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2020年7月の記事

2020年7月23日 (木)

公的とは何か

 大学教員の評価の指標に,公的活動をどれくらいしているのか,ということが挙げられています。公的活動をしっかりやっている人が,社会に立派に貢献していることになるのでしょう。ほんとうはそれが理想なのですが,私は数年前から,いわゆる公的活動をできるだけやらないようにしています。講演をしたとき,私に箔を付けるつもりで,主催者は何か役所関係で委員をやっていませんかと聞かれるのですが,ほとんど何もないですし,何かやっていたときも,あまり言って欲しくないと断っています。いまは,たぶん籍があるのは,兵庫県労働委員会の公益委員会だけでしょうが,これもずいぶんと長くなっているので,いつまでやるかはわかりません(この仕事は,私は町医者のような気分で,労働トラブルの解決を求めてきた市民に,当事者双方にとって,できるだけ良い「治療」をすることを目指してやっているつもりで[そのため基本的には,和解をすることしか考えていません],これは公的活動と胸を張れると思っていますが,それは別に私以外の人でもいくらでもできそうなことです)。
 公的な活動というのは,本来はとても大切なことで,私も真の「公的な」活動なら,喜んでやらせてもらいます。それは委員に就任というようなものではなくて,むしろゲストで講演するというような場合のほうがぴったりです。また中央官庁の仕事は国益よりも省益のためのものなので,そういうところにかかわるのは公的な活動とは言えません。省庁の「私益」のための活動だからです。省庁のために何かやるのだったら,立派な活動をしている民間企業のために尽力したほうが,よっぽど「公益」に役立ちます。
 現在の政府をみると,国民のことを本当に考えて何かをやっているとはとても思えません。各役所が省益のために動いていて,内閣はその操り人形です。検察庁まで,先日の騒動をみていると,国益よりも「庁益」ファーストで動いているのではないかという疑念があります。いったい政府のなかで誰が公益を真剣に考えているのでしょうか。こんな政府の活動に関わっても,公的活動をやっていると胸を張ることなんて,とてもできません。

 先日上梓した『デジタル変革後の「労働」と「法」』(日本法令)の執筆のときに,気になりながらも扱いきれなかったテーマの一つに「公共善」とは何かということがありました(アリストテレスから始めなければなりません)。労働を共同体への貢献と定義するなか,その共同体のための「善」とは何かと言うことをもっと具体的に論じて,労働や統治と結びつけたかったのですが,いまの段階では力不足でした。ただ,この問題は,思考だけでなく実践とも関わっています。私たちが,自分たちの住んでいる地域,国,地球のための「善」にどのような貢献ができるのか。コロナの時代,みんなで一緒に考えていかなければならないテーマです。
 そんなときなのに,政治家は,秋に解散したら議席を維持できそうだなどと考え,国民に自粛を呼びかけながらも,頻繁に政治家どうしで会食という密談をしているのは,見るに堪えないあさましい光景です。また責任をとるという言葉をこれだけ軽くした責任も重いです。安倍首相は,いったいこれまでどれだけ責任をとると言って,それを反故にしてきたでしょうか。責任をとるというのは,それを発言することで責任を果たすことだと勘違いしているのかもしれません。

 公共とはラテン語の「res publica」(イタリア語では「repubblica」)で,「公のこと」,「みんなのこと」といった意味で,「国家」や「共和国」という意味になります。私たちは「公のこと」にコミットしていく責務があります。でも,いまの日本では,政府のやることは「公のこと」に思えないのです。公共善(ラテン語では,bonum commune。イタリア語では,bene comune)は,みんなの「共通の善」という意味です。私益とは相容れません。省益や政治家個人の私益しか考えない人に統治を任せることはできません。
 こうした感覚が広がると,ローカルに,生活感覚に根ざした,みんなの共通の善のための統治のあり方を模索する動きにつながっていくかもしれません。真の地方分権の誕生を期待したいです。

2020年7月21日 (火)

オンライン以外のプランなし

 「Webあかし」で連載中の「テレワークがもたらすものー呪縛からの解放」は,いよいよ雇用型テレワークから,自営(非雇用)型テレワークに話題が移行します。第11回は,その橋渡しのようなもので,これまでの議論を整理しています。
 そのなかでも書いていますが,社会がまだオンライン体制に踏み切れていないことに問題があると思っています。オンラインとリアルの併用で,オンラインはプランBにすぎないというようなことでは,それを実際に準備する前線の人はたいへんでしょう。
 政府もいろんな的外れの政策をやり続けているので,現場の職員にかなりの負荷がかかっていることでしょう。とにかくオンラインに完全に舵を切る。閣議だって,専門家会議だって,すべてオンラインでやる。そうすることによって,国民に見本を示さなければなりません。どんなに「経済財政運営と改革の基本方針2020」などの政策文書にデジタル化とか,オンライン化とか書き込んでも,これまでだって,何度も同じようなことを言いながら実現できていないので信用できません。政府がまずできることを明日からでも取り組むという姿勢をみせてくれれば,少しは信用しますが。

 大阪府の吉村知事は頑張っていると思いますが,安倍首相への紙の要望書を,わざわざ東京に行って手渡すというようなことをやっているようではダメです(https://www.kantei.go.jp/jp/98_abe/actions/202007/14menkai.html)。そうしなければ受け取ってもらえなかったからかもしれませんが,大事なことは対面という,これからは捨てなければならない考え方に基づいているように思えてしまいます。歯を食いしばってでも,移動しない,紙を使わない,という覚悟をもって,政府や行政が変わってくれれば,企業も個人も,テレワークとか,オンラインとかで物事をやろうという気持ちになるのです。だから吉村知事の行動は,残念ながらデジタル時代の知事として失格です。メディア映りのパフォーマンスには良いのでしょうが,そういうことにこだわっていてはダメなのです。期待しているので,ぜひ今後は,そういうことがないようにしてもらいたいです。

 政府や行政にとって,プランはABもない,オンラインだけにすべきなのです。どうしても仕方がない例外的場合にだけリアル・対面でやる,ということです。司法試験もオンラインでやるべきでしょう。もちろん,そのためには超えるべき多くの課題はあるでしょうが,だからといって,強行突破して,若者の健康を危険にさらしてまでやることではありませんし,再延期して様子をみるなんてことをやっていれば,受験生のストレスはたいへんなものになるでしょう。オンラインでやると決めてしまったほうが,対策はとりやすいはずです。それに例外はできるだけ作らないようにすることが,今後のいろんな問題のためにも意義があります。最難関の国家試験の一つの司法試験がオンラインとなると,世の中はずいぶん変わるかもしれません。

 先日,東京都知事選が強行されましたが,これが結構うまくいったことが実は問題です。たしかに多くの労力をかければ,オンライン投票でやらなくても実施可能なのでしょう。おまけに現職が勝ったので,オンライン投票をしないほうがよいと,現在,権力の座にある者たちが考えてしまいそうです。感染対策の労力やエネルギーがどれくらいのものであったか私はよくわかりませんが,それをオンライン投票技術の開発にまわしてくれたほうが,後々のことを考えれば,はるかに良かったのではないかと思えるのです。その意味で,不謹慎かもしれませんが,都知事選挙がうまくいかなかったほうが日本のためには良かったかもしれないのです。負けたほうが良い戦いがあるのと同じです。

 日本人のアナログでの技術力はすごいものです。センター試験を間近でみていても,細心の注意を払った綿密な計画と周到な準備と細かい指示,そしてそれをやりこなしてしまう教職員たちに驚きを禁じ得ません(私もその教職員の一人なのですが)。完全に大きな組織の駒として,何の疑問ももたずにロボットのように行動しきらなければならないのですが,そんなことを大学教員がやる(そして,やれる)のは,おそらく日本だけでしょう。でも,こういうのは,ほんとうはおかしいのです。人間の力を使ってなんとかやれば達成感もあるし充実感もあるのでしょうが,これは危険な感覚ではないかと思います。

 Web連載でも書きましたが,アナログの良さを否定するわけではありません。問題は,デジタルとアナログとの適正配分がゆがんでしまっているように思えることです。デジタルでできるものは,まずデジタルでやることを考えるという「デジタルファースト」で社会を変えていく必要があります。

 私の新刊『デジタル変革後の「労働」と「法」―真の働き方改革とは何か?』(日本法令)でも,この言葉は何度も登場します。ところで,新刊書の大きな帯の私の写真に驚かれた方も多いでしょう。昔の写真ぎらいの私を知っている人は,いっそうびっくりするでしょう。私も少し前なら,当然断っていました。今回,求められたので提供しましたが,まさかこういう使い方になっているとは思ってもいませんでした(せいぜい新書の裏表紙で使うようなことを想定していました)。もちろん事前に確認を求められ,了承していました。最初は驚きました(なんだか怪しい自己啓発書のような感じ),最近は自分の第1印象で拒否反応があったものは,あえてやってみるというマインドセットにしています。そうして自身のdisruptionを図り,もっと自分の可能性を模索できればと思っているのです。といっても,思考や生活の大部分はまだまだ旧態依然なのですが。

2020年7月18日 (土)

新刊

  昨日も書きましたとおり,日本法令から『デジタル変革後の「労働」と「法」―真の働き方改革とは何か?』を上梓しました(電子版もあります)。昨年秋までのサバティカル期間中,自分の考え方を根本的に見直す作業を続けるなかで,未来の労働法について何か書いてみないかという声をかけていただきました。ちょうど昨年あたりから,労働の原点や新たな資本主義という視点で話をする機会もあり,自分なりの現時点での考えをまとめるのに良い機会だと思い,お引き受けしました。2017年に弘文堂から出した『AI時代の働き方と法ー2035年の労働法を考える』の続編を書く必要があると考えていたタイミングとも重なりました。コロナと重なったのは偶然ですが,コロナのせいで,本書の内容がたんなる未来の空想的なことではなく,リアリティが出てきたような気がしています。Go Toキャンペーンもありますが,いまは巣ごもりして充電すべき期間でしょう。この機会を利用して,コロナ後の社会を展望すべく,本書を手に取ってもらえれば嬉しいです。
 本書のメインはDX後の未来社会なのですが,歴史も振り返っています。未来のことを考えるうえでは,歴史をみることがどうしても必要だからです。本書のキーコンセプトは,労働を共同体への貢献とみることにあります。株式会社形態で営利を追求する企業に雇用されて働くというのが20世紀型社会の労働であるのに対して,個人が自立してデジタル技術を駆使しながら共同体に貢献するのが21世紀型社会の労働であると位置づけ,こうした変化には必然性があり(環境問題,シェアリングエコノミーの広がりなどに,その兆候はすでに現れています),そして法は21世紀型社会に生じる新たな課題に,デジタル技術を使って解決していくことが求められるというのが,本書の主たるメッセージです。DXが到来して,社会がデジタル化していく時代では,経済や社会がどう変わるかを展望せずに,労働を語ることはできません。またそれは労働というテーマにとどまらず,私たちが社会の一員として,これからどう生きていかなければならないかを考えることにもつながります(本書では扱っていませんが,民主主義などの統治システムの問題にも関心をもっていて,これも機会があれば論じてみたいところです)。
 労働法の議論としては,いつものように雇用労働・従属労働だけをターゲットにしてはならないというテーマはもちろん扱っていますが,これに追加して,リバタリアン・パターナリズム的な発想に基づき,任意規定とナッジ(行動経済学)とテクノロジーを組み合わせるという新たな規制手法のアイデアも出しています。これは,おそらく労働法の理論を根本から覆すものとなるでしょう(そのより具体的な内容は,長い長い構想段階を経てようやく完成に近づいている『人事労働法』という本のなかで示す予定で,現在最終的な作業をしているところです)。
 また,労働政策上のテーマとしてのセーフティネットの再編(原点回帰)にもふれていますし,今後の重要な政策課題として,個人情報保護,プライバシー・差別,格差(デジタルデバイド),教育も採り上げています。本書で提示した問題提起に共鳴して,若い世代の人が,より緻密な政策論議を展開してくれる人がでてくればと思います。
 現在の延長線上でものを考えるのは実務家や役人の発想であり,それは社会の安定のためにも必要ですが,研究者には,これとは違って,想像力を駆使して,ディスラプション後の社会を展望して,創造的に新たなビジョンを提示することに,,固有の貢献の余地があると思っています。
 私としては現時点で精一杯の知的挑戦をしたつもりです。能力の限界もあり,いろいろ欠点もあると思いますが,真剣に未来を考えていこうとする人に,本書が思考や議論の材料を提供できたなら,著者としてこれに勝る喜びはありません。

 

 

2020年7月17日 (金)

藤井聡太棋聖誕生とAI時代

 藤井聡太七段が棋聖のタイトルを奪取しましたね。「Abema様」のおかげで,渡辺明棋聖の投了シーンをしっかりみることができました。1711か月という記録もすごいのですが,将棋というものの本質が変わってきていることが,素人でもはっきりわかりました。
 先日の木村一基王位との王位戦第2局で,後手の藤井七段は最終盤の114手まで居玉(王様が動かないこと)でした。飛車で猛然と相手陣に切り込んでいきましたが,追い返され,逆に木村王位に反撃され,コンピュータソフトでも木村王位の評価値が85まで行き,こうなると通常はプロの対局では勝負がついているのですが,木村王位の攻撃をぎりぎりのところでかわし,ついに時間に追われた木村王位の1手の緩手をとがめて大逆転しました。大逆転というのは,ソフトの評価値をみているからで,それを知らなければ藤井七段が接戦を制したという感じでしょう。木村王位が大きなミスをしたわけではありません。見事なのが藤井七段の勝負術です。追い込まれても,決して崩れずに微差でついていく。評価値では大差となっていても,人間の指し手ですので,緩手はありえるのです。それをじっと待って諦めないことが逆転を生みます。
 昨日の相手の渡辺明棋聖は,藤井七段にとって最強の相手です。ミスはまず期待できません。第3局でも,十分に藤井対策を練って,隙なく勝ちきりました。第4局は,もし渡辺棋聖が勝てばタイとなり,流れが変わるところでした。まさに大一番でしたが,この将棋でも後手の藤井七段の玉は,序盤で4一に1手横に寄っただけで,最終盤までそこから動きませんでした。そして桂馬を使った攻めで切り込み,渡辺陣の飛車を封じ込めて,渡辺玉を左右からじわりと包囲して攻め落としました。渡辺棋聖にミスがあったとは思えません。それを上回る手を藤井七段は指したということです。
 渡辺棋聖は,藤井七段がデビューしたころ絶不調で,A級から陥落することもありました。冴えない将棋が続いていたのですが,AI時代に対応させるために,自分の将棋を組み替えたそうです。そこからずっと驚異の勝率を誇っています。藤井七段の勝ち数が多く,勝率が良いと言っても,対戦相手が渡辺棋聖とは違っています。渡辺棋聖くらいのトップ棋士となると対戦相手も強くなるので,そうは勝てないものです。それでも勝ち続けました。順位戦はB1組を無敗で抜けてA級に復帰し,A級も無敗で勝ち抜いて,現在,名人に挑戦中です。しかし,この渡辺棋聖ですら,AI時代の申し子の藤井七段には勝てませんでした。第3局でなんとか一矢報いるのが精一杯でした。
 将棋を最初に習うとき,しっかり王様を守り,それから攻めましょうと教わります。プロの対局でも,序盤は駒組みをするということで,矢倉にしたり,美濃囲いにしたり,まずは王様を守るのです。でも藤井将棋ではそういうことはありません。AIは,どうも序盤から攻めを常に考えるという思考をもっていて,攻撃は最大の防御という戦略をとります。序盤・中盤・終盤という概念もなくなっていくのかもしれません。藤井将棋もそういう感覚です。
 AIによって新たな戦略が人間にもたらされ,それを体得できた渡辺棋聖が復活し,そしてAIネイティブといえる藤井七段がその上を行くことになったような気がします。昨日の日経新聞の夕刊で谷川浩司九段が,ソフトを取り入れて研究を始めたと書かれていました。アナログ時代の攻め将棋の頂点に立った谷川九段ですが,このデジタル時代の将棋のなかでは苦戦しています。デジタル世代の若手に勝てなくなってきています。
 高度な頭脳ゲームである藤井七段が若くしてタイトルをとり,さらに王位のタイトルもとって二冠となる可能性も出てきて,まさに棋界の頂点に近づいていることは,私たちの社会の大きな変化を示すものともいえます。AIを取り入れることにより早熟の天才が出てきやすい時代となったのです。これは将棋だけでなく,社会のあらゆる分野で起こることになるでしょう。

 教育改革が喫緊の課題です。中学生でプロになった藤井聡太棋聖(もう七段と呼びません)のように,中学生で起業する子供達が出てくるかもしれません。学校教育は,その内容もデジタル変革が必要です。彼ら・彼女らが起業して社会で活躍できるための情報をきちんと与えることが,教育として絶対に必要です。これは,私が職業基礎教育と呼んでいるものです。オンライン学習がどうだとか言っている場合ではありません。教育のやり方も内容も,根本的にデジタル変革をしなければ,大変なことになります。

 先日,自宅からオンライン講演をする機会がありました。テーマは未来の労働政策ですが,最後に話したのは教育でした。「教育改革が必要」。これが,ここ数年の講演での締めのキーワードです。昨年刊行した『会社員が消える』(文春新書)も,最後に書いたのは学習と教育のことであり,このたび刊行した『デジタル変革後の「労働」と「法」』(日本法令)の最後に扱ったのは「教育」です。文部科学省の評判はいろいろありますが,他省庁がかけ声だけでデジタル化なんてできそうにない状況のなかで,文部科学省にはぜひデジタル化を先導して,存在感をアピールしてもらいたいものです。

2020年7月 4日 (土)

NIRA総研のオピニオン・ペーパーが出ました

 先日,NIRA総研のオピニオン・ペーパー(No.49)「フリーワーカーの時代に備えよー多角的な法政策の必要性」がネット上に公開されました。「個人自営業者の就労をめぐる政策課題に関する研究」というNIRA総研のプロジェクトのなかで,キックオフ・ペーパーとして,私が単独で発表した「『フリーワーカー』に対する法政策はどうあるべきか」を受けて,最終的な取りまとめをする役割をもつものです。今回のプロジェクトの構成員では,中央大学の江口匡太さんと亜細亜大学の中益陽子さんが個人でNIRA政策研究ノートを発表しています。NIRA総研は,研究者を大事にしてくれる組織で,プロジェクトはそれとして取りまとめるペーパーを出すが,構成員が個人名で自分の見解に基づくペーパーを書くこともできるという非常に自由な環境を与えてくださっており,これはとても素晴らしいことだと思っています。取りまとめは,私の色が出ているところもありますが,皆さんが研究会で出してくださった議論をできるだけ広く取り入れるという,役所の報告書のようなことをしたつもりです。
 今回のペーパーのサブタイトルには,多少世間へのアピールも考えて「多角的な」という言葉が入っていますが,このテーマは,もっともっと多角的な切り口があります。私の頭のなかには,すでに次のステップの構想がありますが,どの場になるかわかりませんが,また発表できる機会があるでしょう。

 フリーワーカーに関する現実の政策は,コロナ禍の影響もあり,思った以上に早く動いており,はっきり言って,何でもありという感じになっています(雇用労働者への雇用調整助成金も,元の制度は何だったんだと言いたくなるくらい,雇用保険制度が打ち出の小槌になっていますね)。政治家による税金の使い方について,国民として言いたいことはありますが,研究者としては,きちんとした論理や筋で,政策を立てていくことにこだわらなければなりません。政策は,荒唐無稽な非現実なものはダメでも,現実性の判断は結構幅があるもので,私は思い切って理想を追求するところに走ってもいいのかなと思っています。今回のオピニオン・ペーパーは,ある程度,現実的なところにしたつもりですが,これをステップとしてもっと先に進まなければなりません。

 今朝の日経新聞をみると,政府も未来投資会議で「フリーランスのルール整備」の提言をされているようなので,今後,少しは政策が動くのかなという気がします。ただ,私が頭のなかに描いている最終的な絵は,簡単にいうと,雇用労働者もフリーワーカーも区別しないで,働く人という基準で大きく括って政策を考えるべきというもので,しかも基本的にはICTを使ったテレワークをしていることを前提にすべきだというものです。こうした政策を役人に任せると,そういうところにまでは行かないかもしれません。ここはシンクタンクの出番でしょう。大学も期待されるべきなのですが,残念ながら大学院法学研究科についていえば,法科大学院という平成時代からのお荷物を背負っていて,その処理(?)に苦しむことになりそうです。むしろ従来の学部や大学院とは違う,ちょっと怪しげに見える名前の学内の研究機関のようなところが,新たな時代に対応する研究や政策提言をになっていく可能性をもっているかもしれません。

 日本が世界に誇る労働政策に関するシンクタンクJILPTも,いまは優秀な人材を抱えていますが,自前主義は組織を弱めることにならないか心配です。私も大学院生のときから,JILPTの前身の日本労働協会,日本労働研究機構で大変お世話になり,勉強の機会をいただきました。さらに就職してあとも,JIL雑誌の編集委員や特別研究員をやらせてもらい,そのときの経験はいまでも私の研究者としての大事な基礎となっています。ただ特別研究員は15年前くらいでしょうか,突然,終了したのですが(ただ,その後も,編集委員は任期上限の10年になるまで続けましたが)。確か2年くらい前から,確定申告のときに,JILPTの源泉徴収票がないことに気づき,ついに長年お世話になったJILPTから卒業したのだということを実感することになりました。こういう時期と重なるように,数年前からNIRA総研とお付き合いができて,今回のペーパーにつながりました。
 NIRA総研は,いちはやくZoomでの会議を取り入れてくださったので,プロジェクトでは神戸にいながら会議を行うことができて,大変助かりました。客員研究員としての契約書も電子署名ですので,紙のやりとりをしなくてよいなど,先進的でした。
 オンラインの時代になると,どこででも研究ができ,発信ができます。今後は,神戸にいながら,サイバー空間でシンクタンクを立ち上げて,世界へ政策発信することができればということを考えています。サイバー空間なら,名刺をもたない,年賀状を書かない,無駄な社交をしないといった私にも,まだやれることがあるのではないかと思っていますが,それは甘いでしょうかね。

2020年7月 3日 (金)

労働者憲章法施行50周年

 イタリアの労働者憲章法(Lo Statuto dei Lavoratori)と呼ばれてきた1970520日法律300号が,今年50周年を迎えるということで,何かエッセイを書いてくれないかという依頼がイタリアの雑誌から来ました。なぜ日本人の私に来るのか最初は驚いたし,私でよいのかという気もしましたが,私の修士論文は,この労働者憲章法の第28条(見出しは「反組合的行為の抑止」)を扱ったもので,私も深い思い入れのある法律でしたので,お引き受けすることにしました。コロナ禍でも,結構,忙しくて,イタリア語で本格的な論文を書く余裕はなかったので,枚数は問わないという先方の言葉に甘えて,比較的短いエッセイ風のもので勘弁してもらいました(エッセイと言っても,専門的な内容のものですが)。https://www.lavorodirittieuropa.it/dottrina/principi-e-fonti/486-lo-statuto-dei-lavoratori-e-il-diritto-del-lavoro-giapponese

 1970年は私は67歳でしたので,あまり記憶がありません。ただ,母と一緒に,二人で大阪万博に行った甘い記憶が残っています。妹が二人いたので,日頃は母と二人だけになることがなかったときに,どういう理由であったかわかりませんが,おそらく父が妹の面倒をみてくれたのでしょうか,母が私に万博を見せようと思って連れて行ってくれたのだと思います(でもひょっとすると,家族全員で行ったけれど,一緒にあちこち移動したのは私と母だけということだったのかもしれません)。こういう個人的な記憶しかない1970年ですが,社会は,1960年代末の不安定な社会状況の余韻をまだ引きずっていたのでしょう。ちなみに藤原弘達の『創価学会を斬る』(196911月刊)がベストセラーになったのも,この年でした。
 イタリアも,1960年代末は社会騒乱が起きて(異議申立運動など),1969年秋は「熱い秋(autunno caldo)」と呼ばれるような,ある種の労働者の革命が起きて,そのようななかから誕生したのが労働者憲章法でした。これはいわば日本の労働基準法と労働組合法が合体したようなもので(規制内容は日本とはかなり違いますが),今日に至るまでイタリア労働法の基本法となっています。日本のように戦後早々に労働組合法と労働基準法ができたのとは異なり,イタリアは1970年になってようやく体系的な労働立法がなされたのです(イタリア労働法については,少し古くなってしまいましたが,日本労働研究機構(現在のJILPT)から刊行された拙著『イタリアの労働と法』(2003年)を参照してください)。また当初の労働者憲章法の邦語訳は,山口浩一郎先生のなさったものが,ティツィアーノ・トレウ=山口浩一郎編『イタリアの労使関係と法』(1978年,日本労働協会)に収録されています。

  山口浩一郎先生や諏訪康雄先生や脇田滋先生なら,もっと味のあるエッセイを書かれたかもしれませんが,私はやや堅い内容の,イタリアの不当労働行為制度をなぜ日本人の私が研究対象としたのかというようなことを書きました(イタリア語なので,直球的なものしか書けなかったのが本当の理由です)。
 イタリア人の読者にはどうでもいいような内容であったかもしれませんが,個人的には,こういうものを書かせてもらう機会を得て,とても幸せでした。イタリア労働法の研究は,日本では,比較法大国(英米独仏)の研究のついでのようなものですし,イタリアでは,日本人がなぜイタリア労働法の研究をしているのか,ほとんどの人は理解不能という状況であったのです。でも,いま労働者憲章法について多くの有力なイタリア人研究者と並んで,日本人にも書かせようという雑誌が出てきたということで,これまで地道にイタリア労働法研究をやってきて良かったとつくづく感じました。この道に導いてくださった山口先生と諏訪先生には心より感謝しています。

 最近,久しぶりにイタリア留学経験のある亜細亜大学の中益陽子さんと一緒に研究する機会がありました。テーマはイタリア法ではありませんでしたが,イタリア労働法の研究者仲間として,気脈が通じるところがあって良かったです(社会保障法の政策のところは見解が相容れないところもありましたが,それは彼女のほうが専門家ですから当然のことです)。イタリア労働法については,明治大学の小西康之さんや早稲田大学の大木正俊さんもいます。彼女,彼らが,次世代のイタリア労働法研究の道をつないでいってもらえればと思います。

 参考までに,日本におけるイタリア労働法の研究については,「文献研究労働法学(第14回)外国法研究編(イタリア)」季刊労働法247181-190頁(2014年)で概観しています。また私個人のイタリア法研究への思いについては,10年前に「イタリア法への誘い(1)〜(3)」法学教室358号,359号,360号(2010年)で書いています。

2020年7月 2日 (木)

将棋界のトランスフォーメーション?

 藤井聡太という天才が現れて将棋界が変わりつつあるというのは,多くの人が書いていることです。強い棋士が現れて,タイトルをたくさん取っていくということは,これまでもそれほど多くはないですが,あるにはあったことです。羽生九段の七冠は異次元ですが,谷川九段も四冠をもっていたことがありますし,現在の渡辺明九段も三冠です。こういう天才棋士がこれまでも現れてはいたのですが,藤井七段は,羽生九段と違う意味で異次元なのです。羽生九段は独特の勝負術で局面を混沌とさせて逆転というようなことがよくあったのですが,いまの藤井七段はそういう感じではありません。6月以降,棋聖戦と王位戦のタイトル挑戦者決定戦で永瀬二冠(彼も強い)と対局した将棋や棋聖戦のタイトル戦で渡辺棋聖に2連勝した将棋や今日の木村王位との初戦は,勝負というよりも,究極の最善手を追い求めて神と闘っている感じです。今日も藤井七段の眼中には(おそらく)木村王位はなく,ただひたすら盤面に集中し,そして相手を攻め倒してしまいました。

 AbemaTVでは,1手ごとに評価値が出てAIの判断する候補手が良い手から順番に並べられます。序盤は作戦がいろいろあるのであまり評価値は関係ないのですが,中盤以降はAIの候補手はほぼ正解手を示しています。そして,藤井七段はほとんどAIが選ぶ手を指していきます。終盤戦になると評価値は90%を超えて,これだけみると勝ちは確実といえそうなのですが,この評価値は,AIが最善手を指し続けることが前提の評価で,2番手や3番手の手を指すと,たちまち評価値が大きく下がって逆転することもあります。しかし藤井七段はそこで間違った手を指さないのです。AIが最速最善の手で勝つのと同じような勝ち方を藤井七段はするのです。これでは人間は彼に勝てないでしょう。

 棋聖戦の第二局では,もっと衝撃的なことがありました。藤井七段が指した「3一銀」という手は,AI3番手でしか候補にあげていなかった手でした。受け一方の手で,AIはあまり好まない手だったのでしょう。しかし,Yahooニュースでみたのですが,これがAIのソフトで時間をかけて読ませると,実は最善手であることが発見されたというのです。藤井七段が23分で指した「3一銀」は,実はAIに6億手読ませたところで,突然,最善手として浮上した手だったそうです(https://news.yahoo.co.jp/byline/matsumotohirofumi/20200629-00185551/)。

 AIも手を読んでいるわけで,最善手が変わっていくこともあります。そこでようやくたどり着いた最善手に,藤井七段はあっという間に到達したのです。そんなのはまぐれだろうとは言わせない強さがあります。結局,この手のあと,渡辺棋聖は押し切られて良いところなく完敗しました。

 棋聖戦の初戦もすごかったです。最終盤で渡辺棋聖の超手数のきわどい連続王手を振り切り,最後は相手の王手に対して逆王手で返す快心の勝利でした。王手を振り切るというのは,ちょっとした読みのミスがあれば,すぐに負けになるというスリリングな綱渡りのようなものなのですが,おそらく藤井七段は,確実にそこを行けば大丈夫という細い細い道がきちんと見えていたということです。
 将棋は逆転のゲームです。羽生九段は,将棋はミスにつきもので,最後にミスをしたら負けると言っています。そこにドラマがあります。でも藤井七段は,おそらくミスをしないのです。ドラマはありません。聴衆の楽しみ方は,藤井七段とAIの知恵比べに変わりつつあります。
 将棋の言葉に「ふるえる」というものがあります。どうしても勇気をもてずに踏み込めないような状況です。将棋は勝つためには,いろんな駒を捨てていかなければなりません。それにより,相手の持ち駒が増えていくので,相手の戦力が増強されていきます。だから,普通は怖いので,できるだけ駒を捨てずに,確実に勝とうと考えたくなります。あるいは自分の陣を守ろうと考えてしまいます。しかし最後は相手の王様を詰まさなければ勝てないので,いつかは攻めなければならないのです。1瞬の隙をついて,もう一歩もひけないという状態で攻めかかるというのは,怖さをしらないAIならできますが,人間には難しいのです。そういう勇敢な将棋を指して一世を風靡したのが谷川九段で「高速の寄せ」と呼ばれ,私もそれに魅了されてきした(日経新聞の夕刊で書かれるみたいですね)。しかし,いまの藤井七段はそれを上回っているかもしれません。
 木村王位には申し訳ないですが,なんとか1勝できるかどうかという戦いになりそうです。ただ昨年も当時の豊島将之王位に挑戦したとき,木村4連敗を予想していたのに,予想が外れてタイトルをフルセットの末に取っているので,なんともいえませんが。
 頭を抱えているのは渡辺三冠でしょう。渡辺三冠は5月までは間違えなく現時点で最強棋士でした。渡辺三冠がどうしても欲しいのが名人のタイトルです。現在のタイトルの格は竜王のほうが上ですが,歴史的にも,また棋士としての名誉という点でも名人のタイトルは別格です。そして名人5期をとって永世名人になって,はじめて将棋の歴史に名を刻むことができるのです(現役では,17世名人谷川⇒18世名人森内⇒19世名人羽生と来ています。次の永世名人が第20世です)。現在,豊島竜王・名人との名人戦が始まり,初戦に勝っていよいよかというところでしたが,藤井七段との棋聖戦が併行して連敗し,そして名人戦はその後,豊島名人に2連敗という状況です。藤井七段に最年少タイトルホルダーをとられたくないので棋聖戦に全力投球したいけれど,悲願の名人も取りたい。渡辺三冠の力ならできないこともないのですが,それがちょっと難しくなってきています。
 ここで藤井七段があっさり二冠をとると,豊島・藤井2強時代となるかもしれません。そして,もし竜王戦で藤井七段が勝ち進んで(決勝トーナメントに進出が決まっていています),豊島竜王・名人から竜王をとるようなことにでもなれば,今後,何十年も君臨するかもしれない1強の王者が誕生することになる可能性もあります(藤井七段が名人をとるためには,あと3年はかかります)。

 コロナ後の社会の大変革が予想されるのですが,将棋界はひょっとするとAI並の強さをもつ一人の若者の登場によって,大きな変革が起こるかもしれません。まずは棋聖戦の第3局(79日)が注目です。渡辺明三冠としては,今後の棋士人生をかけて,時代の流れを少しでも止めるためにも,これから3連勝で逆転防衛をしなければなりません。

2020年7月 1日 (水)

変革の真っ只中

 最近はネットでのアウトプットは,明石書店のWEBマガジンに,ほぼ週1ペースで原稿を書いているので,ブログを書くだけのエネルギーが残っていなかったのですが,久しぶりに書いてみたいと思います。というか,書きたいネタはいっぱいあるし,本のお礼も山ほどたまっているのですが,それは追々やるということで,今日は近況報告のようなものを中心に書きます。
 引きこもり生活も,だいぶん長くなりました。この2月以降外出はめっきり減り,3月以降ですと,ほんの数えるかぎりとなりました。大学の授業はオンラインですし,依頼が来た講演もオンライン以外のものはお断りしています。緊急事態宣言は国が勝手に解除していますが,ワクチンがない以上,感染したら治療方法がないので危険極まりないのです。私は,どうしても出なければならない用事以外は外出していません。オンラインでできる会議なのに,オンラインでやらないような会議は,私にとっては,それが不要不急かどうかという基準でみるのではなく,そもそもやり方が間違っている会議だと思っています。
 学校も企業も,オンライン対応にしておかなければ,9月にも来るかもしれない第2波のときに大きな影響が出るでしょう。オンラインはいろいろやっかいだから,オンラインでやらずにすむなら,できるだけリアルでやろう,また何かあれば,そのとき考えればよいし,できればそのときが来なければいい,という心理状態の人が,組織の上にいたら大変なことになります。オンラインとリアルの両方ねらいは非効率です。オンラインでやらざるを得ないと腹をくくるべきです。リアルでやっていても,すぐにオンラインに戻らなければなりません。それならオンラインを続けてノウハウを蓄積したほうがよいのです。
 ちなみに,会議はリアルで開催されて,一部の人がオンラインで参加するという併用型は非効率です。私もリアルでやっている会議に一人だけオンラインでの参加ということを,霞ヶ関の会議などで何度か経験していますが,これはやりにくいです。全員オンラインにすると会議のクオリティが格段に上がります。これは私だけの意見ではありません。
 私はムーブレス(移動なし)で行くと宣言していますので,コロナ禍が終わっても,外部の仕事は出張となるものはお断りするつもりです(すでに,コロナ前から原則としてお断りしています)。それのみならず,大学の仕事も,できればオンラインにしてもらいたいと思っています。近所に住んでいるので,どうしてもとあれば出勤はするつもりですが,私は少なくとも少人数の講義はオンラインのほうが効率的だと確信しているので,オンラインでの実施をお願いしていきたいです。ただ,より重要なのは,大学ではなく,小学校です。この子達が大人になったときは完全なデジタル社会です。コロナのせいでオンラインでいろんなことをせざるを得なくなったのは,ちょうど未来のことを早く経験できる絶好の機会でした。これをちょっと安全になったかようにみえるため(ほんとうに安全になったとはいえないでしょうが),リアルの体制に戻すのはもったいないです。子供達の人生は長いのです。目先の教育の遅れなど何ともありません。というか,いま学んでいることが,どこまで子供達の将来に役立つかということからして,あやしいです。いずれにせよ,教える内容もさることながら,まずオンラインでの教育を進めていく体験をさせるほうが,子供達のこれからの長い人生にとって遙かに役立ちます。
 環境問題でも同じですが,大人達がやるべきことは,いかにして社会をきちんと次の世代に継承していくかです。環境を大事にして地球の持続可能性に配慮することもそうだし,教育もほんとうに次世代にとって役立つものを伝えなければなりません。何かあればすぐに,これまでのやり方に戻そうとするのは間違っています。コロナは,来るべき次の時代の社会の到来が早まったにすぎないのです。視線を未来に向けましょう。

 などと書いていたら,先日も,あるところに出す提出書類に印鑑が必要という案件が二つもありました。メールやWEBで完結できないのです。私は自宅にプリンタがないので,どしようもありません。コンビニに行くしかありません。まったく意味のない印鑑。それがなければ,求めていることをしてもらえない。ある意味で,恐ろしい社会です。でも現場の人はその恐ろしさに気づかず,印鑑を押してくださいと無邪気に言って,彼ら・彼女らのルーティンワークをこなしているのです。彼ら・彼女らに罪はないのですが,でもそういう無自覚な行動の積み重ねが,社会の変化を阻止している理由なのでしょう。

 神戸労働法研究会は,参加者の希望しだいですが,個人的にはずっとオンラインでやって,年に1回くらいオフ会的に集まるということでよいと思っています。来年秋の日本労働法学会への参加を誘われていますが,出張しなければならない場所でしたら,オンラインでしか参加しないということをお願いしています。海外出張も,よほどのことがないかぎり,やることはないでしょう(私的な旅行はするでしょうが)。

 コロナ後の世界はムーブレスです。でもオンラインでかえって人とのつながりが強まっている気もします。ときたまリアルで会う人の温かみも強く感じられます。最近は,他人との接触は,リアル以外にも,メールのやりとりだけ(出版社関係),電話だけ(一部の新聞の取材),Zoomなどによるもの(取材,講義,研究会など)といくつかの段階があり,そのどれを使っても,それなりにつながっていると思っています。私はいまのところはSNSはLINEしかやっていませんが,暇になればツイッターやインスタもやるかもしれません。いずれにせよ,これだけ多様なネットを介したコミュニケーション手段があるのに,仕事にだけリアルにこだわるのは,おかしいでしょう。何よりも感染症をなめたらいけません。

 ところで,テレワークのことをディープに考えようということで,明石書店のWEB会議で連載をしています。また,産経新聞の「ニュースを疑え」というコーナーでのインタビュー記事が今日ウェブで掲載されました。テレワークについての取材というのが最初の依頼でしたが,もっと大きく,これからの社会のことも熱く語っています(自宅で,眼鏡姿でインタビューに応じている画像が公開されていて恥ずかしいですが,昔ならこだわりがありましたが,いまは自然体でこれもいいかなと思っています)。そして,日本法令からは,そうした大きな社会の変革と労働のことについてまとめた一般書が,今月中にも刊行されます。サバティカル中にいろいろ考えて,私自身の考え方を根本から再構成しようと格闘した成果が少しでも出ていたら嬉しいです。そして,おそらく年内には,労働法学者としての私の集大成といえる作業を完結させようと思っています。労働法の理論体系を,全く新しい感覚で刷新する「人事労働法」という分野を確立すべく,まさにいま作業を進めています。個人的には,もともと2020年は変革の年の予定でした。予想もしていなかったコロナのせいで,世の中のとてつもない大きな変革の波に埋もれてしまいそうですが,なんとか自分なりにやるべきこと,やりたいことをコツコツとこなしていくつもりです。

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