日記・コラム・つぶやき

2020年8月 2日 (日)

自宅からWebセミナー

 先日,日本経済研究センター(JCER)でWebセミナーをやりました。時間は60分で質疑応答も込みということで,実質45分のセミナーでした。タイトルは,「コロナ後の労働社会におけるデジタル変革と働き方改革」という旬の内容ですが,ちょうど出たばかりの新刊書の『デジタル変革後の「労働」と「法」』(日本法令)の一部をまとめたような内容の話しをしました。テレワークに絞って話したほうがよかったかもしれないと後から思いましたが,当日は歴史のことに半分くらい時間を費やしました。もしかしたら聴衆のニーズに合わなかったかもしれませんが,コロナ後の労働社会を考えるうえでは,少し広い視野からの話のほうがよいかと思い(それなら,おまえが話さなくてもいいだろう,というツッコミもありそうですが),短い時間のなかに,かなり多くのテーマを詰めました。
 それはさておき,Zoomは,Meetingは授業で使ったり,3週間ほど前も講演で使ったりしていましたが,今回はウェビナーというものでした。聴衆との直接の接触がないので,ちょっといつもの講演とは違う感じではありました。とはいえ,最近では講義でも,顔出しをしない学生への授業ですし,顔出しがあろうがなかろうがあまり気にはなりません。自分の世界に入ってしまえば,あまり変わりはありません。むしろ,やりにくいのは,こういう方式ではなく,先方がリアル空間にいて,自分だけリモート参加というパターンで,これはリアルの場の雰囲気がわかりにくいので,やりづらいのです。全員リモートだと、全員が同じ立場であるので,やりやすさが全然違います。

 ところでこの講演と翌日に,NHKの関西ローカルのニュース番組にも一瞬でしたが登場しました。メールで取材依頼があり,数時間後にはTeamsで取材を受け,それがそのまま翌日の夜のニュースに流れるというスピード感は今風ですね。自宅にいてパソコンに向かって話をしたものがテレビで流れるというのは初めてだったので,これも新鮮でした。取材時に,完全にオフからオンに切り替わっていない自分がいましたが,今後はこういう切り替えができるように慣れなければならないのでしょうね。パソコンの高さとか,照明とか,目線とか,いろいろ調節をしたほうがよい,ということも学びました。取材の最後に,放送のなかで,私の専門をどう紹介するかと聞かれたとき,先方は,私の専門が労働法というだけではちょっと困るという感じなのには驚きました。確かに労働法の話はしていないので,働き方に関する専門家というようなことで手を打ったと思います。自分がだんだん労働法から離れていることが自覚できた瞬間でした。

 思えば,この1か月ほどの間に,オンライン取材で,自宅にいる自分の姿がネットやテレビで流れる機会が何回かありました。今後もこういうことが増えるかもしれません。思った以上に,パソコンのカメラの性能がよく,自分の顔や背景がよく映っていることがわかりました。これはちょっと怖いことで,悪い人に利用されないように,気を付けなければなりませんね。

2020年7月23日 (木)

公的とは何か

 大学教員の評価の指標に,公的活動をどれくらいしているのか,ということが挙げられています。公的活動をしっかりやっている人が,社会に立派に貢献していることになるのでしょう。ほんとうはそれが理想なのですが,私は数年前から,いわゆる公的活動をできるだけやらないようにしています。講演をしたとき,私に箔を付けるつもりで,主催者は何か役所関係で委員をやっていませんかと聞かれるのですが,ほとんど何もないですし,何かやっていたときも,あまり言って欲しくないと断っています。いまは,たぶん籍があるのは,兵庫県労働委員会の公益委員会だけでしょうが,これもずいぶんと長くなっているので,いつまでやるかはわかりません(この仕事は,私は町医者のような気分で,労働トラブルの解決を求めてきた市民に,当事者双方にとって,できるだけ良い「治療」をすることを目指してやっているつもりで[そのため基本的には,和解をすることしか考えていません],これは公的活動と胸を張れると思っていますが,それは別に私以外の人でもいくらでもできそうなことです)。
 公的な活動というのは,本来はとても大切なことで,私も真の「公的な」活動なら,喜んでやらせてもらいます。それは委員に就任というようなものではなくて,むしろゲストで講演するというような場合のほうがぴったりです。また中央官庁の仕事は国益よりも省益のためのものなので,そういうところにかかわるのは公的な活動とは言えません。省庁の「私益」のための活動だからです。省庁のために何かやるのだったら,立派な活動をしている民間企業のために尽力したほうが,よっぽど「公益」に役立ちます。
 現在の政府をみると,国民のことを本当に考えて何かをやっているとはとても思えません。各役所が省益のために動いていて,内閣はその操り人形です。検察庁まで,先日の騒動をみていると,国益よりも「庁益」ファーストで動いているのではないかという疑念があります。いったい政府のなかで誰が公益を真剣に考えているのでしょうか。こんな政府の活動に関わっても,公的活動をやっていると胸を張ることなんて,とてもできません。

 先日上梓した『デジタル変革後の「労働」と「法」』(日本法令)の執筆のときに,気になりながらも扱いきれなかったテーマの一つに「公共善」とは何かということがありました(アリストテレスから始めなければなりません)。労働を共同体への貢献と定義するなか,その共同体のための「善」とは何かと言うことをもっと具体的に論じて,労働や統治と結びつけたかったのですが,いまの段階では力不足でした。ただ,この問題は,思考だけでなく実践とも関わっています。私たちが,自分たちの住んでいる地域,国,地球のための「善」にどのような貢献ができるのか。コロナの時代,みんなで一緒に考えていかなければならないテーマです。
 そんなときなのに,政治家は,秋に解散したら議席を維持できそうだなどと考え,国民に自粛を呼びかけながらも,頻繁に政治家どうしで会食という密談をしているのは,見るに堪えないあさましい光景です。また責任をとるという言葉をこれだけ軽くした責任も重いです。安倍首相は,いったいこれまでどれだけ責任をとると言って,それを反故にしてきたでしょうか。責任をとるというのは,それを発言することで責任を果たすことだと勘違いしているのかもしれません。

 公共とはラテン語の「res publica」(イタリア語では「repubblica」)で,「公のこと」,「みんなのこと」といった意味で,「国家」や「共和国」という意味になります。私たちは「公のこと」にコミットしていく責務があります。でも,いまの日本では,政府のやることは「公のこと」に思えないのです。公共善(ラテン語では,bonum commune。イタリア語では,bene comune)は,みんなの「共通の善」という意味です。私益とは相容れません。省益や政治家個人の私益しか考えない人に統治を任せることはできません。
 こうした感覚が広がると,ローカルに,生活感覚に根ざした,みんなの共通の善のための統治のあり方を模索する動きにつながっていくかもしれません。真の地方分権の誕生を期待したいです。

2020年7月21日 (火)

オンライン以外のプランなし

 「Webあかし」で連載中の「テレワークがもたらすものー呪縛からの解放」は,いよいよ雇用型テレワークから,自営(非雇用)型テレワークに話題が移行します。第11回は,その橋渡しのようなもので,これまでの議論を整理しています。
 そのなかでも書いていますが,社会がまだオンライン体制に踏み切れていないことに問題があると思っています。オンラインとリアルの併用で,オンラインはプランBにすぎないというようなことでは,それを実際に準備する前線の人はたいへんでしょう。
 政府もいろんな的外れの政策をやり続けているので,現場の職員にかなりの負荷がかかっていることでしょう。とにかくオンラインに完全に舵を切る。閣議だって,専門家会議だって,すべてオンラインでやる。そうすることによって,国民に見本を示さなければなりません。どんなに「経済財政運営と改革の基本方針2020」などの政策文書にデジタル化とか,オンライン化とか書き込んでも,これまでだって,何度も同じようなことを言いながら実現できていないので信用できません。政府がまずできることを明日からでも取り組むという姿勢をみせてくれれば,少しは信用しますが。

 大阪府の吉村知事は頑張っていると思いますが,安倍首相への紙の要望書を,わざわざ東京に行って手渡すというようなことをやっているようではダメです(https://www.kantei.go.jp/jp/98_abe/actions/202007/14menkai.html)。そうしなければ受け取ってもらえなかったからかもしれませんが,大事なことは対面という,これからは捨てなければならない考え方に基づいているように思えてしまいます。歯を食いしばってでも,移動しない,紙を使わない,という覚悟をもって,政府や行政が変わってくれれば,企業も個人も,テレワークとか,オンラインとかで物事をやろうという気持ちになるのです。だから吉村知事の行動は,残念ながらデジタル時代の知事として失格です。メディア映りのパフォーマンスには良いのでしょうが,そういうことにこだわっていてはダメなのです。期待しているので,ぜひ今後は,そういうことがないようにしてもらいたいです。

 政府や行政にとって,プランはABもない,オンラインだけにすべきなのです。どうしても仕方がない例外的場合にだけリアル・対面でやる,ということです。司法試験もオンラインでやるべきでしょう。もちろん,そのためには超えるべき多くの課題はあるでしょうが,だからといって,強行突破して,若者の健康を危険にさらしてまでやることではありませんし,再延期して様子をみるなんてことをやっていれば,受験生のストレスはたいへんなものになるでしょう。オンラインでやると決めてしまったほうが,対策はとりやすいはずです。それに例外はできるだけ作らないようにすることが,今後のいろんな問題のためにも意義があります。最難関の国家試験の一つの司法試験がオンラインとなると,世の中はずいぶん変わるかもしれません。

 先日,東京都知事選が強行されましたが,これが結構うまくいったことが実は問題です。たしかに多くの労力をかければ,オンライン投票でやらなくても実施可能なのでしょう。おまけに現職が勝ったので,オンライン投票をしないほうがよいと,現在,権力の座にある者たちが考えてしまいそうです。感染対策の労力やエネルギーがどれくらいのものであったか私はよくわかりませんが,それをオンライン投票技術の開発にまわしてくれたほうが,後々のことを考えれば,はるかに良かったのではないかと思えるのです。その意味で,不謹慎かもしれませんが,都知事選挙がうまくいかなかったほうが日本のためには良かったかもしれないのです。負けたほうが良い戦いがあるのと同じです。

 日本人のアナログでの技術力はすごいものです。センター試験を間近でみていても,細心の注意を払った綿密な計画と周到な準備と細かい指示,そしてそれをやりこなしてしまう教職員たちに驚きを禁じ得ません(私もその教職員の一人なのですが)。完全に大きな組織の駒として,何の疑問ももたずにロボットのように行動しきらなければならないのですが,そんなことを大学教員がやる(そして,やれる)のは,おそらく日本だけでしょう。でも,こういうのは,ほんとうはおかしいのです。人間の力を使ってなんとかやれば達成感もあるし充実感もあるのでしょうが,これは危険な感覚ではないかと思います。

 Web連載でも書きましたが,アナログの良さを否定するわけではありません。問題は,デジタルとアナログとの適正配分がゆがんでしまっているように思えることです。デジタルでできるものは,まずデジタルでやることを考えるという「デジタルファースト」で社会を変えていく必要があります。

 私の新刊『デジタル変革後の「労働」と「法」―真の働き方改革とは何か?』(日本法令)でも,この言葉は何度も登場します。ところで,新刊書の大きな帯の私の写真に驚かれた方も多いでしょう。昔の写真ぎらいの私を知っている人は,いっそうびっくりするでしょう。私も少し前なら,当然断っていました。今回,求められたので提供しましたが,まさかこういう使い方になっているとは思ってもいませんでした(せいぜい新書の裏表紙で使うようなことを想定していました)。もちろん事前に確認を求められ,了承していました。最初は驚きました(なんだか怪しい自己啓発書のような感じ),最近は自分の第1印象で拒否反応があったものは,あえてやってみるというマインドセットにしています。そうして自身のdisruptionを図り,もっと自分の可能性を模索できればと思っているのです。といっても,思考や生活の大部分はまだまだ旧態依然なのですが。

2020年7月 1日 (水)

変革の真っ只中

 最近はネットでのアウトプットは,明石書店のWEBマガジンに,ほぼ週1ペースで原稿を書いているので,ブログを書くだけのエネルギーが残っていなかったのですが,久しぶりに書いてみたいと思います。というか,書きたいネタはいっぱいあるし,本のお礼も山ほどたまっているのですが,それは追々やるということで,今日は近況報告のようなものを中心に書きます。
 引きこもり生活も,だいぶん長くなりました。この2月以降外出はめっきり減り,3月以降ですと,ほんの数えるかぎりとなりました。大学の授業はオンラインですし,依頼が来た講演もオンライン以外のものはお断りしています。緊急事態宣言は国が勝手に解除していますが,ワクチンがない以上,感染したら治療方法がないので危険極まりないのです。私は,どうしても出なければならない用事以外は外出していません。オンラインでできる会議なのに,オンラインでやらないような会議は,私にとっては,それが不要不急かどうかという基準でみるのではなく,そもそもやり方が間違っている会議だと思っています。
 学校も企業も,オンライン対応にしておかなければ,9月にも来るかもしれない第2波のときに大きな影響が出るでしょう。オンラインはいろいろやっかいだから,オンラインでやらずにすむなら,できるだけリアルでやろう,また何かあれば,そのとき考えればよいし,できればそのときが来なければいい,という心理状態の人が,組織の上にいたら大変なことになります。オンラインとリアルの両方ねらいは非効率です。オンラインでやらざるを得ないと腹をくくるべきです。リアルでやっていても,すぐにオンラインに戻らなければなりません。それならオンラインを続けてノウハウを蓄積したほうがよいのです。
 ちなみに,会議はリアルで開催されて,一部の人がオンラインで参加するという併用型は非効率です。私もリアルでやっている会議に一人だけオンラインでの参加ということを,霞ヶ関の会議などで何度か経験していますが,これはやりにくいです。全員オンラインにすると会議のクオリティが格段に上がります。これは私だけの意見ではありません。
 私はムーブレス(移動なし)で行くと宣言していますので,コロナ禍が終わっても,外部の仕事は出張となるものはお断りするつもりです(すでに,コロナ前から原則としてお断りしています)。それのみならず,大学の仕事も,できればオンラインにしてもらいたいと思っています。近所に住んでいるので,どうしてもとあれば出勤はするつもりですが,私は少なくとも少人数の講義はオンラインのほうが効率的だと確信しているので,オンラインでの実施をお願いしていきたいです。ただ,より重要なのは,大学ではなく,小学校です。この子達が大人になったときは完全なデジタル社会です。コロナのせいでオンラインでいろんなことをせざるを得なくなったのは,ちょうど未来のことを早く経験できる絶好の機会でした。これをちょっと安全になったかようにみえるため(ほんとうに安全になったとはいえないでしょうが),リアルの体制に戻すのはもったいないです。子供達の人生は長いのです。目先の教育の遅れなど何ともありません。というか,いま学んでいることが,どこまで子供達の将来に役立つかということからして,あやしいです。いずれにせよ,教える内容もさることながら,まずオンラインでの教育を進めていく体験をさせるほうが,子供達のこれからの長い人生にとって遙かに役立ちます。
 環境問題でも同じですが,大人達がやるべきことは,いかにして社会をきちんと次の世代に継承していくかです。環境を大事にして地球の持続可能性に配慮することもそうだし,教育もほんとうに次世代にとって役立つものを伝えなければなりません。何かあればすぐに,これまでのやり方に戻そうとするのは間違っています。コロナは,来るべき次の時代の社会の到来が早まったにすぎないのです。視線を未来に向けましょう。

 などと書いていたら,先日も,あるところに出す提出書類に印鑑が必要という案件が二つもありました。メールやWEBで完結できないのです。私は自宅にプリンタがないので,どしようもありません。コンビニに行くしかありません。まったく意味のない印鑑。それがなければ,求めていることをしてもらえない。ある意味で,恐ろしい社会です。でも現場の人はその恐ろしさに気づかず,印鑑を押してくださいと無邪気に言って,彼ら・彼女らのルーティンワークをこなしているのです。彼ら・彼女らに罪はないのですが,でもそういう無自覚な行動の積み重ねが,社会の変化を阻止している理由なのでしょう。

 神戸労働法研究会は,参加者の希望しだいですが,個人的にはずっとオンラインでやって,年に1回くらいオフ会的に集まるということでよいと思っています。来年秋の日本労働法学会への参加を誘われていますが,出張しなければならない場所でしたら,オンラインでしか参加しないということをお願いしています。海外出張も,よほどのことがないかぎり,やることはないでしょう(私的な旅行はするでしょうが)。

 コロナ後の世界はムーブレスです。でもオンラインでかえって人とのつながりが強まっている気もします。ときたまリアルで会う人の温かみも強く感じられます。最近は,他人との接触は,リアル以外にも,メールのやりとりだけ(出版社関係),電話だけ(一部の新聞の取材),Zoomなどによるもの(取材,講義,研究会など)といくつかの段階があり,そのどれを使っても,それなりにつながっていると思っています。私はいまのところはSNSはLINEしかやっていませんが,暇になればツイッターやインスタもやるかもしれません。いずれにせよ,これだけ多様なネットを介したコミュニケーション手段があるのに,仕事にだけリアルにこだわるのは,おかしいでしょう。何よりも感染症をなめたらいけません。

 ところで,テレワークのことをディープに考えようということで,明石書店のWEB会議で連載をしています。また,産経新聞の「ニュースを疑え」というコーナーでのインタビュー記事が今日ウェブで掲載されました。テレワークについての取材というのが最初の依頼でしたが,もっと大きく,これからの社会のことも熱く語っています(自宅で,眼鏡姿でインタビューに応じている画像が公開されていて恥ずかしいですが,昔ならこだわりがありましたが,いまは自然体でこれもいいかなと思っています)。そして,日本法令からは,そうした大きな社会の変革と労働のことについてまとめた一般書が,今月中にも刊行されます。サバティカル中にいろいろ考えて,私自身の考え方を根本から再構成しようと格闘した成果が少しでも出ていたら嬉しいです。そして,おそらく年内には,労働法学者としての私の集大成といえる作業を完結させようと思っています。労働法の理論体系を,全く新しい感覚で刷新する「人事労働法」という分野を確立すべく,まさにいま作業を進めています。個人的には,もともと2020年は変革の年の予定でした。予想もしていなかったコロナのせいで,世の中のとてつもない大きな変革の波に埋もれてしまいそうですが,なんとか自分なりにやるべきこと,やりたいことをコツコツとこなしていくつもりです。

2020年5月21日 (木)

今朝の日本経済新聞(2020年5月21日電子版)から

 今日の経済教室に川口大司さんの「日本型雇用改革の論点(上)解雇の金銭解決・導入が急務」という論考が掲載されていました。「2020年版 経営労働政策特別委員会報告」を素材に,日本型雇用システムの改革の動きについて,実にシャープに分析されていますので,まだ読んでいない人はぜひ読んでみてください。見出しになっている「解雇の金銭解決」については,川口さんと私が編者をした本『解雇規制を問い直すー金銭解決の制度設計』(有斐閣)にも言及されています。政府の解雇の金銭解決の議論は,根本から間違った方向で進んでいるように思いますので,仕切り直しをしたほうがよいです。川口さんのようなバリバリの経済学者でかつ労働法にも精通する学者(そのほかにも,厚生労働省べったりではなく,きちんと意見のいえる大竹文雄さんや神林龍さんのような方)を中核に据えて,もっと大胆に政策を推進できるような態勢で改革に取り組んでもらいたいです。ところで,その論考のなかで出てくるラムザイヤー米ハーバード大教授の書評は,私たちの問題意識を十分に理解せず(とくに法制度の提言内容も誤解しており,批判が的を射ていませんでした。内容が難しかったのかもしれませんが),勝手なことを書いているだけのもので,しかも結論としては,解雇規制は不要で契約でやればよいという乱暴なものです。もう少し,まともな議論をしていただきたかったのですが,残念です。
 今朝の日本経済新聞では,このほか「労働組合の連合は個人事業主や,特定の企業と雇用契約を結ばないフリーランスなどの働き手を対象にした新たな会員制度を10月に新設する。」という記事も出ていました。雇用類似の人だけを対象とするのか,より広く対象とするのか記事だけからはわかりませんが,今後は非雇用の「フリーワーカー」が増えていくことは確実なので,労働組合も組織の維持のためには,ウイングを広げて行かざるを得ないと思います。ただ,純然たるフリーの人まで対象とするならば,雇用とは違う問題が多くあるので,どこまで満足のいくサポート態勢を築けるかがポイントとなるでしょうね。
 もう一つ,脱ハンコ文化という記事のところで,クラウド会計ソフトのfreeeの中小企業の従業員へのアンケートで,テレワーク期間中に出社した頻度が「ほぼ毎日」「週1回程度」との回答があわせて37%あり,その理由として「契約書の押印作業」を挙げた人が22%いる,という情報が掲載されていました。政府がテレワークを推奨しているのは,感染抑制のためだけでなく,従業員本人にも危険があるためであり,それをまったく意味のない押印のために出勤しなければならないとなると,もし私が同じような立場ならストライキをしたくなるでしょう(注:ストライキを個人でいきなりやっても正当性は認められませんが)〔5月22日追加〕。こういうときこそ労働組合は声を上げるべきなのです。中小企業なので,労働組合が組織されていないかもしれませんが,連合は,全労働者のために,押印のための出勤をやめさせるよう企業に呼びかけ,さらに政府にも公的な申請書類の押印をやめさせるよう呼びかけてもらいたいです。これは従業員の健康に関わる問題という認識が必要です。押印のごときことのために,従業員の健康を危険にさらして出勤させてよいのか,労働組合にはもっと怒ってもらいたいです。ストライキというのは,賃上げ要求やリストラ反対というときだけでなく,健康や安全に関わるときにも,そして,むしろそういうときにこそやるべきものなのです。
 ちなみに三密禁止ということで外出しないという行動を愚直に守っている私が一番腹立たしいのは,テレビで映っている政府の会議がどれも人の密度が高いようにみえることです。コロナに関する専門家委員会の会議でも,多くの参加者が会議室にかなり密集しているようにみえます(会議室の出入りのときに,ちゃんと距離をあけていますでしょうか)。あれでは国民には説得力がないですね。大切な会議だからこそ,オンラインでやってもらいたいです。紙も使わないでほしいです。そういうところから,政府の本気度がどの程度かが国民に伝わるのです。

 

2020年5月 9日 (土)

近況

 今日は,3か月半ぶりに,神戸労働法研究会を開催しました。Zoom会議でしたが,個人的には,日頃のリアル研究会とほとんど変わりませんでした。みんなと再会できて,とても嬉しいです。しばらく,他の研究者と議論して頭を使うという機会がなかったので,とても良い刺激となりました。コロナショック後の巣ごもり研究を終えて,本格的な研究活動再開という感じです。アスリートの方達などは,なかなか本格活動ができなくて気の毒です。研究者はその点,オンラインでほとんどのことを完結できるので,恵まれています。感謝の気持ちを忘れず,自分たちのできることをやっていきたいです。
 今日のテーマは,徹底的に常識を疑うということだったと思います。まず千野弁護士に組合事務所明け渡しに関するヤマト交通事件と賃金・賞与減額などに関するキムラフーズ事件をご報告いただきました。それを素材に,議論では,もう一歩踏み込んで考えてみようという姿勢で,いくつかの論点を根本から問い直す議論ができたと思います。こういうことを積み重ねていくなかで,知の共有財産が蓄積され,参加者各自が新たな発想をつかんで論文につなげてもらえればと思います。それと今日はおまけで,私が本邦初公開の「人事労働法」構想を披露させてもらいました。新しい労働法へのチャレンジのつもりです。参加者のかたから有益な意見や感想をいただき,勉強になり,また励みになりました。研究者の議論にはタブーはなく,挑戦あるのみです。
 現在の仕事のもう一つの中核になるものとして,明石書店のウェブマガジンに「テレワークがもたらすものー呪縛からの解放」(https://webmedia.akashi.co.jp/categories/877)の連載が始まりました。明石書店では,以前に『君は雇用社会を生き延びられるか』という本を出していますが,9年ぶりに仕事をさせてもらうことになりました。編集者の方が,テレワークをしなければならなくなったことをきっかけに, 当時から私が「テレワーク」のことを話していたのを思い出して声をかけてくださいました。「テレワーク」については,いろいろなところで話題になっていますが,なぜ「テレワーク」が必要なのか,それは前近代的な働き方の「呪縛からの解放」であるということを,私なりの視角でしっかり伝える論考にしたいと思っています。もちろん世の中にはテレワークやオンラインブームに対して賛否いろいろな議論があると思います。私の主張を素材に議論の活性化ができればと思っています。
 ビジネスガイドで連載している「キーワードからみた労働法」の新作(第155回)のテーマは,「SDGs(持続可能な開発目標)」です。いま私が最も注目しているテーマの一つです。労働法の議論においてもSDGsESGが無視できなくなっていることを解説しています。
 コロナの影響で,まだAmazonでも扱われていませんが,『経営者のための労働組合法教室』(経団連出版)が,8年ぶりに第2版が出ます(すでに刊行の準備は3月にできています)。世の中は経済活動が停滞していますが,今後の雇用情勢いかんでは,労働組合の存在意義が高まることになります。経営者の方だけでなく,労働者の方も,労働組合をめぐる法的ルールについて基本から学んでみたい方は,在宅勤務の合間にでも,ぜひ手に取って読んでみてもらいたいです。

 

2020年5月 4日 (月)

秋入学に賛成

 大学では,クオーター制導入の混乱で多少困りましたが,もともとセメスター制で4月開始と10月開始という感覚でやってきました。たしかに入学式が4月とか,卒業式が3月とかそういう行事はあるものの,これは春の行事だということから秋入学はダメというのはおかしいことで,一番重要な教育という面では,10月(9月)入学に変えても,大きな問題はないように思います。ちなみに神戸大学のLSの労働法の授業は,後期が労働法1で,前期が労働法2です。学生の標準的な授業の取り方は,2年生の後期と3年生の前期なので,10月が開始になっても何も問題ありません。
 大学教員は留学経験のある人がほとんどだと思いますので,秋に開始ということに抵抗感がある人は少ないでしょう。学部生の留学も増えてきていますし,また海外からも留学生が増えている現在,世間で思っているほど大学関係(教員・学生)では問題はないように思います。経団連が新卒も通年採用に移行するというようなことも言っているので,そうなると就職への支障もあまりありません。就職活動のあり方が大きく変わろうとしているいまだからこそ,入学時期を変えることもやりやすいでしょう。司法試験や公務員試験がどうなるのか,というような声もありますが,現在の時期でなければならない強い理由はないのではないでしょうか。
 秋入学に反対する最も有力な理由は,移行期の混乱です。これはもちろんきちんと考慮すべきことですが,これを言っていれば,いつまで経っても改革はできません。もともと日本の年度が4月開始であることに,たいした理由はないのであり,ただこれまでやってきたから便利というだけです。少なくとも教育関係は思い切って国際標準の秋入学にしてしまってよいのではないでしょうか。夏の暑い時期はたっぷり休んで,涼しくなってから新学期が始まるというのは悪くないはずです。早く変えたほうが,未来の世代から感謝されると思います。たしかに今年の秋からというと大変でしょうから,来年秋からにすればよいのです。新型コロナの混乱は当分は続くでしょうから,しっかり準備するためにも来年からのほうがよいでしょう。
 今回の9月入学の議論は,現時点で子供への教育が停止しているので,9月に新学年をリセットするという意味もあるようです。ただ,この点については,繰り返し言うように新型コロナの影響は残り続けるので,子供が安全に教育を受けるようにするためのオンライン授業の実施や継続を優先的に考えるべきでしょう。これは秋入学の話とは切り離して考えるべき問題です。
 オンライン授業を完全実施するため,子供のいる全世帯にスマホかタブレットを配布し,通信環境の整っていない家庭に補助するなど,デジタル化対応を一挙に進めることが検討されるべきでしょう。いつ届くかわからないようなマスク配布に金を使うくらいなら,様々なオンラインサービス向けの投資にお金を回すべきでした。いまのままではデジタル格差が生まれかねません。いまからでも遅くないので,まずは教育対応からデジタル投資をすべきです。こうしたことが,今後さらに継続して必要となるであろう給付金支給において,オンライン申請が円滑に行われるようにすることにつながります。
 というように思うのですが,そもそも現在の内閣のなかで,デジタル技術をつかって仕事をしている人がどれくらいいるのでしょうかね。問題意識が十分でしょうか。
 ところで大学は,学生のデジタル対応へのサポートを強めています。学生の就学環境にとってオンライン授業を聞ける状況にあることが不可欠となったからです。現在のところ,オンライン授業は好評のようです。リアル空間では,1対多という感じであったのが,オンラインでは, 11の集合のような感じになり,学生との距離も近くなったようです。リモートのほうが近いというのがオンライン技術のすごいところですね。もう戻れなくなるのではないでしょうか。

2020年5月 1日 (金)

いいなづけ(再掲)

 7年以上前の2013年1月18日にアップしたブログです。感染症というと,あのペストをテーマにしたマンゾーニの「いいなづけ」を思い出しました。探してみると,ウェブ・アーカイブに残っていたので(https://web.archive.org/web/20130301095144/http://souchi.cocolog-nifty.com/blog/cat21598620/index.html ),下に再掲しました(再掲にあたり最小限の訂正を入れています。訂正部分は[ ]にしています)。あまり内容のない紹介で,たんにベタ褒めしているだけで恥ずかしいですが,皆さんが読むためのイントロになればと思います。ただしネタバレありなので,まず読んでもらったほうがよいかもしれません。


ずいぶん長い時間をかけて読みました。速読せず,じっくり味わって読んでいました。たまたま先週体調を崩したので,まとめて読むことができて,なんとか最後まで行きました。イタリア人なら誰でも知っているManzoni の「I promessi sposi」(河出文庫)です。平川祐弘氏の訳も素晴らしいです。イタリア語を普通の日本語に訳すのは難しいのですが,この訳は日本語としても名訳であり,びっくりしました。タイトルもいいです。「婚約者」では,ちょっと感じが違います。「いいなづけ」というのは,親に押しつけられたというニュアンスもあるのかな,とも思いますが,とにかく結婚を約束されていた二人,というような意味でしょうから,その[ニュアンス]は「いいなづけ」のほうが,「婚約者」より出ていると思います。
 ミラノに[住んで]いた者として,今まで,ずっと読みたいと思っていたのですが,やっと読めて良かったです。素晴らしい本です。何が素晴らしいか。それは,ぜひ実際に手[に]とって読んで欲しいのですが,見所はいろいろあります。人間描写のすばらしさ,人生の不条理と人間性の奥深さなどを存分に味わわせてくれます。神を信じない私も,神様っていいな,神父様っていいなと思わされてしまいます。ペストの悲惨さも,ここまで克明に描かれると,まるで体験したかのような気分になります。スペインに支配されていた時代のミラノのことも知ることができます。歴史[の]記録としても意味がある本でしょう。主役が誰かわからないところも,かえって読みやすくなっています。登場人物の誰とも距離を置いて,人間というものの本質を描いているこの本は,間違いなく世界の最高傑作の一つでしょう。
 簡単に筋を[紹介する]と,ある貧しい若い夫婦が結婚を約束していて,司祭に結婚の儀式をしてもらう[はず]が,妻になるはずのルチーアを気に入った悪徳領主が,司祭に対して結婚式を延期せよと圧力をかけて,司祭がそれに従ってしまうところから話が始まります。二人は司祭に不意打ちをして,本人の前で結婚の誓いの言葉を述べてしまおうとするのですが,それが失敗に終わり,村からの逃避行が始まります。ルチーアと母のアニーゼが逃げ込んだ修道院のシニョーラの裏切りでルチーアは,領主からルチーア略奪を命じられた極悪非道の者(インノミナート)の城に連れて行かれるのです。しかし,あわやのところで,なんとその極悪人が改心するのです。しかし,ルチーアは,そのことを知らず,マリアに願をかけてしまいます。それは,一生,処女でいるので,救ってほしいという願です。彼を捨てるという覚悟をしたのです。その間,彼レンツォは,ミラノに行って,思わぬ暴動に巻き込まれて大変な犯罪者となってしまいます。不幸が次々と起こる二人に,神は幸せを与えるのでしょうか。
 読んでいると,この司祭には,怒りを感じます。領主の舎弟のやくざの脅しに負けてしまったことが若い二人の不幸の始ま[り]なのですが,司祭本人は不幸な出来事に巻き込まれた被害者意識ばかりあります。司祭は,後からこの顛末を知った枢機卿から叱責もされます。でも,ここがとてもイタリア的で,こんな俗物の司祭もいるなと,思わず共感[ ]てしまうのです。司祭だって人間で,保身が大切だからねと,にやっとしていしまいます。イタリア映画には,カトリックの司祭たちの俗物性を揶揄するシーンがよくありますが,これは,この本の影響かもしれませんね。
 一方,大変な人格者のクリストーフォロ神父。こんな人がいたら,どんなに救われるであろうと思わ[せ]る聖人です。ルチーアを,マリアへの願から解放したのも彼です。でも,こんな人は普通はいないだろうなとも思います。ただ,この人には殺人を犯したという過去があるのです。そこから悔い改めたというところが,いいところです。読者は共感を覚えるでしょう。
 レンツォは,普通の身分の低い若者です。教養もありません。酒を飲み過ぎて大失敗もします。でも,ルチーアへの愛やアニーゼへの思いは純粋で,実に愛すべき青年なのです。彼が,自分を不幸に追い込んだ領主がペストにかかって瀕死となったときに,復讐の言葉を発したとき,クリストーフォロ神父に叱られるのですが,でも,レンツォの気持ちはみんなよくわかります。自分の婚約者を理不尽に領主が横取りしようとしたのですから。
 ルチーアは,自分が何もしていないのに,次々と自分に不幸が起こるなか,ただひたすら神を信じるのです。今の時代はともかく,少し前までの女性の受け身的な行き方を象徴しているように思います。自分の運命は,周りの人によって,次々と翻弄されます。自分の出来ることは,ひたすら祈ることだけ。そんなルチーアに,誰もが同情を感じるでしょう。でも,彼女は最後には幸せになるのです。
 余計なことを書きましたが,この長編傑作は,一読に値します。イタリア好きであろう[が]なかろうが,関係ありません。繰り返しですが,この素晴らしい邦訳に出会えたことは,ほんとうに喜ばしいことだと思います。平川先生は,まだご健在でいらっしゃるのでしょうか。 ☆☆☆☆☆

2020年4月22日 (水)

遮断機が上がったあとの世界

 昔,箱根駅伝では,ランナーが箱根登山鉄道の踏切の遮断機にぶつかると,電車の通過を待たなければなりませんでした(停止時間は合計タイムから引いたそうですが)。前を走っていても,その間に追いつかれてしまいます。
  現在の社会は遮断機が下りてしまったような状況かもしれません。しかも開かずの踏切のようなものかもしれず,そうなると次々と後ろから追いつかれてしまいます。しかも,遮断機が上がったときには,ゲームのルールが変わっているかもしれません。それまで懸命に競争してきたことが馬鹿らしくなるかもしれません。
 新型コロナショックで停止中に,モノづくり企業が新たにつくり始めたのは,マスク,薬,防護服など医療関係のものです。こうした企業は,コロナ後には本業に戻るつもりでしょうが,はたしてどれだけ需要が戻るでしょうか。V字回復は期待できないのではないでしょうか。経済のルールが変わってしまっているかもしれないからです。
 北京の空はきれいになり,ヴェネツィアの運河は透明になりました。これっていいなと思う人が増えても不思議ではありません。過剰なモノづくりやツーリズムがなければ,地球は良くなるのではないか,そう考える人が増えそうです。
 在宅での仕事が増えると,スーツもネクタイも靴も腕時計も不要となるでしょう。私自身,数年前からネクタイをやめていますし,腕時計もあまりつけなくなりました。スーツはもともと持っていません。ジャケットはおそらくいまあるもので,ずっと回していくでしょう。身だしなみは必要ですが,別に高価なものを身につける必要はありません。
 便利な道具には関心がありますが,ものすごく心を揺さぶられるようなモノに出会えばともかく,普通のモノには買いたいという欲望がわいてきません。ちなみに最近買ったものののなかで重宝しているのが,100円で買った老眼鏡と150円で買った眼鏡用のドライバーです。そのほかで買っているものの大半は,デジタルワークに必要なものと書籍(電子ブックが大半)であり,その他の消費は飲食のような物理的に残らないもの(厳密には私の体内に脂肪として残るのかもしれませんが)とネットのサブスク系です(Kindle Unlimited,将棋のモバイル中継,Dropbox Business,日経電子版,種々の動画配信サービスなど)。
 コロナ後は,モノへの関心が小さくなった人がもっと増えていくでしょう。もともと若い世代は,コロナ前からそういう傾向が強いと思います。学生をみていると,お金がないからモノをもっていないということもあるかもしれませんが,それだけでなくモノへの執着そのものが昭和世代の人よりも小さいように思います。環境に優しい生産をしている企業の商品,過剰に営利を追求せず利益を社会に還元している企業の商品などに惹かれているようです。まさにSDGsの価値観です。
 遮断機は当分上がりそうにありません。走ることをやめて,ここはゆっくり将来のことを考えていく必要がありそうです。モノづくりの経営者は,遮断機が上がったとき,もう走るのをやめよう(モノを買うのをやめよう)と考える客が増えているということを想定したほうがよいでしょう。顧客をつなぎとめるためには,発想の根本的転換が必要です。そして,このことは労働者にも影響します。消費者としての自分たちの価値観が変わると,自分たちを雇っている企業も影響を受けざるをえません。いまは成功している企業も,その存続が危うくなることも十分ありえます。労働の主たる場は,営利企業ではなくなるかもしれません。
 私が,労働法とSDGsの関係を重要と考えるのは,このためです。

2020年4月20日 (月)

恐怖感情を乗り越えて,良き統治の実現をめざせ

 数字を出せばわかりやすいというわけではありません。政府は,人と人との接触を最低7割,極力8割に削減するよう国民に要請しているのですが,私の理解が悪いのかもしれませんが,接触を削減するのは人数なのでしょうか,それとも時間的なものなのでしょうか,それともその両方でしょうか。例えば,これまで平均して1日に10人と10時間接触していた人が,20人と1時間接触するようにすればよいのでしょうか。
 それはさておき,8割削減というのは,どうも2割であればよいという誤ったメッセージを伝えているような感じがします。もともと外出は不要不急のものは避けるということで,質的な基準で抑制していたわけですから,そこに新たに量的な基準を出すと混乱してしまいそうです。数字は政府の決定の根拠となるものであり,それを公表すること自体はよいですが,国民がどう行動すべきか,という具体的な指示については,7割とか8割とかいう数字で示すよりは,外出は不要不急のものは避け,接触は極力0とすると言われたほうが守りやすいですし,本来の狙いを正しく伝えるメッセージなのではないかと思います。
 私たちは,いつまで外出抑制が続くのかということにいらだちを感じています。そうしたとき,少しでも希望のある情報が出てくると,それに飛びつきたくなるものです。最低でも7割と言われると,3割まではOKというメッセージとして解釈したくなるのです。しかし,それは間違った解釈でしょう。
 テレビである若い芸能人が,これはタダの病気なので,戦争と比較するのは大げさだと言っていました。こういう勇ましい見解にも,人々は飛びつきたくなるのですが,これも危険です。戦争の場合の敵は明らかですが,感染症(伝染病といったほうがピンとくるでしょう)の場合は,自分を攻撃する敵はよくわからず,しかもそれが自分とごく近いところにいる人間(正確には,そこに宿っているウイルス)なのです(遠くにいる人は,接触しないので敵になりえません)。昨日まで親しくしていた人が,突然,自分を攻撃する人になってしまうおそれがあるというのが,感染症のおそろしいところです。感染症は人間不信をもたらすのです。人間不信は,欧米でアジア人差別が起きたということからもわかるように,人間のとてもいやな部分を引き出します。これは単なる病気ではありません。ある意味では,戦争よりも質が悪いと考えておくべきでしょう。
 ところで,リスクが計算できなければ「恐怖」が支配します。恐怖が支配すると,過剰に予防をしてしまうことにもなります(予防原則)。しかし,そうした過剰な予防は,別のリスクに目を閉ざすことになり,正しい判断を誤る危険性があるというのが,キャス・サンスティーン(角松生史・内野美穂監訳)『恐怖の法則―予防原則を超えて』(勁草書房)の教えです。一方で,サンスティーンは,「潜在的にカタストロフィ的であって確率を割り当てることができないようなリスクに人々が直面するときには,予防原則は正当な役割を果たしうる」とも述べています(前掲書317頁)。
 有名人が罹患して短期間で死亡してしまう話も,営業停止で生活に困った事業者が自殺する話も,どちらもテレビで何度も報道されると恐怖が増大します。前者であれば人々は都市封鎖に傾きますし,後者であれば事業再開に傾きます。どちらも予防原則によるものですが,政策の方向性は正反対です。こういう報道が流れ続けると,人々は混乱してしまい,そのうち冷静な判断ができなくなるおそれがあります。悲しむべきは,現在,日本の政府もそういう状況に陥っているようにみえることです(アメリカは,もっとひどいですが)。
 そのうちこのウイルスに関するデータが増えてくると,専門家の分析結果は正確性をいっそう高め,感染確率などもより精度の高いものとなるでしょう。このようにして提示される専門家からの情報をきちんと咀嚼して,国民および政府が,何を優先すべきかについて価値判断をしていくことが必要なのです。
 ところが残念ながら,恐怖感情をあおらないよう冷静に情報を伝えるべきテレビが,感染症をコマーシャリズムのネタにしてしまい,無意味であるだけでなく,有害ともいえる情報を垂れ流しています。私たちが,このルートで得る情報が,どれだけ冷静な価値判断の邪魔になっているかを自覚しておかなければなりません(同時に,どのような企業が,こうした番組のスポンサーになっている社会的有害企業かをしっかり見きましょう)。まあテレビをみなければいいのです。
 ただ,より深刻なのは,政府です。現在の民主的正統性が揺らいでいる政府の呼びかけには説得力がなく,なかなか国民の間で協調的な行動ができない状況になっています。総理大臣が言うから従おうというムードがあまりありません。
 私たちの判断は,感情抜きに行うことは難しいです。しかし,そのことをしっかり自覚したうえで,いまの自分が何らかの強い感情や恐怖に支配されて,冷静さを失っていないかを常に反省するよう努めるべきなのでしょう。このようにして,自分の判断から,できるだけ感情の要素を取り除いて冷静に熟慮していくことが必要です。民主的正統性が揺らいでいるとはいえ,ポピュリズム的な対応は迅速にするという現在の政府には,国民のほうがしっかり冷静に判断して適切な行動を求めていくと,それに対応する可能性もあります。そういう方法しか,いまの状況を抜け出す手はないような気がします。
 いまここで私たちが相互不信を募らせると,「万人の万人の戦い」となりかねません。そうなると,ホッブズ流に国民から主権を譲り受けた統治者「リバイアサン」を待望する動きが出てきます。そうした動きを抑えられるかどうかは,私たち主権者の自覚がどれだけ高いかにかかっています。王のような存在になりたいかもしれない日本の首相や米国の大統領の野望には要注意です。なぜロック流の社会契約論が出てきたか。そこから学んでいく必要があります。ちなみにロックは1665年のイギリスのペスト流行と同時代の人です。感染症(伝染病)は,統治とはどうあるべきかを考えさせるきっかけを与えるかもしれません。このときにケンブリッジから疎開したニュ-トンが,疎開先で次々と偉大な業績を発表したのは有名なことです。17世紀のイギリスのペストは,ロックとニュートンという社会科学と自然科学の偉大な巨人を生み出したことになりますね。


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