですね。これを認めることには,理論的にはそれほど大きな問題はなく,補償額の程度をめぐる争いはでてきますが,少なくとも理論的ハードルは比較的低いのです。
 問題は,使用者申立ての金銭解決,あるいは使用者に解雇無効を拒否して金銭補償を選択できる道が法律上残されるようにするかで,それを認めるかどうかこそを真剣に議論してもらわなければ困ります。日経新聞の記事は,おそらく政府からの情報でしょうが,初めから労働者申立ての金銭解決しか認めないという土俵を設定しているかのように読めてしまうのが気になりました。もっとも,この記事では,「厚労省は会社側からの申し立ての問題点も示した。」と書かれています。これは使用者申立ての金銭解決のことも議論になるということのようでもあります。
 実は平成27年3月25日の規制改革会議が,「『労使双方が納得する雇用終了の在り方』に関する意見」で,金銭解決について,「労働者側からの申し立てのみを認めることを前提とすべきである」という,きわめて不適切な提言をしてしまっています。この余計な提言で,かえって(真の意味の)金銭解決へのハードルが高くなってしまいました。
 いずれにせよ金銭解決は,使用者申立てを認めるか,労働者申立てだけにするのかでは改革の意味がまったく異なるので,これをよく整理されないまま紹介されては困ります。記者の方には,このあたりをよく勉強して記事を書いてもらいたいものです。
 今朝の日経新聞では,賞与のことも出ていました。「同一労働同一賃金ガイドライン案」で大きな影響があるとすれば,たしかに賞与についてでしょう。賞与を,会社の業績等への貢献に応じて支給しようとする場合,無期雇用フルタイム労働者と同一の貢献をする非正社員には,貢献に応じた部分については同一の支給をしなければならない,としているからです。もっとも賞与の算定方法は裁量が大きく,労働組合があるところでは,最終的には団体交渉で決まることが多く,いずれにせよ貢献に応じた部分を特定するのは困難なので,ガイドライン案には,あまり実効性がないようにも思えますが,ただこの案を,非正社員にも賞与を支給する趣旨であると過剰に拡張解釈すると,実務に大きな影響が生じるでしょう。私は,もちろんそんな拡張解釈をすべきではなく,このガイドラインをきっかけに,非正社員にも賞与を支給してみようかと経営者が考えてみたり,労働組合が要求したりすることで十分ではないかと思っています(その意味で,訓示規定としての効力でよいと考えています)。
 日本総合研究所の山田久さんは,日本における賞与制度について,それによる賃金の弾力性が,不採算事業の温存につながるとして批判的なコメントをされています。廃業や解雇をしなくても,賃金と生産性の乖離の調整が可能であることを問題視されているのかもしれません。もっとも,理論的には,賞与の比重をもっと高めていくと,労働者の基本給が減り,業績が悪ければ賃金が上昇しないので,それに不満をもつ労働者が自然に移籍していくという面もあります。今後の賃金のあり方は,むしろ,こうした賞与的なもの(インセンティブ)が中心となっていく可能性もあります。
 もう一つ経済教室では,柳川範之さんが,AIと働き方改革のことを書いていますね。これはNIRA総研の研究会でも扱ってきたことで,拙著『AI時代の働き方と法』の方向性は同じだと思いますが,目を引いたのは,さらっと最後に書かれている「働き方基本法のような大枠としての法整備」です。柳川さんは,これを書きたかったのかもしれないと思いました。基本法に盛り込めることといえば,おそらく,柳川さんも書かれているように「日本全体として大きな方針を明らかにすること」であり,政策綱領規定のようなものかもしれません。ただ,これだけだと,厚生労働省だけでなく,いろんな役所が参入してきて,政策が乱立するだけで終わるのではないかという懸念もあります。ここは,本来は厚生労働省の頑張りどころで,新しい流れにきちんと乗った政策立案能力が問われていると思います。それと同時に,こうした政策は,既存の労働法との関係もしっかり意識した理論主導のものでなければならないでしょう。労働法学界がやるべきことは少なくないはずです。
 ちょうど,日本労働研究雑誌の最新号(680号)は,労働法学の学界展望でした。これをみると,日本の労働法学がここ3年何をやってきたかがわかるのですが,はたして新しい時代に対応していけるような議論をしてきたでしょうか。学界展望については,私の論文も2本とりあげられているので(ありがたいのですが,とりあげられたのは,やや意外な論文でした),それも含めたコメントは,また後日。

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2017年3月12日 (日)

育児をする女性が働きたがらないのはなぜ? 

 厚生労働省の平成24年度就業構造基本調査によると,25歳から44歳の育児をしている女性の都道府県別有業率では,なんと兵庫県は,神奈川県に次ぐワースト2でした。この率が低いのは,神奈川,兵庫,埼玉,千葉,大阪,奈良,北海道,東京,滋賀という順番で比較的都市部かその近郊のところが多いのが分かります。逆に率が高いのは,トップは島根,ついで山形,福井,鳥取,富山,石川,秋田,宮崎,高知,青森,熊本,新潟,岩手,佐賀,沖縄,香川,群馬,徳島,山梨,長崎,鹿児島,長野,三重,福島,岡山,大分……とどこまで並べても,都市部の県が出てきません。ということで,都会では,女性は育児か就労かというと,育児を選択する人が多いということがわかります。
 先日の兵庫県の地方労働審議会では,兵庫県が低いので何とかしなければならないという意見もあり,それはそのとおりなのですが,どのように対策をとらなければならないかというと,これは兵庫特有の問題ではないということにまず留意をしておかなければなければいけません。兵庫県だけ特に女性の就労意欲が低いとか,兵庫県の企業だけが育児をしている女性に優しくないとか,兵庫県だけが,地域社会において育児期の女性の就労に否定的であるとか,そういうことではないのかもしれません。
 都市部のカップルは,夫である男性の収入が比較的高いため,あえて共働きをしなくても経済的にやっていけるから育児を選択するという可能性もあるでしょう。その前提には,配偶者のいる女性が働くのは,就労による自己実現といったポジティブな意味だけではなく,経済的な理由によるものも少なくないのではないかという仮説があります。もしこの仮説があたっていれば,経済的な理由がそれほど大きくないカップルにおいては,出産をすると,女性にとって育児と就労の比較において,育児の効用を放棄するコストが相対的に高くなり,働く上での留保賃金が高くなるため,有業率が減少するといった可能性もあることになります。
 女性の有業率が低いことが意識等の問題であるならば啓発活動が効果的でしょうが,コストの計算によるものであるならば,政策的対応がそれほど必要な問題かは疑問となります。人出不足問題への対策として,育児に満足している女性に就労してもらうことが必要というのであれば,企業に高い賃金を提示させるか,より過激には,子供は全員保育園に預けて社会で育てることにし,大人は働きに出ることを強く奨励するという政策も理論的にはありえます(労働力が限られている社会を想定すると,人口維持と生産性の維持の両立を考えるならば,生産性が低い老人たちが育児をし,生産性の高い若い人には子作り(セックス)を奨励し,あとは仕事に精を出せという政策もありえるのです)。とはいえ,こんな政策は,現実的ではなさそうです。
 もちろん審議会の場では,そんな過激なことは言いませんが,原因をしっかり見極めたうえで,適切な対策をとっていただけるようにという希望だけは述べておきました。

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2017年3月11日 (土)

Work Model 2030

  リクルートワークス研究所「Work Model 2030」という報告書が出されました(http://www.works-i.com/tech/)。この報告書へのコメントを求められ,それに答えたものが,インタビュー集としてまとめられて冊子で届きました。一般の人がみることができるものかどうかわかりませんが,私を含む9名の人がインタビューに答えています。東大の柳川範之さんや松尾豊さんといった常連(?)も含まれています。
 この報告書は,「テクノロジーが日本の『働く』を変革する」ということで,実は私の問題意識とほぼ重なっています。私はAIなどの先端技術の革新は今後もとどまるところを知らないし,それをとどめるべきでもないという立場から,技術のもつ可能性を吟味していくことが必要だと考えています。拙著『AI時代の働き方と法-2035年の労働法を考える』(弘文堂)も,そういう問題意識によって書かれたものです(先週木曜日は,中沢孝夫先生に,日本経済新聞の夕刊で採りあげていただきました。また今日は,同新聞の読書欄でも紹介されていました)。
 私自身,デジタル人間ではないですが,それでも役所や大企業などの大きな組織の人と仕事をする機会があるときに感じるのは,デジタライゼーションを論じるとかいう次元と懸け離れたところで,新しい技術に何の関心も示さず旧態依然とした仕事のやり方に満足している人が多いなということです。
 ほんのちょっとの効率化さえ嫌がる人たち。やっぱりアナログだと言って,それに同調している仲間同士で納得し合っている人たち。こうした人たちが日本の中心にいるかぎり,日本の未来は暗いです(「暗い」というのは経済的な面からです。アナログの世界で,のんびりと生活するという人生それ自体は魅力的です)。
 ところで,リクルートワークス研究所の今回の報告書にも出てくるように「フリーランス」「起業」は,これからの社会のキーワードです。AIなどの技術の波に飲み込まれるのではなく,個人として,いかにAIを活用し,生き延びていくかという戦略も必要です(この点については,拙著の『君の働き方に未来はあるか-労働法の限界と,これからの雇用社会』(光文社新書)をぜひ読んでもらいたいです)。
 昨日は,リクルートワークス研究所がこの報告書に関して開催したシンポジウムに出て,私の名前を知ったという日経新聞の記者が,神戸まで取材に来てくださいました。もっとマスメディアが,時代の変革の流れを伝えて,技術に背をむけたがる人たちに警鐘を鳴らしてくださいと頼んでおきました。もちろん,これからは,ジャーナリスト自身が,そうした時代の波をとらえていかなければ,それこそAIに取ってかわられてしまうでしょう。

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2017年3月10日 (金)

佐藤博樹・武石恵美子編『ダイバーシティ経営と人材活用』

 佐藤博樹・武石恵美子編『ダイバーシティ経営と人材活用―多様な働き方を支援する企業の取り組み』(東京大学出版会)を,お送りいただきました。いつもどうもりあとうございます。
 ダイバーシティーが書名に入っていますが,大きく分けて転勤,女性活躍支援,ワークライフバランス,仕事と介護(ガン治療)との両立,というテーマで構成されています。個人的に興味をもったテーマは,転勤と介護です。
 転勤は,正社員である以上,避けられないこととされていました(私は『雇用社会の25の疑問』(弘文堂)では,転勤は「雇用社会の掟」と書いていました)。しかし本書の分析結果では,「転勤経験は能力開発に有意な関係があるとはいえないことが明らかになった」(61頁)とされています。
 前にも書いたことがありますが,転勤は,正社員の忠誠度を問うような精神的な意味合いが強く,現在においてどれだけの意味があるのかには疑問もありました。これまでやってきたから続けているという面もあるのではないでしょうか。人事管理の専門書において,こうした点の問いかけがなされ,実証的に検討していくことの意義は小さくないでしょう。こうした研究の積み重ねが,企業の人事管理に影響を及ぼし,さらに裁判所の転勤命令の権利濫用に対する甘い判断(企業側に甘い判断)を見直すきっかけになればと思います。
 介護については,介護ヘルパーへの調査をとおして,介護者の仕事と介護の両立を検討しようとしているところも興味深かったです。たしかに労働者が両親などの家族の介護をしていくうえにおいて,ケアマネジャーのサポートは重要です。もっとも今日の問題は,ケアマネジャーをはじめとする介護労働者の不足というところにあります。雇用政策的には,こちらのほうも重要でしょうね。
 いずれにせよ1冊で,多様な働き方に関する重要論点が,実態調査などを通じて丁寧に分析されている点で,労働の研究に従事する者の多くが参照すべき文献であると思います。

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2017年3月 9日 (木)

説明義務

 今朝の日経新聞において,「同一労働同一賃金」をめぐる厚生労働省の案で,説明義務と立証責任に関する記事が出ていました。記事の中で,立証責任のところで説明という言葉が使われていたりして,誤解を招かないか心配です。厚生労働省がどのような説明をしたのかわかりませんが,専門家でも法律家以外であれば少し誤解がありそうな用語なので,若干,説明しておきます(それこそ法律家の世間への「説明義務」です)。
 まず企業が労働者に対して,労働条件の格差の合理性について説明する義務を課すべきかどうかという論点は,本来,格差の合理性そのものを法的に争うことができないが,合理性の存在についての相当な説明をしたかどうかは法的に争えるという文脈で出てくるべきものです。これは実体規制と手続規制の違いと言い換えることもできます。類似の論点は,従業員の査定について,企業に公正査定義務があるかどうか,あるとすればどのような義務かという文脈で登場することがあり,この場合,公正さそのものは争えないが,公正であることの説明義務は企業にあるといった形で議論されます。査定の公正さは裁判官が判断できるのかという問題があるので,手続的な義務にとどめるということで,緩やかな規制にするという意味があります。そもそも査定の公正さを客観的に論じることは難しいという理解も根底にあります。
 格差の合理性についても,同様に,合理性そのものを法的に争うことはできないので,これを実体要件として課すべきではなく,説明という手続的な要件にとどめるべきという主張があります(これは現在のパート労働法14条の定める事業主の説明義務を強化して,その発展上に位置づけるという発想によるものです)。説明義務も規制の一種ですが,人事管理にもプラスになるということも,この義務を肯定する論拠の一つとなります。なお,このことは,私は,前にブログで書いたこともありますし,ビジネスガイドに連載中の「キーワードからみた労働法」の第106回「同一労働同一賃金」でも書いています。
 経済学者のなかでも説明義務を論じる人はいますが,法的な説明義務論は,実体規制との違いを意識したもので,広い意味では規制緩和論の系譜に位置づけられる独特なものともいえます(就業規則の不利益変更の合理性などで,実体要件よりも手続要件を重視する同志社大学の土田道夫先生や私などの議論は,この手続規制論の当初からの積極的な主唱者です)。
 しかし,こうした立場とは異なり,もし実体要件に加えて,説明義務も追加して課すということであれば,これは全く異なった議論であり,規制強化論です。ただ,こうした重畳的な規制は,アイデアとしてはありえますが,実体要件を課すのなら,説明という手続を法的義務として課す必要性は小さくなるのではないかという感想をもたざるをえません。
 この中間的なものとして,不合理性の判断において,説明義務をどれだけ果たしたかを考慮するという立場があります。おそらく現在の労働法学の主流はこの立場ではないかと思っています。就業規則の不利益変更の合理性においても,こうした考え方がとられており,これは現在では労働契約法10条の条文でも確認できます。
 労働条件の格差の合理性も,こういう実体規制をメインにして,これに手続面を考慮するというハイブリッド型でいくべきなのかもしれませんが,そうしたことを分かったうえで,どこまで議論をされているのか,議論の参加者はよく意味がわかっているのかが心配ではあります。杞憂であればよいのですが。
 さらに立証責任となると,より法技術的な面がからんでいるやっかいな論点です。これは裁判で,事実認定において真偽不明となった場合に,どちらの当事者が不利になるのかということに関するものです。ここで「責任」というのはミスリーディングで,どちらの当事者が裁判官を納得させる「負担」をすべきなのかをめぐる問題と呼んだ方が,普通の人にはわかりやすいと思います。
 労働条件の格差については,その合理性を根拠づける事実を企業側が裁判官に納得させる負担をするのか,不合理性を根拠づける事実を労働者側が裁判官に納得させる負担をするのかが争点となります。さらに,労働者が一定の立証をすれば,企業側に反証責任があるとか,立証責任の所在を変えないまま,立証の負担を軽減する(労働委員会の実務において,組合員差別の立証における「大量観察方式」などがその例です)とか,いろいろなバリエーションがあるので,議論はかなり複雑です。。
 原則としては,訴訟を提起する原告側である労働者が,自らの法的主張を根拠づける事実について立証責任を負うことになりますが,たとえば,未払残業請求をする場合に,労働者が,自らの権利が時効にかかってはいないということまで主張し立証する責任は負わないなどの細かいルールがあります。もちろん,このあたりの詳細は,弁護士ら実務法曹にまかせておけばよく,普通の人は知らなくても大丈夫ですが,今回のように立証責任が問題になるとすると,議論に参加する人はこの面の知識なしではすまないでしょうね。
 また,こうした細かいことはさておいても,立証責任の問題が純然たる訴訟手続上の問題にとどまらないということは知っておいてもらう必要があります。つまり,労働条件の格差の合理性を根拠づける事実について,企業側に立証責任があるとするならば,そこには,原則として,企業には,労働条件の格差をつけてはならない義務があるという規範があることが前提となっていなければならないでしょう。だからこそ,格差の合理性について裁判官を説得できなかった企業は,同一労働条件にしなければならないということを正当化することができるのです。
 問題は,一般的な形で,労働条件の格差をつけてはならないというような規範を認めるべきかです。ある企業が雇用しているベテラン正社員と,簡単な手続で雇い入れたアルバイト社員の間に賃金の格差があった場合,なぜ格差があるのかについての合理性を企業は立証しなければならないのでしょうか。これはどう考えてもおかしいわけです。もしそんな規範があるのなら,少なくとも,どのような場合であれば格差が合理的であるかの基準を定める規範が示されることが必要でしょう。経験年数,仕事の内容,本人の能力などの違いの立証ができれば合理的と裁判官は判断してくれるのでしょうか。格差が2割であればいいけれど,3割があればダメといったことは,どのように決められるのでしょうか。こうした点がクリアにされなければ,当事者からすると,裁判官がどのように合理性の判断をするか事前に予測することができず,訴訟リスクを考える企業であれば,実際上格差を設けることはできなくなるでしょう。政府の狙いはこれなのでしょうか。

 この点については,就業規則の不利益変更であっても合理性が要件となっていて,これまで長年,労働法は,そういうことを経験してきているという反論もあるかもしれません。しかし,労働条件の格差は,これとは違うのです。就業規則の不利益変更であれば,企業は,多数組合や従業員の納得を得てしまえば,実際上,訴訟の可能性がなくなります(しかも,個々の従業員の同意が明確に存在すれば,通説によると,もはや合理性がなくても変更は可能となります[労働契約法9条の反対解釈])。しかし既存の従業員の労働条件の不利益変更の場合と異なり,新規採用の非正社員の採用においては,その非正社員はいままで会ったこともない労働者であるわけで,その納得を得て合意したからといって,訴訟リスクが軽減するとは企業には思えないでしょう。
 手続規制論は,そもそも使用者から労働者に情報提供をし,説明を十分にしたうえでの同意であれば,その同意の効力を認めてよいという考え方です。私は,こうした発想で訴訟リスクの軽減と労働者の納得性の向上との両立を図ろうとする立場ですが,少なくとも労働法において,こうした立場に明示的に賛成してくれる人はほとんどいません。みんな労働者の同意があっても,何らかの実体要件(合理的理由など)は必要としています。ましてや交渉力が弱いとみられる非正社員の労働条件の合意であれば,よりいっそう実体審査が必要と考えるでしょう。そうなると,どんなに合意があっても,訴訟に巻き込まれ,そして敗訴するリスクが高まるのです。就業規則の不利益変更であれば,多数組合の同意があれば,訴訟となるリスクが減るし,また万が一訴訟となったとしても,変更の合理性が認められる可能性が高い(労働契約法10条では,「労働組合等との交渉の状況その他の就業規則の変更に係る事情」が合理性審査において考慮される)のに対して,労働条件の格差問題については,こうした事情がないのです(この点では,たとえば労働契約法20条の不合理性の判断における「その他」の要素に手続的要素を組み込むことができるかどうかが解釈論上の一つの争点となるでしょう)。
  ということで,訴訟リスクがある以上,企業は労働条件の格差をつけにくくなり,そうなると企業は,これまでなら非正社員として雇っていた人を正社員として雇うようになるだろうというのが,政府の狙いとする非正規改革なのかもしれません。しかし,それは,ずいぶんと乱暴なものではないでしょうか。

 パート労働法の9条は,職務内容が同一であり,全雇用期間において人材活用の範囲が同一であれば,差別的待遇を禁止しています。この規定のように,正社員と比較されるパート社員について厳格な要件が課されていれば,原則として両者は同一に扱わなければならず,格差を設ける場合には,企業の方がその合理性を立証しなければならないとするのは,まだ理解できるところです。
 しかしいま議論されているのは,そういうことではないのではないでしょうか。欧州でも,正社員と非正社員(有期,パート)の比較をする場合には,「比較可能性」があるかどうかがまずチェックされます。日本で議論する場合にも,どのような非正社員が,正社員と比較可能となるかについての要件設定をしないまま(パート労働法9条だけはそのような設定をしている),企業の方に格差の合理性についての立証責任を課すと,前記のベテラン正社員と新人のアルバイト社員との比較のうえで,合理性を論じるというようなむちゃくちゃなことになります。
 もちろん狭義の「同一労働同一賃金」は,同一労働をしている労働者間での比較をするだけであるということかもしれません。たしかに,それならば比較可能性があるという考え方もありえます(同一労働だけで十分かは議論の余地がありますが)。それでも日本の正社員の多くは職務給ではないので,やはり比較可能性はないということになりますし,政府の「同一労働同一賃金」は,そもそも同一労働を問題としない日本型同一労働同一賃金です(このあたりは,ビジネスガイド835号の拙稿「(日本型)同一労働同一賃金は正しい政策か?」も参照してください)。
 最後にもう一つ,合理性の基準があればまだまし,という趣旨のことを前述しましたが,日本型雇用システムにおいて,正社員と非正社員との間で,格差の合理性の基準を設けることは現実には不可能でしょう。正社員を含め全員を職務給にしてしまうというような改革をすれば別ですが,そういうことを政府はやるべきではありません。ただ,これをやってもよいという人もいるので,そうした人と私との価値観の違いは深刻です。つまり,政府のイニシアチブで,正社員の賃金制度改革をしてもよいという点に賛同するかどうかが,この議論対立の根幹にあるところなのです。
 非正社員という存在は,正社員制度から生まれてくるものです。日本の正社員制度をどう考えるかが問題の根幹にあるのです(「正社員制度」については,拙著『AI時代の働き方と法』(弘文堂)の第4章を参照してください)。
 正社員制度を軸とする日本型雇用システムの今後は,まずは労使がしっかり考えていくべきであり,とりわけ賃金などの処遇については,政府は過剰な介入をすべきではありません。もちろん個別の「病理」的ケース(長期的にパートで働いていて,正社員と自主的に同じような仕事をしているにもかかわらず,賃金の格差があるような場合)が存在しないとはいいませんが,そうしたケースに対処するための法的ツールをブラッシュアップしていくことこそ,法律家がやるべきことです。
 通常の手術のレベルをアップするだけで対処できる症状に対して,成功したときの評判に目がくらんで,誰もやったことがないような最先端の大手術で挑もうとされては,患者である国民はたまったものではありません。

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2017年3月 8日 (水)

菅野和夫『労働法(第11版補正版)』

  菅野和夫先生の『労働法』(弘文堂)の第11版の補正版が出ました。 いつもお送りいただきどうもありがとうございます。
 第11版が出たのが,2016年2月なので,いま補正版が出るということは,その間に多くの立法があったことを示しています。
 雇用保険法,育児介護休業法,高年齢者雇用安定法,男女雇用機会均等法等の改正がありました。また外国人技能実習法の制定もありました。いわゆる労働市場法の分野の立法がとくに盛んです。
 判例よりも立法の時代となり,これからは労働法の体系もダイナミックに見直されていく必要があるのかもしれません。今年も(あるいは今後何年かのうちに)労働契約法や労働基準法の改正がなされる可能性があります。菅野労働法が,改訂・補正がなされている間に,私たち後進の者が次世代の労働法の構築の準備をしておく必要があるのでしょうね。
 それにしても最近の学生は,菅野先生の教科書が1000ページを超えているのを見て,それだけでひるんでしまいます。労働法で何か語ろうとするならば,少なくとも菅野労働法を読んでおくことは最低限必要です。と偉そうなことを言いながら,私自身,最近は,先生の改訂スピードについていくことができず,関心があるところだけのつまみ食いなので,あまり偉そうなことは言えないのですが。

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2017年3月 7日 (火)

百田尚樹『夢を売る男』

 百田尚樹『夢を売る男』(幻冬舎文庫)を読みました。ある出版業界の編集者である牛河原氏。本を出版したいという自己顕示欲満々の一般人を「騙して」自費出版に持ち込み,実際の出版費用との差額を儲けとするビジネスをやっています。でも,牛河原氏は,これは本を出したいが才能はないという一般の人の夢を実現するのに一役買っているのだと,悪びれたところはありません。
 本の筋はさておき,日本語で書かれたブログが全ブログの3割を超えているなど,驚きの情報もありました。書きたい病の日本人というところでしょうか。
 そういう私も2007年よりブロガーをやっていて,一回消去してしまったのに,性懲りもなく,復活の熱い希望に応えて(?),再開し,今日に至っています。本の執筆やゲラがないときには,ほぼ毎日更新しており,自己顕示欲にとりつかれた悪しき日本人の典型例かもしれません。とはいえ,私は自費出版はしたことがありませんが。
 本書はラストがいいです。本当に良い本は自費出版させないで,会社が責任をもって出す。そして営業力で儲けを出す。この目利きとしての自信,そして優れた編集と連動した営業,これにより良い本が普及するのです。良い本が普及して利益がでれば,次の良い本を出す原資が生まれます。
 私たち著者も,売れる本を出したいのは,次に出したい本を出すためです。私らの本は,売れても印税はわずかです。時給にしたら最低賃金を大幅に下回っています。だから私程度の者は,本を書くことは,もし利益というのを考えれば効率の悪いことです。
 それではなぜ書くのか。それは自己顕示欲と言われれば否定はしません。書きたいことがあるから書くというのは事実です。このブログのように,無償で書くのもそのためです(そろそろ無償はやめて,コアな読者だけ集めて,双方向で会話するサロン的な有料メルマガに切り替えようという計画は前からあるのですが,実現していません)。いずれにせよ,依頼があるかぎり,あるいは私の企画を受け入れてくれる出版社がある限り,当面は,夢を買わせてもらいましょう。
 でも,それもあと10年くらいかもしれません。私が書けなくなるかもしれないのと同じくらいの確率で,自分で直接発行してしまうことになるかもしれないからです。有料メルマガの書籍版です。これからの著者として必要なのは,出版社という看板ではありません。
 いまの出版社には在庫管理ばかりに熱心で,自転車操業のような売り方をしているところが少なくありません。あるいは補助金があるとか(これだと自費出版とあまり変わらないですね),確実に売れる客がいるとか,そういう場合にしか本を出してくれないというところも多いようです。営業力で売ってもらうということは,あまり期待できません。
 紙媒体の出版は,とても古いビジネスモデルです。著者として,自分の書きたいことを世に問うためには,どうすればよいかということを考えていけば,課金システムと著作権管理さえうまくできれば,もはや出版社は不要となるかもしれません。というか文筆業で儲けるというのではなく,情報は無償にして,それと連動した別の方法で利益を得るということもあるのかもしれません。そこで大切なのは,ほんとうに優秀なプロデューサーとディレクター(編集者兼務)です。著者は,そういう人とコンビを組んでいくというのが,これからの文筆や情報発信のあり方なのでしょうね(その著者のなかには,AIも含まれているかもしれません)。
 読者としては,たとえば村上春樹に直接発注して,電子媒体で本を購入するということになるでしょう。産地直送です。
  さて本書に戻ると,解説で花田紀凱氏も書いていますように,この本は,出版業界に身を置く人は,すべからく読むべきでしょうね。自分たちの業界が何をすべきかを再確認できると思います。                 ★★★★

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2017年3月 6日 (月)

天下り問題に思う

 2月22日の毎日新聞(電子版)に,今回の文科省OBの早稲田大学への天下り問題について,「文科省は依頼があっせん行為にあたるとして国家公務員法違反と認定したが,早大内部では『大学の自治の侵害』と批判が出ている。」という記事が出ていました(http://mainichi.jp/articles/20170222/k00/00m/040/136000c)。これを最初読んだとき,「認定したが」の「が」を逆接だと思い,早大内部から,国家公務員法違反との認定を,「大学の自治の侵害」とする意見があったのかと思ってしまいました。ただ,あとの文章を読むと批判の対象は「あっせん行為」のことなのですね。
 よく考えると当然そう読めるのですが,私の頭のなかに,天下りを受け入れるかどうかは,大学側にとっての自治の問題であるという主張もありそうかなと思い,早稲田クラスになると,そんな主張もするのかなと一瞬思ってしまったのです。
 私は,天下りには,良い人材の確保という意味もあり,頭から批判すべきではないという立場です(そのような趣旨のことは,拙著『雇用社会の25の疑問(第2版)』(弘文堂)の第17話「公務員には,本当に身分保障はあるのか」のなかでも書いています)。厚生労働省で経験をつみ,知識も豊富で,見識も高い人が,退職後にJILPTの幹部としてやってくることには何も問題はないと思っています。
 ただ,これも人材の活用という視点からのものであり,役所のほうから人事を押しつけるとか,役所と通じていることしか価値のないような人材の天下りを受け入れるということであればダメでしょう。
 受入れ側も,補助金をとりやすいからといった理由でやっていると,天下りを受け入れていないところとの不公平感が生じ,国民からの厳しい批判にさらされざるをえないでしょう。
 ところで,天下り規制は,国家公務員法106条の2以下にあります(http://www5.cao.go.jp/kanshi/gaiyou.html)。
 国家公務員法に規定する再就職等規制には,①他の職員・元職員の再就職依頼・情報提供等規制(106条の2),②現職職員による利害関係企業等への求職活動規制(106条の3),③再就職者(元職員)による元の職場への働きかけ規制(106条の4)の3つがあります。
  ①については,職業安定法,船員職業安定法その他の法令の定める職業の安定に関する事務として行う場合,独立行政法人,特殊法人等に現役出向させる場合,官民人材交流センターの職員がその職務として行う場合は例外となっています(106条の2第2項)。
  ①についての独立行政法人等への現役出向が例外というのは,なんだかミエミエの例外でくすっと笑いたくなります。別にこれをダメと言いたいわけではありませんが,人材の活用という視点からいうと,その法人の業務に必要な能力をもっているかどうかというチェックは必要です。人事交流は重要という意見もあるでしょうが,私はある程度の年齢までならともかく,幹部クラスになってからの単なる人事交流は有害であることが多いのではないか,という印象をもっています。あくまで印象論ですが。
  法科大学院では,裁判官や検察官に実務家教員として来てもらっていますが,これはもちろん大学側がお願いして来てもらうのであり,そして来ていただいた人も,プロとしての責任感をもって実によく働いてくださっていると思います。これは,大学に足りない専門性を補充する人材の活用のためのものです。もし裁判所から,大学側が頼んでもいないのに,特定の裁判官を受け入れてもらえないかという押し込み(推薦との違いは微妙ですが)があるということがあれば,これはやはり問題でしょう。刑事事件をかかえそうな大学の役職者が,将来のことを考えて,裁判所に恩を売るために受け入れるというようなことになれば大問題です。日本ではまずありえないことですが,外国の映画になら,出てきそうなシーンですね。
  いずれにせよ,天下りについては,役所が,いろんな規制のルールを作り,それを遵守するためには,役人の智恵が必要だから,うちの役所OBを受け入れていたほうがよいですよ,というような形で,いわばポストの確保のための規制の増大が起こりかねないという点が問題です。
  役所にいる優秀な人材の活用,役人自体の職業選択の自由を十分に尊重するためには,現行の国家公務員法のルールは,それが厳しすぎるように思えたとしても遵守し,たとえ違法ではない方法であっても,規制をかいくぐるような抜け道を使うことも控え,国民の信用を高めていくしかありません。それをやってくれなければ,こちらは退職公務員の活用の応援をしたくてもできなくなってしまいます。この意味で,文科省の今回の問題はかなり深刻です(それに多くの国民は,他の省庁もやっていると思っています)。猛省が必要でしょう。

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2017年3月 5日 (日)

第131回神戸労働法研究会

 

昨日の神戸労働法研究会(神戸大学社会システムイノベーションセンターとの共催)は,北九州市立大学でのシンポジウムとして開催されました。デジタライゼーションと雇用,インディペンデント・コントラクター(IC)をめぐる法的論点の検討などを集中的に行いました。私個人としては,今後の研究の方向性がクリアになった感じで,知的刺激を大きく受けました。

 ドイツのデジタライゼーションの議論については,JILPTの山本陽大君が「Arbeiten4.0」という白書(Weißbuchの総論部分を報告してくれました。ずいぶん勉強になりました。拙著の『AI時代の働き方と法』(弘文堂)で検討している政策と似ている部分もあれば,違う部分もあり,その比較は興味深いものがあります(ドイツ的な問題解決手法には特徴的なところがあり,その分析は山本君がどこかで書いてくれるでしょう)。またICとの関係では,従属労働保護の延長線上に位置づけているのか,それとも新たな枠組みを用意しようとしているのかも論点であり,昨日のシンポジウムではここがいろいろな形で何度も検討されました。欧州は,私が報告したイタリアも含め,従属労働論の延長(延長の意味は,もう少し精密に定義する必要がありますが,ここでは省略します)で,議論がされているように思います。この点では,欧州ではイタリアも含め,Supiot Au-delà de l'emploi”の影響がきわめて大きいものがあります。北九州市立大学の石田信平君が報告してくれたイギリスでも,やはりSupiotの影響は及んでいるようです。

 私自身の問題意識は,同志社大学の坂井岳夫君の報告してくれた社会保障法上の問題も視野に入れながら,新たな理念・原理でICをめぐる法を,いかにして新構築するかということにあります。Independentな個人の活動に,法がどう関わっていくか。民法・消費者契約法,税法はもちろん,憲法の職業概念の検討も必要ですし,社会保障法の再構築も必要ですし,それに何より労働法が変わらなければなりません。

 このシンポジウムの成果は,これから大きく展開されていく研究プロジェクトの橋頭堡となるでしょう。

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2017年3月 4日 (土)

三題噺

 昨日(3月3日)の日経新聞における,フランスの大統領選挙,シンガポールの無人国家,伊藤忠のAIビジネスの記事は,私の頭のなかで3つつながりました。

 フランスの大統領選挙については,中道系のマクロン氏の政権公約が記事となっていましたが,それと対照するための中道左派の候補の公約のなかに,ロボット課税というのが入っていました。ロボット課税が正面からフランス大統領選の争点となるかどうかは不明ですが,日経新聞でもときどき海外の話題として取り上げられています(ビル・ゲイツの議論など)。

 AIやロボットの発展に対して雇用を奪うという観点から,政治的に抑制をかけようとする動きを,私は現代版ラッダイト運動と呼んでいます。今日ではさすがに物理的な暴力はないとしても,たとえば雇用を大きく奪うような先端技術の研究開発に予算をつけないという形の締め付けはありえますし,端的に開発を禁止するということもないとはいえません。形を変えて,先端技術を利用して利益を得た企業に課税をして雇用を失った者への所得補償に回すという再分配政策の財源とするという発想もあります。私は,再分配政策はともかく,技術発展を抑制しようとする政策は間違ったものと思っています。日本だけそうした政策をとっても,グローバル化はますます深化するので,国内のAIやロボットに雇用を奪われるか,先端技術を使った海外の企業に雇用を奪われるかの違いだけです。

 次に,シンガポールの実験は,「半ば強制的に現場作業に携わる職場を減らし,限りある人口を生産性の高い分野に振り向ける」というものです。先端技術を使って効率化できるところは徹底的に効率化して,人材を高付加価値の期待できるところに集中させるというものです。企業がやりそうなことですが,シンガポールくらいの規模であれば国家がやってしまうということでしょう。日本の労働者が楽観しているのは,日本の企業はそんなことはやるわけないと高をくくっているのです。でも,ほんとうに競争にさらされるとどうなるでるでしょうか。 

 この記事では,「みんながスキルを上げるなんて無理」という不安を示す女性の意見が紹介されています。確かに,そうでしょう。ロボット課税といったポピュリズム政策は,こうしたところから生まれてくる可能性があります。でも,立ち向かう必要があるのです。国の職業政策や教育の重要性は,いままで以上に,飛躍的に高まります。

 そして伊藤忠の話しとなります。伊藤忠商事が,AIを使って小売店の運営を効率化する,という記事です。まさにシンガポールで起こっていることを,技術的にサポートすることがビジネスとして展開されようとしているのです。この日の1面では政府の「物流 30年完全無人化」計画も紹介されていました。

 こういう記事をみていると,AI時代のビジネスが変わり,そうして働き方が変わり,そしてそれに必要な政策も変わるということが見えてきます。ということで,より詳しく考えたい方のために,拙著『AI時代の働き方と法』(弘文堂)を宣伝しておきます(最近,このテーマでの取材依頼が結構来るのですが,内閣府やNIRAのサイト経由で,拙著の存在を知らずに依頼してくる人が多いのです・・・)。

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2017年3月 3日 (金)

国際自動車事件・最高裁判決

 昨年2月に神戸労働法研究会に梶川敦子さんに報告してもらった事件の上告審判決が出ました(最高裁判所第3小法廷平成29年2月28日判決・平成27年(受)1998)。私はこれについてブログで書いていたはずですが,そのときどのように書いていたのか,もはや削除されてしまっているので見ることができないなと思っていると,実はブログのアーカイブがあって,かなりの部分は消去されずに残っていることがわかりました。以前に中央大学の佐藤博樹さんに教えてもらっていたのですが,別に過去は振り返らずということで放置していました。しかし,今回は,見てみることにしました(それにしても,過去のものは,消去や修正することができないので,これはたいへん困ったものです。これも忘れられる権利に関わる話でしょうかね)。
 梶川さんに報告してもらったときのブログの内容は,次のような簡単なものでした(昨年2月のもの)。

「第119回神戸労働法研究会その2」
 「2人目は,神戸学院大学の梶川敦子さんに,国際自動車・東京高判平成27年7月16日判例集未掲載,東京地判平成27年1月28日労判1114号35頁について報告してもらいました。詳細は,ジュリストの重要判例解説に掲載されるそうなので,そちらを確認していただければと思います。
 タクシー会社の賃金で,割増賃金を支払うという規定はあるのですが,歩合給の算定のなかで,割増賃金を控除することになっているという事案でした。最終的には,割増賃金が支払われないのと同じことになるため,こうした取扱いが許されないのは当然なのですが,法律構成として,割増賃金不支給の事案とみるのか,それとも歩合給の計算方法のなかで,割増賃金を控除するという内容になっているところに問題がある事案とみるのかは,微妙に結論に関係してきます。本判決は,後者の考え方で,労基法37条に直接違反していた事案ではないとし(同条の「趣旨」に反するとした),また付加金の支払いも認めませんでした。これに対しては,素直に労基法37条違反と言ってよいのでは,という点が議論となりました。また37条違反となった場合,いったいどういう効果が発生するのかも,実は厄介な問題があります。
 もっと広い問題として,37条は強行規定とされていますが,できるだけ労使自治を尊重した解釈論も考えていくべきでしょう。時間外労働が月に60時間を超える場合(同条3項を参照)だけでなく,もっと広く労使協定などで代替休暇を導入できるようにするとか,さらにはもっとラディカルに37条を任意規定にしてしまうなどの検討も,ホワイトカラー・エグゼンプションと関連して必要なことだと思っています。」

 このコメントは,判決のことを知っている専門家向けのものなので,ここだけみるとよくわからないかもしれません。とにかく,地裁も高裁も労働者の勝訴となっていて,研究会でも,結論は妥当であるが,理由付けには疑問がありうるという議論が大半で,それを前提に上記のようなコメントになりました。
 ところで梶川さんが,その後,別冊ジュリストの平成27年度重要判例解説で書かれている内容は,この最高裁判決にも影響を及ぼしたのではないかと思えるぐらい的確なものでした。
 割増賃金の支払いについては,基本給組入れ型であっても,所定の要件(分別要件など)を充足している限り有効であり,時間外労働をしても賃金が増えないことだけを理由として労働基準法違反とか,公序違反とは言えないこと,また本件では,法律上の割増賃金が義務づけられていない法定外休日労働などに係る部分を含む「割増金」の控除部分も無効としているのは行き過ぎであることなど,原判決の問題点が指摘されていましたが,まさに最高裁もそこを取り上げて,原審破棄・差戻しとなりました。
 このように最高裁判決は,実は,会社の措置が文句なく適法であると言ってるわけではなく,高裁判決の理由づけがおかしいと言っているにすぎません。
 さらに梶川評釈では,最後に,政策論的な観点から,割増賃金の時間外労働抑制機能に対する根本的な疑問を提起しています。彼女の問題意識は,私の『労働時間制度改革』(中央経済社)にも影響を与えています(同書の「はしがき」でも言及しています)。
 私はこれからの判例評釈は,単なる解釈論だけではなく,立法政策的な問題意識をもって臨むべきだと考えています。その意味でも,タクシー会社の割増賃金に関する運用に疑問を提起しながらも,同時に労働時間規制のあり方についても鋭い問題意識をもって評釈に臨んでいる梶川さんの姿勢は,まさに模範的なものです。
 いま梶川さんの原稿を読みなおしながら,あのときの議論が懐かしくよみがえり,思わず……目が曇ってしまいました。

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2017年3月 2日 (木)

大木君おめでとう

 姫路獨協大学の大木正俊君の『イタリアにおける均等待遇原則の生成と展開-均等待遇原則と私的自治の相克をめぐって-』(日本評論社)が,第31回(平成28年度)冲永賞を受賞しました。おめでとうございます。ちなみに,この本のサブタイトルがとてもいいです。この「相克」をどうすべきかは,私もずっと悩んできたことです。
 イタリア法関係での受賞というのは,少数派のイタリア学派としては,このうえない名誉であり,よくぞ選んでくれたということで,選考委員には感謝の気持ちでいっぱいです。
 この著書は,まさに基礎理論的な研究であり,しかもイタリア法が比較法の対象ということで,きわめて地味なものです。変わった業績ということで埋もれてしまっても不思議ではないのに,華やかな舞台に上げてもらったのは,とても有り難いことです。
 あえて偉そうなことを言わせてもらえば,こういう地味だが,こつこつ研究している若手を応援しなければ,学問の発展はありません。それにイタリア法をやっていると,山口浩一郎先生や諏訪康雄先生のような個性的な大物が誕生することもあるのです。私はたんに個性的なだけの異端ですが,早稲田大学の正統な労働法の系譜を引きながら,柔軟にいろんなタイプの学問のエキスを吸い,魅力的な研究者に育ちつつある大木君の将来には,大きな可能性が広がっています。
 もちろん,以前にこの著書についてのコメントでも書いたような記憶がありますが,この著書自体は,研究の序の序のようなものであり,研究者としての勝負はこれからです。大器晩成といいながら,いつまでも成らなかった研究者もたくさんいるなか,大木君も年齢的にそろそろ勝負どころに来ていると思います。これからのいっそうの活躍を祈念しています。
  昨年の本庄淳志君のJILPTの図書賞に続いて,私にとって近い若手が相次いでビックなタイトルを取って,ほんとうに嬉しいし,有り難いことです。そして私も,まだまだ負けないぞという気持ちで,大いに刺激を受けています。再来年度あたりの冲永賞をめざして,頑張りましょうか(という気持ちは3日もすれば失せてしまうでしょうが)。

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2017年3月 1日 (水)

自民党は受動喫煙対策に反対するな!

  26日の日本経済新聞で,「受動喫煙対策を強化する健康増進法改正案を巡り,厚生労働省が,小規模なバーやスナック以外の飲食店は店内を原則禁煙とする方向で検討していることが25日,分かった。」という記事が出ていました。
 一方,同日の文化欄では,民俗学者の石毛直道氏が,「愛煙家のひとりごと」という随筆で,「しかし,嫌煙運動が盛んになった現在では,喫煙者が社会的『いじめ』の対象になりはじめている。タバコを吸う者は,害毒をまきちらす悪人とみなされるようになったのである。」と書いていました。
 そして,28日の夕刊では,「厚労省は当初,飲食店を原則禁煙とする方向だったが,飲食業界や自民党から反対が相次いだため,小規模のバーやスナックは喫煙を認めることにした。」という記事が出ていました。小規模とは,26日のほうの記事によると,「原則禁煙の例外とするバーやスナックについては基準として『30平方メートル以下』を検討中。ただ,自民党内などには『狭すぎる』との反発があり,さらに調整する。」ということでした。
 さて,飲食店の受動喫煙問題は,喫煙者に寛大な非喫煙者に支えられてきたといっても過言ではありません。喫煙者を悪人とみているというのは被害妄想で,他人の迷惑を顧みないで喫煙する無神経な人のみを悪人としているのです。食事中に他人の吐いた煙を吸わされて気持ちの良い人はいないでしょう。しかもそれは有害なものなのです。
 もちろん私は,喫煙可能となっていない店を探して入っているので,それで問題はないともいえます。喫煙者を受け入れる店は勝手にそうしていればいいのであって,それをとやかく言う必要はない気もします。
 だから,私は厚生労働省には頑張って欲しいとは思うものの,自民党のおじさんたちが反対して面倒くさいのであれば,それほど強い規制はしなくてもいいのでは,という気持ちになっています。ただ,喫煙可能な店は,外の目立つところに一定の大きさ以上の喫煙マークを貼るというルールを導入してほしいです。これくらいの規制であれば受入可能ではないでしょうか。
 個人的には,とても良い店なのに喫煙可なので入れないのは残念ですが,だからといって,その店を法の力で喫煙不可にするのは,ちょっと行き過ぎのようにも思っています。店外の掲示で判別可能とすることで十分です。おそらくそうすると,喫煙マークをつけることをいやがる店が増えて,自ずから喫煙可能な店が減っていくのではないかと思います。もちろん喫煙マークがついていないのに,喫煙者がいたら,喫煙者本人ではなく,その店の経営者に重い制裁を課すべきでしょう(営業停止でもいいと思います)。
 ということで,私は,全面禁煙の店しか原則として行きません。ローカル情報ですが,自分のお気に入りのところでは,中華のアムアムホー(六甲道),イタリアンのVieni(三宮の北野坂),和食の魚吟どい(阪急六甲)や有とみ(三宮のハンター坂)や岩本(JR六甲道),寿司のきらく(門戸厄神)などは味もよく完全禁煙でとても楽しめます。最近,完全禁煙に変わったのが,ベトナム料理のクアン・アンゴン(JR六甲道)と焼き鳥のよしおか(阪急六甲)です。ワイン・バー(&ビストロ)の三宮のLes Vignes  も六甲道にいたときは喫煙可でしたが,三宮に移転したときに全面禁煙となっています。
 和食の「晴の」は,改装前は喫煙可でせっかくの料理なのにとても残念な思いをしていたのですが,改装後は禁煙になったようです(ただ,値段が高くなってしまい行けなくなったので,実際には確認していません)。実名はあげませんが,お気に入りの店である六甲道界隈のF,A,Pあたりは,即刻禁煙にしてくれたらいいのですが。そのためにも,やはり厚生労働省を応援することにします。
 ついでに神戸大学の敷地内では,屋外の一定の指定場所なら喫煙可なのですが,指定場所の位置が悪く,風の強いキャンパスなので,歩いているとタバコの煙に悩まされることがしばしばあります。敷地内は全面禁煙にしてもらいたいです。どうも神戸大学のお偉いさんに愛煙家がいるとかいないとか。屋外だからいいというものではなく,もし喫煙を認めるならば,空港のようなどこかの隔離された場所を作って,そこで吸ってもらいましょう。これは室内のことではないですが,職場の受動喫煙問題として,本来,労働安全衛生法68条の2の問題とすべきことがらです(同条の「室内に準ずる環境」ってどういうものなのでしょうか)。同条は努力義務なので,喫煙ルールを大きく変えるに至っていないようですが,今後さらに強化していくべきでしょう。職場に高度外国人材が増えてきて苦情が出てきてから変えるようになるのでは情けないですよ。

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