政策

2020年8月 1日 (土)

政治家は国民を納得させるべし

 私がいま執筆している『人事労働法』の中核的なコンセプトは,企業は従業員の納得した同意を得ながら人事管理をしなければならず(これを「納得規範」と呼ぶことにします),法は納得同意を得るよう企業が説得協議の手続をふむことにインセンティブを与えるものでなければならない,というものです。そこで重視されるのは,企業はいかなる行動をとるべきかという「行為規範」であり,これにより,これまでの「裁判規範」重視の労働法学から決別しようと考えています。
 労働者の納得の重要性は,かつて西谷敏先生も季刊労働法で論文を書かれているのですが,私のほうが労働者の主観的な納得をより重視する点に違いがあると考えています(詳細は,またそのうちに)。

 ところで,今日,書きたいのは,労働法のことではなく,政治のことです。政府の国民への説得についてです。現在,コロナ禍のなか,政府がいろいろ政策を打ち出しているのですが,そのほとんどに国民は納得していません。そして,国民は,政府がきちんと自分たちを説得しようとしていないことに大いに不満を感じています。逃げる,ごまかすの政治にはうんざりということです。
 昨日,BS7WBSという番組(よく視聴しています)で,「ジャパネットたかた」の創業者の高田明さんが「コロナに思う」で語っていたメッセージが良かったです(https://txbiz.tv-tokyo.co.jp/wbs/newsl/post_207215/)。高田氏は,経営者として客に商品を説明するときに大切なこととして,①商品を徹底的に勉強する,②本気で情熱をこめて説明する,③言語以外の要素も使って表現する,ということを挙げていました(このメッセージ自体,説得力をもって伝えられていました)。商売においては,当たり前のような気がしますが,同じことは企業の従業員に対する説得においても,そして政治家の国民に対する説得においてもあてはまるものです。
 説得というのは情報の提供の仕方に関係します。上記の①の要素は,提供者がその情報のことを十分に理解していなければならないということですし,②は相手にその情報を理解してもらいたいという情熱をもつことですし,③は技術的なものかもしれませんが,情報の伝達力における非言語的な要素の大きさを示すものです。
 日頃から首相の発言に大いに不満をもっていましたが,その理由は,①の面で,国民に向けて説明している政策の内容について自分が十分に理解していないのではないかと思われること,②の面で,事前に用意された文書を読んでいるだけのことが多く,情熱が伝わらないこと,③の面でも,本気度を示そうとする方法が,「しっかり」(この表現が安倍内閣ではよく出てくる)とか,「全力で」といったような,それっぽい言語を使うだけで空虚に聞こえ,非言語的な要素での伝え方が不十分であることです。言語にこだわるのは,スピーチライターが官僚だからでしょう。官僚が書いたものを棒読みするだけの首相や閣僚ばかりだから,①から③のいずれの要素も欠けてしまい,説得力がないのです。西村大臣は①は充たしているかもしれませんが,②の点で国民のことを本気で考えているという感じが伝わってきません。
 政府は,良い政策を考えても,国民に説得力をもって伝えられなければうまくいかないでしょう(「GO TOキャンペーン」のような,説得しようにもできない政策もあるのですが)。首相や閣僚は,いまやろうとしている政策がどのようなものかを自分でしっかり咀嚼したうえで,国民に向けて,ぜひ理解してほしいという情熱をもって私たちを説得してもらいたいです。政治家自身が理解も納得もしていない政策を官僚に言われるまま実行しているだけなので,失敗しても心底から「責任」を感じることにならず,結局,無責任政治が横行することになります。
 知的レベルでは,首相も閣僚も,官僚より劣っているのは,国民の誰もが知っていることです。だからこそ,政治家は,国民と同じ目線をもち,謙虚な姿勢で,「学び,理解し,そして納得したものだけを伝える」ということをしてもらいたいです。官僚に簡単に言い含められ,説得させられているのかもしれませんが,もしそうだったら情けないですね。閣僚は,せめて中核的な内容は,官僚のサポートがなくても質問に答えられるくらい理解をしてもらいたいし,そのようにして理解した政策だけを実行すべきでしょう。そのような政策であればこそ,国民に情熱をもって説得することができ,国民にも納得感がうまれるのです。 
 納得規範は,人事労働法だけでなく,政治にも適用すべきものなのです。

2020年7月 4日 (土)

NIRA総研のオピニオン・ペーパーが出ました

 先日,NIRA総研のオピニオン・ペーパー(No.49)「フリーワーカーの時代に備えよー多角的な法政策の必要性」がネット上に公開されました。「個人自営業者の就労をめぐる政策課題に関する研究」というNIRA総研のプロジェクトのなかで,キックオフ・ペーパーとして,私が単独で発表した「『フリーワーカー』に対する法政策はどうあるべきか」を受けて,最終的な取りまとめをする役割をもつものです。今回のプロジェクトの構成員では,中央大学の江口匡太さんと亜細亜大学の中益陽子さんが個人でNIRA政策研究ノートを発表しています。NIRA総研は,研究者を大事にしてくれる組織で,プロジェクトはそれとして取りまとめるペーパーを出すが,構成員が個人名で自分の見解に基づくペーパーを書くこともできるという非常に自由な環境を与えてくださっており,これはとても素晴らしいことだと思っています。取りまとめは,私の色が出ているところもありますが,皆さんが研究会で出してくださった議論をできるだけ広く取り入れるという,役所の報告書のようなことをしたつもりです。
 今回のペーパーのサブタイトルには,多少世間へのアピールも考えて「多角的な」という言葉が入っていますが,このテーマは,もっともっと多角的な切り口があります。私の頭のなかには,すでに次のステップの構想がありますが,どの場になるかわかりませんが,また発表できる機会があるでしょう。

 フリーワーカーに関する現実の政策は,コロナ禍の影響もあり,思った以上に早く動いており,はっきり言って,何でもありという感じになっています(雇用労働者への雇用調整助成金も,元の制度は何だったんだと言いたくなるくらい,雇用保険制度が打ち出の小槌になっていますね)。政治家による税金の使い方について,国民として言いたいことはありますが,研究者としては,きちんとした論理や筋で,政策を立てていくことにこだわらなければなりません。政策は,荒唐無稽な非現実なものはダメでも,現実性の判断は結構幅があるもので,私は思い切って理想を追求するところに走ってもいいのかなと思っています。今回のオピニオン・ペーパーは,ある程度,現実的なところにしたつもりですが,これをステップとしてもっと先に進まなければなりません。

 今朝の日経新聞をみると,政府も未来投資会議で「フリーランスのルール整備」の提言をされているようなので,今後,少しは政策が動くのかなという気がします。ただ,私が頭のなかに描いている最終的な絵は,簡単にいうと,雇用労働者もフリーワーカーも区別しないで,働く人という基準で大きく括って政策を考えるべきというもので,しかも基本的にはICTを使ったテレワークをしていることを前提にすべきだというものです。こうした政策を役人に任せると,そういうところにまでは行かないかもしれません。ここはシンクタンクの出番でしょう。大学も期待されるべきなのですが,残念ながら大学院法学研究科についていえば,法科大学院という平成時代からのお荷物を背負っていて,その処理(?)に苦しむことになりそうです。むしろ従来の学部や大学院とは違う,ちょっと怪しげに見える名前の学内の研究機関のようなところが,新たな時代に対応する研究や政策提言をになっていく可能性をもっているかもしれません。

 日本が世界に誇る労働政策に関するシンクタンクJILPTも,いまは優秀な人材を抱えていますが,自前主義は組織を弱めることにならないか心配です。私も大学院生のときから,JILPTの前身の日本労働協会,日本労働研究機構で大変お世話になり,勉強の機会をいただきました。さらに就職してあとも,JIL雑誌の編集委員や特別研究員をやらせてもらい,そのときの経験はいまでも私の研究者としての大事な基礎となっています。ただ特別研究員は15年前くらいでしょうか,突然,終了したのですが(ただ,その後も,編集委員は任期上限の10年になるまで続けましたが)。確か2年くらい前から,確定申告のときに,JILPTの源泉徴収票がないことに気づき,ついに長年お世話になったJILPTから卒業したのだということを実感することになりました。こういう時期と重なるように,数年前からNIRA総研とお付き合いができて,今回のペーパーにつながりました。
 NIRA総研は,いちはやくZoomでの会議を取り入れてくださったので,プロジェクトでは神戸にいながら会議を行うことができて,大変助かりました。客員研究員としての契約書も電子署名ですので,紙のやりとりをしなくてよいなど,先進的でした。
 オンラインの時代になると,どこででも研究ができ,発信ができます。今後は,神戸にいながら,サイバー空間でシンクタンクを立ち上げて,世界へ政策発信することができればということを考えています。サイバー空間なら,名刺をもたない,年賀状を書かない,無駄な社交をしないといった私にも,まだやれることがあるのではないかと思っていますが,それは甘いでしょうかね。

2020年4月11日 (土)

政治に頼らず,できることをやる

 7日に閣議決定された「新型コロナウイルス感染症緊急経済対策」は,ネットでみることができます(https://www5.cao.go.jp/keizai1/keizaitaisaku/2020/20200407_taisaku.pdf)。長大な文書で,こんなものを作っているから時間がかかったのではないでしょうか。政府の現状認識は,まだ平時なのだろうと思いました。役所は,巨大な予算がつくので,この絶好の機会に乗らなければならないということで,必死に考えて,この対策に盛り込まれるように頑張ったのでしょう。この文書のなかに少しでも書かれていれば予算をもらい事業を拡大することができます。国民のためという大義名分がたてばよいのです。その調整の成果がこの文書なのでしょう。
 でも,もしほんとうにそういうことであったら,困ったことです。いまは緊急時であり,海外の首脳がいうような「戦時」と言ってもよいくらいです。優先順位をつけて,「すぐにやることリスト」を,A41頁くらいにまとめて,即刻実施するくらいのことをしてもらいたいのです。従来と異なる手続もあるでしょうが,それを突破するのが政治家でしょう。森友学園問題で,あんな無茶なことができるくらいだったら,国民が健康面でも経済面でも危機に瀕しているときにこそ,無理を通して迅速に対応してもらいたいものです。ただ,そもそも現状認識において,危機感が足らない以上,どうしようもないのでしょうが(口では,危機を感じていると言うでしょうけど)。
 いまこそ私たちは有権者であるという自覚を取り戻す必要があるでしょう。私たちは,首相をトップとする政治家たちに,国民の安全と安心を守るための業務の委託をしているのであって,私たちはクライアントです。
 ルソーの有名な『社会契約論』には,次のような有名な 記述があります。「イギリスの人民は自由だと思っているが,それは大まちがいだ。彼らが自由なのは,議員を選挙する間だけのことで,議員が選ばれるやいなや,イギリス人民はドレイとなり,無に帰してしまう」(岩波文庫版の133頁(桑原武夫他訳)。これは人民の主権は譲り渡すことができず,「一般意志」は決して代表されえないという代議制否定論(直接民主制論)の文脈で出てくる話ですが,国民と議員との関係を考える際にも,よく言及されるフレーズです。
 私たちは,政府の奴隷になってはいけません。「戦時」中のいま,私たちは主権者は,私たちの安全や安心に十分に貢献せず,しかも税金をこれまでさんざん無駄に使いながら(森友学園問題などを忘れてはなりません),今回,あたかも自分のお金を使っているかのように,108兆円規模の対策を,過去にないものと強調しているリーダーの姿をしっかり目に焼き付けておかなければなりません。
 首相は,私たちが,いわば委託事務の経費として支払っている税金について,今回は,緊急時だから,これくらい使わせてもらうけれど,許してもらいたい,というような姿勢で臨むべきだったのです。それをあたかも,自分が勇敢な決断をしたかのように話し,いまに至ってもまだ政治家としての自己アピールをしようとしているのは,情けないことです。
 これは良い機会です。ケネディの有名な言葉「国があなたのために何ができるかを問うのではなく,あなたが国のために何ができるのかを問うてください(Ask not what your country can do for you; ask what you can do for your country)」の後半を少し修正して,「あなたが仲間の国民のために何ができるのか,さらには世界中で苦しんでいる人のために何ができるのかを問うてください」と変えてみたらどうでしょうか。
 企業も国民も,social responsibilityとして何ができるかを考えなければならないのでしょう。企業がどういう社会貢献活動をするかを,しっかり見ておきましょう。SDGs(持続可能な開発目標)やESGに敏感な企業こそ,コロナ後に生き残っていくにふさわしい企業です。個人も,政府がぐずぐずしているなら,クラウドファンディングなどで零細企業を支援する手などがあります。例えば近所のレストランには,将来の席の予約をして料金を前払いするという方法でも支援できるでしょう(これは,私たちはあなたたちの店を見捨てないという精神的なメッセージにもなります)。同じようなことを,レストラン以外でも,身近な業者に対して,いろいろできるでしょう。これまでそうした業者がいたから,私たちの生活が成り立ってきたのです。情けは人のためならず,です。自分たちのためにもなるのです。そうしたサポートの輪が広がっていけばいいのです。物心両面での助け合いこそが,この難局を乗り越えるための鍵であり,実は政治の原点もそこにあるはずです。これからの政治家の動きをみて,その資質をよく見ておくことにしましょう。

2019年8月24日 (土)

ワーケーション

 

  ワーケーション(workation)。「work」と「vacation」とを合体させた造語です (和製英語ではありません)。休暇と仕事を両立させる働き方ということで,最近注目されているものです。先日の87日の日本経済新聞における「「休み方改革」量も質も」という記事では,「有休は本来,個人の判断で取得できるが,周囲に気兼ねして十分に取らない人も少なくない。社内の制度とすることで,社員を休暇取得に積極的に誘導する仕組みだ。旅行を予定している期間に急な仕事が入っても,テレワークなどでこなせれば計画を変更する必要がなくなる」と紹介されていました。これだけ読むと,とても良さそうなのですが,もし法定の年次有給休暇中に仕事をさせるのであれば,労働基準法違反となります(その休暇日が,法律で付与する年次有給休暇の日数を上回る法定外年休であれば別ですが)。

 企業としては,どうせ年休をとらないのだろうからと考えて,これを取りやすくするために,こういう制度を設けようとしているのかもしれませんが,本来は,休みか仕事かはっきりしないようなことをするのではなく,きっちり労働から完全に解放させて休ませることを考えてほしいものです。

 こうした動きの背景に見え隠れするのが,2018年の労働基準法の改正で,新たに5日の年休付与義務が企業に課されたことです。このため,従業員の年休取得率が低い企業では,何とか年休をとらせなければまずいということで,仕事をしてもいいから休んでほしいという動きになってしまっているのかもしれません。とはいえ,何かあれば仕事をしてもらうという状況での休暇付与は,実際に仕事を命じなかったとしても年休の付与日数にカウントされないと思います(解釈問題ですが)。つまり企業としては,義務を履行したことにならないのです。

 私の身近でも,次のようなことがありました。これまで何年にもわたって,夏季の一斉休暇にしていたお盆近辺の日を,年休日に充当するというのです。これは,実質的には取得可能年休日を削減することになるので,明確には違法といえないものの,法の趣旨に反することです。ただ,企業側にも言い分があるのです。従業員が自ら年休を取得しようとしないから,企業としては労働基準法の年休付与義務違反に陥ることを回避するための苦肉の策として,こういうことをせざるを得ないというのです。企業ばかりを責めることができない点が,問題を複雑にしています。

 とはいえ,「ワーケーション」は,あくまで法定年休以外のところで広げるべきです。そして,その延長線上に,真の意味でのテレワークがあるのだと思います。時間的な場所的な拘束から離れ,休暇をどのようにとることも含め,時間管理や健康管理は自己責任というのが,これからの自由な働き方なのです。ワーケーションは,こうした自由な働き方の中から出てくるものです。この自由さを前提としない「ワーケーション」,つまり,「休暇をとってもいいけれど,仕事も忘れるなよ」ということでは,日本人の働き方は根本的には何も変わらないままでしょう。(よくあることですが)中途半端なことをするくらいなら,やらないほうがよいのです。 

 ところで,日経新聞の記事では,小見出しに「欧米では普及」となっていて,ワーケーションが欧州でも普及しているのだろうかとびっくりしてその後を読んでみると,普及していると国として紹介されていたのはアメリカとインドだけでした。「欧」はありません。欧州の常識では,休暇中に仕事をするなど論外です。あまりに雑な小見出しの付け方に,あきれてしまいました。

 

 

2019年7月12日 (金)

参院選の争点に欠けているもの

 参議院は途中の解散がないので,今回選ばれる改選議員には,これからの任期6年を託すことになります。そうなると,6年間に起こりうる変化に対応できるような人を選ぶという視点が必要となってくるはずです。年金が争点となっていますが,現在の年金制度を前提としたとき,それをどう延命させるかは技術的な側面が強いので,政治の争点としても仕方ないでしょう。年金のあり方などを抜本から見直して,国民の老後の最低生活保障を再検討するというのなら政治的イシューとなるでしょうが,そういう議論はあまり出てきていませんね。
 今回の選挙では,生活の安定というのを各政党が競い合って言っているような気がします。どの政党も,国民の可処分所得を増やす政策を提示しています。こうした政策それ自体が悪いわけではなく,これにより消費を刺激し,デフレ脱却につながるシナリオを描くことができそうです。具体的な手法は,家計収入を増やす賃金引上げ,家計支出を減らす教育無償化や消費増税阻止(政府の消費増税はするがポイント還元や軽減税率をするといった方法もその一つです)が言われており,財源についても,消費増税分をまわすとしたり,景気改善による将来の税収に期待したりするものもあれば,国債の発行や大企業への法人税の引上げ・富裕層への累進課税の強化というような直接的な方法で財源をもってくる方法なども言われています。
 欧州では財政出動の足かせとなるEUの財政規律への不満が,反EUをかかげ,反緊縮財政(anti-austerity)を唱えるポピュリズム政党を生み出しました。イタリアでは,ここから反EU政権(Movimento 5 stelleLegaの連立政権)が誕生しました(いま連立は危機にあるようですが)。政府が国民の可処分所得を増やす政策は,受けがいいのです。
 国民の可処分所得にターゲットをしぼった政策は,振り返ると,アメリカでの労働法の誕生とも関係しています。ニューディール期のワグナー法(全国労働関係法:NLRA)が,労働組合の団結を認めたのは,団体交渉による賃金の引上げに期待したからです。同様の狙いによる公正労働基準法(FLSA)による最低賃金の設定などがなされたのも,この時期です。これはケインズ的政策の成功例とされました(ニューディールにケインズの影響が実際にどこまであったかは議論があるようですが)。
 アメリカのニューディールは,あの黄金の20年代の最後に大恐慌が起きて,どん底の不況となり失業者があふれている時期になされた緊急避難的な対策であったように思います(ちなみにアメリカの労働法は,あの時期のものから,大きくは変わっていません[差別禁止法は別ですが
]。むしろNLRAは,その後の法改正により,労働組合への規制が強化されました)。こうした強力な政策的な介入は一時的な効果はあっても,持続的な成長のためにはまた違った政策が必要となるでしょう。
 生活の安定というとき,最低限のレベルの保証は必要なものの,それを超えるレベルについては,中期的な視点からの政策が必要となると思います。そこで注目したいのは,生活に必要なインフラがデジタル技術を使ったものとなる以上,その部分の費用の引下げや無償化を打ち出す政策です。こうした政策のほうが,実はこれからの生活水準をよほどよくすると思います。
 先の国会でデジタル手続法(情報通信技術の活用による行政手続等に係る関係者の利便性の向上並びに行政運営の簡素化及び効率化を図るための行政手続等における情報通信の技術の利用に関する法律等の一部を改正する法律)が可決され,政府もいよいよデジタル化に向けて動き出そうとしているようですが,あまり本気度はみえてきません。
 そもそも選挙のやり方からしてそうです。過疎地域の問題がいわれていますが,オンライン投票を進めるべきです(リスクはありますが,それを乗り越える努力をしてもらいたいです)。それにより国民の政治への参加も広がります(それが悪いと考えているのなら別ですが)。思わぬ人が選ばれる可能性もありますが,(民主主義の支持者であれば)それが民意である以上受け入れるべきでしょう。また教育の無償化については,とくに高等教育のほうは,無償になっても,教える教育の内容が,デジタル経済社会に向けた適切なものになっていなければ,意味がありません。
 そもそもデジタル技術は,社会的弱者に優しい技術となりうるものです。国民全員にスマートフォンを無料配布したり,デジタル音痴の人をサポートする人材を配置したり,様々なデジタルサービスのプラットフォームの構築を政府がしたりするなど,安価で良好なデジタルサービスを享受できるような状況にすることのほうが,中期的にみた国民の生活の安定に役立つと思います。そうした公約を打ち出す政党が出てこないでしょうかね。
 その一方で,実は気になっているのは,「安定」という言葉の響きです。安定というのは現状維持というニュアンスがあります。国民が安心や安全(security)を求めるのは当然で,それを社会的に提供するのが社会保障(social security)ですが,それは「安定」とは少し違います。「安定」ばかりを求めると,転落への始まりとなります。変わる環境のなかでの「安定」とは,「変化」することです。国民に必要なのは,「変化」への適応能力なのです。それがあって初めて「安心・安全」が得られます。
 政党がデジタル経済社会への対応といった新しい問題に取り組もうとしないのは,将来に向けたsecurityよりも,現在の安定を重視する姿勢があるからでしょう。「そんなこと言ったって,当面は国民の可処分所得を増やして,デフレから脱却しなければ仕方がないじゃないか」という反論が来そうですが,何かそこに危険な匂いを感じるのは私だけでしょうか。

2019年6月 9日 (日)

ポピュリズムと労働政策

 古代ローマ帝国の「パンとサーカス」に示されるように,ポピュリズム政策は,国民を堕落させ,ひいては国家の衰亡につながるというのが歴史の教訓です。今日の労働法に関する諸々の施策が,古代ローマにおける食料(パン)の無償供与に相当するようなものでないのかが気がかりです。とりわけ最低賃金の引上げ論が問題です。これは,ある面では,労働者に対する賃金の「無償供与」のようなものです。これまでの時給が,自動的に上がるわけですから。しかも,これが中小企業の補助金とセットになっていれば,今度は中小企業への賃金原資の「無償供与」のようなものになります。そういうことをやる政権は,「無償供与」を受ける側からすれば,良い政権だと思うでしょう。日本全国の中小企業やそこで働く人に恩恵が及ぶこういう政策は政治的な効果が絶大で,選挙が近づくと,やりたい誘惑に駆られるでしょう。しかも保守政権がやると,本来,リベラルな政権がやりそうなことなので,リベラル派の野党からの批判がされにくいというメリットもあります。
 ローマでの食糧供給は,Wikipedia情報ですが,「公の場で行われ,受給者は受け取りの際には物乞い行為が大衆の視線に晒されるリスクを負わされた。この配給の仕組みによって無限の受給対象者の拡大を防ぐことが出来た」ということのようです(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%B3%E3%81%A8%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%82%B9)。ところが,現在の最低賃金の引上げは,「物乞い」のようなものではなく,法律上の裏付けがあるかのようなので,堂々と供与を受けることができるのです。政府も,これはみなさんの権利です,というような顔をしています。ほんとうに法律上の明確な裏付けがあるのだろうか,という疑問は先日書いたので,ここでは繰り返しませんが。
 もちろん政権が,国民の喜ぶ政策を打ち出すこと自体は悪いことではありません。むしろ,そういうことは進んですべきです。しかし,それが国民の中長期的な利益になっているのかを,よく見極める必要があるのです。賃金制度をどのように設計して,どの程度の水準で支払うかは,個々の企業の人事政策の根幹に関わるものです。賃金をどう払うかは,企業が「答え」を出すものです。政府は,「答え」を与えるのではなく,良い「答え」を引き出せるような情報提供や環境整備をどうするかを考えるべきでしょう。AIなどの先端技術への対応が,そのための有効な手段ですが,その点はなかなか進んでいないようです。最低賃金や同一労働同一賃金といった「答え」に手をつけるのは,企業や国民を堕落させる誤った政策なのです。ましてや,労働者の購買能力を高めて消費を増やすという目的にも貢献しないのではないかという指摘もあり(6月8日の日本経済新聞朝刊の「マーケット商品」欄の「バイト時給に天井感」),そうなるとなおさらです。
 労働者の生産性が高まり,それが賃金に反映し,消費に回ったり,税収の増加につながったりするのには,時間がかかります。だから政権は,とくに選挙が近くなると,将来に禍根を残すおそれのある政策であっても,それに手をつけたくなるのです。
 実は私は民主主義というものに,最近疑問をもっています。とくに選挙というものに対する評価をもう少し考えなければならないと思っています。それは,また別の機会に改めて書くことにしますが,とにかく選挙が近づくと,問題のある政策が出てきそうになるので,警戒する必要があります。

2019年5月23日 (木)

「ジョブ型正社員の雇用ルールの明確化に関する意見」を読んで

 規制改革推進会議で出された「ジョブ型正社員(勤務地限定正社員、職務限定正社員等)の雇用ルールの明確化に関する意見」(以下,「意見」)をみました。ジョブ型正社員のなかに「勤務地限定正社員」を含むというネーミングの問題は別として,勤務地や職務を限定するような多様な正社員がいてもよい,ということには異論はありません。職務内容や勤務地が無限定な働き方にいろいろ問題があることもそのとおりでしょう。でも,これは法規制には関係がありません。
 「意見」は,現状の把握,問題点の指摘,改革の方向性に分かれていますが,少なくとも労働法の研究者が入っていれば,こういう内容にはならなかったと思います(だから良いのだ,ということかもしれませんが)。でも今後,もし労政審に作業を任せるのだとすれば,労政審にはあまりファイトがわかない仕事になるのではないかという懸念があります。
 「意見」は,冒頭で,「労働契約はその名称の通り,使用者と労働者の「合意」によって成立する。労働契約法では,個々の労働者と使用者間の「対等の立場における合意」を求めている。日本では労働契約の締結時には労働条件について明確な合意がなされないのが通常であり,たとえ書面による合意がなくとも,労働者が使用者に使用されて労働し,使用者がこれに対して賃金を支払うことの合意さえあれば労働契約は成立しうる。事実,企業の包括的な指示のもとで,自身の労働条件が曖昧なまま働いている労働者は少なくない。」と述べています。
 ここで注目すべきは,労働契約法は合意原則や労働条件対等決定の原則をかかげているが,実際の労働契約では明確な合意がされていないので,事実上,労働者は企業の包括的な指示のもとで,自身の労働条件が曖昧なまま働いている,という認識です。この「曖昧性」の除去が,「意見」の基本的な主張となっています。
 そして「現状」のところで,次のように述べます。
「・就社型(メンバーシップ型)雇用モデルが高度成長をもたらしたという強い成功体験から,正社員であれば企業の命令により,職務,勤務地,労働時間等の労働条件が変更されるなど,無限定な働き方を許容するのが当然という意識がいまだに強い。
 ▪ 職務や勤務地等が無限定な働き方は我が国の雇用慣行に過ぎず,何らかの法規制に基づいているわけではない。実務的に契約意識の低い日本において労働契約の締結も漠然としており,当事者はいつ,どのような内容の労働契約がどのようにして締結されたのかを明確に意識していない。環境変化によって労使それぞれの事情が変わった場合,慣行であるが故に,個別に労働条件の確認や見直しをしようとしても拠り所がない。」
 「意見」では,就社型雇用モデルの無限定な働き方は,契約意識の低い日本で,労働契約がきちんと締結されておらず,労働条件が明確でないことに起因すると分析しているようです。そして,ここから「問題点」として,限定正社員の話に移ります。
「「勤務地限定正社員」,「職務限定正社員」等は,多くの企業で導入が進んでいるが,労働契約法第4条第2項において、労働契約の内容については,できる限り書面による確認をすることとされているにすぎないため,勤務地等の限定が労働契約や就業規則で明示的に定められていないことが多い。雇入れにあたって義務付けられている労働条件明示(労働基準法第15条)だけでは,明示すべき対象として掲げられていない事項には及ばない。また,労働者が同一企業内で長期に勤務する過程で,個別労働者への人事権の行使として,勤務場所や職務が次々と変更されていく状況から,就職当初の条件だけでその後労働条件がすべて決まってしまうというのは,いかにも形式的で実態に合わない。我が国独自の雇用慣行のもと,使用者が曖昧な運用をすることで労使間の合意範囲の認識に齟齬を生み,職務や勤務地等の限定条件をめぐる紛争の原因になりかねない。」
 そして,具体的な改革提案として,次の三つをあげます。
 ① 労働契約の内容を書面で確認できるよう,労働契約法第4条第2項を改正し,「勤務地限定正社員」,「職務限定正社員」等については,労働契約の締結時や変更の際に,限定の内容について,労使当事者間の書面による確認を義務化する。
 ② 労働条件に勤務地変更(転勤)の有無,転勤の場合の条件が明示されるよう,労働契約の締結に際して,労働者に書面で明示しなければならないとする労働条件の記載事項(労働基準法第15条,労働基準法施行規則第5条1項)に,「勤務地変更(転勤)の有無」,「転勤の場合の条件」を追加するとともに,労働条件の変更の際も労働者に書面で明示する。
 ③ 勤務地の変更(転勤)を行うことが予定される場合は,就業規則にその旨が示されるよう,就業規則の記載事項(労働基準法第89条)に,労働者の勤務地の変更(転勤)を行うことを予定する場合には,当該事項を,また,労働者の勤務する地域を限定して使用する場合には,その限定に関する事項を,追加する。
 私としては,限定正社員は,勤務地や職務等が限定されているから限定正社員なのであって,それらが限定されていることやその範囲は当事者間にあまり争いがないと思うのですが,それでもなおそのことを書面で明示せよということでしょうかね。
 ひょっとすると,「意見」は,欧米的なジョブ型の雇用をモデルとして,欧米では従事するジョブの内容がはっきり特定しているのに,日本では,契約意識が低いから特定されていない,とみているのかもしれません。契約意識の低さについてはエビデンスが示されていないので,ここではひとまず無視して,労働条件が特定されていないという点については,それは労働条件の明示方法の問題ではなく,そもそも勤務地や職種を限定しない契約を締結しているから特定されていないだけだという説明はつかないでしょうか。そして,日本の通常の就業規則では,配転命令についての規定がある(厚生労働省のモデル就業規則の81項も参照)ので,労働者は勤務地が無限定のなかで具体的に労働条件を変更していく権限を企業に与える旨の合意が就業規則を通してなされているとみることはできないのでしょうか。
 つまり無限定な契約は,日本人の契約意識が低く,労働条件をきちんと特定しないでいるために,事実上生み出されたものではなく,明確にそういう契約でよいという合意があるからなのです。また,そういう無限定な契約がいやという人は,就業規則の規定があっても,勤務地や職務の限定の合意をすることができ(こうした合意は,労働契約法7条ただし書により有効となります),そうした合意をした人は,通常,その限定した部分の労働条件は明確に意識しているはずなのです。そうなると,限定正社員のための労働条件の明確化というニーズはどこにあるのか,という疑問が出てきます。
 現行の規制を確認しておきましょう。使用者は労働者は採用の際には労働条件を明示しなければなりません(労働基準法15条。企業には募集時からも労働条件明示義務があります。職業安定法5条の3)。明示されるべき労働条件には,「就業の場所及び従事すべき業務に関する事項」が挙げられています(労働基準法施行規則5113号)。これは書面で明示すべき事項にもなっています(労働基準法施行規則53項)。これに違反すれば,労働基準法151項違反として,罰則が科されます(労働基準法1201号)。そして,就業規則には,前述のように,就業場所や従事すべき業務に関する変更についての規定があるのが通常です。こうした変更を,その企業の制度として定めている場合には,「当該事業場の労働者のすべてに適用される定めをする場合」における「これに関する事項」として就業規則の必要的記載事項となります(労働基準法8910号)。記載しなければ罰則の適用となります(労働基準法1201号)。そして前述のように,その例外として勤務地等の限定合意をしたい人は,そういう合意をすることは就業規則と抵触していても有効なのです(労働契約法7条ただし書)。さて,この規制のどこを変更する必要があるのでしょうか。
 改革提案のなかの①によると,たとえば労働契約法42項を,「勤務地限定の無期雇用労働者又は職務を限定する無期雇用労働者及び使用者は,限定されている労働契約の内容について,書面により確認することとする。その他の場合については,労働者及び使用者は,労働者及び使用者は,労働契約の内容(期間の定めのある労働契約に関する事項を含む。)について,できる限り書面により確認するものとする。」というようなものとなるのかもしれません。「できる限り」というヘンテコな文言に反応したのはよいとしても,「確認」を義務化しても,罰則がかかるわけではなく,また私法上の制裁があるわけでもないでしょう。そうなると実効性には疑問が出てきます。むしろ書面化されなかったら,限定の合意がないというような解釈が生まれる可能性があるので,限定正社員を広げようとする立場からは余計な規制となりかねません。ここは労働契約法4条という「怪しげな(?)」条文のトラップにかかってしまったような感じがしてしまいます。
 現行法のように,労働条件明示義務については,コアな労働条件についての厳格な規制は労働基準法15条で,その他の部分は訓示規定の労働契約法4条で対処するということでよいのです。「意見」のねらいそれ自体は,現在の規制でも,十分に対処できると思っています。労働契約法4条2項を部分的に変えようとするのは,容易ではありません(個人的には,労働契約法4条が良い条文とは思っていませんが)。
 改革提案の②と③は,転勤についてのことですが,②はありえるとしても,労働基準法15条の明示義務に労働条件変更の場合を含むという部分については,他に波及しかねない大きな改正となり,簡単ではありません。③は,現在でも就業規則に規定があるので,改革の意味はあまりないと思います。限定された内容について,就業規則(そこには従業員一般に対するルールが定められる)に記載させることに意味があるということかもしれませが,個別の契約ではなく,就業規則に記載する場合,どのような規定になるか想像がつかないのですが。勤務地を限定するパターンがごく限られたものであれば,対応できるのでしょうが。
 もっとも,転勤については,一番ラディカルな規制は,労働者の勤務地は,デフォルトとして採用されたときの勤務地(初任配属地)に特定されるとし,そこから変更する転勤可能性がある場合については,その可能性と範囲を,書面で合意しなければ,企業は転勤を命じることができないものとし,就業規則の転勤規定だけでは転勤を命じることはできない(個別的合意説),といったものです。これだと経営者からは叱られそうな内容となりますが,比較的多くの労働法学者の支持を得ることはできるでしょう。
 いずれにせよ転勤にフォーカスをあてるのなら,労働契約法に転勤の権利濫用規定がないのはなぜか(出向にはある),逆に就業規則の必要記載事項とするなら,労働者にとってより利害が大きい出向はどうするのか,といった話も出てきます。法改正には,こうした労働法全体に対する体系的な思考が必要であり,法律家が介入する役割はまさにそこにあると思います。
 私は,繰り返すように,無限定正社員は,労働条件が曖昧に特定されていないから生じるのではなく,無限定な働き方に合意があるから生じるとみています。こうした無限定な働き方が問題だというのなら,それを正面から論じるべきで,労働条件の明確化というレベルでやるのは,狙い所が違うように思えます(これは以前の解雇ルールのときに,私のガイドライン方式の意図がうまく伝わらなかったときと似た感覚です[拙著『解雇改革』(中央経済社)も参照])。
 今後,企業には限定正社員を活用するニーズがいっそう高まるでしょう。そうしなければ良い人材が集まらないからです。この点で「意見」の問題意識には共感できるところがあります。しかし,それは規制改革でやることではなく,当事者が契約によって実現していくことなのです。「日本人は契約意識が低いから無理なんだよ。だから政府が,いろいろ助けてあげるのさ」と言うことでしょうか。契約意識が低いなら,契約意識を高める教育をするべきではないか,というのが私の意見です。規制改革推進会議が,もしパターナリズムによる改革を提言するのなら,それは意外な驚きとなりますが,偉い方たちが考えておられるので,おそらく深謀遠慮があるのでしょう。

2019年4月22日 (月)

通年採用化の動きについて思う

 「経団連と大学側は22日午前に開く産学協議会で報告書をまとめ、通年採用を進める方針を示す。」という記事が,日本経済新聞に出ていました。「従来の春季一括採用に加え、在学中は専門分野の勉強やインターン(就業体験)に傾注した学生らを卒業後に選考するなど複線型で柔軟な採用を促進する。」ということのようです。
 経団連は会長が代わり,日本型雇用システムにチャレンジする姿勢を高めていたので,思い切ったことをするのではないかとみていましたが,今回の通年採用化は,昨年の「就活ルール」廃止に次ぐ注目すべき動きです。私は近著『会社員が消える-雇き方の未来図』(文春新書)のなかで,新卒定期一括採用の見直しという動きについて,「日本型雇用システムをその入口部分から見直そうとする動きであり,このシステムの崩壊への序曲が経団連の手によって奏でられた」と書いていました(8889頁)。 
 新卒定期一括採用から通年採用に移るのは,たんに学生の就活の時期が変わるとか,企業の採用時期が変わるとか,そういうことだけを意味するのではありません。今後,実際にどこまで企業が通年採用を広げていくかわかりませんが,理念的には,この変化は,日本型雇用システムにとって本質的な意味をもっています。新卒定期一括採用は,中長期的な雇用戦略に基づいて,即戦力としてではなく,企業が人材を育成することを前提に雇い入れるために行われるものであり,まさに「就社」型の採用であったのに対して,通年採用は,ポストや職務が先にあり,そこに空きが出たところで,あるいはそうしたポストを新たに増やした場合において,人材を補充したり確保したりするためのものであり,文字どおりの「就職」型の採用となるのです。後者は,仕事が先にあって,そこに人をあてはめるということなので,人のほうは,その仕事をするのに適した技能をもつことが求められます。経団連は,勉強する学生を求めると言っていますが,これは企業のほうでゆっくりと人材を育て,つくりあげることはしないというメッセージでもあります。もちろんOJTによる育成はなくならないでしょうが,何も特別な勉強をしてこなくても,組織に順応できる能力さえあれば,あとは企業のほうでしっかり育てるというような従来のやり方は止めるということです。
 これはたんに採用の方法が変わるというだけの話にとどまりません。育成をせず,即戦力を求めるようになると,賃金は職務に連動するようになっていくでしょうし,長期雇用へのインセンティブは不要となります(優秀な人材を引き留めたり,短期的な成果を上昇させるためのインセンティブは残るでしょうが)。日本型雇用システムの中核とされた長期雇用や年功型賃金は,すでに変容してきているとはいえ,いよいよ消滅へのスピードを高めることになるでしょう。平成や令和ということと結びつけて話すのはどうかと思いますが,あえてジャーナリスティックに言うと,令和時代の雇用システムは,「日本型」という形容語がとれてグローバル化するのです。そのあとに,どのような働き方の未来図があるかは,上記の拙著をぜひ手に取って読んでいただければと思います。

2019年2月10日 (日)

濱口桂一郎『日本の労働法政策』

  濱口桂一郎『日本の労働法政策』(労働政策研究・研修機構)をいただきました。
 どうもありがとうございました。 この本は,まさに菅野和夫先生が帯で書かれている「労働政策関係者の座右の書 日本の労働政策の歴史,基本思想,決定プロセス,体系,個々の制度内容,実施機構,等を余すところなく考察した労働政策の体系書。働き方改革関連法の深い理解のためにも必読。」という評価がぴったりのものです。
 そこでいう「労働政策関係者」に,研究者が含まれるのかわかりませんが,研究者にとっても,菅野和夫先生の教科書と並んで,座右において置かなければならない本でしょう。労働政策の形成過程は,近年の労働基準法改正や労働契約法の制定・改正くらいになると,かなりの情報もあるのですが,古い法律になると,立法の経緯がよくわからないところもたくさんあり,自分で調べていちおうこんなものだろうと思っても,自信がないことがよくあります。 この点,労働行政に精通されている濱口さんの書いたものであれば信頼性があるし,たいへん助かります。これからの研究は,個人で過去の立法政策を最初からたどる必要はなく,この本を出発点にできます。
 労働立法が,どういう社会的事情を背景に,どのように議論され,どのようなメンバーの委員で,どのように立案されてきたのか。今後は,こうしたこと自体が学問的な評価の対象となるのだろうと思います。立法政策学です。私がきわめてプリミティブなアプローチですが,昨年5月に「法律による労働契約締結強制-その妥当性の検討のための覚書き-」法律時報90巻7号7頁以下を執筆したのは,労働立法の政策決定過程そのものや,労働立法の事後評価も,アカデミックな検討の対象とすべきだという思いを示すためでした。立法政策学をアカデミックな分野にするためにもエビデンスが必要なのです。これまでだと,立法担当者の書いたものを読んだり,直接インタビューをしたりという手法が取られてきたのですが,ここまで精密にまとめられている本が出た以上,少なくとも労働法分野では,これ一冊で十分であると思われます。加えて,今後の政策課題が何かを考えるうえでも,この本が有用であることは間違いないでしょう。
 ところで私が,おそらく唯一,労働政策でかかわったことのある「働き方政策決定プロセス有識者会議」は,8行にまとめられていました(50頁)。あのとき自分自身は一委員としてそれなりに頑張ったつもりですが,不満も残る会議でした。いま振り返り,あのときのことが1000頁を超える大著のなかの8行に凝縮されており,不思議な感覚にとらわれています。歴史とはこういうことなのでしょう。 
  それはともかく,ちょっと調べたいことがあったので,索引をと思おうと,なんと索引がない!!!。若手を使えば作成できそうなものですが,それをさせなかったのは,上司として偉いと言うべきなのかもしれません。でも,この本には索引は必須でしょう。次の版で索引がつくのを祈っています。

2019年2月 9日 (土)

八田達夫・NIRA編『地方創生のための構造改革』

 八田達夫・NIRA総合研究開発機構共編『地方創生のための構造改革-独自の優位性を生かす戦略を』(時事通信社)をいただきました。いつも,ありがとうございます。この本の英語バージョンも,ありがとうございました(“Economic Challenges Facing Japan's Regional Areas”, Palgrave Macmillan(https://www.palgrave.com/gp/book/9789811071096))。
 本書の内容は,八田先生が「はしがき」で,きれいにまとめておられます。成長戦略としての地方創生のための具体的政策を提示することがこの本の目的です。サブタイトルにあるように,地方には独自の優位性があるはずですが,それを発揮できていないのには制度的な要因があるとし,規制改革と行政改革により,この要因を取り除かなければならないとするのです。
 規制改革については,農業,漁業,観光の3分野が,とりあげられています。どれも,既得権益をもっている団体や個人が,これらの産業の可能性を奪ってしまい,地方のもつポテンシャルを生かすことができていない,という問題があるようです。本書では,こうすればよいという具体的な提案も提示されており,せひ政府も検討してもらいたいものです。
 行政改革については,高齢化対応策,少子化対策,地方財政制度が,とりあげられています。ここでも,地方の自治体が,これらの対策をとれないのには,制度的な要因があるということが示されています。とくに少子化対策については,そもそも課題の設定が間違っているという重要な指摘もされています。東京圏への一極集中を止めることが,日本の人口減少の歯止めになる,というのは,事実誤認に基づく誤った政策であるというのです。東京圏の大都市の出生率は地方のいくつかの大都市に比べてかなり高い水準にある,というエビデンスをつきつけています。そうだとすると,若者が地方に移住しても,少子化は改善しないことになります。むしろ少子化対策として必要なのは,地方財政の改革であり,国が,各自治体に子育て支援の「モデル給付額」を支給し,自治体が子育て支援の財源負担をしなくて済むようにすればよいと提言されています。
 解雇の金銭解決に関して一緒にお仕事をしたときにも感じましたが,八田先生が経済学の理論モデルを使い,現実の制度の問題点を明らかにし,そして具体的な解決策を提示して政府を動かしていこうとする熱意には並々ならぬものがあります。頭脳のシャープさにには,先生よりもはるかに若い私でもついていけないくらいです。八田先生の情熱が,地方創生をめぐる政策の改善につながっていけばと願ってやみません。

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