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2017年3月16日 (木)

日本労働研究雑誌の学界展望へのコメントその1

 日本労働研究雑誌680号の「学界展望 労働法理論の現在―2014~16年の業績を通じて」で,私の論文が2本採りあげられていました。1本目は,「就業規則の最低基準効とは,どのような効力なのか」(山田省三・青野覚・鎌田耕一・浜村彰・石井保雄編『労働法理論変革への模索』(信山社)という,毛塚勝利先生の古稀記念論文集に寄稿したものです。
 最近は政策論をやっていることが多いのですが,それとは全く異なる「解釈論」100パーセントの論文で,まさに労働法研究のプロ向けに書いたものです。上智大学の富永晃一君が紹介してくださり,一橋大学の中窪裕也さんから「虚をつかれる」「アクロバティック」と評価(?)していただいたものです。
 討論者からは疑問続出という感じの論文ですが,それは当然で,この論文は,労働基準法93条などの条文の解釈をめぐる既存の常識を覆すために書いたものなので,そう簡単に同意されても困るものなのです。次々とわき出る疑問について,どう斬ってくれるか,斬る方の力量が問われる論文だと思っています。単純に背を向けることも簡単な論文ですから。そのようななか,富永君が,民法の故平井宜雄先生の言葉を引いて,「反論可能性の高い議論というのは価値のある議論だ」といってもらえたことには,私としてはたいへん満足しています。
 筑波大学の川田琢之君は,本人の書いたものはあまり見たことがないですが,批評家としてはなかなか優れていて,今回の論文についても,労働契約法7条や10条の契約規律効と比べて,「最低基準効に関しては,そもそもなぜそんな効力が必要とされるのかという点について,なんとなく自明のように考えられてきたのではないでしょうか。この論文の意義は,そのあたりを突き詰めて考えてみたことにあるのではないか」は,この論文のポイントをしっかり突いてくれています。
 論文の内容に少し触れると,そもそも就業規則にしろ,労働協約にしろ,条文上は,なぜ労働者を拘束するのかということについて明確になっていません。明確なのは,就業規則については労働基準法93条(労働契約法12条)の効力が,労働協約については労働組合法16条の定める効力があるということだけです。ではこの明文の効力が,労働者を拘束する根拠となるのか,そんなことは書かれていないではないか,というのが私の議論のもともとの出発点です。私は労働者を拘束する根拠は,労働者の意思に求められるべきとする立場にたち(私的自治的正当性),それなら労働基準法93条や労働組合法16条はどういう規定なのかを考えてみようというのが,この論文です。実はこの論点は,私の博士論文をまとめた『労働条件変更法理の再構成』(1999年,有斐閣)でも扱っているのですが,学界ではほとんど注目されていませんでした。
 そこで,毛塚先生の古稀記念において,毛塚説(労働基準法93条を禁反言で根拠づける見解)を採りあげながら,もう一度この議論をしてみようと思ったのです。実は,毛塚先生の議論は,私が博士論文を書いたとき,学説上の議論としては,私が戦うべき最も有力な見解の一つであり,深くリスペクトしていました(毛塚先生は,1990年刊行の『労働法の争点(新版)』で就業規則のところを担当されていました)。こうして,私としては20年前の議論を持ち出したのですが,前著ではいろんな論点を総合的に扱っていたので目立たなかったかもしれません。今回の論文は論点を絞ったことから,私の主張がより鮮明になったということでしょう。これが今回の4名の討論者の目に止まったということは,たいへん有り難いことです。
 ところで,討論のなかでは,情報の非対称性などについても議論されていますが,これは私が西谷敏先生の古稀記念に寄稿した論文「労働契約における対等性の条件-私的自治と労働者保護」で書いていることと連動しており,そちらもあわせて論評してもらえると有り難かったです。今回の討論では,南山大学の緒方桂子さんをはじめ,全体的に労働者弱者論が漂っていて,私には旧体制の議論という印象も受けました。西谷古稀の論文のタイトルでもある「対等性の条件」をもっと追求していかなてはならないと個人的には考えています。
 このあたりは,今回は対象外となりましたが,「労働法は,『成長戦略』にどのように向き合うべきか」季刊労働法247号のなかでも,違った観点から論じているところです。

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