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2020年7月23日 (木)

公的とは何か

 大学教員の評価の指標に,公的活動をどれくらいしているのか,ということが挙げられています。公的活動をしっかりやっている人が,社会に立派に貢献していることになるのでしょう。ほんとうはそれが理想なのですが,私は数年前から,いわゆる公的活動をできるだけやらないようにしています。講演をしたとき,私に箔を付けるつもりで,主催者は何か役所関係で委員をやっていませんかと聞かれるのですが,ほとんど何もないですし,何かやっていたときも,あまり言って欲しくないと断っています。いまは,たぶん籍があるのは,兵庫県労働委員会の公益委員会だけでしょうが,これもずいぶんと長くなっているので,いつまでやるかはわかりません(この仕事は,私は町医者のような気分で,労働トラブルの解決を求めてきた市民に,当事者双方にとって,できるだけ良い「治療」をすることを目指してやっているつもりで[そのため基本的には,和解をすることしか考えていません],これは公的活動と胸を張れると思っていますが,それは別に私以外の人でもいくらでもできそうなことです)。
 公的な活動というのは,本来はとても大切なことで,私も真の「公的な」活動なら,喜んでやらせてもらいます。それは委員に就任というようなものではなくて,むしろゲストで講演するというような場合のほうがぴったりです。また中央官庁の仕事は国益よりも省益のためのものなので,そういうところにかかわるのは公的な活動とは言えません。省庁の「私益」のための活動だからです。省庁のために何かやるのだったら,立派な活動をしている民間企業のために尽力したほうが,よっぽど「公益」に役立ちます。
 現在の政府をみると,国民のことを本当に考えて何かをやっているとはとても思えません。各役所が省益のために動いていて,内閣はその操り人形です。検察庁まで,先日の騒動をみていると,国益よりも「庁益」ファーストで動いているのではないかという疑念があります。いったい政府のなかで誰が公益を真剣に考えているのでしょうか。こんな政府の活動に関わっても,公的活動をやっていると胸を張ることなんて,とてもできません。

 先日上梓した『デジタル変革後の「労働」と「法」』(日本法令)の執筆のときに,気になりながらも扱いきれなかったテーマの一つに「公共善」とは何かということがありました(アリストテレスから始めなければなりません)。労働を共同体への貢献と定義するなか,その共同体のための「善」とは何かと言うことをもっと具体的に論じて,労働や統治と結びつけたかったのですが,いまの段階では力不足でした。ただ,この問題は,思考だけでなく実践とも関わっています。私たちが,自分たちの住んでいる地域,国,地球のための「善」にどのような貢献ができるのか。コロナの時代,みんなで一緒に考えていかなければならないテーマです。
 そんなときなのに,政治家は,秋に解散したら議席を維持できそうだなどと考え,国民に自粛を呼びかけながらも,頻繁に政治家どうしで会食という密談をしているのは,見るに堪えないあさましい光景です。また責任をとるという言葉をこれだけ軽くした責任も重いです。安倍首相は,いったいこれまでどれだけ責任をとると言って,それを反故にしてきたでしょうか。責任をとるというのは,それを発言することで責任を果たすことだと勘違いしているのかもしれません。

 公共とはラテン語の「res publica」(イタリア語では「repubblica」)で,「公のこと」,「みんなのこと」といった意味で,「国家」や「共和国」という意味になります。私たちは「公のこと」にコミットしていく責務があります。でも,いまの日本では,政府のやることは「公のこと」に思えないのです。公共善(ラテン語では,bonum commune。イタリア語では,bene comune)は,みんなの「共通の善」という意味です。私益とは相容れません。省益や政治家個人の私益しか考えない人に統治を任せることはできません。
 こうした感覚が広がると,ローカルに,生活感覚に根ざした,みんなの共通の善のための統治のあり方を模索する動きにつながっていくかもしれません。真の地方分権の誕生を期待したいです。

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