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2021年3月の記事

2021年3月31日 (水)

テレワーク・シンポジウム2

 今日は,社会システムイノベーションセンターのテレワーク・シンポジウムで,私も登壇しました(登壇という言葉が適切かわかりませんが)。オンラインなので,私はいつものように自宅からですが,私の書斎(と言っても小さい部屋ですが)は北向きで少し寒いのですが,午後のシンポジウムの途中で,どんどん温度が上がってきて,温度調整が大変でした。部屋から見える桜はきれいで,これだと外出したい人も多いだろうなと思いました。部屋からみえる人の流れは,感染リスクという点では不安でいっぱいですし,兵庫県は,相当やばい状況にあります。知事選が夏にあるようですが,最近みんなが使う「安心安全」というものを,ほんとうに実現する気概と実行力のある人に知事になってほしいものです。コロナ前と比べて,知事がいかに重要な役割を担っているかということが,わかってきていますからね。
 ところで,本日のシンポジウムは,個人的にはとても面白かったです。法学系の人と話をしていると,もちろん使っている用語や論理思考など慣れているせいもあってわかりやすいのですが,脳が活性化されることが少ないのに対し,異分野の人の話で,しかも労働に関する話を聞いていると,脳が刺激を受けているのが感じられます。もっとも,原理的な超越的な議論を好みつつある最近の私は,アカデミズムの世界において居場所があるか,少し心配にもなってきています。もちろん法学の世界の堅い議論にいれば,居場所は確保できることはわかっているのですが,そこから飛び越したら,とたんに所属不明の怪しいやつになりかねません。
 でも,これからはそういうチャレンジも必要であり,それが昨日も書いた失敗学の教えかもしれません。せっかく,神戸大学には,私の関心のある分野について,いろんな研究科で優秀な先生がそろっているので,そういう分野の先生との交流を深めていければと思います。できれば所属不明の怪しい研究者になれるくらいの知的刺激を受けることができればと思っています。それは,私がいま所属している学際教育センターの仕事にもつなげていけるのではないかと思っています。

2021年3月30日 (火)

判例の記載方法と失敗学

 法律の文献で判例を示すとき,掲載誌を示すのが本来のやり方でしょう。私も学生にはそう指導します。しかし,最近では,データベースから判例を調べることが増えており,私自身もそうなので,自分で直接確認していない掲載誌を記載することにためらいを感じるようになってきました。ペーパーレスの観点からも,紙媒体の判例掲載誌を示すのは,どうかとも思います。ということで,ビジネスガイドの「キーワードからみた労働法」(日本法令)では,法律専門誌ではないので,読者目線で掲載誌に関する情報は不要と考えて掲載せず,他方,データベースなどで調べる場合の便宜のために,どこの裁判所でいつ判決が出されたかはきっちり明示し,さらに事件番号を書くという方式に途中で変えました。判決の年月日は,気持ちとしては西暦を使いたいところなのですが,ここはあまり逸脱するとどうかと思い,妥協的に和暦を使っています(ただし,判例以外の部分は,引用を除き,西暦を使うのを原則としています)。
 『最新重要判例200労働法』(弘文堂)では,本文では,掲載誌は民集と刑集以外は記載しないことにし,裁判所と年月日と事件番号で事件を特定することにしました。一方,索引には未登載のものを除き,掲載誌はすべて記載しています。また和暦を使っています。編集者の方は,一般に,どうも西暦の使用には抵抗があるようです。裁判所の判決が和暦を使っている以上,仕方がありませんね。ただ法律関連の本でなければ,できるだけ西暦を使うようにしており,編集者も何も言わないことが多いです。
 今度刊行する『人事労働法』(弘文堂)は,法律専門書ですが,人事関係の人にも読んでもらいたいという気持ちもあり,また和暦だと時間の前後がわかりにくいので,思い切って西暦を使い,索引も西暦にしました。さらに,最新重要判例と違い,索引にも民集と刑集以外は掲載誌を記さないことにしました。これは,おそらく法律専門書では初めてのことであり,これだと法律専門書と呼べないと言われるかもしれません。でも,一度,これでやってみて,読者の反応をみてみたいと思ったのです。
 学術論文は形式が大切で,その作法を学ぶのは研究者としての第一歩ですが,それはその業界のプロ相手に書くものだからです。一般の人にも読んでもらうように出版する以上は,いかにして読者にとって読みやすく,また,こちらの書きたいことが伝わるかが大切です。そう思うと,業界内では定着している形式であっても,その外では必要に応じて適宜修正していくことは必要だと思います。今回の『人事労働法』のスタイルは,編集者の方になんとか認めてもらったような感じですが,読者にとって読みにくいという批判があれば,潔く改めるつもりではいます。
 ところで,昨日,神戸大学のV.School1周年記念シンポジウムがオンラインで開かれ,私も聴衆として参加していました。その基調講演が,失敗学の研究者であるバブソン大学の山川恭弘さんによるものでした。経営分野の人の話はわかりやすいなと感動すると同時に,自己啓発セミナーに出たような気分で,失敗をおそれるなという強いメッセージをもらいました。たくさん失敗し,そこから学ぶことが大切だというのは,当たり前のことですが,なかなかできないことです。年齢をかさねると守りに入ることも多いでしょう。たかが判例の記載方法の失敗くらい,たいした話ではないという気にもさせられます。『人事労働法』では,より重要な内容面でも多くの挑戦をしているので,もっと多くの失敗をしているかもしれませんが,たとえ失敗したと言われても,へこたれずに前に進んでいきたいと思っています。
 もちろん失敗はしないに越したことはありません。失敗をすると,周りに迷惑をかけてしまいますので,できるだけ避けようとするのは当然です。ただ,失敗をおそれすぎて,何も新しいことにチャレンジできないということこそが,最大の害です。失敗の積み重ねはチャレンジした勲章だと言い聞かせながら,果敢に挑戦する研究者でいたいですし,そうした研究者に囲まれて研究をしていきたいですね。

2021年3月29日 (月)

テレワークの新しいガイドライン

 厚生労働省から「テレワークの適切な導入及び実施の推進のためのガイドライン」というのが出ました。「情報通信技術を利用した事業場外勤務の適切な導入及び実施のためのガイドライン」の改訂版ですが,たんに「導入及び実施」だけでなく,「推進」という言葉が入っていることからもわかるように,法制度の遵守というよりも,どちらかというと経営指南的な部分が増えている印象があります。経営指南まで厚生労働省が担当するのがよいかはわかりませんが,検討を進めると,これって法律の話よりも,経営の話だよね,ということになっていったのかもしれません。その一方で,テレワークの定義が,「労働者が情報通信技術を利用して行う事業場外勤務」とされていることからもわかるように,テレワークの捉え方がやや限定的である気もして,このあたりは厚生労働省でやることの限界なのかもしれません。いずれにせよ,せっかくガイドラインを出した以上,しっかり周知徹底させてもらいたいものです。
 今回のガイドラインでは,「テレワークは,ウィズコロナ・ポストコロナの『新たな日常』,『新しい生活様式』に対応した働き方であると同時に,働く時間や場所を柔軟に活用することのできる働き方として,更なる導入・定着を図ることが重要である」と書かれています。ここまで言ってくれれば心強いですが,DXへの対応という観点,SDGsの観点なども含めて,もっと幅広いメリットがあると書いてほしいところではあります。
 「本ガイドラインを参考として,労使で十分に話し合いが行われ,良質なテレワークが導入され,定着していくことが期待される」というのは,どこか他人事のような感じですね。「厚生労働省からまず始めるので,国民のみなさんも,これにならってください」くらいの意気込みのガイドラインを書いてもらいたいのですが,どことなく,自分たちはともかく,皆さんは良いことだからやってくださいね,という感じであり,これでは,国民はなかなかついてこないでしょう。
 このガイドラインには,既存業務の見直し・点検のことも書かれていて,これはとても大切なことです。「テレワークをしやすい業種・職種であっても,不必要な押印や署名,対面での会議を必須とする,資料を紙で上司に説明する等の仕事の進め方がテレワークの導入・実施の障壁となっているケースがある。そのため,不必要な押印や署名の廃止,書類のペーパーレス化,決裁の電子化,オンライン会議の導入等が有効である。また,職場内の意識改革をはじめ,業務の進め方の見直しに取り組むことが望ましい」というのは,そのとおりです。ただ役所はそれができているのか,というところが問題です。政府は出勤を7割減らすためにテレワークをするようにと推奨しているのですから,それとしっかり結びつけるような力強い書き方が必要でしょう。
 私の身近なところでいうと,大学でも,不必要な押印や署名は残っています。何か一つでもこういうアナログ的なものが残れば,それだけでテレワークの阻害要因となります。また本業でも,大学では,いつも書いているように,文科省の方針もあり,オンライン授業については後ろ向きです。テレワーク環境の整備への道は遠いです。大学は特殊かもしれませんが,民間企業についても,ガイドラインで既存業務の見直し・点検ということに言及するのなら,企業だけにそれを任せずに,行政自らが模範を示して,力強く誘導してもらいたいものです。もっとも,厚生労働省の出すガイドラインは,テレワークを実施するうえでの側面援助ができるにすぎないのであり,ここは官邸あるいは関連省庁(厚生労働省だけでなく,国土交通省,経産省など)が一丸となって,テレワーク推進のために,既存の業務の見直しに向けた強いメッセージを発し,かつ具体的な措置も講じてほしいところです。
 ところで,労働法的に気になるのは,自己申告制が,昨年の副業ガイドラインだけでなく,ここでもじわりと重みが高まってきている点です。「労働時間の適正な把握のために使用者が講ずべき措置に関するガイドライン」では,労働時間の把握は,使用者の現認か客観的な記録が原則で,自己申告は,例外という位置づけで,これは今回のテレワークのガイドラインでも同じですが,これまでは,自己申告は,現認や客観的な記録という原則的な方法が使えず,自己申告により行わざるを得ない場合と制限をかけていたのが,今回は,自己申告は一定のルールを守っていれば導入してよいというような書きぶりにも読めます。
 そもそもテレワークにおいては,労働時間をしっかり把握することには無理がありそうです。もちろんやろうと思えばICT機器を使って監視するなどによりできないことはないのですが,それはそれでプライバシー侵害の可能性が高くなるという問題があります。そうなると自己申告によるほうがよいのですが,自己申告に頼るというのは,企業が労働時間を管理する責任を大きく減少させ,法的規制のあり方を根本的に変えることにつながります。最終的には私の提唱する自己保健管理というところにいく可能性も含んでいるように思います。個人的には,それでよいと思いますが,ガイドラインレベルで,そこまでやってしまってよいのか,という疑問はあります。
 このほか,プライバシーの問題はさておき,ビデオカメラをつかった「現認」(「現」認の概念に入らないかもしれませんが)という方法もあるのですが,それははじめから除外されているようですね。また「パソコンの使用状況など客観的な事実と,自己申告された始業・終業時刻との間に著しい乖離があることを把握した場合には,所要の労働時間の補正をすること」とあるのですが,乖離の把握ができるのであれば,それは客観的な記録による労働時間の把握ができているということではないか,といった細々とした点も気になります。
 先日のテレワークシンポジウムの総括でも述べたのですが,結局,テレワークというのは,労働時間管理をしなければならないような仕事には向かないのです。ジョブ型で仕事が特定され,賃金も成果主義的なものでなければ,なかなかうまくいきません。現在は,テレワークに合った業務体制がないなかでの政府からのテレワーク要請なので,テレワークに向かない仕事でもテレワークをさせざるを得ず,そのようななかで,さて労働時間管理はどうしたものかと悩んでいる企業に対して,ガイドラインで許容可能な妥協的なラインを模索したということなのかもしれません。今回のガイドラインはこれでよいとしても,今後は,このガイドラインも示唆しているように,テレワークがノーマルな働き方になる可能性があります。それにそなえて,テレワークに合致した労働時間管理とは何かを,労働時間規制の必要性の有無にまで踏み込みながら,しっかりと検討してもらいたいです(官邸に言われたからやるのではなく,厚生労働省が自らの政策として積極的に進めていってもらいたいです)。今回のガイドラインは,それまでの過渡的なものと考えるべきでしょう。

オンデマンド

 次年度の学部の労働法の講義はオンデマンドでやることになっています。文部科学省は対面型を推奨しているようですが,困ったことです。今回は私は大人数講義で感染リスクが高いからという理由でオンデマンドになりましたが,少人数であっても,教室で行うよりもオンラインのほうが丁寧に学生に対応できるという観点からは,やはりオンライン(リアルタイム型)でやったほうがよいと思っています。少人数だから感染リスクが低いので対面型にせよ,というのは間違っている気がします(少人数でもマスクをつけながら距離を置いて授業をするよりは,マスクなしで,ネット越しでやるほうが,教育効果は高いと思われます)。大学の現場では,授業の内容にもよるでしょうが,オンラインでもやれるとの判断が広がりつつあるのではないでしょうか。
 とはいえ,オンライン講義でも,リアルタイム型ではなく,オンデマンド型となると,学生の授業の聞き方がかなり違ってくるでしょう。学生は好きなときに授業を聞くことができ,疲れたら休んだり,あるいはわかりにくいところは何度も聞き直したり,というような自由な受講方法が可能となります。一方で,決まった時間割があるから,その時間に授業を聞くのであって,自分で好きなときに聞けばよいということになれば,授業を聞かなくなるという学生もいるかもしれません。こういう学生を意識が低いといって切り捨ててよいかというと,これまでの大学人の常識では切り捨ててはなりませんでした。
 しかし,これからの大学教育は,意識が低い学生に付き合っているような余裕がなくなるかもしれません。大きな社会変革や価値転換が起きているなか,知的創造性のある人材を生み出していくことが,社会的な要請です。大学もそうした要請に応えるべく,いかにして有為な人材を生み出すかが真剣に問われ始めています。意識が低い学生にあわせて授業をしているような余裕はないのです。大学は本来そういうものであったのですが,近年では,そういう有為な人材の育成は大学院からという感じになっていました。しかし個人的には,学部では遅く,もっと早い段階から,意識の高い学生のニーズに応える教育をしていく必要があると考えています。
 オンデマンド授業は,教師にもプレッシャーがかかります。動画記録がしっかり残るなかで,ネットを通してどれだけクオリティの高い授業をするかが問われることになるからです。これまでの対面型の講義とは根本的にやり方を変えなければなりません。
 私は今回,オンデマンド講義の教材を,これまではゼミの教材として使っていた『雇用社会の25の疑問―労働法再入門―(第3版)』(弘文堂)を使う予定です。オンデマンドでは,それぞれの回で,トピックごとに完結するタイプのもののほうが学生にとっつきやすいのではないかと考えるからです。内容はやや高度ですが,参考文献などを適切に使いながら,労働法の面白さと難しさを伝えてみたいと思っています。もちろん,労働法が今後なぜ必要でなくなるかということも,しっかり教えるつもりです。
 これからの時代は,なんとなくテレビをつけて,いろいろな情報を受け身で入手する,毎朝配達されてくる新聞をながめる,大学に行って教室でやっている授業に顔を出す,というような感じではなくなるでしょう。情報は自分主体で取りに行くものであり,そうした情報が,自分の好きなときにネットで入手できるようになるというのが現代のオンデマンド・スタイルです。大学も,こうした社会の大きな変化に対応していかなければならないでしょう。

2021年3月27日 (土)

テレワークシンポジウム

 本日の神戸労働法研究会は,神戸大学社会システムイノベーションセンターとの共催で,「テレワークにおける労働者のプライバシー問題を考える」というシンポジウムを実施しました(社会システムイノベーションセンター・シンポジウム「テレワークにおける労働者のプライバシー問題を考える」 | 神戸大学社会システムイノベーションセンター (kobe-u.ac.jp))。外部の先生方を招いて議論ができてよかったです。テレワークを推進するために必要な労働法上の問題を精密に議論ができたことが大きな成果で,たいへん勉強になりました(その成果は季刊労働法で掲載される予定です)。報告者の方,コメンテータの方,議論に参加してくださった方,その他,聴衆のみなさんすべてに御礼を申し上げます。
 今回のシンポジウムをとおして,個人的には,労働法上の議論が,テレワークという働き方になかなかフィットしていなくて,テレワークを推進するためには,もっと新しい法的な受け皿や斬新な発想が必要ではないかということも明らかになったような気がします。私自身は,「会社員が消える」という観点から,これからの働き方はフリーワーカー(非労働者)のテレワークが中心になると予想しているので,労働法上の問題の多くは関係がなくなると考えています。ただ現実には,まだ会社員がいるわけで,そのなかで,コロナ禍によりテレワークをせざるを得ない状態にある労使が,労働法上の課題にどう向きあうかが実務的には大きな問題となっています。
 テレワークとプライバシーという問題は,ICTの発達のなかで出てくるプライバシーや個人情報の保護という一般的な問題の一適用例でありますし,シンポジウムでも各報告者により繰り返し論じられたのが,監視をとおしたプライバシー侵害の問題でした。さらに,テレワーク自体が,雇用型の場合には,私生活と仕事を混在させてプライバシー侵害を本来的に内包しているという見方も可能であり,そのような観点からみると,テレワークはやらないほうがよいが,例外的に,障害者や育児や介護の負担を抱える人などテレワークが役立つ人もいて,そうした人には推奨していくべきというような視点も議論のなかで出てきました。いずれにせよ,テレワークとプライバシーは,もっと深く突き詰めていくべき余地がたくさんあるテーマであることがわかりました。今回のシンポジウムをきっかけに,共同研究をいっそう進めていきたいと思っています。
 一方で,私がもうすぐ刊行するテレワーク本は,今日のオーソドックスな労働法の議論からみて,かなり異端であることがわかったのも,大きな収穫(?)でした。私の議論は,現在の問題よりも,もう少し先の問題を扱ったものだからでしょう。DXのインパクトを視野に入れながら行うテレワーク論においては,あまり労働法の話が出てこないことになります。それについては31日のシンポジウムでも,報告者としてお話しする予定です。関心のある方はどうぞご参加ください(登録は明日まで)。社会システムイノベーションセンター・シンポジウム「テレワーク時代の働きがいを皆に-新しい働き方・暮らし方-」 | 神戸大学社会システムイノベーションセンター (kobe-u.ac.jp)

2021年3月26日 (金)

選択的夫婦別姓

 選択的夫婦別姓の反対論には,日本の伝統的な家制度が崩壊するという理由がよく出てくるのですが,伝統的な家制度とは何か,ほんとうに選択的夫婦別姓を導入するとそれが崩壊するのかは,よくわかりません。農民は江戸時代までは苗字をもっていなかった(異論もあるようですが)ので,姓にこだわるのは武家の伝統でしかありません。
 夫婦同姓論者の気持ちも心情的にはわからないではないのですが,私は他人の夫婦が別姓であることは全くかまわないし,「選択的」ということで,同姓か別姓を選べるというのであれば,みんながハッピーになると思っています。これは安易な考えなのでしょうかね。同姓を前提としている様々な制度や慣行を見直すのは面倒かもしれませんが,それを理由として反対するわけにもいかないでしょう。行政面についても,マイナンバーカードで個人ごとに管理するようになっていくと,姓の意味がなくなっていくことでしょう。
 何よりも結婚や離婚するたびに姓を変えなければならないのは不便であり,日本では実際には女性がその被害を受けているので,これは女性の問題といえます。事実上の不都合とはいえ,男性と女性が平等に不便を受けていないという状況は看過すべきではないでしょう。旧姓の通称使用を認めればよいという考えもありますし,それを貫徹できるのなら,たしかに不便さは軽減するでしょうが,そうまでするのなら,なぜ戸籍だけ同姓にこだわる必要があるのかという疑問も出てきそうです。離婚しても,離婚前の夫の姓を名乗り続ける人もいますが,面倒なことがなければ,元に戻したいのではないでしょうか。生まれてきた女の子の名前を考えるとき,「結婚したら姓が変わるからなあ」なんていうのを考える時代は早く終わったほうがよいです。
 現在,家族のあり方は急速に変化してきています。率直にいえば,昭和中期世代の私としては,ついていくのが大変なのですが,それでも個人の選択肢を広げることには,基本的には賛成すべきと考えています。夫婦同姓を定める民法750条は,いつまでも存続させるべきではないでしょう。個人的には,自分の娘には,本人がいやでなければ,生まれたときの姓を名乗り続けてほしいと思っているので,そういうことができる法制度や社会になればよいなと思っています。

Web会議

 私の参加する種々の会議がすべてオンラインによる参加になって,1年以上経ちます。いまでは,コロナ感染のために会議が中止ということはなくなり,オンラインで実施するのが普通になりつつあります。コロナ禍であっても,できない会議はないということです。
 今日の労働委員会の定例会議も,ほとんどの委員がオンライン参加でした。兵庫県庁はWebExを使っているのですが,私は,これを使うと少しトラブルが起きやすいのでZoom派です。今日もビデオオンにしても画像がでないというトラブルが起きました。これは自分のパソコンが原因のはずなのですが,パソコンのサインインのときの画像認証ではカメラが機能しているので,やっぱりWebExのせいかと思いました。仕方がないので,パソコンではなく,iPadで接続して,会議には無事参加できましたが,あわや音声だけでの参加となるところでした。
 ということで会議の終了後に,もう一回点検をしてみました。Zoomでやってみると,カメラが作動するので,いよいよWebExが問題だと思ったのですが,カメラのところの設定をみると,パソコン内蔵のものではなく,最近導入したDocument Scanner のカメラになっていました。どうりでパソコン内蔵カメラでは映らないわけです。しかし,WebExだけ,なぜカメラの設定が変わったのか,理由はわかりません。日頃あまり使わないので,たまにWebEx利用の会議となると,こういう思わぬことがあるので怖いですね。
 そういえば,前にはもっと初歩的なミスをしていました。日頃接続している書斎から離れて,リビングで接続して会議に参加しようとしたのですが,そのとき私の声は聞こえるのですが,画面からの声が小さくしか聞こえません。かつては向こうのマイクの設置が悪いから聞こえにくいということがあったので,このときもてっきりそれかと思いました。こちらのボリュームを100にまで上げても状況は変わりません。結局,音が小さく聞きづらいまま会議は終わったのですが,あとでわかったのは,このパソコンで,日頃YouTubeでの音楽を聴くことが多く,それをBoseのスピーカーとBluetoothで接続していました。それを切らないままにしていたのです。会議の声は,隣の書斎から聞こえてくるものだったので,どうりで小さいわけです。しかし,パソコンから流れているか,隣の部屋のBoseから流れているかも区別できない私の耳は,どうしようもないのですが,実際にあった話です。こういう恥ずかしい初歩的なミスばかりしているのですが,それでも何とかやっています。
 自宅でWeb会議に参加することには,もう慣れましたが,不思議な感じもしています。直前まで原稿を書いていたり,スマホで本を読んだり,ネットでニュースなどを見ていたり,YouTubeの音楽を流していたりしながら,会議の15分くらい前にアラームがなるようにし,そこで仕事モードに切り替えることにし,Yシャツもアイロンがあたっているものに着替えたり,ズボンも画面には映らないとはいえ履き替えます。そして,その日の会議が終われば,再び着替えてくつろいだ格好に戻り,しばらくしてまたパソコンやスマホに戻ります。そのときもテレワークという仕事をしているので完全にオフではないのですが,他人と会うわけではないので,オフに近い気分です。
 こういうようにして,プライベートな空間であった自室が,あるときにオンとなって外界とつながり,またオフに戻り自分の世界に戻るということになるのが,これからの働き方なのでしょう。外界とのつながりは,メールでやりとりしたりするときも同じなのですが,やはりビデオ会議となると,まったく違う感じがします。外界との間でやりとりする情報量が圧倒的に違うからでしょうね。それだけリアルに近いコミュニケーションができているということでもあるので,その意味でもリアル会議をやる意義は小さいのではないかと思います。

2021年3月24日 (水)

月刊企業年金に登場

 「月刊企業年金」は,労働や社会保障に関する研究者がよく登場する雑誌のようですが,私は最新号(2021年4月号)に初めて寄稿することになりました(不勉強で,これまで読んだことがありませんでした)。当初「雇用制度改正の意義と課題」というテーマで依頼がありましたが,DXというテーマでどうかという提案をさせてもらって,了承を得たので,「デジタル変革と高齢者雇用」というタイトルで書きました。私が最近書くことの多いDXというテーマに高齢者雇用問題を結びつけたものです。私は,高齢者(および障害者)に対してこそ,テレワークなどのICTやその他のデジタル技術の活用が最も効果的であると考えており,講演などでもこのことは話すことがあったのですが,きちんとした媒体で活字になるものとしてはおそらく今回が初めてです(字数が限られているので,簡単に言及するにとどまっていますが)。昨年から,「DXと労働と○○」というテーマで書くことが増えているので,また同じネタで書いていると思う人がいるかもしれませんが,各媒体に合わせた内容になるようアレンジはしているつもりです。
 いま私の頭のなかで,DX,自営的就労者(フリーランス,ギグワーカーなど)と並ぶ重要なキーワードは「SDGs」です。来年あたりは,「SDGsと労働と○○」というタイトルの原稿を書くことが増えているようになればいいなと思っています。そのためにも核となるものを一つ書かなければなりませんね。ちなみにDXは,昨年7月に日本法令から出した『デジタル変革後と「労働」と「法」』が核となっていますし,DXの一つとしてのテレワークについては,これを主題にした本がもうすぐ刊行されます。
 さらにもう一つ温めているキーワードがあるのですが,それはもう少し勉強してからということで,まだ明かさないことにしておきます(といっても,すでによく使われているワードですが)。

2021年3月23日 (火)

文句なく強かった藤井二冠

 藤井聡太二冠(王位,棋聖)が,竜王戦2組ランキング戦準決勝という,一般の人にはわかりにくい対局において,松尾歩八段に,豪快な勝ち方をしました。竜王戦には1組から6組まであって,上位の組への昇級は,順位戦と同様,1年に1つずつしかできないのですが,たとえ6組であってもランキング戦に優勝すれば,竜王戦の決勝トーナメントに出場できます。そこで勝ち抜けば,竜王に挑戦できます。ということで一番下のクラスにいても竜王を獲得できる可能性がある点は,A級に昇級しなければ名人に挑戦できない順位戦との大きな違いです。藤井聡太二冠は,デビューしたときは6組でしたが,そこでランキング戦に優勝して決勝トーナメントに出ました。残念ながら,佐々木勇気六段(当時は五段)に敗れましたが,これがデビューして29連勝したあとの,初黒星でした。翌年は5組に昇級してそこでもランキング戦に優勝して決勝トーナメントに出ましたが,増田康宏六段に破れました。その翌年は4組に昇級して,再びランキング戦に優勝して決勝トーナメントに出ましたが,豊島将之竜王(当時は名人)に敗れました。その翌年は3組に昇級してまたもランキング戦に優勝して決勝トーナメントに出ましたが,丸山忠久九段に敗れました。そして今年です。2組のランキング戦の準決勝に勝ったので,2位以内が確定です。2組は2位までが決勝トーナメントに進出できます。また来期の1組昇級も決まりました。1組となれば,5位まで決勝トーナメントに出れますので,挑戦者になりやすくなります。今日は,そういう意味のある対局でした。相手の松尾八段も順位戦のB1組に長年いる実力者で,今日もあと1手余裕があれば,勝勢となるというところまで行ったのですが,藤井二冠の長考の末の4一銀というただ捨てが妙手で,それにより,たちまち松尾玉は窮屈となり,藤井勝勢となりました。素人目には,この手もあるかなと思っていたのですが,そこからどう相手玉を寄せるかはよくわかっていませんでした。すごい攻めで,神業ですね。こういう勝ち方をみれば,今年は決勝トーナメントを勝ち抜くような気がします。
 藤井二冠にとって,これが今期最後の対局で,最多勝利,最高勝率(驚異の8割超え),最多連勝(ただし連勝は続いているので,翌年度の記録となる)となり,最多対局数を除き年度成績のタイトルを総なめにしました。もちろんタイトルを二つ取ったこともすごいです。棋戦も二つで優勝しています(朝日杯と銀河戦)。順位戦も全勝でB1組に昇級を決めています。渡辺明三冠も強いですが,数字的には,藤井二冠が完全に凌駕しています。今年の冬には竜王を取っているでしょうか。そして2年後の夏くらいには名人を取っているでしょうか。
 大学に進学せずに,将棋一筋で生きていくと決めた決意もすごいです。すでに将棋界の歴史に名を残す活躍をしていますが,今後どこまで成長するか楽しみです。

2021年3月22日 (月)

それでもオリンピックをやるのか

 今回の東京オリンピックは,振り返ればトラブル続きです。エンブレム盗用問題,新国立競技場の設計,最近では大会組織委員会の委員長の女性蔑視発言,開閉会の演出責任者の不適切発言がありました。マラソンコースの変更もトラブルの一つでしょう。そして,昨日は,海外客の受入れをしないことが発表されました。これは感染リスクが高いことを認めたということです。それでもアスリートたちには厳密な健康管理の下で競技をしてもらうということなのでしょうが,そこまでしてオリンピックをやる意味があるのでしょうか。しかも,このまま何もなく開会にまでたどりつけるとは思えませんね。
 オリンピックは,1984年のロサンゼルス大会以降,商業主義に走っているのは周知の事実です。コロナ禍で,健康を大切に考え,経済も大切であるものの,営利至上主義に疑問を持ち始めている人々にとって,今回のオリンピック開催は感覚的にフィットしないものがあることは,国民の7割が開催に反対という点にも現れているように思います。とりわけSDGs世代にどう映っているでしょうか。商業主義のオリンピックという視点でみると,大会ボランティアについても,実は安い労働力の活用にすぎず,国民の純粋な気持ちを,いいように使っているようにも思えてきます。
 なぜオリンピックをしなければならないのか。復興五輪ということも言われていますが,いまなお大きな余震が起きていて,被災地にあった自宅に帰還できていない人も,まだたくさんいるようことを考えると,完全な復興はまだ先のことです。復興に加えて,コロナの克服の証しという理由付けも付加されていますが,完全な形で開催できそうにない以上,コロナ克服はまだ先のことです。
 国内の感染状況は,今後リバウンドが予想されます。そのようななか,アスリートやその関係者に限るとはいえ,大量に外国から人を呼び込んで,感染リスクはコントロールできたとしても,医療資源を大幅に割かなければならないことは,国民の健康を危険にさらすことになるでしょう。はたして医療体制は大丈夫なのでしょうか。
 神戸大学の岩田健太郎教授は,スポーツイベントは感染リスク要因でり,オリンピック開催にはハードルが高いとして,有観客開催に否定的です(「スポ ーツイベントは感染リスク要因、ものすごくハードルが高い」東京オリンピック・パラリンピックの“有観客開催”に岩田健太郎教授(ABEMA TIMES) - Yahoo!ニュース)。もし国内客も観戦できないとなると,完全なネット配信だけのオリンピックとなりますね。それはそれで一つの選択ではあります。史上初のオンライン・オリンピックとして名を残すことを目指すという手はあるかもしれません。ただ国民からすれば,それなら日本でやらなくてもいいよな,と言いたいでしょうね。

2021年3月21日 (日)

今年の阪神タイガース

 しばらく野球のことは書いていませんでしたね。阪神タイガースがオープン戦で優勝したという,どうでもよいけど,嬉しいニュースが飛び込んできました。長年の功労者である能見投手や,精神的支柱であった福留選手が去り,その前年には鳥谷選手も去り,若返りが徐々に進んできていましたが,今年は近本,木南が3年目に入り,大きく飛躍しそうですし,大山も昨年ブレイクしたので大丈夫でしょうし,糸原と梅野は不動のレギュラーで,サンズ,マルテの外人も健在です。なんといっても,今年は大型新人の佐藤が入ってきて,打線はパワーアップしました。佐藤にどこを守らせるかが問題ですが,外野となると,近本は外せないので,糸井,サンズとの競争になるでしょう。佐藤はほんとうは内野なので,大山がもたつくようなら,佐藤が三塁のポジションを奪うかもしれません。こういう競争が働き始めたのがいいですね。投手陣では,藤波がほんとうに復活するかわかりませんが,もしそうなれば,結構よい勝負ができるかもしれません。
 いまはテレビ番組は,タブレットでNHKプラスとテレビ東京のビジネスオンデマンドをみるだけで,テレビがぼろくて画面が悪いのでアンテナにもつないでいないのですが,やっぱりサンテレビで阪神戦の中継をみたい気もするので,テレビを買い換えましょうかね。でも一時の気の迷いで,テレビを買ってしまうと後悔するかもしれないので,ほんとうにテレビ受像機が自分たちの生活に必要か,よく考えたいと思います。

充実の渡辺三冠

 渡辺明三冠が王将と棋王のタイトルを防衛し,通算28期となって,谷川浩司九段を抜いて歴代単独4位になりました。1位は羽生善治九段の99期というとてつもない記録で,大山康晴80期,中原誠64期というレジェンドに続く4位です。最近の充実ぶりはすばらしく,とくに関西勢に強いですね。渡辺三冠は3年前くらいはA級から陥落するなど不調でしたが,そのときでもタイトルは保持し続けましたし,その間にAI将棋にも対応して,みごとに復活しました。
 谷川九段も,将棋連盟の会長などをしていなければ,もう5個くらいはタイトルが取れていたのではないかという気もしますが,それはいまさら言っても仕方ありません。ファンとしては,せめてもう1個タイトルをとってもらえないかと期待したいところですが,現実的には厳しいでしょうね。ただ少し前の日経新聞の夕刊の連載では,AIを取り入れていないと書かれていたので,もしAIを取り入れて研究をすれば大復活もあるのではないか,と密かに期待しています。
 渡辺三冠は,もうすぐ斎藤慎太郎八段との名人戦です。渡辺三冠の充実ぶりからすると,名人防衛の可能性は高いですが,斎藤八段も勢いがあるので,熱戦を楽しみにしています(明日のNHK杯では,稲葉陽八段との決勝です)。

 

2021年3月19日 (金)

発信力とインセンティブ

 首都圏で緊急事態宣言の解除がなされるそうですが,昨日の19時からの菅首相の記者会見はひどいものでしたね。この時間にやるということは,NHKのニュースで生放送されることを覚悟していたのでしょうから,自信はあったのでしょうが,残念な内容でした。文章の棒読みは,何の説得力もありません。ライターに書いてもらったものを読んでますという感じで,安倍首相のときよりもひどいですね。若者にどうやったらメッセージが届くかということも気にしていましたが,SNSの活用とかそういう小手先のことではなく,自分の考えでしっかり語って,言葉に力をもたせるということを,まずやるべきことでしょう。山本太郎のようにとまでは言いませんが,管さんはあんな話し方でよく選挙に勝ってきたものですね。文章を読むことについても,中学生の弁論大会にでも行って勉強してきたほうがよいでしょう。
 先日,三宮に行く用事があったのですが,人の多さに驚きました。みんなマスクはしていますが,大丈夫でしょうかね。神戸市は依然として危険で,緊急事態宣言が解除されても,とても安心できる感じではありません。井戸知事からの外出自粛メッセージが,県のHPには出ていましたが,おそらくほとんど人は読んでいないでしょう(私は労働委員会の事務局からのメールが来て,はじめて知りました)。県民に訴えかけるとき,どうすればよいか,県の広報はもう少し考えるべきでしょう。せっかく知事がメッセージを出しても,届かなければ意味がありません。もちろん国にも同じような問題があります。発信力を高める方法をもっと工夫すべきです。もちろんメッセージを受け取っても,それだけでは行動は変わらないかもしれません。どうやったら人は行動を変えるか。インセンティブが重要ですが,そこは経済学者の出番であり,その知見を借りて,具体的な方策に打って出てほしいですね。
 人出は減っていなくても,外食する人は大きく減っているようです。なじみの飲食店が心配ですが,お弁当やテイクアウトにうまく切り替えたところは生き残っています。SNSでうまくそういう情報を発信しているところは,私たちもキャッチして,注文をしたりすることができます。店の生き残りも,発信力に大きくかかっているということでしょう。加えて,政府が,外食せずにデリバリーなどでの注文をした国民に,マイナポイントを付けるようなインセンティブを付ければどうなのでしょかね(菅首相の記者会見で,フリーランスの記者という肩書きで登場したタレントの大川興業の登場には驚きましたが,彼も似たようなアイデアを提案していたような気がしますが)。

2021年3月18日 (木)

primavera

 今日は,ようやく春が来たという感じでした。近所でも桜がちらほら咲いていました。Primavera(春)ですね。Primavera というと,FirenzeUffizi 美術館にあるBotticelliの「primavera」でしょう。あれがもしかしたらイタリア人の春のイメージかもしれませんが,私たち日本人の春といえば,やはり桜です。桜をいかにして美しく眺めることができるか,というところが,私たちにとってのprimaveraの楽しみです。コロナ禍の下で,2年目を迎えた桜シーズンに,制約が多いなか,私たち日本人はどう対応することになるでしょうか。
 Firenze大学に昨秋から留学予定であった同僚が,コロナの予定で1年延期となっていますが,この秋から行く目途も今のところ立たないという,気の毒な状況になっていると聞きました。本来,Firenze に留学というのは羨ましいことです。それこそUffizi 美術館にしょっちゅう行けるでしょうし,私がいたMilanoと違って文化の香りが高いです。辻仁成と江國香織の『冷静と情熱のあいだ』の舞台でもあります。Puccini のオペラ「Giannni Schicchi」に出てくる有名な「O mio babbino caro(私のお父さん)は,いまの恋が成就しなければ,Arno川にかかるPonte vecchio(ポンテ・ヴェッキオ)から身を投げると脅す娘が出てきますね。イタリアでもコロナが早く終息して,彼がFirenzeに留学に行ける日がくることを祈っています(アジア人差別が,イタリアで起こらないことも願っています)。
 私のほうはもう留学という機会はないでしょうが,老後のゆったりした旅行をする時間があれば,Firenzeは有力候補の一つです。前にRepubblica広場に面しているappartamento に滞在したことがありましたが,とても良かったです。名物料理も豊富です。ちょっと肉肉していますが,Bistecca alla fiorentina はハーフサイズでもボリューム満点ですし,Lampredottoは美味で,六甲ではエニシバという店(Enishiba-suidousuji (webnode.jp))で,この料理を出してくれます。Bistecca は,京都にこれを出してくれる店があると聞いたことがありますが,まだ行ったことはありません。こうした外食も,当分は無理そうですね。
 

2021年3月17日 (水)

退職はやむなしだが

 総務省の接待問題で退職した谷脇康彦氏の名前を,どこかでみたことがあると思っていたら,少し前に読んだ『サイバーセキュリティ』(岩波新書)の著者でした。テレワーク関係のものを書いているときに,サイバーセキュリティのことを少し調べたいと思って入門書的なものを探していたときにたどりついたのが,この本でした。内閣サイバーセキュリティセンター(NISC)のことも,この本で知りました。行政の専門家の書いたものなので,内容は正確ですが,加えて,読みやすいものでした。今回,こういうことで,つまずいてしまったのは残念なことです。でも退職はやむなしでしょう。
 ところで「意見交換」という便利な言葉は,いつごろから使われているのかわかりませんが,意見交換という表現をすると,仕事のニュアンスが出てくるので,都合がよいようです。私は多人数の意見交換会というものは何度か経験がありますが,そこでは,必ずアルコールが出てきますね。これって飲み会ですよねと関係者に言うと,いやな顔をされます。私は意見交換会なる飲み会では,場をわきまえずに(森元首相に叱られるタイプでしょう),おしゃべりをしてしまいますし,お酒が入ると記憶がほとんどないので,他人の意見は覚えておらず,これでは意見の「交換」となりません。おまけに余計なことまで喋ってあとで後悔することもあるので,そういう席には極力行かないことに決めています(いまはコロナでそういう機会はそもそもありませんが)。
 高級官僚になると,意見交換の場の飲食の値段も桁違いのようですね。とくにワインで高いものを頼むと,簡単に7万円くらいいってしまうでしょう。私は好きなワインの品種は決まっていて,それは家で買えば2000円以内で手に入りますし,ホテルとかレストランで最も高く出すところでも10000円以内におさまるので,なんとか手が出ます。
 私の年齢になってくると,同じくらいの年齢の人で中央官庁に行った人は,だいたい幹部クラスです(新聞などで発表されるので,ポジションがわかります)。付き合いが続いている人はいませんが,声をかければ会えるかもしれません。もちろん接待ではなく,友人としてということですが,そうなったとき,接待慣れしている友人をどこに連れて行こうか,場所の設定に困ってしまうでしょうね。

2021年3月16日 (火)

元木昌彦『現代の“見えざる手”』

 休刊したエルネオスで連載されていた元木昌彦さんの「メディアを考える旅」に登場させていただいた縁で,かなり前ですが,元木さんの編著書である『現代の“見えざる手”』(人間の科学新社)という本をいただいていました。元木さんの連載で登場したなかの,選りすぐりの言論人19人が登場します。2017年刊行なので,やや古くなっている話もあります(私が登場したのは20196月)が,反権力の論客が集まっているので読み応えがあります。副題の「19の闇」というのは,ちょっと恐ろしいネーミングですが,19人が闇なのではなく,19人が提起したのが現代社会の闇という意味ですね。テーマとしては,東日本大震災の原発問題の闇というものが多いですね。やはり原発問題は,日本社会のいろんな問題の縮図となっています。あの地震から10年経っても日本は変わっていないような気がします。
 今朝のNHKのニュースで,地震後の日本政府からの情報発信の少なさから,アメリカ政府は,トモダチ作戦を中止して,アメリカ人を待避させようとしていたことが報道されていました。自衛隊の原発への放水をみて,かろうじて思いとどまったということです。日本政府は,正確な情報も流さず,原発事故後の危機をアメリカ人に頼って乗り切ろうとしていたのですが,そんなことが通用するわけがないのです。民主党政府のこうした無能ぶりが,いまなお菅政権がこれだけ体たらくでどうしようもなくても延命している理由となっています。国民の多くは,あのときの民主党の流れを引き継いでいる現在の野党に政権を任す気はないでしょう。コロナ感染対策にしろ,迫る大震災への備えにしろ,現在の野党が政権についたら,とてもまともには対処できないと国民は考えているのです。
 有斐閣の書斎の窓の最新号(3月号)で,「直系家族システム」というキーワードで世相を斬っている辰井聡子さんが,「自民党を倒すんじゃなくて,後を継ぐんですよ」と言い,「政権を担おうという政党がやるべきなのは,戦後政治において自民党が果たしてきた役割を当の自民党以上に正当に,盛り気味くらいに評価した上で,自分たちこそがその真の継承者だと名乗り出ることでしょう。それで自民党員もそれ以外の国民も納得させる。新しい政治文化とそれだけの強さを身につけた政党が出てきて,政治の必要性を国民が理解したら,よい方向の政権交代は起きるんじゃないでしょうか」と語っています。もしかしたら,野党が自民党の血統の良い政治家をかついで,自分たちが自民党の良き歴史を引き継ぐというようなことを言っていけば,政権交代が起こるのかもしれませんね。野党がかつぐなら,河野太郎や田村憲久かもしれないし,石破茂かもしれません。自民党の血が入れれば,直系家族システム的には,政権は変わりやすくなり,現在の政治の閉塞状況を打破できるかもしれませんね。
 ところで,元木さんの本に話を戻すと,元木さんは私のときもそうでしたが,聞き手に気持ちよく話をさせてくれる方です。この19人の論客は,いわゆる「左」(なかには,かなり左)で,その内容には過激なものもあるのですが,元木さんがうまくリードされているからでしょうか,議論は比較的抑制された感じで,でも躍動感のあるものとなっているように思えました。続編を準備されているようなので,楽しみにしています(私は登場させてもらえるでしょうかね)。

 

2021年3月15日 (月)

女性のキャリア支援

 佐藤博樹さんと武石恵美子さんの責任編集の「ダイバーシティ経営」(中央経済社)のシリーズで,今度は,武石恵美子・高崎美佐『女性のキャリア支援』をいただきました。どうもありがとうございました。日本でも女性の活躍はずいぶん進んでいるのではないかという声があるなかで,著者たちは,いまなお外国と比較するとジェンダー格差は大きいと主張します。本書は,そのような問題意識から,女性のキャリア支援について検討するというものです。
 ところで,日本企業を外からみていると,組織の硬直性が目立っているのではないか,という気がしてなりません。とくに年齢に関係なく優秀な人材を抜擢するということができていないのではないか,ということです。ダイバーシティというのは,まずは外国人や女性の活用ということになるでしょうが,若い有能な人材を十分に活用できていないような企業は,能力主義となっていないので,外国人も女性も活用できっこないと思います。本書でも指摘されているように,女性は男性よりも多様なニーズをかかえる人材が多いのであり,そうした多様性への対応が,これまでの組織では難しかったことが,女性が活躍しにくい原因になっているのでしょう。逆にいうと,男性は,これまで組織に適合した働き方を強要され,それにおとなしくしたがってきたということでもあります。ほんとうは男性も多様なニーズを抱えているかもしれないのですが,男性にはそれを要求することが抑制され,組織に従順に従うことが求められてきたのです。女性は,出産などの問題もあって,そもそも組織に迎合した働き方が無理であるし,組織外の要因(とくに家庭)に左右されやすいので,組織の論理におとなしく従うことなんてできないという事情があったのです。それがジェンダー格差を生んできたのでしょう。だから,組織が変わらなければならないという話になるのですが,私は,組織はそう簡単には変われないと思っています。
 私が最近仕事をする際に出会うことが多いのは,こうした硬直的な組織と無縁の,フリーランスや経営者である女性達です。日本企業のメインストリームとされてきた大企業などの組織の枠に収まらない女性たちが,すでに大きく活躍し始めているように思います。ダイバーシティは,組織内ではなく,組織を超えた次元でみると,すでに広がっているのかもしれません。
 これからは,組織に頼らず自立して働くフリーワーカーの時代が来ます。その担い手は,おそらく女性ではないかと思います。いずれにせよ,女性のキャリア支援となると,組織での働き方よりも,フリーでの働き方の支援をするほうがよいのではないでしょうか。もちろん,これは男性にもあてはまることです。
 私も,年齢をかさねるにつれ,男性だからという気負いは徐々になくなってきています。むしろ,例えば育児をしている女性を見ると,それだけで価値が高いと思います。職業人としても,接客業などをみると,明らかに女性のほうが優れています。仕事で女性に勝つのは難しい時代が来ようとしています(仕事だけではありませんが)。個人的には,これからの時代は,男性のキャリアのほうが心配になるのではないか,と思っています。

 

2021年3月14日 (日)

書きたいことを書く

 やりたくないことはやらないと言うと,我がままに聞こえますが,自分がやらなくてよく,別の人がやったほうがよいことをやらないということであれば,許されるでしょう。原稿の執筆依頼が来たときでも,私ならではのものを書けそうなら引き受けますが,そうでない場合には,別の方に書いてもらったほうがよいと思うので引き受けないことにしています。逆にいうと,引き受けた以上,半端なものは書かないことを心がけています。その意味は,できるだけ自分にしか書けないものを書くよう目指すということです(といっても限界はありますが)。もちろん自分しか書けないものなんて,そうそうないのであり,自分では,自分しか書けないものを書いていると思っていても,客観的にみれば,誰でも書けるようなものを書いているにすぎないことも多いでしょう。だから結局のところ,そのとき一番書きたいことを書くということになるのであり,それが依頼側のニーズに合わなければ「ごめんさない」をするしかないと割り切っています。
 そんな感じなので,私には,作法が結構うるさい法学系の依頼はあまり来ないのですが,どういうわけか,たぶん私のことをよく知らないところから,判例評釈と書評の依頼が来ました。判例評釈は,昨年,労働委員会の命令についての評釈(ベルコ事件)を書いたくらいで(評釈の範疇に入っていたかは自信がありませんが),最近はほとんど書いていないのですが,たまにはやってみようかという気分で引き受けることにしました。福山通運事件です。いま抱えている本の仕事が終わったあとの締め切りなので,気持ちを新たに取り組みたいです。書評は,ある著名な体系書に対するもので,どうしようかなとも思ったのですが,体系書の書評はやったことがないはずなので,引き受けることにしました。書評は,3年ほど前に野村直之さんのAIの本についてやって依頼のことで,法学系では久しぶりです。どちらも引き受けた以上,私にしか書けないものを書いてみたいという気持ちは前述のとおりですが,できるだけ気負わず,自分の書きたいことを筆に乗せるということにしたいです。そういえば,別の法学系の代表的な企画での執筆依頼もあったのですが,私の書きたくなるものではなかったので,せっかく執筆陣に入れてやろうという有り難い話だったのですが,お断りしました(申し訳ありません)。これは別の人が書いたほうがよいと思われる依頼でした。

2021年3月13日 (土)

國武英生『雇用社会と法』

 國武英生さんから,放送大学のテキストである『新訂雇用社会と法』が送られてきました。どうも有り難うございます。
 私は,放送大学には,過去一度だけ,中島士元也先生にゲストに呼んでいただいて登場したことがあります(テーマは忘れましたが,たしか労働者概念ではなかったかと思います)。あれが私の最初のテレビ出演ですね。
 國武さんには,彼が北大の大学院生のときに,私が編者をした『コンプライアンスと内部告発』(日本労務研究会)に参加してもらったことがあります。あのときには,お世話になりました。もうあれからずいぶんと時間が経ちましたね。
 ところで,若手が書くわかりやい教科書というものには,私はどうしても辛口になってしまいますが,彼はいまや北大系の研究グループの総帥ですから,もう若手とはいえないのでしょうね。
 このテキストでは,第1章の「雇用社会と法の役割」で,労働法の歴史にふれ,最後の第15章の「雇用社会と労働法の未来」では,AI時代のことなど将来のことにふれています。これからの労働法の教科書では,この本のように歴史と未来に言及することは必須といえるでしょう(歴史にふれるのは,未来のことを論じるうえで必要となってくるからです)。
 このテキストは,その性質上,本文ではあまり深い内容に踏み込んでいませんが,初学者には,この程度がちょうどよいと思いますし,その分「学習課題」にはなかなか骨のある良問が多くて,メリハリがきいています。学習課題はゼミで議論するに適したものでしょう。各章の末尾にある参考文献では,私の本もかなり挙げられており,かなり「個性的な」セレクションになっています。こういうテキストにおいて,私の本を参考文献にするのは勇気のいるのではないかと思いますが,有り難いことです。

 

2021年3月12日 (金)

入試終了

 コロナ禍のなか,兵庫県は緊急事態宣言は解除されたものの,変異株が広がっており,県知事からは行動自粛の要請がでているなかでの,入学試験(後期日程)でした。前期日程よりも受験者数は少なく,実際には感染の危険性は高くなかったと思いますが,それは結果オーライというだけで,危険な道を強行突破したという印象は拭えません。学生はどう思っていたのでしょうかね。コロナ禍という危機のなかで,入試改革の絶好の機会でしたが,逸してしまった感じがします。
 ところで,入試は鉛筆を使って書くので,受験生が帰ったあとは消しゴムのかすが大量に残されています。受験生も机の下にはたきおとしてよいのか,置いたままにしてよいのか悩むようです。私としては,日常生活で消しゴムを使うことはまずないので,消しゴムをみることは新鮮でした。でもデジタル時代に,紙と鉛筆と消しゴムを使って試験をやるというのは,なんともアナクロで,しかもそれを教員が動員されて監督するというような前時代的なやり方はいつまで続くのでしょうね。試験をやるにしても,自宅で受験させて,監督はAIにさせるというような方法も,そろそろ検討していくべきでしょう。いつもこんなことばかり言っているのですが……。
 独自のオンライン入試で合否を決め,授業もすべてオンラインで,がんがんデジタル対応の教育をして,優秀な卒業生を輩出していくというような大学(あるいは教育機関)が,これからは出てくるでしょうし,出てきてもらわなければ困ります。国立大学もそれに負けないように競い合ってもらいたいですが,簡単なことではなさそうです。とくに大学入試というと,途端に誰しも,保守的な発想になってしまう気がしますね。入試は,教育のためにあるのです(大学での教育対象者の選別や,高校以下の教育機関に対して,大学に入るまでに学んでほしいことのメッセージを送るなど)が,教育のためにほんとうに入試が必要かということが根本的に問い直されなければなりません。このあたりのことは,これまでも書いてきましたが,何度も問いかけたいと思います。いまのゼロ歳児の親は,子が大きくなったときには,大学入試という(現在は)大きな行事がなくなっていると思っていたほうがよいかもしれません。

2021年3月11日 (木)

西村大臣

 西村康稔経済再生担当大臣が,先日の国会答弁で,関西弁なまりで話しているのを聞いて,疲れているんだなと思いました。神戸市出身だそうですが,あまりそういう感じがしませんね。典型的なエリートコースを歩み,あの土下座で有名な原健三郎の地盤を引き継いで衆議院に出て,2009年には総裁選にも出馬していましたが,ようやくいま総裁・総理がやや射程範囲内に入ってきたところでしょうかね。そうなると男は働くでしょう。ここで勝負をかけなければ男ではない(この言い方はダメなのかもしれませんが,ここでは私は駒澤大学の駅伝の大八木監督にならいます),何のためのこれまでの人生なのかという,というところでしょう。それが猛烈な仕事ぶりになっているのかもしれません。
 だが部下たちは,これに巻き込まれてはたまったものではない,というと思っているでしょう。内閣官房新型コロナウイルス感染症対策推進室の職員が長時間労働をしていることが明るみに出て,国民に呼びかけているテレワークもできていないことについて,批判されることになりました。職員たちの労働は報道によるといわゆる過労死ラインを大きく超えるものです。テレワークも緊急対応の必要性を理由にさせていなかったようですが,前にも書いたように,こういう理由付けをするなら,民間企業だって緊急の対応が必要な仕事があるからテレワークはできないと言いたくなるでしょう。テレワークを推進するためには,政府の緊急性の高そうにみえる仕事も,デジタル技術をうまくつかってリモートで効率的にできるという模範を示す必要があるのです。
 西村大臣は,私が昨年10月に内閣府の「選択する未来2.0」で報告したとき,担当大臣として来られてコメントをしてくださいました。ただ,そのときも日程が何度も変更されるなど,多忙さがうかがえました(会合の開催時間はたしか夜の6時以降だったと思います)。ご自身はどんなに働いてもかまいませんが,周りを過労に巻き込んでいては,これからの時代は,自分を支えてくれる良い人材は集まってこないでしょう。 
 神戸出身であることもあり,気になる存在ではあるので,今後の仕事ぶりに注目したいと思います。

2021年3月10日 (水)

東京

 311日の東日本大震災のときは,東京にいました。このことは前にも書いたことがありますが,ちょうど日本労働研究雑誌の編集会議のときに,地震が来ました。編集会議はもう終わりかけていたときで,会議を中断し,そのまま解散になりました。翌日は,後期課程の入試の仕事があったので,その日のうちに帰るつもりだったのですが,それが危なくなったので大学になんとか連絡しようと苦労したのを覚えています(携帯電話や公衆電話はなかなかつながりませんでした)。日本労働研究雑誌の編集会議は,私が編集委員になったときは,新宿モノリスビルでやっていましたが,その後,大同生命ビルで,ベトナム航空の事務所の横の部屋でやり,地震のときは帝国ホテルの近くのビルの一室でやっていたと記憶しています。地震のあと新橋駅まで移動して,最後は経済学者の太田聰一さんと二人になり,東京駅まで一緒に移動して,喫茶店で時間をつぶしながら,そのうち太田さんと別れたことを記憶しています。そのとき,私はどうしようとしていたのか,あまり記憶がないのですが,東京駅で野宿を覚悟していたのだと思います。結局,突然,新幹線が動くことになり(アナウンスはありませんでしたが,人の動きでわかりました),切符も買わずに飛び乗って,喫煙車両しか空いていなかったので,タバコの煙に耐えながら新大阪まで行きました。新大阪でのタクシー待ちは長い列でしたが,なんとか朝になるまでに帰れました。あれだけの地震で,よく帰れたものです。東京には数え切れないくらい出張に行っていましたが,あの出張だけは忘れられません。
 コロナの前から東京出張は減らしていて,昨年は1回も行くことがありませんでした。今年も東京に行くことはないでしょう。不思議なことに,最近は,東京やそれより北の地域のニュースを聞いても,別の国の出来事のように思えてきています。少し前までは,東京に対しては,大学生時代以降,長く住んでいたこともあり,身近に感じていましたが,徐々にそれがどこか遠いところのように思えてきたのです。私がすっかりローカルな人間になってしまったということでしょうかね。世間でも,コロナ禍で人が移動しなくなり,中央と地方という図式が変わって遠心力が働き始めているように思えます。政治の世界でも,知事の存在感が高まり,霞ヶ関の脆弱性が気になりますね。東京に良い人材が集まる時代ではなくなり,地方にとどまっている人材をうまく活用していくことが求められる時代に来ているのかもしれません。

2021年3月 9日 (火)

出向

 ビジネスガイドに連載中の「キーワードからみた労働法」の最新号では「出向」をテーマにしました。いまさら「出向」かという声もありそうですが,コロナ禍で仕事が激減してしまったANAの社員が,ノジマに出向しているという記事を目にして,出向について少しきちんと書いておこうと思って採り上げました。法的には,出向に対する規制はとくにないのですが,労働者派遣や労働者供給との関係は気になるところです。この点はいろいろな説明があるのですが,どういう出向が適法であるかは,それほどクリアではありません。もっとも,適法性を疑うべきではない出向があることも事実で,このあたりは実務と理論とがうまく調整がとれていません。適法な出向とは何かを,明確に定義できていないところに,出向の難しさがあります。
 今回の出向によって,本業とまったく違う仕事の経験ができて新鮮だったという声もあります。こうした出向は,会社公認の副業といえそうです。副業をめぐって労働時間規制をどうするかは,いろいろ議論がされてガイドラインも昨年出されていますが,「出向副業」は,本業のほうは休業中なので,労働時間の通算という問題は生じないでしょう。
 もし人手不足の企業に,自社の社員を継続的に送り込むということになると,前述の労働者供給や労働者派遣に該当することはないか,という点が気になってきそうです(労働者供給事業は職業安定法で厳格に規制されています[44条,45条]し,労働者派遣事業は労働者派遣法により厚生労働大臣の許可が必要とされています)。レイバーボスが手下の者を,建設会社の依頼を受けて現場に送り込むというような労働者供給と一緒にするなという意見もありそうですが,どこが違うのかを理論的に説明できるかとなると難しい面もあります。
 コロナ禍の出向は,人材のシェアリングになるということから肯定的な意見もありますし,政府も産業雇用安定助成金制度を設けるなど,前向きです(もともと出向によって雇用維持をした企業は,雇用調整助成金の活用もできます)。しかし,出向で慣れない仕事をするよう求められてストレスとなったなどの声もあることから,手放しで肯定しがたい面もありそうです。それに衰退産業での出向は,リストラの前段階という意味もあるかもしれません(企業から,整理解雇をする前に解雇回避措置を尽くしたという理由に使われるかもしれません)。
 労働法屋はこういう出向に本能的に危険な匂いを感じるのですが,それが杞憂であってほしいものです。コロナ禍で本業を休んでいる間のよい気分に転換になって,コロナ後は元の職場に戻ってそれまでの仕事をバリバリ再開した,というような出向になることを願っています。

2021年3月 8日 (月)

志が違う

 藤井聡太二冠は,長考派の棋士です。将棋の対局では持ち時間に制限があるので,終盤で考えるための時間をとっておくために,あまり序盤から長考しない棋士も少なくありませんが,藤井二冠は序盤から納得ゆく手を指したいために,とくに十分に事前に研究している戦法以外は,一手一手にしっかり時間をかけて指し手を決めています。そのため終盤で時間が残っていないこともよくありますが,彼の美学は,もしそれで時間が足りずに負けても仕方がないということなのでしょう。実際には,時間がなくてもミスをしないから,あれだけの勝率をあげているのですが。
 将棋というのは,序盤や中盤でどれほど有利に進めても,最後に悪手を指すと負けてしまいます。たしか,羽生善治九段も,将棋は最後にミスをした者が負けるゲームと言っていたと思います。これまでの積み重ねが,最終盤の1手のミスでフイになってしまうこともあるのです。それがわかっていても,自分がどのような手を指したかはすべて棋譜として残るのであり,それが恥ずかしいものにならないよう,すべての手について全力で考えているのでしょう(負け将棋で往生際が悪く延々と指すことを「棋譜を汚す」と言ったりもします)。このように将棋に美学を求める棋士の代表が谷川浩司九段ですが,最近の棋士は,どんな勝ちであっても,勝ちは勝ちと割り切って考えている棋士も少なくありません。藤井二冠は,勝負事なので勝ちにこだわることは当然ですが(実は,藤井二冠は,相手のミスを誘発するような手を指す独特の勝負術を兼ね備えています),そのなかでも,自分の手が記録として残ることを意識して,少しでも優れた手を指そうと努めています。とても志が高いのです。
 まだ20歳にもならない若者とはいえ,求道者のように高みを目指していく姿には,すでに神々しいものを感じます。そういえば,藤井二冠と同じ中学生棋士である加藤一二三も「神武以来の天才」と言われましたが,大山康晴15世永世名人にいじめられて(盤上でのことですが),その実力ほどのタイトル獲得記録は残っていません。加藤にとっての大山のような,藤井二冠に立ちはだかる棋士は,現時点ではいない感じもします。ただ,藤井二冠に迫るライバルが新たに登場する可能性はあります。AI時代における将棋界において,藤井二冠がこのままあっさり「天下統一」できるほど,この業界は甘くない気もしますが,どうでしょうか。

2021年3月 7日 (日)

渡辺和子『置かれた場所で咲きなさい』

 日本経済新聞の土曜版の「詩歌・教養」面で,5回にわたり「この父ありて カトリック修道女・作家 渡辺和子」が連載されていました。渡辺和子さんの『置かれた場所で咲きなさい』(幻冬舎)は,以前に,ベストセラーとなっていると知って買って読んだことがあるのですが,今回の連載を読んで,改めて渡辺さんの言葉をかみしめてみようと思いました。修道女の言葉など説教くさくていやだと思うかもしれませんが,素晴らしい金言に満ちています。よく生きるにはどうすればよいかということのヒントがもらえます。といっても,とても自分にはできそうにないというようなことではなく,誰にでもできることが書かれています。本のタイトルでもある「置かれた場所に咲きなさい」も,良い言葉です。自分がいま置かれている状況は,たとえそれが不遇であっても,そこでくさらずに,周りの人を幸せにすることによって,自分が環境の奴隷にならずに,主体的に生きていくことができるという教えです。私は神を信じているわけではありませんが,気持ちのもちようによって,幸福を得ることができるということを教わることができました。 
 印象的な言葉は,「子どもは親や教師の『いう通り』にならないが,『する通り』になる」というものです。子どもは言うとおりにはならないですが,親の背中をみているのです。親や教師は,口であれこれ言う前に,行動で示せということですね。
 老いた者に向けた言葉もあります。「老いは人間をより個性的にするチャンス」は大好きな言葉です。
 ところで,この本のなかでも出てくる渡辺さんの父親の話は,悲惨なものです。二・二六事件で犠牲となった教育総監の渡辺錠太郎は,自宅で,9歳の娘である和子の前で40発以上の銃弾を浴びて殺されました。日経新聞の連載は,この事件のところから始まります(ライターは,梯久美子さん)。
 年齢がいってから生まれた娘である和子のことを,父の錠太郎はことのほかかわいがったそうです。戦争反対派であった父を,青年将校たちは武力で葬り去り,その後,日本は悲惨な戦争に突入していきます。父は愛する娘の前で無残に殺されたものの,娘は父の死に立ち会えたことを前向きにとらえます。そこには私たちの想像を絶する怒りと悲しみがあったでしょうが,和子は徐々にそれを克服していったようです。そのような和子の言葉ですから,多くの人にずしりと響くものがあるのでしょう。

 

2021年3月 6日 (土)

教員の身分保障

 先日の神戸労働法研究会で,高橋聡子さんに報告してもらった,奈良学園大学事件(奈良地判令和2721日)の判決のなかで,大学教員の整理解雇をめぐって,「原告らは,いずれも本件大学のビジネス学部又は情報学部の教授,准教授ないし専任講師という大学教員であり,高度の専門性を有する者であるから,教育基本法9条2項の規定に照らしても,基本的に大学教員としての地位の保障を受けることができると考えられる。」という部分があったので,大学教員=高度の専門性=地位保障について議論となりました。
 教育基本法9条は,第1項で,「法律に定める学校の教員は,自己の崇高な使命を深く自覚し,絶えず研究と修養に励み,その職責の遂行に努めなければならない」とし,第2項で,「前項の教員については,その使命と職責の重要性にかんがみ,その身分は尊重され,待遇の適正が期せられるとともに,養成と研修の充実が図られなければならない」と定めています。「自己の崇高な使命を深く自覚し,絶えず研究と修養に励み,その職責の遂行に努め」ている教員の身分は尊重されるということなのでしょうが,上記の判示部分は,教員の高度の専門性と結びつけているので,その意味が若干あいまいとなっています。教育基本法との関係でいえば,おそらく職務の専門性よりも,職務内容である教育というものの特殊性(崇高性など)から論じるほうが適切なように思えます。それは憲法261項の国民の教育を受ける権利に応える職務であるということから根拠づけることもできるでしょうし,さらに大学教員の場合には,憲法23条の学問の自由の保障とも関係することになるでしょう。
 一方で高度の専門性という点でいうと,とくに教員だけにそういうことがあてはまるわけではありませんし,むしろ高度の専門性をもつ教員は,その専門とする授業科目がなくなるようなことがあったとき,大学側の解雇回避努力の範囲が限定され,解雇が有効と認められやすくなるかもしれません。他方,最近では大学によっては,教員にそれほど「高度な」専門性を求めず,広くゆるやかに専門性をとらえて,いろんな科目を教えさせることも増えているようであり,そうなると,高度の専門性があるから身分保障(ここでは雇用保障の意味)が必要となるというのではなく,むしろ,教育に高い専門性を求めないで採用されていることから,解雇回避努力範囲が広がり,雇用保障につながるというロジックに結びつくような気がします。
 本来,教員の身分保障は,学問の自由と結びついて,専門性に関係した研究内容に公権力が介入することを防ぐということが重要で,大学への支配力が強い文部科学省でも,ここにはタッチできないはずです。昨年の日本学術会議問題も,政府がここに介入しようとする可能性があったことから大きな問題となりました。
 一方,教員を,文字どおりの「教育をする職員」であるとみると,教育能力の点から評価することは可能であり,教育能力のない教員は解雇対象となるということはあるでしょう。ただ,これは高校以下の教育機関となると,ぴったりとあてはまるのですが,教員資格なしで教える大学では,やはり高校までの教育とは違うでしょう。大学教員は,自らの研究分野の専門的知見をベースにそれを学生に伝えることが求められているはずで,研究と教育は不可分となります。そうなると,教育に多少難があっても,研究業績が十分にあれば解雇はできないということになると思います。
 こういう分析を基礎として大学教員の雇用保障について考えると,教員の専門的な研究領域にかかわる内容を理由とする解雇は憲法上も疑義がありますし(私立大学では私人間効力の問題となる),採用時に特定の研究をしない旨の特約を結んでいたような場合でも,その特約に基づいた解雇は容易には有効と認められないでしょう。大学ではありませんが,十勝女子商業事件・最高裁判決(最2小判昭和27222日)は,採用の際の政治活動をしないことを条件とする契約を有効としていますが,これと大学教員の研究内容への介入とは別の問題です。
 一方,教員の教育上の能力を理由とする解雇も,研究と密接に関連していることから,解雇には慎重となることが求められるでしょうが,それは前述のように,高度の専門性ということではなく,学問の自由に関係するものだからです。むしろ高度の専門性に関係するものであっても,例えば法科大学院の専任教員として採用された場合には,その教育能力に著しく問題があれば解雇となることは否定できないように思います。
 それでは奈良学園大学事件で問題となったような整理解雇事件ではどうでしょうか。一般的に,専門性が限定されていれば,解雇回避努力の範囲が限定されるということはあるのは前述のとおりですが,例えば教員の身分保障から,人員整理対象について,職員から先にすべきというようなことは言えないでしょう。
 以上とは別に,最後に残された論点として,学問の自由の重要な要素である大学の自治に関するものがあります。大学の自治には,教育体制に関する自治というものも含まれているとすれば,そもそも大学が行った教員の解雇の有効性について,裁判所が細かく審査することには問題があるということにもなりそうです。学問の自由を大学の自治ということと結びつければ,議論は複雑となるのです。
 このように教員の雇用保障は,労働法全体ではマイナーな論点かもしれませんが,解雇法理の応用問題として,研究会では引き続き議論をしていければと思っています。

2021年3月 5日 (金)

テレワーク関係のシンポジウム

 3月の終わりに,テレワーク関係のイベントが二つ,社会システムイノベーションセンターの企画で行われます。一つ目は,327日に,同センターと神戸労働法研究会の共催で行うもので,テーマは「テレワークにおける労働者のプライバシー問題を考える」です。詳細は,シンポジウム「テレワークにおける労働者のプライバシー問題を考える」 | 神戸大学社会システムイノベーションセンター (kobe-u.ac.jp)をご覧になってください。テレワークにともなう労働法の諸課題のなかで,プライバシーというものに焦点をあてて,議論を深めてみたいと思います。神戸労働法研究会は,通常は,会員のみしか参加できませんが,今回は一般の方も事前登録をすれば,参加が可能となります。 
 もう一つは,331日に開催される「テレワーク時代の働きがいを皆に-新しい働き方・暮らし方-」です。こちらは,労働法に限定されず,より広い観点から議論がなされます。私も報告者となります。詳しくは,社会システムイノベーションセンター・シンポジウム「テレワーク時代の働きがいを皆に-新しい働き方・暮らし方-」 | 神戸大学社会システムイノベーションセンター (kobe-u.ac.jp) をご覧になってください。
 テレワークについては,私は,昨年Webあかしで連載した「テレワークがもたらすものー呪縛からの解放」をベースにこれを大幅に手直しをした内容の本の刊行に向けて作業を進めていますし,季刊労働法でも論文を執筆予定です。今年もテレワークを実践しながら,テレワークに関する研究を深め,それを世に問うという取組みをしていくことになりそうです。
 なお,27日のシンポジウムは,いつもの研究会の延長で,労働法の議論が中心となります(私はコーディネータ役です)が,31日のシンポジウムは,どちらかというと実務家向けになるのではないかと予想しています。どちらもオンライン開催ですので,日本全国どこからでも関心がある方は,ぜひご参加ください。

 

掲載されたかな?

 共同通信の取材を受けて,デジタル時代の教育という問題についてお話をしたのですが,そのなかのデジタルデバイドのことが,本日の共同通信配信の記事である「デジタル加速,副作用も 効率化の恩恵,所得が左右」というタイトルの記事で取り上げられました。一コメントだけですが,取材のときには1時間ちかくお話をしたと記憶しています(かなり前のことです)。今回の記事は,実際には,どの新聞社が掲載したかわからず,もしかしたら,どこも採用していないこともあるかなと不安に思っています。
 私がみるに,政府は,これまでデジタルデバイドが起きないようにするために,デジタル化に抑制的であったように思えます。そうなると,デジタルデバイドの問題は顕在化しませんが,これは潜在的なリスクを高めていることになります。確かに,政府が何かデジタル化しようとすると,コロナ感染情報のためのアプリにもみられるように,トラブルが起きます。こんな状況だから,デジタル庁をつくるや,デジタル化を進めるなどといっても,たいしたことではないと高をくくっている人もいるでしょう。でも確実にいえるのは,デジタルネイティブの世代は,楽々とデジタル技術をつかいこなすことです。デジタルデバイドとは,世代間格差の問題ともいえます。いつまでも政府がデジタル音痴につきあってくれるとは限らないでしょう。しっかりついていかなければ,社会から取り残されることになりかねません(これは私自身の問題でもあります)。否が応でも世代交代は起きます。デジタルデバイド対策の危険性について,もっとマスメディアは採り上げるべきでしょう。

2021年3月 3日 (水)

スマホ

 スマホを十分に使いこなせていないなと改めて思いました。いまちょうどインターネット会社を切り替えていて,ネットサービスが使えない状況のため,パソコンにネットをつなげることができないと思っていました。私はUQモバイルを使っていて,以前はテザリングができなかったのですが,調べてみたら私のiPhone SE でもつなげることができるとわかり,いまつないでみたらiPhone経由で,パソコンからネットにつながりました。もっとも,昨年,買い換えたばかりのこのiPhone SEは,安さにつられて選んだのですが,前に使っていたiPhone7よりも使いにくいので,ここは思い切って5G対応のiPhoneに切り替えようかと思案中です。新しいものは増やさないといい,環境重視といいながら,スマホはどうしても必需品で,これなしでは生活できないので,仕方がないと思っています。せめて,できるだけ長く買い換えなくてすむような機種を選びたいです。
 ただ,コロナ禍で在宅生活が続くと,モバイル端末をもつ必要性は著しく低下しています。携帯電話といっても,電話をかけることはあまりありませんし,やっぱり文章を書くのならパソコンのほうがすぐれています(音声入力をすれば同じともいえますが,複雑な入力や編集の作業はパソコンのほうが断然やりやすいです)。ネットで何か調べるのも,画面の大きさもあり,スマホでは少し大変です。
 昨日の話ではありませんが,片付けられない私は,スマホ内のアプリを探すのが大変です。スマホは便利だとさかんに言ってきましたが,もっと使いやすくするための,さらなる進化の余地があるのではないかと思います。もっとも,それがどういうものかは,よくわかりません。それがわかれば,私もスティーブ・ジョブズになれるかもしれませんが。

2021年3月 2日 (火)

スキャナー

 私は自慢じゃないけれども片付けが苦手です。小さい時から部屋はいつも散らかっていました。研究室も他人が見れば絶句するような散らかり方です。私の中にはそれなりの秩序があるのですが、それを共有することのない人の目から見れば、ただ乱雑に書類が散乱しているだけに思えるでしょう。自宅も同じです。これは私が怠け者なのか、それともO型人間だからなのか、それとも根本的にその種の能力に欠けているのか、いろいろな理由が考えられるのですが、最も重要なのは、なかなかものを捨てることができないことにあります。最近ではものを増やさないように努力していますし、断捨離の努力もしてますが、例えば昔の研究会のレジュメとかコピーした論文とかはなかなか捨てられないですよね。母からもらった葉書も捨てられないです。住民税の領収書も捨ててませんね。捨てて大丈夫なのでしょうがね。そのくせ、博士号の学位証は度重なる引っ越しのためか紛失してしまい、ガッカリです。

 こういう私に最近強力な味方がやってきました。スキャナーです。これを使って書類を片っ端からデジタル保存しています。まだまだ紙は残っていますが、今後は紙で送られて来たものはスキャンして直ちにゴミ箱行きです。できれば最初からデジタルデータで送って欲しいものです。そう言えば、最近、1年先の締切の論文の執筆依頼と執筆要領が紙で送られて来ました。絶対に行方不明になるとわかっているので、担当の方に電子ファイルで送ってもらおうかとも思いましたが、迷惑かなと思い、せっせとスキャンして、紙は捨てました。向こうもパソコンで書いて保存しているはずなのですが、わざわざプリントアウトして、郵送して、こちらは今度はスキャンしてパソコンで保存しているのです。なんという非効率でしょうかね。電子メールで添付してくれていれば、互いに時間の節約になるのですが。もっとも、私たちの業界でも、このような例は急速に減ってきており、文書のやりとりはデジタルデータで行うことが普通になってきています。

 ということなのですが、実は新たな問題が起きています。パソコンのフォルダのなかでファイルが迷子になりがちなのです。検索の仕方が悪いのでしょうが、私はこちらの片付けも苦手なようです。結局、私には効率のよい作業は無理なのかもしれません。



2021年3月 1日 (月)

父の責任

 息子の不祥事に父親がどこまで責任を負うべきかは,昔からよく問題となる話です。

 普通は、息子が成人しているかどうかで違うことになるでしょう。法的にも,未成年の子の不法行為については、監督義務者である親が責任を負うことがあります(民法 714 条)。もっとも道義的責任や政治的責任は、法的責任とは違うもので、監督義務は必ずしも関係はありません。息子が最高権力者でもある父の威を借りた行動をして社会に多大な迷惑をかけているときに,息子は「別人格」といって知らぬ存ぜぬ、を通そうとした政治家もいました(結局,それを貫徹することはできませんでした)が,これも政治的責任という観点からは、到底、許されるものではないでしょう。

 ところで,最近,山田風太郎の『人間臨終図鑑』という奇書を,Amazon の

Unlimited でダウンロードして,寝る前に少しずつ読んでいるのですが,

ちょうど最近,難波大助のことが出てきました。

 1923 年,後の昭和天皇がまだ摂政であったときに、一人で襲撃し、大逆罪で死刑となった人です(虎ノ門事件)。彼の死後,地元の名士で政治家でもあった大助の父は,世間から罵詈雑言を浴び

せられるなか,自宅に閉じこもり,半年後に餓死したそうです。壮絶な責任の取り方です。たまたま,その話を読んだところであったので,ずいぶんと政治家であっても違いがあるなと思いました。難波大助は,政府からの助命を拒否して,自分の思想に殉じました。父は息子の思想とは全く相いれない思想の持ち主で、父は息子とは違う形で自らを処すしかなかったのかもしれません。

 まだ、この本の 1 巻を読んでいるところですが,年齢の低く亡くなった順に並んでいるので,辛い話が多くて,なかなか先に進みません。ちなみに安政の大獄で犠牲になった橋本左内の話などは,彼の無念を思うと,胸が締め付けられますね。難波大助も橋本左内も 25 歳で処刑されています。

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