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2020年4月20日 (月)

恐怖感情を乗り越えて,良き統治の実現をめざせ

 数字を出せばわかりやすいというわけではありません。政府は,人と人との接触を最低7割,極力8割に削減するよう国民に要請しているのですが,私の理解が悪いのかもしれませんが,接触を削減するのは人数なのでしょうか,それとも時間的なものなのでしょうか,それともその両方でしょうか。例えば,これまで平均して1日に10人と10時間接触していた人が,20人と1時間接触するようにすればよいのでしょうか。
 それはさておき,8割削減というのは,どうも2割であればよいという誤ったメッセージを伝えているような感じがします。もともと外出は不要不急のものは避けるということで,質的な基準で抑制していたわけですから,そこに新たに量的な基準を出すと混乱してしまいそうです。数字は政府の決定の根拠となるものであり,それを公表すること自体はよいですが,国民がどう行動すべきか,という具体的な指示については,7割とか8割とかいう数字で示すよりは,外出は不要不急のものは避け,接触は極力0とすると言われたほうが守りやすいですし,本来の狙いを正しく伝えるメッセージなのではないかと思います。
 私たちは,いつまで外出抑制が続くのかということにいらだちを感じています。そうしたとき,少しでも希望のある情報が出てくると,それに飛びつきたくなるものです。最低でも7割と言われると,3割まではOKというメッセージとして解釈したくなるのです。しかし,それは間違った解釈でしょう。
 テレビである若い芸能人が,これはタダの病気なので,戦争と比較するのは大げさだと言っていました。こういう勇ましい見解にも,人々は飛びつきたくなるのですが,これも危険です。戦争の場合の敵は明らかですが,感染症(伝染病といったほうがピンとくるでしょう)の場合は,自分を攻撃する敵はよくわからず,しかもそれが自分とごく近いところにいる人間(正確には,そこに宿っているウイルス)なのです(遠くにいる人は,接触しないので敵になりえません)。昨日まで親しくしていた人が,突然,自分を攻撃する人になってしまうおそれがあるというのが,感染症のおそろしいところです。感染症は人間不信をもたらすのです。人間不信は,欧米でアジア人差別が起きたということからもわかるように,人間のとてもいやな部分を引き出します。これは単なる病気ではありません。ある意味では,戦争よりも質が悪いと考えておくべきでしょう。
 ところで,リスクが計算できなければ「恐怖」が支配します。恐怖が支配すると,過剰に予防をしてしまうことにもなります(予防原則)。しかし,そうした過剰な予防は,別のリスクに目を閉ざすことになり,正しい判断を誤る危険性があるというのが,キャス・サンスティーン(角松生史・内野美穂監訳)『恐怖の法則―予防原則を超えて』(勁草書房)の教えです。一方で,サンスティーンは,「潜在的にカタストロフィ的であって確率を割り当てることができないようなリスクに人々が直面するときには,予防原則は正当な役割を果たしうる」とも述べています(前掲書317頁)。
 有名人が罹患して短期間で死亡してしまう話も,営業停止で生活に困った事業者が自殺する話も,どちらもテレビで何度も報道されると恐怖が増大します。前者であれば人々は都市封鎖に傾きますし,後者であれば事業再開に傾きます。どちらも予防原則によるものですが,政策の方向性は正反対です。こういう報道が流れ続けると,人々は混乱してしまい,そのうち冷静な判断ができなくなるおそれがあります。悲しむべきは,現在,日本の政府もそういう状況に陥っているようにみえることです(アメリカは,もっとひどいですが)。
 そのうちこのウイルスに関するデータが増えてくると,専門家の分析結果は正確性をいっそう高め,感染確率などもより精度の高いものとなるでしょう。このようにして提示される専門家からの情報をきちんと咀嚼して,国民および政府が,何を優先すべきかについて価値判断をしていくことが必要なのです。
 ところが残念ながら,恐怖感情をあおらないよう冷静に情報を伝えるべきテレビが,感染症をコマーシャリズムのネタにしてしまい,無意味であるだけでなく,有害ともいえる情報を垂れ流しています。私たちが,このルートで得る情報が,どれだけ冷静な価値判断の邪魔になっているかを自覚しておかなければなりません(同時に,どのような企業が,こうした番組のスポンサーになっている社会的有害企業かをしっかり見きましょう)。まあテレビをみなければいいのです。
 ただ,より深刻なのは,政府です。現在の民主的正統性が揺らいでいる政府の呼びかけには説得力がなく,なかなか国民の間で協調的な行動ができない状況になっています。総理大臣が言うから従おうというムードがあまりありません。
 私たちの判断は,感情抜きに行うことは難しいです。しかし,そのことをしっかり自覚したうえで,いまの自分が何らかの強い感情や恐怖に支配されて,冷静さを失っていないかを常に反省するよう努めるべきなのでしょう。このようにして,自分の判断から,できるだけ感情の要素を取り除いて冷静に熟慮していくことが必要です。民主的正統性が揺らいでいるとはいえ,ポピュリズム的な対応は迅速にするという現在の政府には,国民のほうがしっかり冷静に判断して適切な行動を求めていくと,それに対応する可能性もあります。そういう方法しか,いまの状況を抜け出す手はないような気がします。
 いまここで私たちが相互不信を募らせると,「万人の万人の戦い」となりかねません。そうなると,ホッブズ流に国民から主権を譲り受けた統治者「リバイアサン」を待望する動きが出てきます。そうした動きを抑えられるかどうかは,私たち主権者の自覚がどれだけ高いかにかかっています。王のような存在になりたいかもしれない日本の首相や米国の大統領の野望には要注意です。なぜロック流の社会契約論が出てきたか。そこから学んでいく必要があります。ちなみにロックは1665年のイギリスのペスト流行と同時代の人です。感染症(伝染病)は,統治とはどうあるべきかを考えさせるきっかけを与えるかもしれません。このときにケンブリッジから疎開したニュ-トンが,疎開先で次々と偉大な業績を発表したのは有名なことです。17世紀のイギリスのペストは,ロックとニュートンという社会科学と自然科学の偉大な巨人を生み出したことになりますね。


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