私の作品

2020年7月18日 (土)

新刊

  昨日も書きましたとおり,日本法令から『デジタル変革後の「労働」と「法」―真の働き方改革とは何か?』を上梓しました(電子版もあります)。昨年秋までのサバティカル期間中,自分の考え方を根本的に見直す作業を続けるなかで,未来の労働法について何か書いてみないかという声をかけていただきました。ちょうど昨年あたりから,労働の原点や新たな資本主義という視点で話をする機会もあり,自分なりの現時点での考えをまとめるのに良い機会だと思い,お引き受けしました。2017年に弘文堂から出した『AI時代の働き方と法ー2035年の労働法を考える』の続編を書く必要があると考えていたタイミングとも重なりました。コロナと重なったのは偶然ですが,コロナのせいで,本書の内容がたんなる未来の空想的なことではなく,リアリティが出てきたような気がしています。Go Toキャンペーンもありますが,いまは巣ごもりして充電すべき期間でしょう。この機会を利用して,コロナ後の社会を展望すべく,本書を手に取ってもらえれば嬉しいです。
 本書のメインはDX後の未来社会なのですが,歴史も振り返っています。未来のことを考えるうえでは,歴史をみることがどうしても必要だからです。本書のキーコンセプトは,労働を共同体への貢献とみることにあります。株式会社形態で営利を追求する企業に雇用されて働くというのが20世紀型社会の労働であるのに対して,個人が自立してデジタル技術を駆使しながら共同体に貢献するのが21世紀型社会の労働であると位置づけ,こうした変化には必然性があり(環境問題,シェアリングエコノミーの広がりなどに,その兆候はすでに現れています),そして法は21世紀型社会に生じる新たな課題に,デジタル技術を使って解決していくことが求められるというのが,本書の主たるメッセージです。DXが到来して,社会がデジタル化していく時代では,経済や社会がどう変わるかを展望せずに,労働を語ることはできません。またそれは労働というテーマにとどまらず,私たちが社会の一員として,これからどう生きていかなければならないかを考えることにもつながります(本書では扱っていませんが,民主主義などの統治システムの問題にも関心をもっていて,これも機会があれば論じてみたいところです)。
 労働法の議論としては,いつものように雇用労働・従属労働だけをターゲットにしてはならないというテーマはもちろん扱っていますが,これに追加して,リバタリアン・パターナリズム的な発想に基づき,任意規定とナッジ(行動経済学)とテクノロジーを組み合わせるという新たな規制手法のアイデアも出しています。これは,おそらく労働法の理論を根本から覆すものとなるでしょう(そのより具体的な内容は,長い長い構想段階を経てようやく完成に近づいている『人事労働法』という本のなかで示す予定で,現在最終的な作業をしているところです)。
 また,労働政策上のテーマとしてのセーフティネットの再編(原点回帰)にもふれていますし,今後の重要な政策課題として,個人情報保護,プライバシー・差別,格差(デジタルデバイド),教育も採り上げています。本書で提示した問題提起に共鳴して,若い世代の人が,より緻密な政策論議を展開してくれる人がでてくればと思います。
 現在の延長線上でものを考えるのは実務家や役人の発想であり,それは社会の安定のためにも必要ですが,研究者には,これとは違って,想像力を駆使して,ディスラプション後の社会を展望して,創造的に新たなビジョンを提示することに,,固有の貢献の余地があると思っています。
 私としては現時点で精一杯の知的挑戦をしたつもりです。能力の限界もあり,いろいろ欠点もあると思いますが,真剣に未来を考えていこうとする人に,本書が思考や議論の材料を提供できたなら,著者としてこれに勝る喜びはありません。

 

 

2020年7月 3日 (金)

労働者憲章法施行50周年

 イタリアの労働者憲章法(Lo Statuto dei Lavoratori)と呼ばれてきた1970520日法律300号が,今年50周年を迎えるということで,何かエッセイを書いてくれないかという依頼がイタリアの雑誌から来ました。なぜ日本人の私に来るのか最初は驚いたし,私でよいのかという気もしましたが,私の修士論文は,この労働者憲章法の第28条(見出しは「反組合的行為の抑止」)を扱ったもので,私も深い思い入れのある法律でしたので,お引き受けすることにしました。コロナ禍でも,結構,忙しくて,イタリア語で本格的な論文を書く余裕はなかったので,枚数は問わないという先方の言葉に甘えて,比較的短いエッセイ風のもので勘弁してもらいました(エッセイと言っても,専門的な内容のものですが)。https://www.lavorodirittieuropa.it/dottrina/principi-e-fonti/486-lo-statuto-dei-lavoratori-e-il-diritto-del-lavoro-giapponese

 1970年は私は67歳でしたので,あまり記憶がありません。ただ,母と一緒に,二人で大阪万博に行った甘い記憶が残っています。妹が二人いたので,日頃は母と二人だけになることがなかったときに,どういう理由であったかわかりませんが,おそらく父が妹の面倒をみてくれたのでしょうか,母が私に万博を見せようと思って連れて行ってくれたのだと思います(でもひょっとすると,家族全員で行ったけれど,一緒にあちこち移動したのは私と母だけということだったのかもしれません)。こういう個人的な記憶しかない1970年ですが,社会は,1960年代末の不安定な社会状況の余韻をまだ引きずっていたのでしょう。ちなみに藤原弘達の『創価学会を斬る』(196911月刊)がベストセラーになったのも,この年でした。
 イタリアも,1960年代末は社会騒乱が起きて(異議申立運動など),1969年秋は「熱い秋(autunno caldo)」と呼ばれるような,ある種の労働者の革命が起きて,そのようななかから誕生したのが労働者憲章法でした。これはいわば日本の労働基準法と労働組合法が合体したようなもので(規制内容は日本とはかなり違いますが),今日に至るまでイタリア労働法の基本法となっています。日本のように戦後早々に労働組合法と労働基準法ができたのとは異なり,イタリアは1970年になってようやく体系的な労働立法がなされたのです(イタリア労働法については,少し古くなってしまいましたが,日本労働研究機構(現在のJILPT)から刊行された拙著『イタリアの労働と法』(2003年)を参照してください)。また当初の労働者憲章法の邦語訳は,山口浩一郎先生のなさったものが,ティツィアーノ・トレウ=山口浩一郎編『イタリアの労使関係と法』(1978年,日本労働協会)に収録されています。

  山口浩一郎先生や諏訪康雄先生や脇田滋先生なら,もっと味のあるエッセイを書かれたかもしれませんが,私はやや堅い内容の,イタリアの不当労働行為制度をなぜ日本人の私が研究対象としたのかというようなことを書きました(イタリア語なので,直球的なものしか書けなかったのが本当の理由です)。
 イタリア人の読者にはどうでもいいような内容であったかもしれませんが,個人的には,こういうものを書かせてもらう機会を得て,とても幸せでした。イタリア労働法の研究は,日本では,比較法大国(英米独仏)の研究のついでのようなものですし,イタリアでは,日本人がなぜイタリア労働法の研究をしているのか,ほとんどの人は理解不能という状況であったのです。でも,いま労働者憲章法について多くの有力なイタリア人研究者と並んで,日本人にも書かせようという雑誌が出てきたということで,これまで地道にイタリア労働法研究をやってきて良かったとつくづく感じました。この道に導いてくださった山口先生と諏訪先生には心より感謝しています。

 最近,久しぶりにイタリア留学経験のある亜細亜大学の中益陽子さんと一緒に研究する機会がありました。テーマはイタリア法ではありませんでしたが,イタリア労働法の研究者仲間として,気脈が通じるところがあって良かったです(社会保障法の政策のところは見解が相容れないところもありましたが,それは彼女のほうが専門家ですから当然のことです)。イタリア労働法については,明治大学の小西康之さんや早稲田大学の大木正俊さんもいます。彼女,彼らが,次世代のイタリア労働法研究の道をつないでいってもらえればと思います。

 参考までに,日本におけるイタリア労働法の研究については,「文献研究労働法学(第14回)外国法研究編(イタリア)」季刊労働法247181-190頁(2014年)で概観しています。また私個人のイタリア法研究への思いについては,10年前に「イタリア法への誘い(1)〜(3)」法学教室358号,359号,360号(2010年)で書いています。

2020年5月16日 (土)

再び近況の報告

 明石書店のWEBマガジンの「テレワークがもたらすもの」は,早くも,第2回「テレワークに注目するのはなぜか?」がアップされました。今回はテレワークの社会的意義のようなものをまとめて採りあげています。テレワークに関する論考は,最近,メディアでも次々と出てきていますが,それらとはひと味違った連載となるように頑張っていきます。
 12日の火曜日の日本経済新聞の朝刊の「働き方 innovation データで読む」に同一労働同一賃金関係に関する私のコメントが掲載されました。2か月前の同紙の経済教室の内容をご覧になった編集者の方が,取材依頼されました(電話取材です。これまでの経験では,新聞はSkypeの取材をしたがりません。たまたまそういう人ばかりに当たっているのかもしれませんが)。掲載内容は,いろいろ話したなかの一部にすぎないのですが。個人的には,同一労働同一賃金関係の議論をすることはあまり意味がないという立場ですが,取材がくると,ついつい熱を入れて話してしまいますね。そういえば,ロイヤルリムジンの解雇騒動についても,レイオフや失業給付について取材が来たので,ずいぶん丁寧に説明をしましたが,その後の会社が解雇を撤回したこともあって,ニュースバリューがなくなったのでしょうかね。こうした問題の本質をみれば,まだニュースバリューはあると思いますが,記者がそのことに気づくかですね。また,フリーランス関係についても,いつもと同じような取材が来て,今回は,PPTのスライドを事前に送ったうえで説明するという,私としてはかなり親切な対応をしましたが,記事になるかどうかはよくわかりません。そういえばつい数日前は,厚生労働省の助成金関係の取材申込みがあって,これはまだ探索的な取材でしたので,調査したほうがよい事実確認をお願いして,その事実が確認できたらコメントするという対応をしました。現在は,ずっと自宅にいるので,基本的には,取材には協力する姿勢ですが,テーマと相手方の意欲と問題意識と事前準備の程度しだいで,当然,こちらの対応は変わりますね。すでに筋が出てきているというタイプの取材には警戒をします。
 それから,電機連合NAVI74号の「羅針盤」という欄に「5年後の働き方―『コロナ後』の労働を展望する」という少し長めのエッセイを寄稿しました。2年前に執筆したことがあるので,もう同じ雑誌には書くことはないと思っていましたが,また依頼が来ました。読者の皆さんのために少しでも参考になることが書けていればよいですが。テーマ的には,今後はこの種のものの依頼が増えそうです。近いうちに,非法律系の書籍の一節に,類似テーマでもう少し長い論考が掲載されます(脱稿済み)ので,刊行されたらご報告します。

2020年4月30日 (木)

最新重要判例200労働法(第6版)の刊行

  『最新重要労働判例200労働法』(弘文堂)の第6版が出ました。といっても,もう1か月以上経ちます。おかげさまで,第6版まで出すことができました。読者の皆様に感謝です。この本があるため,いまでも判例の勉強は継続して行っています。改定作業は実質的には年内に終えていたので,今年2月末にでた「逆求償」に関する最高裁判決は入っていません。これは第13事件の「茨石事件」の解説に付け加えることになりそうです。この判決については,ビジネスガイドの「キーワードからみた労働法」で取り上げているので,興味のある方はご覧になってください。
 このほか3月末には国際自動車事件の差戻審の最高裁判決も出ましたね。前にこれもビジネスガイドで,差戻審の高裁判決は最高裁のメッセージを読み間違ったのではないかと論評していました(ビジネスガイド137号の「キーワードからみた労働法」)。案の定,高裁判決は破棄され,再び差し戻されました。この差戻審の最高裁判決は,そのうち研究会で検討することにしたいです(神戸労働法研究会は2月以降中止していましたが,オンラインで再開することになりました。オンラインにすることにより,遠方の方も参加できるようになりますし,帰国中の留学生が海外から参加することもできるので,新たな可能性が生まれた気がします)。
 今後は労働契約法20条関係の最高裁判決も出るでしょう。そう思うと,まだ『最新重要労働判例200労働法』の役割はありそうですが,その一方で,コロナ後の社会を思うと,どうなるのかわからないなという気持ちもあります。ご存じのように,私はここ数年,自営的就労者の時代が来て,労働法が不要になると主張しています(それが,拙著『会社員が消える』(文春新書)というタイトルにも表れています)。それがいつになるかわかりませんが,2035年くらいかなと思っていたところ,ぐんと早まる可能性が出てきましたね。
 ところで新型コロナショックでまず話題になったのが,自営的就労者の収入途絶問題でした。いきなり仕事がなくなったので大変です。個人でやっていますから経済的にもこういう大きな変動への抵抗力は弱いでしょう。だから自営的就労者のことをもっと政策的に考えなければならないという話になります。
 しかし,少し冷静に考えると,これは,やや違う観点から論じることができます。今後,大リストラの波がやってきます。今朝の日本経済新聞の社説は,「雇用ルールの軽視は許されぬ」として,とくに中小企業に対して労働法を遵守せよと言っています。しかし,ここは中小企業のことも考える必要があるでしょう。雇用調整助成金がなかなかもらえないという事情もあります。ようやく政府はオンライン申請を言い出していますが,実際には申請してもいつ助成金がもらえるかわからないでしょう。いずれにせよ,労働法の遵守は当然のことです。ただ,労働法を遵守しても今回くらいの事態であれば解雇は合法的にできてしまいます。労働契約法16条や整理解雇の法理によっても,そこは止められません。むしろ解雇はやむなしと想定して,どうやって企業も労働者もできるだけダメージを小さくし,コロナ後の立ち直りを早くするかを考えなければならないのです。見込みのない企業で雇用を支えてもらって,結局共倒れになるよりは,早く次のステップを考えたほうがよいです。コロナ後がいつくるかわからないのですが,オンライン化が進み企業の省人化対応も進むと,製品需要が戻っても,労働力需要は戻らない可能性が高いでしょう。機械でできることは機械でというAI時代で予想していたことがいきなり実現してしまう可能性があります。そうなると,どういうことが起こるかは拙著『AI時代の働き方と法―2035年の労働法を考える』(弘文堂)を読んでいただきたいのですが,結局それは個人の自営的就労者やフリーランスの時代になるということです。だからそれに備えた政策が必要なのです。昨日,西日本新聞で,この問題に関係する記事のなかに掲載されている私のコメント(内容はいつも述べていることの繰り返しですが)も,こういう問題意識です。つまり自営的就労者への政策は,現在の問題であるだけでなく,コロナ終息の直後の問題でもあるのです。
 ところで,今回の新型コロナショックで,もし私たちが主張していた解雇の金銭解決制度(大内・川口大司編著『解雇規制を問い直すー金銭解決の制度設計』(有斐閣)を参照)があればどうなっていたでしょうか。私たちの主張は,企業は帰責性がなくても,解雇をする場合には,労働者の逸失賃金を完全に補償しなければならないというものでした。そして,その負担は,中小企業には大きすぎるので解雇保険を作って対応すべきとしていました。もし実際にこの制度があったとすれば,新型コロナショックで瀕死の企業は,従業員を解雇することができますが,労働者も解雇保険から十分なお金がもらえます(メリット制によりその後の企業の保険料は高くなりますが,それは当然のことです)。もちろん,大量の保険給付で保険財政が大変なことになるでしょうが,それは政府が特例で援助して対応すればよいのです。
 なんてことを思いますが,手遅れですね。実は,私たちの主張する解雇の金銭解決制度は,これから雇用が減って自営に移行していくようになるときにこそ,活用できるはずなのです。これは(よく誤解されているような)解雇を自由化する制度ではなく,解雇の際に企業負担でプールしていた基金から従業員の生活保障にお金を回すという制度なのですから。
 平時においていかにして想像力を働かして将来に向けた制度を構築するかが重要ということを,改めて知ることになりました。今回のような事態が生じるとはまったく想像できていなかった私も,大いに反省しなければなりません。感染症の危険を警告し,実際に活動をしていたビル・ゲイツは偉大ですね。

 

 

 

 

 

2019年12月30日 (月)

今年1年を振り返って

  一昨日は神戸労働法研究会とその忘年会がありました。研究会のコアのメンバー(遠方からの参加の人もありがとうございます)がほぼそろい楽しい時間を過ごすことができました。私のサバティカル期間中は変則開催でしたが,今年の9月末の例会からは平常の毎月開催に戻りました。私はよく覚えていませんが,オランゲレルさんの記憶によると,研究会を立ち上げてから13年が経っているということだそうです。初期のメンバーたちも,みんな立派になり,いまでは私が若い研究者から教わる場になっています。この研究会があるから,なんとか解釈論の勘を維持できているという感じです。それに,研究会があるから,ちょっとした試論でもぶつけることができ,やはり自分一人で勉強するのとは全然違います。私のメインの研究領域は,現在では,立法政策論になっていますが,やはり解釈論の鍛錬をしておかなければ,議論が雑になってしまいます。ゲストの報告者も積極的に招いて,常に新鮮な議論の場を作るように心がたいと思っています。

 実際に私が雑な議論に陥ることを回避できているかといえば,そうではなく,なかなか本格論文は書けていない状況です。今年執筆した論文で一つあげるとすれば,季刊労働法265号の「労働組合の資格審査は必要か-組合自治と行政サービスの効率性の観点からの再検討」です。ずっと暖めていたテーマで書いたのですが,マイナーな論点であったこともあるかもしれませんが,それよりもクオリティに問題があったのかもしれません。不当労働行為関係では,何年かに1本,自分では力作を書いているつもりなのですが,なかなか評価してもらえないです。精進です。とくに個人的には2013年に執筆した「不当労働行為救済制度における集団的利益の優越についてー複層侵害事案における申立適格をめぐる一試論」(『石川正先生古希記念論文集 経済社会と法の役割』(商事法務)所収)がそれなりに自信作なのですが,これもほとんど存在が認識されていない論文です(抜き刷りを送っていない私が悪いのですが)。

 それはさておき,今年,研究会で何度か議論の対象となって私にとって印象的なのが,労働者の同意についてだと思います。個人情報保護法関係でも出てくる話ですが,そのほかにも,自由意思とは何か,強行規定とは何かという原理的な議論ともつながっていて,これは,もっと詰めて考えなければならないと思っています。少し前になりますが,千葉大学の皆川宏之さんの「労働法における労働者の自由意思と強行規定-民法改正を踏まえて」日本労働研究雑誌700号(2018年)という論文のなかで,私が,シンガーソーイングメシーン事件・最高裁判決と日新製鋼事件・最高裁判決について,自由意思があれば強行規定からの逸脱が可能であることを認めた判例と理解しているとし,そうした理解は妥当でないという批判をしてくれました(93頁)。相手をしてくれたことに感謝です。皆川さんの理解では,この2判決は,強行規定の例外を設定したものではなく,強行規定の及ぶ範囲の解釈を示したものであって,自由意思に基づく法律行為の成立と強行規定による制限という枠組み自体は維持しているとします。実は,最高裁の意図というか,判例の客観的な理解という点では,そのとおりで彼が正しいと思っています。ただ,この判決は,原理的には,derogation を認める議論を内包しているとみることができないか,というのが私の問題意識でした。とはいえ,研究会でいろいろ発言しているうちに,個人の自由意思を重視する議論を,derogation の形で論じることは,あまり成功していないのではないかという疑問が出てきました。むしろ,そもそも労働基準法は,どこまで強行規定なのかというところから考えてみる必要があると思い始めています(行政取締規定と効力規定,労働者の同意による違法性阻却の議論など)。もし機会があれば,ぜひ書いてみたいテーマです。近年は,還暦記念とか古希記念の依頼があったときに備えて論文のテーマを貯めるということをしていたのですが,そういう依頼がなくなってきているので,ストックはできるだけ熟成を早めて世に出していこうと思っています。

 還暦や古希であっても,特定の企画で特定のテーマを割り当てられて書くという依頼は,よほど自分のそのときの関心に合っていなければ引き受けないことにしています。ジュリストの最新号のフランチャイズの論文(「フランチャイズ経営と労働法」)は,私の関心にあっていたので引き受けました。他の法分野との分担ということだったので,もっと労働法の代表として,フランチャイズと労働法に関する論点を広く拾って整理する必要があったのかもしれません。どうもそういうものを書く気にはならず,いま自分が書きたいことだけを書こうということになってしまいました。依頼の趣旨に合わなかったならば,お詫びします。でも,いまの私はそういうものしか書けないのです。

 ジュリスト論文では,サブタイトルにもしたように「交渉力格差にどう取り組むべきか」,ということが私の関心事です。資本主義社会の持続的発展のためにも,このことは重要であるという意識をもっています。交渉力格差は顕在化したものへの対処もあれば,顕在化しないようにするための予防的な対処もあり,むしろ後者のほうが重要だと思っています。今回の論文では前者が中心であり,後者は扱っていませんが,最近のフリーランス関係で書いたものでは,予防的な対策である教育の必要性を力説しています。

 一方,同論文では,労組法上の労働者概念は,1949年の改正時に,文言は同じだが,その内容は変わったと解すべきという「珍説」も唱えています。不当労働行為の行政救済制度を認めた法改正により,労組法の労働組合に対する姿勢は単なる不介入から介入へと原理的大転換があったとみるべきであり,労組法の積極的介入によって保護の対象となる労働者や労働組合の範囲は限定されることになったと考えるのです。他方,1945年の制定段階の労組法は,不介入の姿勢をとるものであるので,零細個人事業者なども含む広い労働者の団結を許容する法律であるとしています。

 もう一つ,私のジュリスト論文のポイントは,零細個人事業者も,社会学的にいえば「労働」している人ではないか,という素朴な問題意識に立っていることです。「労働」をしている人を法が無理やり従属的労働と独立的労働とに分けて,法的扱いを変えることは歴史的には意味があったが,これからはそれでよいのかという問いかけをしています。個人で働いている人は,それが雇用されていようと,業務委託であろうと,起業して人を雇っていようと,共通に括れる部分があるはずであり,それをどのように括りながら,どのように法的に扱っていくかが,これからは重要な問題ではないかと考えています。

 とても大学院生にはお勧めできない筋の悪いテーマですが,来年は,こうした研究をもっと進めていこうと思っています。

 

 

 

2019年7月13日 (土)

反対意見

 712日の日本経済新聞夕刊のフリーランスに関する記事で私のコメントが1行だけ紹介されました。フリーランスに関する話は,緊急性を要するものではないので,何か記事に余裕があるときに掲載されるのだろうと思っていましたが,意外に1面で大きく扱われていましたね。
 ところで,今朝の日本経済新聞の朝刊で,小さな記事ですが,「政府は消費者庁の徳島県への全面移転を見送る方針だ。危機管理や国会対応に支障が出るおそれがあると判断した。」と出ていました。こんなことになるのではないかと危惧していましたが,それが当たってしまいました。危機管理をアナログ的にやろうとしているかぎり,また国会対応なるものを従来のようなやり方でやろうとしているかぎり,東京一極集中から脱することはできないでしょう。現状を変えようとするとき「変えない理由」はいくらでも見つけることができます。組織は上にいる人が変える気がなければどうしようもありません。消費者庁にどういう人が上にいるのかわかりませんが,とにかく結果は残念なことです(そういえば,少し前に厚生労働省が,議員への説明をオンラインでするということが報道されていました。これは大変良い試みだと思います)。
 季刊労働法の最新号(265号)に,「労働組合の資格審査は必要か-組合自治と行政サービスの効率性の観点からの再検討」という論文を発表しました。労働委員会の組織のあり方を根本的に見直すべきだというのは,労働委員会で仕事をしている者として強く感じていることです。私は3年前にも同誌252号で,「労働委員会制度に未来はあるか?」という論文で,制度改革の必要性を論じましたが,今回はより論点をしぼって書いたものです。労働委員会は,もっとスリムに効率的に,集団的労使紛争の解決という自己の専門性を生かしたサービスを提供することができるはずだという信念に基づいて書いています。
 今回の資格審査制度不要論は,労働委員会の何かの会合(同種のものがいろいろあるので,その名前は忘れてしまいました)で報告をしたものに,加筆訂正を加えて論文化したものです。
 現存する制度で少しでも無駄と思うものは,たとえ面倒であっても,その存在意義をしっかり検討すべきです。存在意義があると確認できても,同じ目的をより効率的に達成できる方法がないかを検討すべきです。それにより組織をスリム化できるときは,スリム化すべきです。スリム化することにより,マンパワーを,より重要な仕事に回すことができます。組織は,そういうスリム化を実行できた人を評価するようにすべきです。実際には,できるだけ組織をこれまでどおりに,次につないだ人が評価されることが多いようですが,これはほんとうに困ったことです。組織のために滅私奉公できる人が組織人としては立派なのでしょうが,そういう組織には,今後は良い人が集まらないでしょう。そして,やがて組織は衰退していくのです。
 大事なのは,労働委員会という組織ではなく,労働委員会が果たしている機能です。その機能の重要性は誰も否定しません。問題は,その機能を十分に発揮できるようにするためのシステムが,うまくできているかです。資格審査制度不要論は,労働委員会の本来の機能を発揮できるようにするためのシステムを構築し,労働委員会制度を延命させるための一つの理論的・実践的な提言です。
 とはいえ,労働委員会関係者からは喜ばれないでしょうし,残念ながら誰からも相手にされない論文であることは自分でも十分にわかっています。それでも書くことが自分の義務だと思ったのです。
 最近,アメリカの1905年のLochner(ロックナー)判決のことを少し調べました。ニューヨーク州でパン屋の労働者の労働時間を110時間,160時間に制限する州法に違反したとして罰金を科されたパン屋の経営者が,この州法は合衆国憲法の第14修正(修正14条)に違反していると主張したものでした(これは,第14修正の「デュープロセス」条項が,「実体的デュープロセス」にも及ぶのかという論点とかかわりますが,詳細な説明はアメリカ憲法の専門家にゆずります)。そして,この判決は,契約の自由を重視して,州法は違憲であるとしたのです。経営者の契約の自由を適正に制限したものではないというのが主たる理由です。この法廷意見に対して,Halms(ホームズ)判事は反対意見(dissent)を述べています。その最初のフレーズが次のものです。

I regret sincerely that I am unable to agree with the judgment in this case, and that I think it my duty to express my dissent.

「心から残念なことだが,私はこの判決に同意することはできないのであり,反対意見を述べることは私の義務だと思うのである。」

 アメリカの労働立法を冬の時代に追いやることになるLochner 判決に敢然と異議を述べたHalms判事の言葉に妙に惹かれるものがありました。同判事の考え方は,私と同じではありませんが,それよりも当時のアメリカの連邦最高裁判所の流れ(といっても,この判決は54の僅差だったのですが)に飲みこまれず,「反対意見を述べることは私の義務だ」というフレーズに勇気づけられたのです。 

2019年6月30日 (日)

現代ビジネス登場

 講談社の現代ビジネスに1年ぶりに寄稿しました(https://gendai.ismedia.jp/articles/-/65478)。再度の依頼があったときには驚きました。昨年書いた労働時間に関するものは,あまり評判が良くなかったのではないかと思っていたからです。今回打診のあったテーマは,「労働法がなくなる日」か「同一労働同一賃金とは何か」でした。これと違うテーマをこちらから提案することもできましたが,自分の問題関心にもあっているし,ただ同一労働同一賃金は,日経新聞の経済教室に書いたばかりでしたので,前者のテーマで書いてみることにしました。といっても内容は,『会社員が消える日-働き方の未来図』(文春新書)など,いろんなところで書いているものなのですが,初めて読む人も少なくないと思い,繰り返しとなることを恐れずに書いてみました。
 私が自分でつけていたサブタイトルは,「「身分から契約」の再来に備えて,自助力を磨け」というものでした。これまでに書いたものとの違いは,労働関係の捉え方における,「身分⇒契約⇒身分⇒契約」という大きな流れを軸にしてみた点です。第1次の「身分⇒契約」のときに,労働法が誕生して身分的な庇護の要素を取り入れて「契約⇒身分」となった(法形式的には契約のままですが)が,第4次産業革命が到来し,生産現場での組織的就労という実態がなくなっていくと,第2次の「身分⇒契約」が起こる。しかし,そこではかつての労働法的な政策(庇護的な対応)ではダメで,自助を促進する政策が必要である,というのが主たるメッセージです。
 第1次の「身分⇒契約」のとき,フランスのナポレオン法典(それがドイツのBGBなどの欧州の民法典,さらには日本の民法にも影響しています)では,労働関係を契約的に構成する際に,ローマ法のlocatio conductioを借用して,「モノ」の賃貸借と同列に置いたことから,前近代の身分的関係にあった「ヒト」的な要素(庇護)が抜け落ちてしまいました。そこで,ドイツのゲルマニステン的な議論(忠勤契約論)をベースに,Sinzheimerらにより従属労働を基礎とする(集団主義的な)労働法学が誕生していくことになります(Sinzheimerについては,久保敬治『ある法学者の人生-フーゴ・ジンツハイマー』などを参照。またゲルマニステンの代表であったGierkeを紹介した文献は多数ありますが,近時のものとしては,皆川宏之「オットー・フォン・ギールケにおける雇用契約の法理(1)(2)」季刊労働法238号,239号が参考になります)が,日本では,大企業を中心に(それは戦前から始まっているのですが)労働法に関係なく身分的な庇護を加えていたのです。
 しかし今日の日本型雇用システムのゆらぎは,企業による庇護を難しくしますし,技術革新は労働力の取引をより契約的なものに変えていき(それは雇用から請負へという流れでもあります),第2次の「身分⇒契約」が起きているのです。いまそれにどう対処しようかと,多くの国の労働法学者が知恵を絞っており,そこでは,労働法的なアプローチ(従属性に着目した公助を中心とするアプローチ)を拡大していこうとする動きもみられるのですが,私は,それは適切な政策ではないのではないか,と考えています。やはり中心は自助であるべきであり,従属しないようにするための自助力向上のサポートこそが求められる政策なのです。
 老後2000万円問題といった時事ネタを入れたところを,編集部が反応してくださったのですが,自助の大切さという点ではこれも労働の場面と同じだと考えています。
 世間では,労働にせよ年金にせよ,自助は,あまり評判が良くないようですが,これは私の考え方のバックボーンであり,自助を中心に据えたなかでの,それを補完する公助(さらには共助)のあり方を,これからも考えていきたいと思っています。
 ちょっと悩んだのは,元号使用に対する拒否的なことを以前にこのブログで書いておきながら,今回は,しっかり昭和・平成・令和を,導入と締めで使っているところです。個人的には,判例などでの表記で平成○○年というのは西暦に変えて欲しいという気持ちに変わりはありませんが,今回は,昭和,平成,令和という時代の区分が,読者にわかりやすいかなと思い,そのことを重視しました。成功しているかどうかは自信ありませんが。

2019年6月 1日 (土)

エルネオス

 「エルネオス」という雑誌の2019年6月号のなかで,ジャーナリストの元木昌彦さんが,本の著者にインタビューをする「メディアを考える旅」に登場しました。第257回目という歴史のある企画に,拙著『会社員が消える-働き方の未来図』をとりあげていただきました。元木さんは,私よりもかなり上の世代で,そういう世代の方からの率直な疑問や比較的リベラルな視点からの質問をしていただき,個人的には逆に自分の考え方を説明する機会が十分に得られてよかったと思っています。それにしても,いつも思うのですが,世の中には多くの雑誌があるものですね。この雑誌のことも知りませんでした。今回の話が来たときに過去の号をいくつか送っていただき読んでみたのですが,なかなか個性的で読みごたえのある雑誌でした。私の周りにこの雑誌を読んでいる人はいないと思うので,読者の顔が想像できないなか,それゆえ逆にかなりリラックスして自由に話してしまいました。前のInnovators Talkとほぼ同じ時期に受けたインタビューなので,内容的には重複していますが,やはりインタビュアの世代や性別がまったく違うので,答える私の話の与える印象も少し異なっているかもしれません。
 元木さんは,いきなり拙著が「テレワークについての本」である,と指摘しています。これには最初少し違和感がありましたが,よく考えると,私はフリーの個人が,好きな時間や場所で働く時代がくるということを強調しているので,そうなるとこれは「テレワークについての本」だということなのでしょう。AIやロボットに仕事が奪われるとか,雇われて働く会社員が減るということだけではなく,個人がデジタル技術を使って働くようになるところに変化の本質があるという点に正面から反応されたのが,「テレワークについての本」であるという言葉なのではないかと思いました。インタビューのなかでは,そのほかにも,教育の話,労働なき時代の話などもして,最後は農業の将来性を語って終わりました。
 このなかで最初に,テレワークがらみで,私の話が出てきます。大学教授の本業を授業だとすると,そこは残念ながらオンライン化がされていないので,テレワークも実現できていませんが,これもできるだけ早急にオンライン化すべきでしょう(院生の指導はメールやSkypeで可能ですし,会議もその大半はメール会議で済むレベルのものです)。一方,研究という業務(意識としては,こちらが本業)や研究成果の社会還元につながる学外での業務は,まさにICTを使う可能性を試すことができるものです。文科系の場合,実験施設などは不要で,必要な文献がデジタル化されていれば,自宅で作業は可能です。また,テレワーク化により,私たちの時間を奪ってきた学外業務での移動時間のロスをなくし,エネルギーの消耗を減らすことができれば,どれだけ仕事の効率が上がり,余暇や休息の時間を増やすことができるでしょうか。仕事はデジタル技術を使って効率を上げ,仕事以外はアナログ的に楽しむという生き方がよいのでは,と思っています。そういえば,神戸労働法研究会は,オンライン化をしていません。研究会だけならZoomを使ってもよく,そうすると参加者も増えるかもしれませんが,そうしないのは,研究会のメインの目的は,その後の飲み会にあり,効率化が不要だからでしょう。ひょっとしたら日本企業でテレワークが進まないのは,仕事後に部下と飲みに行くというカルチャーが衰退するなか,それを決定づけることになりそうなテレワーク化に心理的抵抗を感じる昭和世代のおじさんがまだ多いからかもしれませんね。
 ところで先日は,アサヒ芸能にも登場しました。やはり拙著の紹介記事です。掲載日がわかっていたので,コンビニで立ち読みしようとしたのですが,ページをめくっていると,女性のヌード写真や風俗関係の記事,芸能人のゴシップなどが次々と出てきて,これは学生に誤解されてはまずいと思い,あわてて退散しました(あとから編集者から該当ページのPDFが送られてきました)。私の紹介記事自体は良いものでしたが,このブログの読者の方で見た方はほとんどいなかったでしょうね。

2019年5月 9日 (木)

経済教室に登場

 明日(10日)の日本経済新聞の経済教室に,同一労働同一賃金に関するテーマで登場します。昨年の3月にフリーランスに関して執筆して以来の登場です。2012年以降は,毎年1回の頻度で,執筆している感じです。最近では本業に近いはずの「法学教室」(有斐閣)よりも,「経済教室」からのほうがよく声をかけてもらっている感じですね。
 今回の内容は,読者が経済界の方が中心であろうということを意識して,法学の細かい議論には入らず,法律家の観点からみた同一労働同一賃金とは何なのか,ということを法学を専門としない人にわかってもらえるように書いたつもりです。とはいえ,3000字では書き尽くせていませんので,より詳しくは今年3月に刊行した拙著『非正社員改革-同一労働同一賃金によって格差はなくならない-』(中央経済社)をみていただければと思います。
 もちろん,法律家の観点といっても,いろいろな立場の人がいて,私とは全く違う内容の議論をする人もいるでしょう。読者は,よく読み比べて,判断していただければと思います。私の立場の最も大きな特徴は,労働契約法20条は,私法上の効力のない訓示規定であるというものです。私法上の効力などというと,わかりにくいので,今回の論考では,私法上の効力があるというのを,裁判で実現できるという,やや不正確な言い方にしています(実は,私法上の効力があろうがなかろうか,不法行為での請求は可能なのですが)。私の説の基本にあるのは,均衡基準を明確にしていない均衡待遇規定に私法上の効力を付与するのは無理だというものです。そういう無理なことを強行したら混乱が生じ,それは労働者にも,経営者にもよくないし,ひいては規制の「副作用」により,政策目的を達成できないことになる,というものです(今回は副作用のことまでは書けませんでした)。そして,実際上も,混乱が生じているのではないですか,ということを指摘しました。
 私法上の効力を否定する私の見解は最高裁(ハマキョウレックス事件)で否定されたのですが,実は最高裁は,私の主張のエッセンスまで否定したのだろうか,というと,そうでもないと思っています。最高裁では,均衡待遇が問題となった事件ではなかったからです。
 それはともかく,今回の論考の最後は,正社員論にシフトしていきます。これも拙著で述べたように,非正社員問題は,正社員問題でもあります。正社員が変われば,非正社員も変わる。技術革新で非正社員のやるような単純業務はなくなるでしょう(この部分も今回はカットされています)。そして正社員の仕事は,デジタル経済社会の到来により大きく変わる。デジタルデバイド対策こそ,喫緊の政策課題だというのが,一番言いたいことでした。労働行政にはやや厳しい言葉を使いましたが,日頃思っていることをストレートに出しました。厚生労働省は新法に対応するための「取組手順書」などを出しているのですが,私としては,誤った政策の実現に,行政が過剰サービスをしている状況をみかねて,警告を発さざるを得なかったのです。もちろんこんな警告を発しても,行政は何も変わらないでしょうが,何かを感じてくれる行政関係者(あるいは政治家)がいれば,それで良しです。

2019年5月 6日 (月)

メディア登場

  連休中にNewsPicksというメディアの「イノベーターズ・トーク」というところに登場しました。90分以上のインタビューを5日に分けて順番に掲載するものでした。これまで私が受けたインタビュー関係のもののなかでも,ここまでたっぷりとその内容が掲載されたのは初めてです。ただ写真が多すぎるのが恥ずかしいですね(数年前までは,写真をかなり嫌がっていたのですが,いったん解禁したら,もうどうでもよくなってしまいました)。
 この記事は有料メディアのものなので,普通の人の目につくものではないのでしょうが,逆にこういう新しいテーマに関心がある人だけにターゲットを絞っていることもあり,特に初日はかなりの反響があったようです。
 「おまえがイノベーターか?」と言われると,少なくとも自分なりにそれを目指そうとは思っています。社会をイノベートする力までないことは自覚していますが,それでも人々に訴えかけることを目指しており,執筆はそのためのささやかな挑戦です。今回「イノベーター」の仲間に入れていただいたことについて,面映ゆくはありますが,素直に感謝したいと思っています。
 ところで,今回のインタビューは,拙著の『会社員が消える』(文春新書)を読まれたライターの合楽仁美さんが,彼女の関心のあるところを質問してくださり,それに私が答えるという形で進められました。結局,私が好きなことをペラペラと喋り,しかも調子に乗って,ライターもしっかりした仕事をしなければ消えるよというような,上から目線の発言もしてしまいました。それでも,彼女は,これを素直に受け止めるところがあり,このようなしなやかさが,著者の本音を引き出しやすいなと感じていました。一方,本書の最後のほうにも書いていることなのですが,プロの仕事をしろと発破をかけるのとは異なる「頑張りすぎなくてもよいのでは」というメッセージもしっかり読み取っていて,インタビューにも採り上げてくれています。彼女は,この部分のほうに関心をもったようです。
 今回のインタビューにも出てくる「過剰な欲望」は,古くて新しいテーマだと思います。世代間の意識格差の背景に「欲望」の方向性や程度の違いがあるのでは,という感覚を最近もっており(いまごろ気づいたかと笑われそうですが),そういうことも今後は考えていきたいと思っています。
 ところで,今回のカメラマンの方は,これが最後の仕事だそうです。その後はカメラマンをやめて,普通の「会社員」として働くそうです。消えゆく会社員の仕事であっても,なんとか頑張って(でも頑張りすぎずに)幸せな人生を,とエールを送りたいですね。
 それから昨日は,中日新聞の「考える広場」に登場しました。これもネットでみることができます。こちらもまた拙著を読んで関心をもったとして,中日新聞の記者の都築修さんが取材を申し入れてこられました。テーマは「労働組合」です。現在の労働組合を直接的に論じるのではなく,労働組合のあり方というものを,もっと歴史的に,かつ大局的に論じればどうなるのだろう,ということを考えながら話しをしました。中日新聞は,普通なら私になど近寄ってきそうにない新聞なのですが,おそらく私の議論をしっかり理解してくださった都築さんだからこそ,「リスク」(?)をおかしてでも,話を聞きに来られたのでしょう。
 かなり前に朝日新聞に登場したときの澤路さんにも同じようなものを感じましたが,こういう自分でしっかり考えて行動されるジャーナリストは貴重な存在だと思います。
 今回は合楽さんにせよ,都築さんにせよ,私から良いものを引き出してくださったと思います。日頃は,ライターやジャーナリストのインタビューを受けても,結局,私が最初から書いたほうが早いことが多いと悪口を言っているのですが,たしかに書く内容にはそういう面があっても,私に何を語らせるかは,やはりインタビュアや取材者の腕や力量が関係すると思いました。
 不勉強な新聞記者がゼロから教えてくれというようなタイプの取材は受けないことにしていますが,今回のようなものであれば,自分も勉強になるので,喜んでお受けしたいと思います。

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