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2016年9月

2016年9月29日 (木)

二刀流に思う

 前例にはないので・・・。これは新しい提案を拒否するときに用いられる典型的な理由です。私は,「前例にはないので」と言われると,「ではやろう」と思うし,むしろ前例にないことしかしたくないのですが,世の中の多くの人はそうではないようです。
 仕事の場面では,前例にないことをやりはじめると,ノウハウがないので,周りの人がたいへんなのでしょう。面倒くさいからやりたくないのです。それに失敗したら叩かれるけれど,成功してもそれほど誉められない,あるいは誉められたとしても,その確率が低いとなると,前例踏襲が合理的な選択となります。
 それはわかるのですが,前例にないことをやっていると,自分の人生がつまらなく思えないでしょうか。何か自分らしいことをやってみたいと思わないでしょうか。私が『勤勉は美徳か?』という光文社新書の本で,仕事の過程に主体性を,ということを書いたのは,何か自分らしさを仕事のなかで発揮するためには,前例どおりではダメだということを書きたかったからです。仕事で充実感や幸福を感じなくても,仕事以外で充実して幸福感があればよいという人も多いでしょうが,仕事で充実感や幸福感があったほうが,はるかによいのです。そのためには,どんな小さいことでもいいから,仕事のなかで自分の創意工夫を試してみるということが大切です。
 若いころから,そういうことをやっていると,年齢を重ねて,それなりのポジションについたときに,より大きな創造性を生むことができるようになるでしょう。
 これからの日本経済において重要なのは,知的創造性です。これは理科系だけの話ではありません。理科系・文科系に関係なく,仕事や生活のあらゆる局面にあてはまります。
 前例踏襲が蔓延する日本社会においては,これは大きなチャレンジです。年長者が前例にないので,と言ったとき,若者は前例にないからやるんだと「起業家精神」をもって反論できるようなカルチャーが日本に浸透するまでには,残念ながらまだかなり時間がかかるかもしれません。
 それでも学問の世界では,知的創造が重視されているはずですが,とくに社会科学では,必ずしもそうではないのが情けないところです。たとえば若者の新たな発想を,年長者が価値観の押しつけをしていて「残念」と嘆息するなど,老害の極地なのですが,そうしたことが普通に起きています。新しい発想や価値観をぶつけあうのが創造重視の社会です。強い立場にある年長者が新しい価値観を積極的に拾い上げ,むしろ自分のほうが間違っているのではないかを自省する,というような謙虚な姿勢がなければ,(学問においてはもちろんそうですし,学問以外においても)発展はないでしょう。
 日本ハムの優勝試合を見ていました。大谷投手はすごかったです。交流戦でも阪神戦ですごい投球を見せられていました。とにかく規格外の逸材です。この投手は,打者としてもすごいということはご存じのとおりです。二刀流です。これくらいのクラスの選手での二刀流など前代未聞で,まさに前例がないことです。栗山監督は,それをやって,みごとに成功しました。
 すぐれた才能をもつ部下がいて,そこに上司の前例を恐れない独創性があったために,二刀流は開花したのです。上司がリスクを嫌い,そして的確に部下の才能を評価していなければ,こういうことはできなかったでしょう。大谷のような球界の宝を,もし二刀流で潰してはと思うと無難に投手か打者に専念させたくなるところ(他の監督なら,誰も二刀流はさせなかったでしょう)を,あえて二刀流に踏み切った栗山監督の勇気は賞賛に値します。それだけ彼は自分の目と育成方法に自信があったのでしょう。
 大谷の二刀流は,日本の人材育成においても参考になるところが多いと思います。

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2016年9月25日 (日)

東野圭吾『祈りの幕が下りる時』

 東野圭吾『祈りの幕が下りる時』(講談社文庫)を読みました(以下,ネタバレあり)。
 滋賀県に在住の押谷という女性が,東京のあるアパートの一室で腐乱死体で見つかりました。押谷は,ハウスクリーニング会社の営業をしていた人で,ちょっとお節介なところもありますが,他人に恨まれるようなところのない善人でした。実は,彼女が東京に行ったのは,滋賀の老人施設で,中学のときの同級生であった浅居博美の母親と思われる老女を偶然に目撃したからでした。この老女は無銭飲食のトラブルを起こしていたのですが,身よりがないため,施設に収容されていました。老女は,押谷に対して博美の母親であることを否定しましたが,押谷は確信していました。そこで,いまは有名な演出家になっていた博美に会いにいったのです。しかし博美は,母親を引き取ることを拒否します。博美は,その母親が男を作り,多額の借金を残して逃げたために,父親と二人残され,そして父が自殺することになったことから母を恨んでいるという話を押谷にします。 押谷はその日に帰るはずだったのですが,博美の公演の初日が翌日だったので,それをみてから帰るために一泊しました。そして,公演をみた後,殺されるのです。
 押谷の死体が見つかったアパートの居住者である越川の行方もみつかっていませんでした。近くで,ホームレスの男性の焼死事件もあったのですが,この二つの不審死は関連性がなさそうでした。焼死体と,アパート内の歯ブラシなどのDNAが一致しなかったからです。ところが,その後,焼死したと考えられていたホームレスが生存しており,越川のアパートにあった歯ブラシなどは,そのホームレスのものであることがわかりました。そして,改めて別の残置物を使ってDNA鑑定をしたところ,焼死体は越川だったことがわかったのです。押谷と越川の殺害が同一犯かどうかわかりませんが,殺された越川の家から押谷が見つかったことは偶然ではなさそうです。
 そんなとき越川は,綿部という男性と同一人物であることがわかります。実は綿部は,加賀恭太郎刑事の生き別れとなった母と付き合いがありました。恭太郎の母の百合子は,夫と息子の恭太郎を残し,遠く仙台に行き,そこで水商売のホステスをしていました。綿部はその客でした。百合子が病死したあと,母の遺品を引き取った恭太郎は,越川の部屋に残されていた奇妙なカレンダー(月めくりカレンダーに,毎月,橋の名前が書かれていました)が,母の遺品のなかにあったメモと似ていることに気づきました。そして筆跡鑑定の結果,カレンダーのメモと遺品にあったメモの筆跡が同一人物のものであることがわかったのです。母の遺品にあったメモは綿部のものである可能性が高いので,綿部は越川と同一人物である可能性が高まりました。
 ところで恭太郎は,ひょんなことから浅居博美と面識がありました(これは偶然ではなかったのですが)。浅居の依頼で,子役に剣道を教える機会があったのです。その恭太郎が,押谷らの殺人事件は管轄外でしたが,少しずつ事件の真相に迫っていきます。
 博美は,母の家出,父の自殺(?)で一家離散となり,中学校を辞めて施設に送られることになるのですが,そこで親身になってくれていた苗村教諭が,その後,学校を辞め,離婚をし,そして行方不明になっていることがわかります。また恭太郎の母の遺品で,おそらく綿部が残したであろう時刻表の指紋から,綿部が女川に頻繁に行っていたことがわかり,綿部が原発作業員である可能性が出てきます。そして,そんななか越川の似顔絵に良く似た原発作業員である横山が行方不明であることもわかってきます。さらに,博美の同級生たちは,博美が学校を辞めたときの経緯について記憶があまりないという事実もわかってきます。博美は,父が近所のビルで自殺したというのですが,同級生らは誰も記憶していないのです。
 越川=綿部と横山は同一人物なのか。そして,どうして殺されてしまったのか。 
 押谷は,博美に会った日に一泊して,翌日の「異聞・曾根崎心中」の初日の公演をみていました。そこで,博美の父親のほうも目撃してしまうのです。博美は父は自殺したと言っていたのですが,どうしてその父が劇場にいたのでしょうか。そこで押谷は,博美父子の秘密を知ってしまったのです。苗村も同じでした。
 博美の父はやはり生きていたのです。死んだことになっていたのですが,実際には,横山・越川・綿部になりすまして生きていました。そして,娘の成功を,こっそりと見守っていたのです。月に1度,橋で出会うということにして。では,どうして博美の父は焼死したのでしょうか。それを解く鍵は「異聞・曾根崎心中」のストーリーにありました。娘は,父の死を助けたのです。
 まったくつながりそうにない話が,どんどんつながっていくところが,いつもながら見事です。恭太郎の母の話も自然に取りこまれており,最後は泣かされます。   

  ★★★★(いつものように,一気に読めます)。

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2016年9月22日 (木)

「Remember Hiroshima」ではなく・・・

 聞いた話ですが,アメリカ人の夫と結婚した日本人女性が,むこうの姑に,「Remember Pearl Harbor」と言われたそうです。同種のことはアメリカに行った日本人はよく経験するようです。しかし,真珠湾攻撃で日本軍が攻撃したのは軍事基地であり,アメリカが無辜の国民が住む本土に対して原爆を二発も投下した罪のほうが比較にならないくらい重いのは言うまでもありません。
 それについては,日本が卑劣な戦争を仕掛けたからだという反論があるかもしれませんが,ここはしっかり説明しなければなりません。
 アメリカ(F.ルーズベルト)はイギリス(チャーチル)との間で,真珠湾攻撃(1941年12月8日)の4ヶ月前の1941年8月に大西洋憲章を結び,戦後処理についての定めをしていました。ルーズベルトは,遅くともこの段階で,日本と戦争することをすでに想定していたのです。しかしアメリカ側からの開戦は,アメリカ国民が望んでいなかったので,日本から攻めたという形を作らなければなりませんでした。それで日本がアメリカと開戦するように追い込んでいったのです(それはアメリカの参戦を望むチャーチルの意向が強く働いていました)。1941年7月の段階で,アメリカは日本に対する石油全面禁輸を行っており,これは日本を干上がらせようとする戦争に準じるような行為でした(これはイギリス,中国,オランダと合わせたABCD包囲網と呼ばれるものですが,実際にそうした密約が4カ国内にあったかどうかは不明です)。
 私たちは,自分たちに着せられた汚名(卑怯な行為をした日本人)を晴らす必要があります。そのためには,まず歴史をしっかり学び,なぜ日本が真珠湾攻撃をしなければならなかったのか,もっというとアジアの国々に,当時なぜイギリスやオランダの軍隊がいて,日本とぶつかったのか(日本の大東亜共栄圏のことも学ばなければなりません),白人はアジア人に何をしてきたのか,ということなどから学ばなければなりません。
 世界史をしっかり学び,とくに白人と日本との接触が強まってくる黒船の到来あたりから後の時代については,日本とアジアと欧米の絡み合いをしっかり学んで,自分なりの歴史観を築いていく必要があります。
 私たちは,ほんの2代から3代前の世代の日本人が,なぜあのような戦争を行ったのか,それにはかなりの理由があったのではないか,という問題意識をもつことが必要です。イギリスは戦後の自虐的な歴史教育でイギリスに誇りを持てない国民が増えたということで,サッチャー政権時代に教育方法を改めたということがありましたが,日本もアメリカに洗脳された戦争観や中国や韓国を意識した自虐的史観は捨てて(とくに日本を美化する必要はありませんが),合理的になぜ戦争を行ったのかを考え,「Remember Pearl Harber」に,「Remember Hiroshima」というような感情的な反論をするのではなく,アメリカが対日本との関係で,黒船来訪以降,開戦に至るまでにどういうことをしてきたかを冷静に列挙して説明し,あなたがもし日本の立場ならどう思いますかという反論ができるような日本人が育ってほしいと思います。そのうえで民間人をかくも無慈悲に虐殺したという人類史至上最大の罪を犯したことについて,どう考えますか,ということをアメリカ人に問いかけてほしいのです。オバマ大統領は,いろいろ批判もされていますが,広島に来たのは,彼に人間としての普通の心があったからだと思っています。私は彼にアメリカの良心をみた気がします。日本では,最近でもオバマが中国に弱腰であることを批判する論調が強いですが,彼の目には,領土のぶんどりあいを武力をもってやるということに辟易しており,残りのわずかな任期に,そういうことにかかわるのを愚かしいと思っているのではないでしょうか。オバマは,アメリカの大統領としては,皮肉にも高邁すぎる理想をもっていた人だったのかもしれません。

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2016年9月18日 (日)

蓮見重彦『伯爵夫人』

   蓮実重彦『伯爵夫人』(新潮社)を読みました。放送禁止用語が飛び交うことに驚くこの東大元総長の本(三島由紀夫賞受賞。本の中に出てくる平岡は三島のことでしょうか)に,的確なコメントをする自信はありませんが,とにかく本書は,太平洋戦争前夜,東京帝大の法科受験を目前に控える映画好きの青年の二郎と,伯爵夫人と呼ばれている「高級娼婦(?)」とが登場する話です。  映画のシーンが次々と流れていくような本ですが,個人的には,戦時中の高級娼婦がさまざまな「大物」たちと繰り広げたセックスという名の戦争に興味を惹かれました。  戦争といえば男たちの戦記の歴史しか残りませんが,女性たちも戦争をしていたのです。二郎の母であろう伯爵婦人の壮絶な人生,人間の性をここまで赤裸々にとらえ(露骨な男性器と女性器の描写が本書の特徴です),戦争という殺し合いの世界と対比させて描く本書は,味わいが深いところです。古き昭和の時代の香りがするのもいいです。  蓮見氏がなぜ本書を書いたのかよくわかりませんが,ただ個人的には蓮見氏がモデルであるような二郎の「魔羅」がどのようなものであるかに関心をもってしまいました。

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労働時間政策の検討会議でやってもらいたいこと

 8月末のことでしたが,北海道新聞に,勤務間インターバルについての取材を受けて登場しました。北海道新聞は6月にも参議院選挙前の各党の雇用政策についての取材を受けて登場しています(こちらは写真付き)。北海道新聞はこれまで読んだことがなかったし,どちらかというと朝日新聞的だと記者の方も言われていたので,そういう新聞の記事に短期間に2回も登場するとは意外でした。
 労働時間は最近また議論が再燃してきましたね。私としては,自分の政策提言はすでにしているので,あとはどんなふうにこれから議論が進んでいくのかを見守っていきたいというところです(6月にJIRAの会議でもテーマでしたが,どうもフロアの意見などを聴いていると,ほんとうに問題の本質が理解されているのだろうかという疑問も感じて,思わず何度か発言してしまった記憶があります)。
 最近立ち上げられた厚生労働省の「仕事と生活の調和のための時間外労働規制に関する検討会議」では,せっかく有力なメンバーがそろっているのに,新聞記事によると,長時間労働の実態把握をやるということのようです。ただ三六協定がそれなりに機能していれば,長時間労働の実態は全国の労基署である程度は把握しているはず(特別条項がどこまで普及しているかにもよりますが)で,それを分析したらよいだけではないのでしょうか。もし把握できていないのなら,三六協定が機能していないということなので,それなら廃止を検討すべきということです。そういう検討会議にしてもらいたいですね。当然,割増賃金も議題とすべきです。「三六協定は必要なのだろうか。割増賃金は長時間労働を推進していないか」という仮説をきちんと出して,それを検証するためのエビデンスを集める会議でなければ意味がありません。そもそも三六協定で労働者の健康が守られていると考えている人がどこまでいるでしょうか。
 せっかくのメンバーなので,やるべきことの優先順位は,現行の労働時間規制が工業社会の時代の産物という面が強いことをふまえて,知識労働社会に適合したものに転換していくという未来志向の政策の検討です。現状後追い方の政策は,厚生労働省がこれまでやってきたことでしょうが,もうそれではいけないのです。官邸の指示があるから,仕方なくやるということでないのを願っています。

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2016年9月16日 (金)

裁量労働制は長時間労働是正につながる?

 日本経済新聞の朝刊で,働き方改革についての企業へのアンケート結果が紹介されていましたが,せっかくアンケートをしても,分析するほうが素人ではどうしようもないですね。回答結果で一番多かったのが,「裁量労働制の拡大」ですが,その説明がちょっとひどいのです。「実際に働いた時間ではなく,事前に決めた『みなし時間分』の賃金を支払う仕組みは,長時間労働是正につながると期待されている」。これは頭を抱え込む説明です。  
 ホワイトカラー・エグゼンプションを「脱時間給」と呼んだり,裁量労働制を「みなし時間分の賃金を支払う仕組み」としたり,日経新聞は,どうしても労働時間制度を賃金面からしか説明できないようです。機能的には労働時間と賃金を結びつけて考えてもいいのですが,法制度上は,労働時間制度なので,どうみても説明に無理が出てきます。無理な説明をすると,誤解が増幅します。
 まともな企業であれば,裁量労働制の拡大を要求するのは,実態として裁量的に働く労働者のカテゴリーが増えているので,その受け皿として制度拡大を求めるということになるはずです。長時間労働是正のために,この制度の導入を考えている企業があるとすれば,理解しにくいところがあります。企業がその気になれば,長時間労働の是正などすぐにもできるからです。ひょっとして,たくさん働いても賃金が増えないから労働時間が短くなるというストーリーなのでしょうか。そういうストーリーで,かつて安倍首相が,第一次政権のとき,ホワイトカラー・エグゼンプションは少子化改善につながるという珍妙な発言をして世間から笑いものになったことがありました。
 もしかしたら,労働時間制度をよく知らない人がジャーナリストの世界にも,政権の側近にもいて,そういう人が誤った情報をまきちらしているのかもしれません。
 裁量労働制は,ホワイトカラー・エグゼンプション(日経新聞が「脱時間給」と呼ぶもの)と,基本的には同質のもので,時間外労働部分について,労働時間と賃金とを切り離して,成果で賃金を支払うことを貫徹させることができる労働時間制度です。労働時間と賃金とを切り離し,成果型にすると,労働時間は短くなる可能性もありますが,むしろ長くなる可能性も十分にあり(成果を出すために長時間労働をする),長くなってもそれに対する歯止めがかからないというところに,割増賃金制度を撤廃するこの制度の意義と問題点があるのです(なお裁量労働制は,みなし時間を法定労働時間を超えたものとすれば,固定額の割増賃金が発生する)。長時間労働となっても,成果型の報酬で報われるならよしとするのが,これらの制度のポイントです。 かつて自己管理型と呼ばれたことがあったのも,そのためです。
 割増賃金がなくなり,労働時間が短くなるから,これらの制度にはメリットがあると企業が本気で考えて労働者側に提案しても,説得力がないでしょう。経営者もそんなことは考えていないと思います。せっかくアンケートをしても,珍妙な分析を加えるという記事は無益であるだけでなく,きちんとした政策論をしていくことに水を差す点で有害です。
 拙著『労働時間制度改革』(中央経済社)には,裁量労働制のことも,ホワイトカラー・エグゼンプションも書いているので,せめて一読してから記事を書いてもらいたいですね。

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2016年9月 7日 (水)

人工知能の光と影

  今朝の日経新聞の経済教室で「人工知能の光と影」の二人目の論者として,西垣通・東京経済大学教授の論考が掲載されていました(「光と影」って,前に私が登場したときにも使われていましたね)。その中で非常に違和感をもったのは,「ホワイトカラーの仕事が奪われるかもしれない」という心配について,これが誤解に基づいていると断言されている点です。「普通の人間でもコンピューターの力を借りれば天才を負かせるというだけの話だ。百科事典を丸ごと記憶しているコンピューターが入試用の暗記問題を解いたところで驚くことはない」と書かれていてます。「驚くことはない」のは,それは著者が専門家であるからでしょう。一般の人は,人工知能の発展の歴史についてよく知りません。いったい人工知能が何をどこまでできるのかということについて,よく知らされていません。それは勉強不足であるからかもしれませんが,一般の人に対してそこをしっかりと教えなければ,そんなことで驚いていてはいけないよ,という上から目線の話に聞こえてしまいます。
 実は,私たちがホワイトカラーの仕事が奪われるかもしれないと考えていることについて,どうも人工知能の研究者の間では,十分に理解されていない可能性があると思っています。仕事には,実は様々なレベルのものがあります。たとえばかつて自動改札機が登場した時,駅で切符の改札をしている人の仕事はなくなりました。私たちはこういうことをとらえて仕事がなくなるとか,奪われるとか言っているのです。たしかに,こうした仕事がなくなっても,その駅員が解雇されることはありませんでした。しかし,それは偶然という面もあるのであって,つまり日本では,そういう解雇をしなくてすむような雇用システムだったのです。ポイントは,駅員の仕事が,切符の改札だけに限定されていなかったことです。その時点の駅員の仕事がたまたま切符の改札であったとしても,その職務に限定されていたわけではなかったのです。だから解雇されませんでした。もし駅員の職務が切符の改札だけに限定されていれば,解雇はあり得たのです。職務が限定されていないという雇用システムだから,特定の仕事が機械に代替されても雇用は安泰でした。
 上のような意味での職務が,人工知能やロボットの発達によって次々と奪われていくことは確実です。そして,これからは日本も職務限定の雇用システムが広がっていくかもしれないと考えられています。だからこそ私たちは,どのような職務がなくなり,またどのような職務が新たに生まれてくるのかについての情報を知りたいと考えているのです。また,コンピューターの力を借りれば天才を負かせるというのは,普通の労働者でも,うまく機械を使えば,現在の雇用社会のエリート層に打ち勝てるということを意味しているのであり,こうした社会変革が及ぼす影響も知っておきたいということです。「驚くことはない」から心配無用というのは,少なくとも雇用の問題を考えている者からは危険な楽観論です。
 西垣教授は,人工知能が人間を支配したりはしないから心配無用だとおっしゃっているということはよくわかります。ただ,私たちは,そんなことは本音ではあまり心配してはいないのです。シンギュラリティが来るかどうかということも,いま考えても仕方ないことだと思っていて,あまり関心がありません。普通の人間は,まずは自分たちがこれからの人生において仕事があるか,食べていけるかを心配しているのです。
 よく産業革命が雇用を増やしたように,雇用は喪失しても創出されるのが技術革新だから心配ないというのが,まともな社会科学研究者の意見とされています。しかし私が主張しているのは,個人レベルで見た場合に,仕事の転換がうまくいかなければ失業者してしまうということです。仕事を転換するためには教育が必要です。教育をするためには費用がかかります。日本では,不断の技術革新のなか,企業が教育をして,新たな技能へのキャッチアップを支えてきました。つまり教育費用は企業が負担し(一部分は賃金に影響して社員が負担していたかもしれません),雇用も企業が守ってきました。だから,人工知能も同じだというのが,現在の楽観論です。果たしてそうでしょうか。
 人工知能の発達のスピードは凄まじいものがあります。そのスピードに対応できなければ教育もできないのです。ましてや厳しい国際競争にさらされている企業は,すぐに陳腐化してしまうかもしれない技能のために教育費用を負担することはしなくなるでしょう。そうなると誰が教育をするのでしょうか。私たちがこれからの雇用政策を考える上で知りたいのは,いったいどの程度のスピードで,どのような技術が実用に供されていくかです。それこそが雇用に直接影響するものだからです。その情報がなければ,これからの教育をどうしていくかの具体論にもなかなか入れません。
 グーグルのアルファ碁は,人工知能の技術としては,機械学習の一種である深層学習と強化学習を組み合わせたものに過ぎないという点で,専門家の目からはそれほど驚くべきことではないのかもしれませんが,しかし専門家であっても2016年にコンピュータがプロのトップ棋士に勝つことは予想していなかったのです。実現は10年先という意見もありました。このスピード予測こそが私たちにとって重要なことなのです。ここについて,しっかりとした情報を提供してくれない限り,心配無用という気持ちにはとてもなりません。
 人工知能の研究者は,人工知能の持つネガティブな影響のなかでも,とくに雇用への影響に敏感になっているのかもしれません。雇用にはマイナスの影響がないということを言っておかなければ,研究開発に影響が出てしまうのではないかという懸念を持っているのかもしれません(これ私の単なる予想にすぎませんので間違ってる可能性もありますが)。でも少なくとも私は,人工知能やロボットの開発は止めるべきではないと思っています。新技術は,私たちの生活を豊かにしますし,雇用の現場でも,強力な支援ツールになります。また,そもそも日本でだけ開発を止めても意味がありません。
 新技術との共生こそが重要なのです。そのためにも,人工知能の将来の発達予想を,そのスピードもあわせて的確に情報提供してもらい(将来のことなので不確実なことが多いでしょうが,楽観よりも多少悲観的な予想の方が良いと思います),そのうえで私たちはどのような雇用政策を構築していくかを考えてく必要があると思っています。
 いま私は,労働法の観点から,新技術にどう対応していくかということを論じたものを執筆しています。早く世に問うて,科学者たちと実りある議論ができるようになればよいなと思っています。

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2016年9月 4日 (日)

有識者とは?

 日経新聞などを読んでいると,規制緩和行け行けドンドン派の意見がよく出てきますが,私は成功した経済人の意見を,少なくとも労働法の政策論に持ち込むことには慎重であるべきだと思っています。世の中で成功した経済人というのは,すさまじいパワーと能力の持ち主で,しかも自尊心も強いので,まさに労働法とは無縁の世界でのし上がってきた人でしょう。アメリカの企業で働いた経験などがあればなおさらで,アメリカは少なくとも日本的な雇用システムや労働法とは異色のものがあります。そういうところで多くの経験をし,辛い目にもあい,そのなかで,むこうの価値観にあわせながら成功した人は,尊敬に値しますが,普通の日本人からすると,あまりにも凄すぎるのでモデルにはならないのです(イチローが,もし「だから日本はダメなんだ」などと言い出しても,みんなついてこれないでしょう)。
 労働法学では,自分が留学したことがある国を礼賛する人が多いです。さすがにアメリカ留学した人が,アメリカナイズして帰ってくるということは,平等論や差別論に敏感になるということ以外はあまりないようです。これに対して,欧州に行くと,かなり本質的に染まって帰ってきますし,とりわけ比較法大国であるドイツやフランスに行くと,とてもそれらの国が好きになってしまい,日本もそうなったらいいなと思ってしまうようです。
 私自身もそういうことにならないように注意しているつもりでありますが,どこかにイタリアかぶれの議論をしているところがあるかもしれません。
 それはともかく,日本はダメだと頭から言っているような人の意見は聴いてはなりません。労働分野ではとくにそうです。そういう人は日本のことがよくわかっていないか,日本が嫌いであるかのどちらかです。どっちにせよ,日本国民のための政策を考えるうえで適切な人材ではありません。
 誰が日本を愛し,日本国民のことを本当に考えているかを,よく見極めなければなりません。役人は省益よりも,政治家は選挙区のことよりも,国民全体の利益を考えているか。労働組合や経済団体の代表者は,自分の出身母体のことよりも,国民全体の利益を考えているか。労働法学者は自分の生きがいとなっているイデオロギーよりも,国民全体の利益を考えているか,また昔学んだ外国法の影響を過剰に受けていないか。大企業経営者は古き良き時代の自分の成功体験に目を曇らされていないか。ベンチャー系の経営者は自分の自慢話をしたい欲望にとりつかれていないか。みんな自己点検する必要があるでしょう。
 歯切れのよすぎる意見に惑わされず,誰が信頼に足りる人間なのか。とりわけ政府がさまざまな会議で登用する有識者と呼ばれる人の選定は難しいものです。私自身は,日本を愛する気持ちは人後に落ちないつもりですし,労働法の専門家としての知識をもつという意味では有識者でしょうが,国民全体の利益を考えて発言する意欲はあるものの,多くの人に自分の意見を理解してもらえるほどの人間力はまだなく,有識者にはまだふさわしくないと思っています。
 それでも,せっかく厚生労働省の「働き方に関する政策決定プロセス有識者会議」に参加することになったので,できるかぎり国民のためになるような意見を発言できればと思っています。厚生労働省にも,しっかりとこの意欲を受けとめてもらいたいのですが,はたしてどうでしょうか(次回の開催日も決まらず,候補日は参加が難しい日程なので,結局は,何もできないまま終わるかもしれません)。 

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