法律

2020年4月15日 (水)

企業による労働時間管理から,個人の自主的な健康管理へ

 テレワークの普及に対して,法的な観点からの阻害要因となりうるものとして,労働時間規制があることについて,今朝の日本経済新聞の朝刊で水野裕司上級論説委員が「中外時評」で論じておられます。そこに私の見解が引用されていました。とくに今回の記事のために取材を受けたわけではありませんが,『会社員が消えるー働き方の未来図』(文春新書)115頁以下をご覧になったのかもしれません。
 私の提案は,テクノロジーによる健康管理を進めべきであること,そこで得た情報は個人が管理すべきであることというもので,そういう観点から労働時間規制の根拠を根本から再考し,かつ企業の安全配慮義務も見直そうというものです。かなり大胆な提案ですが,デジタル社会を進めようとするなかで必然的な帰結だと考えています。
 国民が健康に生きていくことは,個人の問題だけでなく,政府にとっても重要な関心事であり(ちなみにイタリアでは,憲法において,国民には健康権(diritto alla salute)が保障されています[32条]),それは雇用だけでなく,自営で働く場合にもあてはまるものです。政府は,今後ますます増大することが確実な医療費用を減らすことの重要性も考慮すると,いかにして個人一人ひとりが,テクノロジーを使って自ら健康管理をしていくようにできるかという課題に取り組んでいく必要があると思います。私はこの分野では,行動経済学で言われる「ナッジ」を組み込んで,健康被害を予防できる「アーキテクチャ」を構築する(例えば,そういうプログラミングをしたアプリを無料で提供する)のが有効ではないかと考えています。現在,「ナッジ」,「アーキテクチャ」,さらに,それと関係するリバタリアン・パターナリズムを関心をもって研究しているところです。なお「ナッジ」については,大竹文雄『行動経済学の使い方』(岩波新書)を参照してください。

2020年3月 6日 (金)

Uberのドライバーは労働者!?

 フランスの最高裁に相当する破毀院(Cour de cassation)で,34日に,Uberのドライバーの労働者性を認める判断が出されました。ドライバーは,Uberからアプリの使用が止められたのが不当な解雇にあたるとして争っていましたが,労使審判所は,ドライバーは労働者ではないとして管轄を否定したので,その点が問題となっていました。
 破毀院は,自営業者としての地位(statut d’indépendant)は,みせかけ(fictif)であると結論づけました。「名ばかり自営業者」であったというのです。破毀院の判断や要旨は英語でも読むことができるので,詳しくはそちらを参照してください(https://www.courdecassation.fr/jurisprudence_2/communiques_presse_8004/prestation_chauffeur_9665/374_4_44528.html)。
 一応簡単に言うと,自営業者と認められるためには,自らの顧客関係を形成する可能性(possibilité de se constituer sa propre clientèle),料金の設定の自由,業務遂行条件を定める自由がなければならないが,本件ではそのどれもが認められない(とくに経路が決められていることが重要)とし,逆に,雇用労働者として認められるための従属関係の判断基準である,使用者の指揮命令権(指示をし,業務遂行を監督し,指示に従わない場合に制裁を与える権限)については,乗務の指示を3回拒否すると一時的にアプリが使えなくなり,さらに一定率を超えて拒否したり問題行動があったりすれば,アカウントへのアクセスができなくなる(つまりドライバーとして働けなくなる)し,またUberが一方的に条件を決定している運送業務組織に組み入れられているとみられることから,認定できるというのが,その理由です。
 フランスで従属関係が認められたからといって,日本でも当然に同じように認められるわけではありません。ただ私は,拙著『会社員が消える-働き方の未来図』(2019年,文春新書)の160頁で,Uberのドライバーは,「雇用労働者と認定される可能性は十分にある」と述べていたので,驚きはありませんし,今後同様の判断が世界中に広がっていく可能性はあるでしょう。
 フランスの破毀院の判断は,フランス法の構造によるものと思われますが,自営業者性を否定する判断(独自の顧客開拓可能性や料金・業務遂行の決定の自由について)をしっかりやっているところが注目されます。日本であれば,労働基準法や労働契約法の労働者概念においては,使用従属性があるかが大切なので,必ずしも自営業者かどうかという判断はされていませんが,ただ労働組合法上の労働者性においては,こうした判断要素が追加されているので,今回の破毀院の判断は参考になるかもしれません(拙著『最新重要判例200労働法(第5版)』(2018年)の第138事件「INAXメンテナンス事件」を参照。同書はもうすぐ第6版が出ます)。
 また破毀院のいう業務組織への組み入れ(組み入れは少し意訳で,フランス語では,”participate in” となっていて,直訳なら「加わる」といった感じでしょうかね)という要素は,日本の労働組合法上の労働者性の判断の最重要要素である「事業組織への組入れ」に相当する可能性があるので,Uberのライドシェアサービスが日本で本格的に導入されて,ドライバーが労働組合を結成すれば,この破毀院の判断が参照されるかもしれませんね。
 このほか労働者性とセットの問題として,デジタルプラットフォーム(フランス語では,platforme numérique)の使用者性が肯定されたことは,日本でも広がっているUber型ビジネスのプラットフォームの使用者性をめぐる議論を刺激する可能性があります(昨年,Uberイーツの労働組合が結成されていますので,問題はリアルになってきています)。デジタルプラットフォームに対しては,経済法の観点からの規制も言われており,これも最近よくある経済法と労働法との交錯領域の一つとなるでしょう。

2019年7月15日 (月)

日雇派遣規制の見直し

 昨日の日本経済新聞に「日雇い派遣は速やかに解禁を」というタイトルの社説が出ていました。「政府は規制改革推進会議の答申を受け,本業の収入が年500万円以上ないと認めていない副業としての日雇い派遣について,年収条件を見直す方針を決めた」ということのようです。
 2012年の民主党政権時に導入された労働者派遣に対する余計な規制は見直されるべきということは私も主張してきました(例えば,『雇用改革の真実』(日経プレミアシリーズ)の第4章「派遣はむしろもっと活用すべき」や『雇用社会の25の疑問-労働法再入門(第3版)』(弘文堂)の第23話「労働者派遣は,なぜたたかれるのか」を参照)。私以上に,明快に問題点を指摘していたのは,小嶌典明先生です。『労働法の「常識」は現場の「非常識」』(中央経済社)の第12話「『日雇い派遣』禁止の奇々怪々」では,2012年の法改正のおかしさを的確に指摘されています。
 日雇派遣のニーズの高い者(世帯収入500万円未満の主婦や定時制学校に通っている者など)に制限をかけて,世帯年収が500万円以上あって副業的に行う日雇派遣ならやってよいというようなおかしな法律があるのです(労働者派遣法35条の4,労働者派遣法施行令4条,労働者派遣法施行規則28条の3等を参照)。まさに小嶌さんが言われるような「奇々怪々」な規制です。日雇派遣をおよそ禁止するとまで言えば,まだわからないわけではありません(ただ派遣は臨時的・一時的なものであるのが原則とされているので(労働者派遣法25条),そうすると日雇派遣こそ望ましいことになるはずです)が,ニーズの低い者にだけ認めるという点で「常識」外れなのです。
 小嶌さんは,「政府や行政当局にやる気さえあれば,いつでも法改正はできる」と書かれています(「直接雇用のみなし」のこと念頭においた記述ですが)。今回は,労働政策審議会が動かないから,規制改革推進会議からの提案となってしまったのでしょうか。このルートが必ずしも良いとは思わないのですが,労政審がおかしな規制を自ら改めていくことができなければ,このルートが存在感をもつようになるでしょう。  
 いったん作ったものでも,おかしいものであれば,迅速に廃棄することが必要です。「直接雇用のみなし」にはいろいろな考え方の違いがあり意見が分かれるのはわかりますが,「日雇派遣」は論理的におかしい規制というべきなので,この時期の見直しは遅すぎたほどです。

2019年6月25日 (火)

朝日新聞に登場

 朝日新聞からの取材依頼は久しぶりですが,テーマ的には,私の本に書いていることで十分かと思い,一回は私の本を読んでくださいとお断りしたのですが,再度きちんとした取材依頼メールが来たので,お受けしました。今回はNECの子会社の転勤の事例をきっかけとして記者の方が問題意識をふくらませられたということで,私には転勤についての法的な問題の確認をしてほしいということでした。今回の裁判それ自体は,事実関係がよくわからないところもありコメントできないので,一般的な話しかしませんとお断りしており,記事もそういう内容になっていたと思います。
 ちょうどカネカのことがネットで話題になっていたこともあり,育児・介護と転勤がホットイシューとなりつつあるようです。これはハラスメント問題と近年の転勤懐疑論なども関連する論点で,労働者の意識や働く環境(たとえばテレワークの活用)が大きくかわるなかで,これまでの転勤文化を維持することはもはや限界が来ているのではないか,という大きな視点で考えていく必要があると思っています。
 個人的には「移動しないで働く」社会の実現を期待しているので,転勤はよほどのきちんとした理由がなければ命じるべきではないと考えています。今回のNECの子会社の裁判では,転勤を命じるきちんとした理由があった可能性もあるのでコメントはできないとしたのですが,それはともかく,法的には,今回の裁判は一種の変更解約告知がなされたとみることもでき,そうだとすると,それが「解雇回避型」(解雇要件を充足しているが,それを避けるためのものか)か,そうでないのかが一つの論点となるかもしれませんね(私は約20年前に,解雇回避型かそうでないかの分類をし,そのどちらに該当するかで変更解約告知の要件が変わってくるということを,『講座21世紀の労働法 第3巻 労働条件の決定と変更』のなかの「変更解約告知」というタイトルの論文で書いています)。

 

2019年6月11日 (火)

副業促進に思う

 規制改革会議の「規制改革推進に関する第5次答申」のなかに,副業・兼業の促進というのが入っていました。私も,副業についてはよく語ってきましたし(NHKの番組で話したこともありました),『会社員が消える-働き方の未来図』(文春新書)でも書いています(49頁以下)。ということで,関心をもって答申を読んでみたのですが,少し違和感をおぼえた部分がありました。「法定時間外労働は『後から結ばれた労働契約』で発生するという解釈により,主に副業の使用者が,時間外労働に対する割増賃金支払義務を負うとともに,時間外労働規制の上限規制の遵守の義務を負うこととなる。……本業の使用者における副業・兼業者の労働時間の把握・通算に係る実務上の困難や,副業の使用者における割増賃金支払義務等の負担感等から,企業が副業・兼業の許容や,副業・兼業者の受け入れに関して過度に消極的な姿勢に陥ってしまっている恐れがある」というところです。
 異なる事業場間での労働時間の通算に関する労働基準法381項の見直しは,私も数年前に中小企業庁の会議で,プレゼンしたことがあり,ようやくそれが具体的な提言になったかという思いですが,副業受入れ先の使用者が受入れを渋るという話はしていませんでした。そういう話を聞いたことがなかったので,驚きました。私が不勉強で知らなかっただけなのでしょうが,どこかに調査結果が出ていたのでしょうかね。
 労働基準法38条1項は盲腸のような規定で,ほとんど誰も意識していなかったものなので,この規定が企業の行動に影響を及ぼしていたとは考えにくい気もします。自分の従業員がどこの企業で副業をしているかを把握していることなどほとんどなく,わかっていたときも,そこでの労働時間数についてわざわざ問い合わせたりしないでしょうし,あるいは副業先の企業が,その労働者の本業の企業での労働時間数がどの程度であるのかを気にしたりすることなども,考えにくいことです。私が上記の会議で労働基準法38条1項に言及したのは,副業の促進をしようとする際に,あえていえばこの法律の規定が障害になるからだったのですが,通算は同一企業での異なる事業場間でなされるものに限定すると通達を改めればすむ話でもあります。厚生労働省に,とっととやってもらいましょう。しかも副業が自営であれば,そもそもこの規定は適用されません。あくまで雇用されている労働時間の通算の規定ですので。中小企業庁の問題意識も,むしろ,自営的副業のことにあったと記憶しています。上記の拙著では,副業が,自立的なキャリアを形成していくうえで有効だということも書いています(203頁以下)。
 副業というと,健康管理のことも言われますが,副業を許可したからといって,その企業に副業時の労働に関する安全配慮義務がかかってくるわけではありません。企業のなかには,副業を認めると従業員が過労になるのが心配だといって,副業に消極的なところもあるようですが,これは余計なお世話なのです。少なくとも法的には,副業を認めることにより(強制すれば別ですが),安全配慮義務が追加されるということはありません。企業は,従業員のエネルギーをできるだけ自企業に集中してもらいために,副業を渋るのであって,法的な健康管理責任に言及するのは,たんなる口実ではないかという疑念があります。
 ただ最近は企業の利益を考えた場合でも,副業を認めたほうがよいという考え方が広がってきているようです。日経ビジネスの65日号の「時事深層」でも,「みずほ銀行で副業解禁の方針」という記事が出ていました。ただ,この記事だけをみると,みずほ銀行は,方向性を打ち出しただけで,具体的にどう副業を認めていくかは未知数と思えます。記者には,就業規則におけるどのような規定で認めるのかまで,踏み込んで取材をしてもらいたいです。経営者が口に出すだけなら,それを報道することにあまり意味はありません(「AIを利用します」という経営者の言葉を採り上げることに価値がないのと同じです)。許容する副業の範囲,副業を認める手続(届出,許可など),例外的に許容しない事由などまで,しっかりみなければ,副業解禁に本気で取り組むのかについての評価はできません。なお,この記事では,安全配慮義務を労働基準法上の雇い主の義務としていましたが,労働契約法(5条)上の義務です。単なる書き間違いかもしれませんが,この種の間違いはいろいろなところでよく目にするので,いちおう指摘しておきますね。

2019年5月29日 (水)

最低賃金の引上げについて考える

 

 最低賃金のことは,これまでもよく書いてきているのですが(たとえば拙著『雇用改革の真実』(日経プレミアム,2014年)の第5章「政府が賃上げさせても労働者は豊かにならない」)……。
 最低賃金の引上げ論が問題となっています。政府がなんとか賃金を上げたいと考えていることは理解できますし,先般経済教室でも採り上げた「同一労働同一賃金」と同様,政府にとっては財政を痛めずに国民の支持を得やすいものといえますが,ポピュリズムの匂いが強く,賛成できません。しかも最低賃金は「同一労働同一賃金」よりも筋が悪いものです。最低賃金は,法律上の強制力があり,違反には罰則もあります。労働市場への強力な介入です。こうした政策が労働市場をどの程度ゆがめるかについては,経済学者の実証研究に委ねる必要があり,この点について意見も多少分かれているようですが,その点はさておき,最低賃金法の構造からみても,政府が最低賃金の引上げに介入することには疑問があります。
 新聞報道によると,政府は6月に発表する「骨太方針」のなかに,最低賃金の全国一元化,また2020円前半までの1000円(時給)の実現を盛り込むことを,検討しているようです。
 最低賃金法は,地域別最低賃金(都道府県ごとに決定される)について,その原則として,「地域別最低賃金は,地域における労働者の生計費及び賃金並びに通常の事業の賃金支払能力を考慮して定められなければならない」と定めており(92項),全国一元化は,この規定と抵触するのではないかと思われます。日本全国の生計費や賃金水準が同じであるとは考えられないからです(ちなみに,域内の自由移動を認めているEUでも,最低賃金の設定については加盟国に委ねている)。
 最低賃金を一律にせよとか,もっと引き上げろとかいう論者は,どうも最低賃金を現実賃金と混同しているのではないかと思います。最低賃金は,罰則によって強制される最低水準の賃金のことです。何が犯罪になるかの水準を決めるものなのです。だから事業の賃金支払能力などの現実的なところを考えていかざるを得ないのです。
 地方での労働者の確保という経営者側の理由が,最低賃金の引上げの根拠として言われることもあります。もしそういうことなら,自発的に賃金を上げればよいのです。自発的に引上げれないのなら,法律で強制されても,引き上げることは困難でしょう。もし,法律で強制されれば,補助金が支払われるかもしれないと期待して最低賃金の引上げを求めているとすれば,それは経営者としての資質を問われることになるでしょう。
 最低賃金が引き上げられれば,賃金相場が上がることはあるようですが,最低賃金の絶対額の水準に,賃金が引き下げられる傾向があるかどうかは,私はよくわかりません。しかし,最低賃金に合わせた賃金を支払おうとする経営者がいれば,それでは良い人材が集まらないので,そうした企業は市場で淘汰されていくはずです。
 むしろ考えるべきなのは,多くの中小企業は,人材確保の必要性を考えて,ぎりぎりいっぱいの賃金を提示しているのではないか,ということです。そのような努力を軽視して,世論受けのする政策を打ち出すことは,やってはいけないことです。日本商工会議所などが,これに抗議する緊急提言をしたのも理解できます。
 経営者が賃金を引き上げる努力をするのは当然のことです。また賃金を大きく引き上げることにより,うまくやっている企業も多いでしょう。でも自分たちができるから,おまえたちもやれるというのは,ちょっと違うと思います。経営者の努力の仕方は,それぞれなのです。賃金をうまく上げたり,制度設計したりすることができずに,生産性が下がったり,人が集まらなかったりすれば,責任を負わなければならないのは,その経営者です。だから経営者には,そうならないよう自助努力するインセンティブがあります。そこに政府が介入するのは,できるだけ避けるべきなのです。余計な介入により,うまくいかなくなったときの経営責任は,誰がとるのでしょうか。
 労働契約法20条も同じですが,作ったうえで,あとはよろしくということでは混乱が残るだけです。最低賃金も,引上げの道筋を作ったぞ,あとはよろしくでは困るのです。そういう政策を進めれば,次にどうなるかまで,しっかり考えてもらいたいです。選挙が終われば,あとはどうでもよいということでは困るのですが,どうもそのような気がします。というのは,トランプが貿易問題について選挙が終わるまでは待つと言っているのは,選挙が終われば,国民に不利なことでも大丈夫と,安部首相が言ったからではないかと勘繰りたくなります。もしそうなら,国民もずいぶんと馬鹿にされたものです。 
 最低賃金の決定プロセスには,最低賃金審議会という専門機関があります。とくに重要なのは中央最低賃金審議会です。最低賃金の引上げペースを加速化せよという政府の圧力は相当なものかもしれませんが,その存在意義をしっかり発揮してもらえると信じています。

2019年4月30日 (火)

コンビニの店長の労働者性

 今年の315日に,中央労働委員会が,コンビニエンスストアのフランチャイズ加盟店の労働組合法上の労働者性について,セブン-イレブン・ジャパンおよびファミリーマートのいずれにおいても,これを肯定した都道府県労働委員会(岡山県労働委員会と東京都労働委員会)の判断を覆す再審査命令を出しました。加盟者等(フランチャイジー)が加入している労働組合からの団体交渉の申込みを拒否した,フランチャイザー側の言い分が通ったということです。
 私たちの業界では少し驚きをもって迎えられた命令ですが,世間の関心も高く,中央労働委員会の事務局長が事前に日経新聞に内容を漏らしてしまって処分されるというオマケまでついていました。
 拙著『会社員が消えるー働き方の未来図』(文春新書)の186頁では,フリーの人たちの共助という観点から,この問題に触れています。拙著のなかでは,岡山と東京の労働委員会での判断を前提に,労働者性が肯定されていると記述していますが,中央労働委員会の再審査命令が出たので,現時点ではそこは修正が必要です。ただ,労働委員会の命令は,裁判所で取り消される可能性もあるので,まだ最終的な決着はついていません。いずれにせよ,拙著の「独占禁止法からみると,明らかに『事業者』でもあるので,その活動内容いかんでは違法な『カルテル』になることもあり得る」という記述には修正の必要はなく,そこで指摘したことは政策課題として残っています。
 現在,24時間営業の是非や「働き方改革」などとも関係して,コンビニの店長たちの苦況がいろいろ報道されるなかで,彼ら・彼女らが,「事業者」として「優越的地位の濫用」の法理やこれを具体化している下請法により保護されるかという論点に加えて,団結して戦うことができるか,ということが問われています。
 中央労働委員会は,団結して戦うことを否定したようではありますが,「顕著な事業者性を持つ者であっても,事業の相手方の規模等によっては,契約内容が一方的に決定されるなどして交渉力の格差が発生することはあり得るが,そのような交渉力格差は,使用者と労働者との間の交渉力格差というよりはむしろ,経済法等のもとでの問題解決が想定される,事業者間における交渉力格差とみるべきものである。」として,問題の解決を経済法(独占禁止法など)などに委ねたとみることができるような書き方をしており興味深いですし,さらに「本件における加盟者は,労組法による保護を受けられる労働者には当たらないが,上記のとおり会社との交渉力格差が存在することは否定できないことに鑑みると,同格差に基づいて生じる問題については,労組法上の団体交渉という法的な位置付けを持たないものであっても,適切な問題解決の仕組みの構築やそれに向けた当事者の取り組み,とりわけ,会社側における配慮が望まれることを付言する。」として,中央労働委員会としては,彼らの要保護性を無視しているわけではないが,自分たちではどうしようもないというメッセージを発しているようにも思えます。
 この命令については,理論的には,いろいろ突っ込みどころがありますが,無理に労働法の問題として解決することが妥当ではないというのが私のスタンスなので,その点で「政策的な」方向性は中央労働委員会と同じといえるかもしれません。ただ,この問題はコンビニという事業の特殊性もふまえる必要があります。4月10日の日経新聞の経済教室で,商法学者の小塚荘一郎さんが,コンビニには,本部と加盟店が契約に基づいて共同事業(分業)をするフランチャイズシステムの仕組みの展開形態であるという面と,中小の小売業の近代化という面とがあると書いている(「転機のコンビニモデル 本部,人手確保に自ら対応を」)のを読んで,なるほどと思いました。共同事業に組み込まれているという点では従属性が濃厚で労働者的要素が高まる一方,小売りの事業者(非労働者)という基本的性格も強いという,二面性がこの業態の特徴であり,そのどちらを重視するかによって労働者性の判断も変わってくることになりそうです。
 こうしたコンビニの特殊性はあるとはいえ,理論的には,フリーワーカーたちの団結をどう考えるかというより大きな問題にも関係してくるので,経済法に任せるというより,経済法と労働法が手を携えて,新たな法領域を開拓すべくチャレンジしていくことが必要だと考えています。

2019年4月15日 (月)

高度プロフェッショナル制度について思う

 労働政策について,私が,いろいろ政策提言をしても,それが実現する可能性は極めて低いです。労政審ルートで労働政策が決まるかぎり,私の政策提言が実現するチャンスはゼロです。内閣府ルートが動き出してから,私にもほんの少しだけ意見を述べる機会がありましたが,どうも内閣府ルートは急進的すぎて無理筋が多く,そのなかに放り込まれても,実現に多くの期待はできませんでした。結局,いわゆる「同一労働同一賃金」のような筋の悪い法律が通されただけです(これに対する批判は,『非正社員改革』(2019年,中央経済社)を参照)。
 それじゃ,政策に影響のない研究者が,政策提言をしても意味がないのかというとそうではないのだと思います。政策は,厚生労働省の正規軍に任せておけばよいということでもないと思います。正規軍が間違った方向に進んでいないのか,さらに正規軍さえ支配する上位の権力の動きも,監視する役割は必要だからです。それは専門家の責任でもありましょう。
 ただ本音では,監視だけでは物足りないので,もっと発信してシンパを増やし,いつか私の政策を取り入れてくれるような有力な政治家が登場することを祈りたいと思っています。私のゼミの卒業生にも政治家を目指している人がいるので,こっそり(?)見守っていくつもりです。
 ところで,この4月から高度プロフェッショナル制度が導入されています。誕生したときから,自由に羽ばたけないように重しをいっぱいつけられた可哀想な鳥のような制度です。私は『労働時間制度改革』(中央経済社)で,より純粋なの日本版ホワイトカラー・エグゼンプションの提言をしています(188頁以下)が,それと比べると,高度プロフェッショナル制度は,きわめて残念な内容になってしまいました(ちなみに私の提言は,アメリカのホワイトカラー・エグゼンプションとは直接の関係はありません)。
 325日の日経新聞の経済教室で,日本大学の安藤至大さんが,高度プロフェッショナル制度を労働時間規制の適用除外とする説明は不正確だと書いていました(健康確保の仕組みが変わったことが本質だということのようです)が,実務的にはそうなのかもしれませんが,法律家の目からは,この制度の本質は適用除外にあることは否定できません。むしろ健康確保関係の規定は,規制の適用除外を受け入れさせるための政治的妥協のようなものです。
 本来,適用除外であることの意味は,時間外労働の抑制手段として,割増賃金を使わないところにあります。割増賃金を使わなくていいのはなぜかというと,法律により時間外労働を抑制する必要がないからです。なぜ法律により時間外労働を抑制する必要がないかというと,健康確保などのための時間管理は,法律ではなく,労働者本人に任せてよいからです。したがって論理的に考えると,この制度を適用してよいのは,時間管理を本人に任せてよい労働者となります。そうした労働者の範囲をどのように画するかについての基準は,いろいろありえるのですが,イメージは,知的創造的な仕事に従事している人です。頭脳を働かせている時間は,そもそも他人は管理できません。法が介入してはいけないのです。だから健康管理も自分でやってもらうしかないのです。そのために,本人が休息をとりたいなと思ったときに権利として取れるようにしておく必要はあるというのが,私の提案です。これが現在の高度プロフェッショナル制度と大きく違うのは明らかです。
 私の提言の一つのなかに,年次有給休暇は,普通の労働者には,使用者主導か計画年休にしろというものがあります(今回の改正で5日は使用者主導となりましたが,この改正の評価についてはすでにこのブログで書いているので,ここでは省略)が,エグゼンプションの対象者については,制定当初の労働基準法39条の規定どおり,労働者にすべての年休について時季指定をさせる方式でよいというのが私の主張でした。むしろ必ず休ませるべき労働者には,使用者が無理矢理にでも休ませることが必要なのであり,一方,もともとの労働基準法39条の規定のように労働者に主導権がある休暇は,実は自分で健康管理ができる人に適した制度だったのです。
 今回の高度プロフェッショナル制度での健康管理のあり方は,こうした点からみてもおかしいのです。自分で健康管理をできないかもしれないから,法が休息や健康管理に配慮してあげなければならないということでしょうが,私の考えでは,そういう人は,そもそもエグゼンプションの対象としてはならないのです。エグゼンプションの対象とするから,休息や健康管理はより厳格に法が配慮するというのは,論理的におかしいのです。これは政治的妥協だから起こったことです。こういうおかしな制度を前提に法解釈をしなければならないというのは,研究者としてファイトがわくことではありません。
 もっとも,今回の改正で,少しずつではありますが,私の政策提言どおりの方向に向かっていると言えなくもありません。ただ,ゴールはまだ遠いですね。それに私の問題関心はすでにもっと先に行っていることは,『会社員が消える』(文春新書)でも書いています(108頁くらいから読んでいってみてください)。労働時間規制なんて過去のことになるだろうと考えているからです。テクノロジーを使って自分で健康管理することが,もう少しすると普通のことになるというのに,労働時間規制の問題に多くの研究エネルギーを割くのは無駄なことではないかと,いまでは考えています(高度プロフェッショナル制度の導入は,労使委員会制度への関心が高まるきっかけとなるかもしれないとは考えています)。

2019年3月17日 (日)

労働組合と総有

 法人格を取得していない労働組合は,「権利能力なき社団」に該当し,その財産は組合員全員の「総有」となる,というのが,判例の立場であり,どの労働法の教科書にも書かれていることです(学説としては,単独所有説も有力です)。 

 そこでいう判例とは,昭和321114日の品川白煉瓦事件の最高裁判決です。同判決は,「思うに,権利能力なき社団の財産は,実質的には社団を構成する総社員の所謂総有に属するものであるから,総社員の同意をもつて,総有の廃止その他右財産の処分に関する定めのなされない限り,現社員及び元社員は,当然には,右財産に関し,共有の持分権又は分割請求権を有するものではないと解するのが相当である。」という一般論を述べて,これを法人格なき労働組合にもあてはめています。組合から脱退した組合員が,たとえそれが集団的な脱退であって,事実上分裂したような場合であっても,元の組合の財産の分割請求はできないのが原則なのです(ただし,例外的に分割できる場合があるとする,昭和49930日の国労大分地本事件・最高裁判決もあります[学生が好きな論点]が,その例外の要件は厳格です)。

 それで「総有」ということなのですが,これは民法で共同所有権のところで出てくるものです。共同所有の形態には,共有,合有,総有があると説明されます。民法の条文として出てくるのは共有だけですが,(民法上の)組合では合有,権利能力なき社団では,先ほどの判例のように総有とされています。総有の特徴は,持ち分がなく,共同所有者は目的物の管理処分権はなく,使用収益ができるだけとされています。

 総有の典型事例が,入会地です。入会権は民法上の物権であり,林野などの土地に認められることが多いものです。これは古ゲルマンの村落共同体の所有形態にまで遡ることができ,農地などを共同体のメンバーが共同体的な規制の下で所有していた時代にあったものです。現在の日本でも入会地はあり,勝手に構成員が持ち分を処分できない点では,古き良き土地を守るために重要とされる一方,必要な買収ができない(全構成員の承諾が必要)などの問題もあるようです。

 話を元に戻すと,総有のもう一つの典型例が,権利能力なき社団です。前述のように,法人ではない労働組合も,これに該当するとされています。

 ところで,判例によると,「権利能力のない社団といいうるためには,団体としての組織をそなえ,そこには多数決の原則が行なわれ,構成員の変更にもかかわらず団体そのものが存続し,しかしてその組織によって代表の方法,総会の運営,財産の管理その他団体としての主要な点が確定しているものでなければならない」とされています(最高裁判所・昭和391015日判決)。

 菅野和夫『労働法(第11版補正版)』(2017年,弘文堂)の792頁の注30では,この要件は,労働組合の定義における「団体」と同じであると書かれています。私もずっとそうだろうと思っていました。ただ,もしかしたら民法の社団概念は,もっと厳しいのではないか,と思わないわけでもありません。

 権利能力なき社団については,民法上,もう一つ重要な最高裁判決があります。それによると,「権利能力なき社団の代表者が社団の名においてした取引上の債務は,その社団の構成員全員に,一個の義務として総有的に帰属するとともに,社団の総有財産だけがその責任財産となり,構成員各自は,取引の相手方に対し,直接には個人的債務ないし責任を負わないと解するのが,相当である」とされています(最高裁判所昭和48109日判決)。

 権利能力なき社団となると,第三者との関係での責任財産は,構成員個人から離れるという重要な効果があります。労働組合ではあまり注目されない部分ですが,財産的取引を重視する民法では重要なポイントとなるでしょう。というのは,法人格がない団体という点でみると,権利能力なき社団と民法上の組合(民法667条以下)は似たようなものですが,前者であれば,責任財産は社団財産(社員の総有財産)に限定されるのに対して,後者であれば組合員の個人財産にも及んできて,取引の相手方にとってその違いは大きいです。

 そうすると,権利能力なき社団は,もともと民法学における概念であることを考慮すると,その定義では,財産の管理という点が重要となり,責任財産が明確化されていないような形で活動をしていると,社団性を満たしていないということにならないのかが心配になってきます(ただ,この点は民法の先生に確認してみる必要があります)。おそらく労働組合の団体性の定義では,財産の管理は内部的なものが重要で,対外的な責任財産という視点は希薄ではないかと思うのです。

 万が一,ある労働組合の社団性が否定されて,民法上の組合の規定が適用されると,違法争議行為のときの損害賠償責任について,個人責任を負うかどうかという著名論点はさておき,組合が責任を負うときに,組合員も直接無限責任を負うことになってしまいます。
 初めは,沿革的にも慣習の支配する(民法263条を参照)村落共同体的な入会地で適用される総有概念が,(法人格のない)労働組合に適用されることへの違和感から始まった話だったのですが,法人格なき労働組合が,当然に,権利能力なき「社団」で,その財産が総有となり,持ち分が否定されて,個人財産から分類されるということでよいのか,その前に一度,社団性の内容を確認する必要があり,それと労働組合の「団体」性(労働組合法2条)の解釈との照らし合わせをしておく必要があるのではないか,という話に行き着いてしまいました。昔の学説は,こういうことをきちんと議論していたのかもしれないのですが,もう教科書から消えている論点ですので,ほじくってみました。

2019年3月11日 (月)

奴隷

 雇用の歴史というものを考えていくと,奴隷の問題に行きつきます。現在の日本の労働法研究者で,奴隷のことを研究している人は,まずいないでしょう。奴隷制が克服され,労働者がひとまず「ヒト」として尊重される近代社会が到来した後の,契約関係に基づく従属性にどう対処するかが労働法の課題とされてきたからです。そのためもあって,海外から指摘されることの多い外国人技能実習生の奴隷的な就労の問題についても,もちろんそれが問題ではないと考える労働法研究者は皆無だと思いますが,ただ,どことなく労働法の問題というよりも,より広い人権問題(あえていうなら憲法の領域)と考えている人が多いのではないかと思います。
 日本国憲法の18条は奴隷的拘束や意に反する苦役に服さない自由を保障しています。英文では,奴隷的拘束は,slavery ではなく,bondage という即物的な表現が使われており,また意に反する苦役はinvoluntary servitudeです。18条は,通常,労働法に関連する規定とは考えられていません(もちろん労基法5条には関係しているのですが)。一方,労働法に関係すると考えられている憲法27条や28条の「勤労」や「勤労者」には,英文では,work やworker という言葉が使われています。労働法学者は,「奴隷」問題は憲法に任せ,27条1項・2項や28条が扱う「勤労」のみを引き受けようとしたのかもしれません(27条3項の児童の酷使の禁止も,奴隷と同様,労基法には若干の規制はあるものの,一般には労働法の対象ではなく,こちらは児童福祉の分野に任されています)。
 ところで,アメリカにとって,日本国憲法18条に相当する修正第13条は,歴史的にも,とても重要な条文です。その第1項は,「Neither slavery nor involuntary servitude, except as a punishment for crime whereof the party shall have been duly convinced, shall exist within the United States, or any place subject to the their jurisdiction」です。日本の憲法18条とほぼ同じで,ただアメリカではbondage ではなく,slavery という単語を使っています。これは,アメリカではslaveryが制度化されていたことと関係しているようです。
 アメリカは,イギリスからの隷属に抵抗して1776年に独立した国です。アメリカの独立には,イギリスの有名なLocke(ロック)の思想が大きく影響しています。ロックの議論(『統治に関する二論』)は,王権神授説を論駁し,人々は神の下にみな平等であり,どのような権力(power)にも服さない自由があるとして,「slavery」を否定し(Essay2のChapter4),その後に有名なproperty 論が展開され,生命・自由・propertyを守るための政府(政治的社会)が社会契約により正当化されるという議論につながっていくのですが,どうしてこの考え方をアメリカ人は奴隷にあてはめなかったのでしょうか。イギリス国王への隷属を批判したアメリカ人が,自身で奴隷をもつことは,どう正当化できたのでしょうか。
 このあまりにも当然の疑問について,正面から取り組んだ論文があります。山口浩一郎先生の古希記念論集「友愛と法」(2007年,信山社)のなかに収録されている浜田冨士郎先生の「アメリカ独立革命と奴隷制」です。長年,アメリカ法や差別禁止法を研究されてきた浜田先生は,この原点の問題に取り組まざるを得なかったのでしょう。研究者というのは,こういうテーマにこそ取り組まなければならないのだということを痛感させられる論文です。浜田先生は,アメリカ憲法の歴史的価値を肯定する一方で,建国のエリートが奴隷制に対する安易な妥協をしたことについて厳しく批判します。アメリカは独立期には,真に欲すれば奴隷制を廃棄することができたのに,奴隷制に対する鈍感さや同情心の欠如により,あるいは直面する労を惜しんで奴隷制を温存させたという浜田先生の指摘は,辛辣で重いものです。
 自由と平等という建国の理念を掲げながらも,アメリカは奴隷制をその後90年近く存続させ,南北戦争というアメリカの歴史のなかの唯一の内戦を経て,ようやく解放に至ったという事実(Lincolnの奴隷解放宣言は1862年,合衆国憲法の第13修正は1865年)は,たんにアメリカのもつ矛盾という次元だけで捉えきれない教訓を残してくれているように思えます。
 アメリカは,奴隷は解放したものの,その後も黒人を差別し続けました。人種差別を禁止する公民権法が制定されたのは1964年です。さらに100年かかったのです。人種差別を禁止するという土台に,性,年齢,障害による差別の禁止も乗っていきました。差別禁止法の根源には,遠くアフリカなどから労働力として連れてこられ,物(動産)として扱われていた奴隷の深い悲しみと絶望があることを感じざるを得ません。法律家はついつい制度の表面的な理解にばかり目が行ってしまいますが,制度の深奥部にある人間の愚行の歴史にまで入り込んでいかなければ,真の理解には到達しないのではないか,浜田先生の研究から,改めて,こんなことを考えさせられました。

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