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2016年10月11日 (火)

明智憲三郎『本能寺の変 431年目の真実』

 このブログでもよく出てくる(消滅前のバージョンでかもしれませんが),サンテレビの深夜番組「カツヤマサヒコShow」で著者本人が登場していて興味をもって買ったのが,明智憲三郎『本能寺の変 431年目の真実』(文芸社文庫)です。とにかく面白かったです。速読せず,熟読しました。
 明智光秀の子孫である著者が,光秀の汚名を殺ぐために書いたという感じですが,論文を読んでいるような精緻の論証がなされています。私は一次資料を読んだことがないので,歴史の専門家が本書をどう評価するかわかりませんが(おそらくネガティブでしょうが),きわめて説得的であり,物語として読んだとしても面白いです。
 私は,「本能寺の変」に関する本は結構読んでいて,いろんな説があるなと面白がっていたのですが,明智家の子孫としては,面白がって読んでられるものではないでしょう。歴史家の権威ある文献にも難があるというのが,著者の見解です。
 明智光秀が,天正10年(1582年)6月2日に,本能寺で織田信長を殺したことは事実です。光秀は織田信長の家臣であったので,謀反です。では,光秀はなぜ謀反を起こしたのでしょうか。よく言われているのは,個人的な怨恨です。信長に虐げられていた光秀は,信長を恨んでいた。ちょうどこの夜,信長はごく少数の近習だけを連れて本能寺にいた。そこで,光秀はこの機会に乗じて謀反を決行した,というものでしょう。
 しかし,優れた戦略家であったことは誰も否定していない光秀が,失敗したら一族滅亡につながるような無謀な謀反を簡単にするというのは信じがたいことでもある,と著者に言われると,そうだなと思います。そして,今日の本能寺の変に関するイメージは,実は秀吉の御伽衆である大村由己の書いた「惟任退治記」による部分が大きいと聞くと,なおさらそう思います。歴史は勝者によって書き換えられるわけで,そうした文書は参考にはならないのです。
 ここから著者の「歴史捜査」が始まります。説明のつかないところを,偶然とか,忍者の仕業などと言って逃げずに,徹底的に信用性が高い歴史文書から論理的に検討していこうとするのです。
 なぜ光秀は謀反を行ったのか。信長は光秀を非常に買っていました。それは将軍義昭側にいた光秀が,信長の家臣となって異例の出世をしたことからわかります。では,なぜ謀反か。詳細はじっくり読んでもらいたいのですが,斎藤道三の時代に一家離散した土岐氏の再興がねらいであった光秀は,信長の明攻め(唐入り)計画(それにより予想される領地の海外移転)と土佐の長宗我部征伐により光秀の同盟者がいなくなることを恐れていました。そんなとき,信長から,本能寺での徳川家康の暗殺を命じられます。信長は家康を油断させるために,あえて少人数で本能寺に入り,そこに家康を来させたところを,光秀,筒井順慶,細川藤孝に暗殺するよう命じていたのです。ところが光秀は,逆にこの機会に乗じて家康,順慶,藤孝らと組んで,信長暗殺を企てました。光秀は信長を討ち,家康は東国の織田領(旧武田領)を攻撃して,織田方を壊滅させようとしたのです。
 しかし,6月2日,筒井順慶は動かず,藤孝も動きませんでした。孤立した光秀は,予想以上に早いスピードで戻ってきた秀吉に山崎の戦いで殺されてしまいます。
 信長は家康を誅殺するつもりであったのを,その計画を打ち明けられていた光秀が裏切ったというのが,本能寺の変の真相です。光秀は本能寺の変のあと,朝廷からも支持を受け,途中まで謀反は成功していました。しかし,最後は,秀吉にやられてしまいます。どうして藤孝は動かなかったのか,筒井順慶も動かなかったのか。秀吉は,なぜ「大返し」ができたのか。
 とくに秀吉の「大返し」の謎ときは秀逸で,ぜひ読んでてみてください。また,秀吉,家康,藤孝の密約も驚きです。三者それぞれに負い目がありました。藤孝は光秀を裏切り秀吉に情報を流していました。秀吉は謀反の計画を知りながら,信長をはじめ誰にも告げずにだまっていたのです(秀吉は,光秀に信長を殺させて,自分が光秀を討って天下をとるという計画をもっていたということです)。また家康は謀反に加担していたという負い目があります。秀吉が,家康への扱いが寛大だったのは,秘密を共有していたからです(ただ家康を生かしたことが豊臣家の滅亡につながるのですが)。秀吉と,その後に政権をとった家康が,ともに細川家に寛大であったのも,そのためです。三者は談合して,すべて光秀の責任としたことにより,三者は生き残り,光秀一人が悪者になったのです。
 しかし,家康が光秀との同盟を忘れていなかったという話も興味深いです。光秀の重臣の斎藤利三の娘の福が,のちに春日の局となり,家光の乳母となって権力をふるっていきます(生母というのが,本書の立場)。また,家康は土岐氏の再興も実現しています。そして,明智家は,現在でも著者のように子孫が残っているのです。
 著者には,細川家に対する複雑な気持ちがあるでしょう。光秀は細川家を信頼しきっていたからです。明智の娘で,細川藤孝の長男の忠興に嫁いだガラシャがキリシタンになったのは,細川親子の父への裏切りにショックを受けたからだということも本書で書かれています。細川家が江戸時代以降も肥後で繁栄し,平成には首相まで出していることなども,明智家の子孫にとっては,複雑な気分でしょう。ただ著書は,もとは藤孝の家来であった光秀の異例の出世に対する細川家の複雑な心情にも理解を示しています。
 本書は,明治政府による豊臣秀吉神話の再興にもふれています。「唐入り」という愚行を信長がやることを光秀は阻止したものの,秀吉がやることは誰も阻止できませんでした(本書では,千利休,豊臣秀次の悲劇も,唐入り阻止に起因するものだと論証しています)。明治政府の「唐入り」を正当化するために,秀吉は再評価され,光秀は秀吉とは違い主君の恩を忘れた悪者だというように仕立てられていったのです。
 光秀の謀反は事実です。しかしそれは信長の間違った海外征服の野心を正す意味があったという正当化は著者のうまいところです。ただそれだけなら,著者の巧みな説明にすぎないで終わりそうですが,著者は,戦国時代における海外征服の必然性も見事に説明しています。信長も秀吉も狂ったから「唐入り」をしたのではないのです。国内が統一されてしまうと,新たに恩賞として与える土地がなくなってしまいます。土地を媒介とする主従関係で成立していた武家社会では,朝鮮,中国を征服し,その土地を家来に与えるということをしてかざるをえなかったのです。大航海時代で,日本にもキリシタンがやってきて,信長が海外への視線をもったということもポイントです。家康は,信長,秀吉の失敗をみて,国内で土地をやりくりする方法で対処します。そのために江戸時代は多くの家が取りつぶされて,土地を捻出していたのです。ところが明治政府は,海外征服の愚行を繰り返し,秀吉礼賛に戻ったことの愚かさを著者は指摘しています。 
  これと関連して,著者が引用したビスマルクのメッセージ「賢者は歴史に学び,愚者は経験に学ぶ」も意義深いです。著者は,歴史を学ぶ際に,個人的経験から空白を埋めてしまっては危険と考えています。私たちのこれまでの知見は,過去の勝者や現在の権力者の意向によってすでにゆがめられている可能性があります。それに基づいて自分の経験から想像をして,空白を埋めようとしても,的外れになる可能性が大きいのです。空白をエビデンスと論理で埋めていくということに徹底したのが本書です。
 秀吉の「惟任退治記」があてにならないのは当然としても,さらに細川家の正史である「綿考輯録」(今日の学界の通説である高柳光寿『明智光秀』も,この文書に依拠しているというのが著者の指摘です)について,細川家も光秀謀反に密接に関係し,かつ光秀を裏切っているので,ほんとうのことが書けなかったということです。文書の信用性の徹底した検証の重要性を再認識させられる話です。
 細川家からすると,大いに異論はあるかもしれませんが,これほどスリリングで知的興味を喚起させられる本はなかなかないでしょう。
 ★★★★★(戦国ファンではなくても,ぜひ読むべき) 

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