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2020年4月の記事

2020年4月30日 (木)

最新重要判例200労働法(第6版)の刊行

  『最新重要労働判例200労働法』(弘文堂)の第6版が出ました。といっても,もう1か月以上経ちます。おかげさまで,第6版まで出すことができました。読者の皆様に感謝です。この本があるため,いまでも判例の勉強は継続して行っています。改定作業は実質的には年内に終えていたので,今年2月末にでた「逆求償」に関する最高裁判決は入っていません。これは第13事件の「茨石事件」の解説に付け加えることになりそうです。この判決については,ビジネスガイドの「キーワードからみた労働法」で取り上げているので,興味のある方はご覧になってください。
 このほか3月末には国際自動車事件の差戻審の最高裁判決も出ましたね。前にこれもビジネスガイドで,差戻審の高裁判決は最高裁のメッセージを読み間違ったのではないかと論評していました(ビジネスガイド137号の「キーワードからみた労働法」)。案の定,高裁判決は破棄され,再び差し戻されました。この差戻審の最高裁判決は,そのうち研究会で検討することにしたいです(神戸労働法研究会は2月以降中止していましたが,オンラインで再開することになりました。オンラインにすることにより,遠方の方も参加できるようになりますし,帰国中の留学生が海外から参加することもできるので,新たな可能性が生まれた気がします)。
 今後は労働契約法20条関係の最高裁判決も出るでしょう。そう思うと,まだ『最新重要労働判例200労働法』の役割はありそうですが,その一方で,コロナ後の社会を思うと,どうなるのかわからないなという気持ちもあります。ご存じのように,私はここ数年,自営的就労者の時代が来て,労働法が不要になると主張しています(それが,拙著『会社員が消える』(文春新書)というタイトルにも表れています)。それがいつになるかわかりませんが,2035年くらいかなと思っていたところ,ぐんと早まる可能性が出てきましたね。
 ところで新型コロナショックでまず話題になったのが,自営的就労者の収入途絶問題でした。いきなり仕事がなくなったので大変です。個人でやっていますから経済的にもこういう大きな変動への抵抗力は弱いでしょう。だから自営的就労者のことをもっと政策的に考えなければならないという話になります。
 しかし,少し冷静に考えると,これは,やや違う観点から論じることができます。今後,大リストラの波がやってきます。今朝の日本経済新聞の社説は,「雇用ルールの軽視は許されぬ」として,とくに中小企業に対して労働法を遵守せよと言っています。しかし,ここは中小企業のことも考える必要があるでしょう。雇用調整助成金がなかなかもらえないという事情もあります。ようやく政府はオンライン申請を言い出していますが,実際には申請してもいつ助成金がもらえるかわからないでしょう。いずれにせよ,労働法の遵守は当然のことです。ただ,労働法を遵守しても今回くらいの事態であれば解雇は合法的にできてしまいます。労働契約法16条や整理解雇の法理によっても,そこは止められません。むしろ解雇はやむなしと想定して,どうやって企業も労働者もできるだけダメージを小さくし,コロナ後の立ち直りを早くするかを考えなければならないのです。見込みのない企業で雇用を支えてもらって,結局共倒れになるよりは,早く次のステップを考えたほうがよいです。コロナ後がいつくるかわからないのですが,オンライン化が進み企業の省人化対応も進むと,製品需要が戻っても,労働力需要は戻らない可能性が高いでしょう。機械でできることは機械でというAI時代で予想していたことがいきなり実現してしまう可能性があります。そうなると,どういうことが起こるかは拙著『AI時代の働き方と法―2035年の労働法を考える』(弘文堂)を読んでいただきたいのですが,結局それは個人の自営的就労者やフリーランスの時代になるということです。だからそれに備えた政策が必要なのです。昨日,西日本新聞で,この問題に関係する記事のなかに掲載されている私のコメント(内容はいつも述べていることの繰り返しですが)も,こういう問題意識です。つまり自営的就労者への政策は,現在の問題であるだけでなく,コロナ終息の直後の問題でもあるのです。
 ところで,今回の新型コロナショックで,もし私たちが主張していた解雇の金銭解決制度(大内・川口大司編著『解雇規制を問い直すー金銭解決の制度設計』(有斐閣)を参照)があればどうなっていたでしょうか。私たちの主張は,企業は帰責性がなくても,解雇をする場合には,労働者の逸失賃金を完全に補償しなければならないというものでした。そして,その負担は,中小企業には大きすぎるので解雇保険を作って対応すべきとしていました。もし実際にこの制度があったとすれば,新型コロナショックで瀕死の企業は,従業員を解雇することができますが,労働者も解雇保険から十分なお金がもらえます(メリット制によりその後の企業の保険料は高くなりますが,それは当然のことです)。もちろん,大量の保険給付で保険財政が大変なことになるでしょうが,それは政府が特例で援助して対応すればよいのです。
 なんてことを思いますが,手遅れですね。実は,私たちの主張する解雇の金銭解決制度は,これから雇用が減って自営に移行していくようになるときにこそ,活用できるはずなのです。これは(よく誤解されているような)解雇を自由化する制度ではなく,解雇の際に企業負担でプールしていた基金から従業員の生活保障にお金を回すという制度なのですから。
 平時においていかにして想像力を働かして将来に向けた制度を構築するかが重要ということを,改めて知ることになりました。今回のような事態が生じるとはまったく想像できていなかった私も,大いに反省しなければなりません。感染症の危険を警告し,実際に活動をしていたビル・ゲイツは偉大ですね。

 

 

 

 

 

2020年4月22日 (水)

遮断機が上がったあとの世界

 昔,箱根駅伝では,ランナーが箱根登山鉄道の踏切の遮断機にぶつかると,電車の通過を待たなければなりませんでした(停止時間は合計タイムから引いたそうですが)。前を走っていても,その間に追いつかれてしまいます。
  現在の社会は遮断機が下りてしまったような状況かもしれません。しかも開かずの踏切のようなものかもしれず,そうなると次々と後ろから追いつかれてしまいます。しかも,遮断機が上がったときには,ゲームのルールが変わっているかもしれません。それまで懸命に競争してきたことが馬鹿らしくなるかもしれません。
 新型コロナショックで停止中に,モノづくり企業が新たにつくり始めたのは,マスク,薬,防護服など医療関係のものです。こうした企業は,コロナ後には本業に戻るつもりでしょうが,はたしてどれだけ需要が戻るでしょうか。V字回復は期待できないのではないでしょうか。経済のルールが変わってしまっているかもしれないからです。
 北京の空はきれいになり,ヴェネツィアの運河は透明になりました。これっていいなと思う人が増えても不思議ではありません。過剰なモノづくりやツーリズムがなければ,地球は良くなるのではないか,そう考える人が増えそうです。
 在宅での仕事が増えると,スーツもネクタイも靴も腕時計も不要となるでしょう。私自身,数年前からネクタイをやめていますし,腕時計もあまりつけなくなりました。スーツはもともと持っていません。ジャケットはおそらくいまあるもので,ずっと回していくでしょう。身だしなみは必要ですが,別に高価なものを身につける必要はありません。
 便利な道具には関心がありますが,ものすごく心を揺さぶられるようなモノに出会えばともかく,普通のモノには買いたいという欲望がわいてきません。ちなみに最近買ったものののなかで重宝しているのが,100円で買った老眼鏡と150円で買った眼鏡用のドライバーです。そのほかで買っているものの大半は,デジタルワークに必要なものと書籍(電子ブックが大半)であり,その他の消費は飲食のような物理的に残らないもの(厳密には私の体内に脂肪として残るのかもしれませんが)とネットのサブスク系です(Kindle Unlimited,将棋のモバイル中継,Dropbox Business,日経電子版,種々の動画配信サービスなど)。
 コロナ後は,モノへの関心が小さくなった人がもっと増えていくでしょう。もともと若い世代は,コロナ前からそういう傾向が強いと思います。学生をみていると,お金がないからモノをもっていないということもあるかもしれませんが,それだけでなくモノへの執着そのものが昭和世代の人よりも小さいように思います。環境に優しい生産をしている企業の商品,過剰に営利を追求せず利益を社会に還元している企業の商品などに惹かれているようです。まさにSDGsの価値観です。
 遮断機は当分上がりそうにありません。走ることをやめて,ここはゆっくり将来のことを考えていく必要がありそうです。モノづくりの経営者は,遮断機が上がったとき,もう走るのをやめよう(モノを買うのをやめよう)と考える客が増えているということを想定したほうがよいでしょう。顧客をつなぎとめるためには,発想の根本的転換が必要です。そして,このことは労働者にも影響します。消費者としての自分たちの価値観が変わると,自分たちを雇っている企業も影響を受けざるをえません。いまは成功している企業も,その存続が危うくなることも十分ありえます。労働の主たる場は,営利企業ではなくなるかもしれません。
 私が,労働法とSDGsの関係を重要と考えるのは,このためです。

2020年4月20日 (月)

恐怖感情を乗り越えて,良き統治の実現をめざせ

 数字を出せばわかりやすいというわけではありません。政府は,人と人との接触を最低7割,極力8割に削減するよう国民に要請しているのですが,私の理解が悪いのかもしれませんが,接触を削減するのは人数なのでしょうか,それとも時間的なものなのでしょうか,それともその両方でしょうか。例えば,これまで平均して1日に10人と10時間接触していた人が,20人と1時間接触するようにすればよいのでしょうか。
 それはさておき,8割削減というのは,どうも2割であればよいという誤ったメッセージを伝えているような感じがします。もともと外出は不要不急のものは避けるということで,質的な基準で抑制していたわけですから,そこに新たに量的な基準を出すと混乱してしまいそうです。数字は政府の決定の根拠となるものであり,それを公表すること自体はよいですが,国民がどう行動すべきか,という具体的な指示については,7割とか8割とかいう数字で示すよりは,外出は不要不急のものは避け,接触は極力0とすると言われたほうが守りやすいですし,本来の狙いを正しく伝えるメッセージなのではないかと思います。
 私たちは,いつまで外出抑制が続くのかということにいらだちを感じています。そうしたとき,少しでも希望のある情報が出てくると,それに飛びつきたくなるものです。最低でも7割と言われると,3割まではOKというメッセージとして解釈したくなるのです。しかし,それは間違った解釈でしょう。
 テレビである若い芸能人が,これはタダの病気なので,戦争と比較するのは大げさだと言っていました。こういう勇ましい見解にも,人々は飛びつきたくなるのですが,これも危険です。戦争の場合の敵は明らかですが,感染症(伝染病といったほうがピンとくるでしょう)の場合は,自分を攻撃する敵はよくわからず,しかもそれが自分とごく近いところにいる人間(正確には,そこに宿っているウイルス)なのです(遠くにいる人は,接触しないので敵になりえません)。昨日まで親しくしていた人が,突然,自分を攻撃する人になってしまうおそれがあるというのが,感染症のおそろしいところです。感染症は人間不信をもたらすのです。人間不信は,欧米でアジア人差別が起きたということからもわかるように,人間のとてもいやな部分を引き出します。これは単なる病気ではありません。ある意味では,戦争よりも質が悪いと考えておくべきでしょう。
 ところで,リスクが計算できなければ「恐怖」が支配します。恐怖が支配すると,過剰に予防をしてしまうことにもなります(予防原則)。しかし,そうした過剰な予防は,別のリスクに目を閉ざすことになり,正しい判断を誤る危険性があるというのが,キャス・サンスティーン(角松生史・内野美穂監訳)『恐怖の法則―予防原則を超えて』(勁草書房)の教えです。一方で,サンスティーンは,「潜在的にカタストロフィ的であって確率を割り当てることができないようなリスクに人々が直面するときには,予防原則は正当な役割を果たしうる」とも述べています(前掲書317頁)。
 有名人が罹患して短期間で死亡してしまう話も,営業停止で生活に困った事業者が自殺する話も,どちらもテレビで何度も報道されると恐怖が増大します。前者であれば人々は都市封鎖に傾きますし,後者であれば事業再開に傾きます。どちらも予防原則によるものですが,政策の方向性は正反対です。こういう報道が流れ続けると,人々は混乱してしまい,そのうち冷静な判断ができなくなるおそれがあります。悲しむべきは,現在,日本の政府もそういう状況に陥っているようにみえることです(アメリカは,もっとひどいですが)。
 そのうちこのウイルスに関するデータが増えてくると,専門家の分析結果は正確性をいっそう高め,感染確率などもより精度の高いものとなるでしょう。このようにして提示される専門家からの情報をきちんと咀嚼して,国民および政府が,何を優先すべきかについて価値判断をしていくことが必要なのです。
 ところが残念ながら,恐怖感情をあおらないよう冷静に情報を伝えるべきテレビが,感染症をコマーシャリズムのネタにしてしまい,無意味であるだけでなく,有害ともいえる情報を垂れ流しています。私たちが,このルートで得る情報が,どれだけ冷静な価値判断の邪魔になっているかを自覚しておかなければなりません(同時に,どのような企業が,こうした番組のスポンサーになっている社会的有害企業かをしっかり見きましょう)。まあテレビをみなければいいのです。
 ただ,より深刻なのは,政府です。現在の民主的正統性が揺らいでいる政府の呼びかけには説得力がなく,なかなか国民の間で協調的な行動ができない状況になっています。総理大臣が言うから従おうというムードがあまりありません。
 私たちの判断は,感情抜きに行うことは難しいです。しかし,そのことをしっかり自覚したうえで,いまの自分が何らかの強い感情や恐怖に支配されて,冷静さを失っていないかを常に反省するよう努めるべきなのでしょう。このようにして,自分の判断から,できるだけ感情の要素を取り除いて冷静に熟慮していくことが必要です。民主的正統性が揺らいでいるとはいえ,ポピュリズム的な対応は迅速にするという現在の政府には,国民のほうがしっかり冷静に判断して適切な行動を求めていくと,それに対応する可能性もあります。そういう方法しか,いまの状況を抜け出す手はないような気がします。
 いまここで私たちが相互不信を募らせると,「万人の万人の戦い」となりかねません。そうなると,ホッブズ流に国民から主権を譲り受けた統治者「リバイアサン」を待望する動きが出てきます。そうした動きを抑えられるかどうかは,私たち主権者の自覚がどれだけ高いかにかかっています。王のような存在になりたいかもしれない日本の首相や米国の大統領の野望には要注意です。なぜロック流の社会契約論が出てきたか。そこから学んでいく必要があります。ちなみにロックは1665年のイギリスのペスト流行と同時代の人です。感染症(伝染病)は,統治とはどうあるべきかを考えさせるきっかけを与えるかもしれません。このときにケンブリッジから疎開したニュ-トンが,疎開先で次々と偉大な業績を発表したのは有名なことです。17世紀のイギリスのペストは,ロックとニュートンという社会科学と自然科学の偉大な巨人を生み出したことになりますね。


2020年4月17日 (金)

数ヶ月では終わらない

 大学では,オンライン授業に向けた準備が着々と進んでいます。教授会をはじめ種々の会議はオンラインとなり,またオンライン授業に向けた研修や意見交換の会議もオンラインです。メッセージアプリを使った情報交換もしています。これから初めてのオンライン授業を始めるわけで,みんな手探りです。緊張状態は高まっています。大学教員というのは,元優等生が多いので,最初から合格点をとりにいく習性がありますが,それでは失敗する可能性が高いでしょう。60点くらいをめざし,徐々に点数をあげていくくらいの心構えのほうがいいと思います。かりに教員がうまくやれても,相手の学生のほうも初めての体験かもしれませんし,またそれを支える事務職員もノウハウがない状況です。そういう厳しい状況のなかで,少しずつ教育効果が上がる方法を見つけていけばいいのです。無理をして健康を害して病院の世話になることこそ,一番避けなければなりません。
 コロナショックは数ヶ月で終わるようなものではないでしょう。人々が自由に出歩けるようになるためには,ワクチンが開発される必要がありますが,それは1年以上かかりそうなのです。おそらく今年度は最後まですべてオンライン授業となるし,場合によっては来年度まで続くかもしれません。オンライン授業は一過性のものだと思っていると,取り組みへの本気度が弱まるかもしれませんが,むしろコロナが終息しても,ひょっとしたら元に戻らないかもしれないくらいの気持ちで臨む必要があると思います。新しい授業方法,さらに教育システムを構築する段階に入っているということです。当面は技術的にうまくオンライン授業をこなすことが大切ですが,その先には本質的な教育改革が待っています。
 いずれにせよ大学,とくに文系科目の講義は,オンラインを中心とするものに大きくシフトしていくでしょう。留学も不要になるかもしれません。例えば日本語ができるアジアの学生が自国からオンラインで神戸大学の授業を聞き,単位をとって卒業していくようになるかもしれません。
 そのことと関係しますが,いま何人かの教員は,授業をYouTubeにアップする準備を進めています。私もそうする予定です。視聴できるのは,うちの学生に限定しますが,設定を少し変えるだけで,世界中に配信可能です。私の講義はともかく,同僚の優秀な先生たちの力を入れて作った動画は,世界中に視聴させるべきなのではないか,と思わないでもありません。優秀な先生の教育というのは,貴重な公共的な資源です。それを世界中でどのように活用してもらうかを考えていくということもまたSDGsの一つでしょう。

2020年4月15日 (水)

企業による労働時間管理から,個人の自主的な健康管理へ

 テレワークの普及に対して,法的な観点からの阻害要因となりうるものとして,労働時間規制があることについて,今朝の日本経済新聞の朝刊で水野裕司上級論説委員が「中外時評」で論じておられます。そこに私の見解が引用されていました。とくに今回の記事のために取材を受けたわけではありませんが,『会社員が消えるー働き方の未来図』(文春新書)115頁以下をご覧になったのかもしれません。
 私の提案は,テクノロジーによる健康管理を進めべきであること,そこで得た情報は個人が管理すべきであることというもので,そういう観点から労働時間規制の根拠を根本から再考し,かつ企業の安全配慮義務も見直そうというものです。かなり大胆な提案ですが,デジタル社会を進めようとするなかで必然的な帰結だと考えています。
 国民が健康に生きていくことは,個人の問題だけでなく,政府にとっても重要な関心事であり(ちなみにイタリアでは,憲法において,国民には健康権(diritto alla salute)が保障されています[32条]),それは雇用だけでなく,自営で働く場合にもあてはまるものです。政府は,今後ますます増大することが確実な医療費用を減らすことの重要性も考慮すると,いかにして個人一人ひとりが,テクノロジーを使って自ら健康管理をしていくようにできるかという課題に取り組んでいく必要があると思います。私はこの分野では,行動経済学で言われる「ナッジ」を組み込んで,健康被害を予防できる「アーキテクチャ」を構築する(例えば,そういうプログラミングをしたアプリを無料で提供する)のが有効ではないかと考えています。現在,「ナッジ」,「アーキテクチャ」,さらに,それと関係するリバタリアン・パターナリズムを関心をもって研究しているところです。なお「ナッジ」については,大竹文雄『行動経済学の使い方』(岩波新書)を参照してください。

2020年4月13日 (月)

私たちにとってほんとうに必要なものは何か

 日本法令のビジネスガイドで連載中の「キーワードからみた労働法」の次回のテーマは「SDGsSustainable development goals)」です。これからの労働法の議論は,「SDGs」や「ESG」を無視してはやっていけません。法を非常に狭くとらえると,「SDGs」や「ESG」は,倫理規範のようなものであり,分析の対象外となるかもしれません(とくにESGは投資の基準です)。「CSR」も同じです。しかし,企業経営を規律するという観点からは,これらの倫理規範は今後,重要性をどんどん高めていくでしょう。法の世界も,これらを視野に入れていく必要があるのです(労働法でこういう問題意識が比較的強く出ている文献として,土田道夫編著『企業法務と労働法』(商事法務)がありますので,お薦めしておきます。ESG投資に関する専門書としては,水口剛『ESG投資』(日本経済新聞出版社)があります。これらは,今回のビジネスガイドの原稿でも参考にさせてもらいました)。
 もっとも,こうした倫理規範は,誰がどのように策定したかが気になるところでもあります。社会にすでにある道徳規範を吸い上げたようなものであればともかく,新たな現象に対応するための国際的な規範は,さきにつくったもの勝ちという面もあります。SDGsに欧州が熱心なのは,自分たちが先に自分たちのやりやすいルールをつくってしまえば,それだけ自分たちが有利になると考えているからです。個人情報保護の分野で欧州がGDPRでみせた先進性は,そうした観点からも理解できます。
 そういう国家間競争という面があるとはいえ,SDGsそれ自体は,(2030年の目標期限は先を走る欧州に有利すぎるように思える点はともかく)将来の社会の持続可能性と豊かさとの関係を私たちに考えさせるものであり,とても重要な問題提起です。おそらく教育の現場では,小学生から,読み書きを覚えさせるのと同じように,SDGs17の目標を覚えさせることになるでしょう(すでにやっていますでしょうか?)。
 ただSDGsは最終目標ではないと思います。この先には,「Development」(開発,成長)とは何かという問題が横たわっています。私は,SDGsは,端的に社会の持続可能性を問うSGsSustainability Goals)に変わっていくのではないか,という気もしています。私も日頃の政策論議では,成長を是としたうえで,そのためにどのような方法が公正で効率的かという問題意識で論考を発表することが多いのですが,実はそもそも成長とはどうあるべきか,成長と幸福の関係をどう考えるべきか,というメタ論議の重要性も否定していません。拙著『会社員が消える』の最後の3頁では,その点を示唆しています(この部分で救われたという読者もいました)。
 ところで,新型コロナショックで,私たちは人類の持続可能性に不安を感じるようになりました。先進国に住んでいても,これまでの豊かな生活がギリギリのラインまで切り下げられていこうとするなか,何が守るべき価値であるのかを考えざるをえなくなっているのです。政府は,「必要最小限の用事」や「不要不急」が何かは明示していません。自分で考えろということです。
 そこで考えみることにしました。まず食料や水は必要です。でも外食は不要不急でしょう(自分でつくることができる)。散髪も不要不急でしょう(自分で切ることもできる)。女性(最近は男性も)の化粧品も不要不急でしょう(化粧しなくても生きていくことができる)。さらに,学校も,裁判も,オリンピックも,高校野球も,プロ野球も,Jリーグも,将棋の名人戦も生存にかかわるものではないという意味では,不要不急でしょう。選挙だって不急ではありません(アメリカの大統領選挙はどうなるのでしょうか)。一方,病院やクリニックは,継続してもらわなければ困ります(医療従事者の健康が心配です)。そしてスマホです。もしスマホなどのICTの端末が故障したらどうでしょうか。これの修繕は不要不急ではなく,緊急で重要でしょう。ICTをつかえなければ,せっかく解禁されたオンライン診療も受けられません。このほかにも,重要なサービスはオンラインで提供される可能性が高いのです。いまやスマホは生存にかかわるものなのです。 選挙の投票がオンラインとなると,ICTは民主主義の根幹にかかわるものにもなります。
 このように考えると,私たちの社会における,デジタル技術を普及させることの重要性は明らかです(同時に,サイバーセキュリティの重要性はいまでもそうですが,さらに飛躍的に高まるでしょう) 。生存から逆算したときに必要なものだからです。たんなる便利ツールというレベルのものではありません。政府は,通信環境をもっと整備すると同時に,スマホを国民全員に与え,かつ,その使い方についてもしっかり教えることによって,デジタル・デバイドが起こらないようにすることが必要です。これは実はSDGsGoal10の「不平等」の解消という目標のなかに含めるべきものなのかもしれません(現在のターゲット項目には含まれていませんが,先進国だけでなく,途上国でも大事な目標だと思います)。
 逆に,不要不急であることがわかったモノについては,コロナ後も,需要がぐんと減る可能性はないでしょうか。それだけでなくデジタル技術を利活用する社会や生活には,もはや必要ではない習慣も出てくることでしょう。名刺をもつことを止めたり,判子に抵抗したりして,紙をできるだけもたないようにして変人視されてきた私のような者のスタイルが標準化していけば有り難いです(名刺業者や印鑑業者の方には申し訳ないですが)。フリードマン(Milton Friedman)の「こんなものいらない14のリスト」にならって,デジタル技術の利活用を邪魔する「こんなものいらないリスト」をつくってみるのもいいかもしれません(フリードマンは規制に関するものでしたが)
 いずれにせよ,多くの不要なモノに囲まれていることに気づき,モノよりも,精神的な価値(ヒトとのつながりなど)の重要性を再認識した人類は,大きく生まれ変わる予感がします。そうなると,法などの手を借りなくても,自発的にSDGsに取り組む人が増えていくかもしれませんね。

2020年4月11日 (土)

政治に頼らず,できることをやる

 7日に閣議決定された「新型コロナウイルス感染症緊急経済対策」は,ネットでみることができます(https://www5.cao.go.jp/keizai1/keizaitaisaku/2020/20200407_taisaku.pdf)。長大な文書で,こんなものを作っているから時間がかかったのではないでしょうか。政府の現状認識は,まだ平時なのだろうと思いました。役所は,巨大な予算がつくので,この絶好の機会に乗らなければならないということで,必死に考えて,この対策に盛り込まれるように頑張ったのでしょう。この文書のなかに少しでも書かれていれば予算をもらい事業を拡大することができます。国民のためという大義名分がたてばよいのです。その調整の成果がこの文書なのでしょう。
 でも,もしほんとうにそういうことであったら,困ったことです。いまは緊急時であり,海外の首脳がいうような「戦時」と言ってもよいくらいです。優先順位をつけて,「すぐにやることリスト」を,A41頁くらいにまとめて,即刻実施するくらいのことをしてもらいたいのです。従来と異なる手続もあるでしょうが,それを突破するのが政治家でしょう。森友学園問題で,あんな無茶なことができるくらいだったら,国民が健康面でも経済面でも危機に瀕しているときにこそ,無理を通して迅速に対応してもらいたいものです。ただ,そもそも現状認識において,危機感が足らない以上,どうしようもないのでしょうが(口では,危機を感じていると言うでしょうけど)。
 いまこそ私たちは有権者であるという自覚を取り戻す必要があるでしょう。私たちは,首相をトップとする政治家たちに,国民の安全と安心を守るための業務の委託をしているのであって,私たちはクライアントです。
 ルソーの有名な『社会契約論』には,次のような有名な 記述があります。「イギリスの人民は自由だと思っているが,それは大まちがいだ。彼らが自由なのは,議員を選挙する間だけのことで,議員が選ばれるやいなや,イギリス人民はドレイとなり,無に帰してしまう」(岩波文庫版の133頁(桑原武夫他訳)。これは人民の主権は譲り渡すことができず,「一般意志」は決して代表されえないという代議制否定論(直接民主制論)の文脈で出てくる話ですが,国民と議員との関係を考える際にも,よく言及されるフレーズです。
 私たちは,政府の奴隷になってはいけません。「戦時」中のいま,私たちは主権者は,私たちの安全や安心に十分に貢献せず,しかも税金をこれまでさんざん無駄に使いながら(森友学園問題などを忘れてはなりません),今回,あたかも自分のお金を使っているかのように,108兆円規模の対策を,過去にないものと強調しているリーダーの姿をしっかり目に焼き付けておかなければなりません。
 首相は,私たちが,いわば委託事務の経費として支払っている税金について,今回は,緊急時だから,これくらい使わせてもらうけれど,許してもらいたい,というような姿勢で臨むべきだったのです。それをあたかも,自分が勇敢な決断をしたかのように話し,いまに至ってもまだ政治家としての自己アピールをしようとしているのは,情けないことです。
 これは良い機会です。ケネディの有名な言葉「国があなたのために何ができるかを問うのではなく,あなたが国のために何ができるのかを問うてください(Ask not what your country can do for you; ask what you can do for your country)」の後半を少し修正して,「あなたが仲間の国民のために何ができるのか,さらには世界中で苦しんでいる人のために何ができるのかを問うてください」と変えてみたらどうでしょうか。
 企業も国民も,social responsibilityとして何ができるかを考えなければならないのでしょう。企業がどういう社会貢献活動をするかを,しっかり見ておきましょう。SDGs(持続可能な開発目標)やESGに敏感な企業こそ,コロナ後に生き残っていくにふさわしい企業です。個人も,政府がぐずぐずしているなら,クラウドファンディングなどで零細企業を支援する手などがあります。例えば近所のレストランには,将来の席の予約をして料金を前払いするという方法でも支援できるでしょう(これは,私たちはあなたたちの店を見捨てないという精神的なメッセージにもなります)。同じようなことを,レストラン以外でも,身近な業者に対して,いろいろできるでしょう。これまでそうした業者がいたから,私たちの生活が成り立ってきたのです。情けは人のためならず,です。自分たちのためにもなるのです。そうしたサポートの輪が広がっていけばいいのです。物心両面での助け合いこそが,この難局を乗り越えるための鍵であり,実は政治の原点もそこにあるはずです。これからの政治家の動きをみて,その資質をよく見ておくことにしましょう。

2020年4月 9日 (木)

技術的可能性に社会が追いつく

 神戸大学でもついにオンライン授業が義務化となりました。少し前までは選択制でいく感じでしたが,ついに学生を集めて教室で行うリアル授業は禁止となりました。しかも授業開始は5月7日以降ということです。再延長もあるかもしれませんね。オンライン授業というと,2014年1月に出した『君の働き方に未来はあるか?ー労働法の限界と,これからの雇用社会』(光文社新書)のなかで,次のようなことを書いていました(198頁)。

「医療,在宅勤務……構造変化
 
ITのなかでも,特に通信面だけをみても,これからいろいろな変化が起こってくるでしょう。私の身近な例を挙げれば,大学の講義です。たとえばIT技術を使えば,神戸大学の講義を聴きたい人はどこにいても聴講が可能となるでしょう。また,講義を英語で行えば,世界中に配信が可能になります。双方向通信にすれば,質問を受け付けることもできます。試験のやり方(本人の認証方法など)さえ工夫すれば,大学の教育は劇的に変わるかもしれません。
 
たとえば,こんな時代というのは考えられないでしょうか。大学はなくしてしまって,大学教授を国家資格にします。資格をパスしたものは,自分の専門科目の講義をネットに配信することを義務づけられます。受講者は,誰でも一定の授業料を払えば講義を聴けるようにします。試験に合格した学生には単位を与えます。所定の単位を修得した者は,大学卒業者と認定されます。単位認定は厳格なものとします。このようにすれば,入学試験はなくなり,どこにいても講義が聴けるようになり,ほんとうに学習意欲がある人に学習機会が広がります。大学卒業者の価値も高まるでしょう。技術的にはこうしたことはすでに可能であり,実際,2014年春から,MOOC(大規模公開オンライン講座)というサービスが開始されるそうです。
 研究面でも,私たちのような法学系の人間は,国内外の文献と判例にアクセスできれば,かなりの仕事ができてしまいます。ネット上にこうした情報を集積しておけば,どこででも論文を書くことができます。すでに,そういう時代に突入しつつあります。実際,私は,論文などの原稿執筆は,研究室の外で行うことがほとんどです。どうしても大学に行かなければ調べられないものがあるときのみ,大学で原稿を書きますが,その割合は減ってきています。
 ひょっとすると,ハワイに住みながら講義はネット,研究は自宅という時代が来るのかもしれません。もちろん,その頃には先述のように,ロボットが何もかもやってしまうので,大学教師のやることは残っていないかもしれませんが。」

 そのあとにオンライン医療のこととか,テレワークのこととかにもふれているので,関心のある方はぜひ読んでみてください。かつては上記のようなことを,研究会のあとの飲み会などでよく話していて,労働法の教師は全国で5人くらいいれば十分だから,君たちもそのなかに残れるように頑張れよと,冗談めかして若手に言っていました。
 でも冗談でなくなるかもしれませんね。5人はともかく,10人もいればたくさんでしょう。私も,生き残りに向けて,闘わなければなりませんかね。教育にかぎらず,コロナ後の社会は,当分は無理だろうと思っていたことが,次々と実現していく社会になる可能性が高まっています。それにともない必要となるスキルも変わっていきます。既存の知識が陳腐化していきます。ディスラプションが起こるのです。技術的可能性に社会が追いつくというところがポイントです。

 

2020年4月 3日 (金)

オンライン診療解禁はデジタルファーストで

 今朝の日本経済新聞をみると,受診歴のない患者の初診からオンライン診療を解禁することに,厚生労働省や医師会が難色を示しているという記事が出ていました。「対面に比べ診察時に得られる情報が限られる」ということが,その理由でした。これは以前からも出されていた理由づけです。私は医師ではないので,これがどれほどの解禁の障害事由となるのかよくわかりません。でも「情報」の問題であるとすれば,もっと工夫する余地があるのではという気もします。生体データや顔の表情の画像分析をAIで行うという話もあります。技術的に可能なことはどんどん増えています。普通は現状を変える立場のほうが,エビデンスを用意して,変えるべきであるという提案の根拠を説明しなければならないのでしょうが,私はデジタル技術を使えるものについてはデジタル技術を使うのを原則とするという「デジタルファースト」を提唱しています。いわば「立証責任」を転換せよということです。デジタル技術を使って不都合があるなら,それを主張するほうがエビデンスを用意しろということです。社会がスタティック(static)なときであれば,もちろん改革を求めるほうが「立証責任」を負うべきでしょうし,私たちは何十年もそういう安定した社会で過ごしてきました。しかし社会が何十年あるいは百年に一度というくらいに大きく動いているときは,こうした「立証責任」のルールも変えなければなりません。すでに第4次産業革命,Society5.0,DX(デジタル・トランスフォーメーション)といったことが進んでおり,社会が急速にダイナミック(dynamic)に動いている時代に突入しています。つまり,これまでとは違った発想が求められているのです。ましてや現在は新型コロナのせいで異常時となっています。こんなときでも,いつもと同じようにやらなければならないなんて寝ぼけたことを言っている人たちが,社会の上層部にいるというのは恐ろしいことです。
 大学でも,かなり前からオンライン授業はどうかということを同僚と話していました。7~8割は反対でした。教育効果が上がらないのでは,ということです。でもそれは,これまでと同じような授業方法であれば効果が上がらないだけで,授業方法を変えれば飛躍的に効果が上がる可能性があります。今回,大学は迅速に対応して,オンライン化を決断しました。素晴らしいことです。教育効果を上げるために,どのようにすればよいか,私自身まだわかっていませんが,懸命に考えていきたいと思っています。長年やってきた方法を変えるのは大変です。でも,シラバスづくりのようなあまり意味のないことに振り回されるのは困ったことでしたが,オンライン化は教育の本質にかかわることであり,これは教師である以上,真剣にとりくまなければならないことです。少し大変だなという意識はありますが,頑張りたいと思います。しかも大学では執行部の方々が,新たなやり方の環境整備のために尽力してくださっていて,ほんとうに頭が下がります。
 医療は,大学教育以上に国民にとって重要なことです。これまでと同じ診療のやり方であればオンラインはダメだとしても,むしろオンラインでやるためには,どういう診療方法があるのか,どうしたら患者の情報をもっと収集できるのか,そこにデジタル技術を使える余地はないか,ということを検討し,それでもやっぱり限界があるという結果が出たときにはじめて,オンライン診療の初診はダメという結論に説得力が出てくるのだと思います(私は別に対面診療がいっさいダメと言っているわけではありません。ただ医師も患者も望んでいるのにオンラインはダメというのは行き過ぎだという主張です)。
 現在は「コロナ期」です。オンライン化への移行期間だと考えてもらいたいです。そして,これが「コロナ後」の本格的なオンライン時代,デジタル時代への橋渡しになるのだと思います。
 どうも見ていると,いまはいろんなところで,おじさんたちが妙に頑張っている組織が,改革にブレーキをかけているような気がします。デジタル時代についていけないなら,指導層から身をひいて,リーダーシップのある若い層(ほんとうは年齢には関係なく,改革マインドが高いことが重要です)に組織をゆだねるべきでしょう。政治も行政も医師会もそうです。身近なところでは,自治体もそうだと思います(私ももし指導層にいればそうすべきでしょうが,幸いそういう立場にないので,その必要がありません)

 

2020年4月 2日 (木)

久しぶりの投稿

  これは2ヶ月半前の 1月中旬に ,年末から咳の症状で苦しんでいて,ようやく治ったときに書いたものです。アップしようと思っているうちに,ずるずると今日になってしまいました。その間,多くの原稿を抱えていて,ブログをアップするという気力(?)が残っていなかったからですし,その間に,違う内容のブログを先にアップしてしまったことも理由です。

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<タイトル>かかりつけ医がほしい

 昨年末から医者に立て続けにかかっています。前にも書いたような喘息ぎみの症状は,結局1か月近く咳が出続けて,ようやく治りました。授業をするときにも支障があったくらいで,ほんとうに困ったものです。今後は,喉に負担がかからないような発声方法などの工夫が必要ですし,携帯用の加湿器を持ち込むなど,どのようにして授業のクオリティを下げないようにするか考えなければなりません。
 ところで一番困るのは,病院で待たされることです。近所に4件ほど行くところがあるのですが,そのうちの一つは,オンライン予約ができるので,待たなくてもいいのですが,窓口の女性のうちの一人が大変感じ悪い人なので,あまり行きたくありません。医師はよいのですが。もう一つ別のところは,いつもすいているので良いのですが,ちょっと医師の診察が適当な感じで,あまり気が進みません(インフルエンザの予防注射をするだけなら良いですが)。もう一つは,ものすごく人気があるので,いつも込んでいるため,待っているうちに風邪がうつされそうなところです。最後の一つは,近所で診察券を一度出しておくと,電話をかければ後何分くらいと教えてくれて,後1人くらいのところで行けば間に合うところで,医師も丁寧に話は聞いてくれるのですが,出してもらった薬が何一つ効かなかったので,信用度にクエスチョンマークがついています。ほとんど医者にかかることなどなかった私ですが,これからは医者にかかることも増えていきそうです。かかりつけ医師というのを決めたいのですが,なかなか決めきれません。
 咳がようやくおさまって安心していたら,今度は,左の背中と胃が痛むという症状が出て,いまも治っていません。鈍痛という感じで,日常生活にはまったく支障はありませんが,気持ち悪さがあります。尿道結石と思い,少し遠方の腎臓内科に行ってエコーをとってもらったのですが,腎臓も脾臓も問題はなく,石もなく,血尿もでていませんでした。結局,筋肉痛ではないかと言われたので,今度はハリに行きました。少しは良くなりましたが,劇的には良くならなかったので,まだ内臓疾患の疑いは消えていません。ネットで調べたら肋間神経痛の症状に似ているのですが,これも原因はいろいろです。いったいどこの医師に行けばよいかわからず,でも無駄に時間を使いたくないので,頼ったのは,大学の保健管理センターでした。治療ではなく,どこの医者に行くのがよいかアドバイスをもらうためです。その結果は,結局よくわからずということで,どうも残された可能性は整形外科のようですが,総合病院にいっていろいろ検査してもらったほうがよいかも,ということでした。たぶん筋肉痛なのだと思いますが,ちょっと気持ち悪いです。こういうのは,かかりつけ医師を作って,気軽に相談できればという感じにしたいのですが,どれも帯に短したすきに長しで,またなんだかんだ言って早いところでも1時間(長ければ3時間くらい)はかかるので,それだったら本当に痛くなるまで我慢しようということになりますよね。医療相談のチャットボットがあればいいのですが。ネットの怪しげな情報に振り回されている人も多いのではないでしょうか。
 ちょうど二宮敦人『最後の医者は桜を見上げて君を想う』(TO文庫)を読んで,重病系の人のリアルな話が出てきたので,自分も重病であったらどうしようなんていう気分になっていました。この本は医者が素材ですが,生きること,死ぬことの意味を考えさせてくれる良い小説でした。男の友情の世界もあって,こういうストーリー,結構好きなのですよね。それはともかく,今年の課題は,よき「かかりつけ医」をみつけることですね。いつも保健管理センターに頼るわけには,いかないでしょうから。

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 ということを2ヶ月半位前に書いていました。あのときの咳は,ひょっとしてコロナウイルスだったのか(同僚に中国帰りの人もいたし),という気もしますが,よくわかりません。それと左の背中の鈍痛は,結局2週間くらいで消えました。気候の影響であったのでしょうか。
 新型コロナウイルスを,私は本当に恐れています。常日頃,呼吸器系が弱い私にとって,大の嫌煙家ではありますが,自分の死因は肺の疾患になるのではないかと思っています。新型コロナは,インフルエンザと違って,まだワクチンや薬がありません。それに私は父が90歳近い高齢で,何かと接触があるので,絶対に感染できないという気持ちで張り詰めた毎日です。ということで,外出は極力控えています。最近は,労働委員会の受け持ちの審査事件や斡旋事件の期日だけです。事件当事者に迷惑をかけるわけにはいかないし,県はマスク着用の義務づけ,換気,social distanceの徹底ということまでしているので,安心はしていませんが,出席しています。ただ労働委員会の公益委員会議はオンライン会議での参加でお願いしています。これは出席にカウントされないのですが,ぜひ労働委員会規則で,定足数にカウントするようにしてほしいです。すでにサバティカル中のときも,海外からオンライン会議での参加をしていましたが,リアル会議と同じように議論に参加しています。オンライン会議では近くに誰がいるかわからないなど,秘密保持が大丈夫かという心配もあるかもしれませんが,そこは委員の良識を信頼してもらいたいです(信頼できないような委員は選ばなければいいのです)。こういうことも「デジタルファースト」の精神で臨み,問題点があればそれを解決していくという姿勢で取り組んでもらいたいですね。
 その他の外出は,近所に郵便の投函をしにいったり(学会誌の校正は初稿からPDFにしてもらいたかったですね),ちょっとした買い物に行く程度です。その他は,大学へは,3月の教授会には出席しましたが,教授会も4月以降しばらくは,Zoomの利用となりますので行く必要がありません。授業も第1Qは,オンラインでやることになりました。借りていた図書がもうすぐ期限となるので,そのうち1度は行く必要がありますが,これも延期してもらえないでしょうかね。もう一つは散髪です。散髪は決まったスタイリストに頼んでいるのですが,通常のペースより2週間遅れで,もう伸びすぎて我慢できないと思い,安全確認をしっかりしたうえで行ってきました。2ヶ月はもつように切って欲しいと頼みましたが,2ヶ月後でも,たぶん終息していないでしょうから,次回は訪問散髪をお願いできないかということを頼んでおきました(できるのでしょうかね?)。
 それで2ヶ月半前に書いたブログに戻るのですが,コロナ騒動で,ようやく オンライン診療が初診から解禁されそうな感じですね。コロナ関係だけの扱いかもしれませんが,でも,これで行けるとなると,一挙に一般的に解禁されることになるかもしれません。
 授業のオンライン化も,前から主張しているもので,コロナ以外にも,インフルエンザや台風休講の場合にも,できるようにしてほしいです。というか,オンライン授業を本格的にやろうとすると,授業のやり方がずいぶんと変わってきます。もしその方が教育効果が上がるということになると,オンラインを原則としてもよいという意見が出てくるかもしれません。テレワークもそうです。現在の業務態勢のままでテレワークにするとやりにくいことも多いでしょうが,業務の進め方そのものをテレワーク仕様に変えてしまうと,そのほうが生産性が高まる可能性もあります。新型コロナウイルスは,人類にとっての大きな危機であり,おそらく長い戦いになるでしょうが,インターネットは災害に強いのです。現在はインターネットなどのデジタル技術を使った生活や労働に切り替える格好の実験期間でもあるのです。いつかこの戦いは終わりが来ます。コロナ後の社会は,コロナ前とはまったく違ったものとなるのではないかと考えています。何もしなくてもデジタル社会がやってくるはずでしたが,予期せぬコロナによって,その到来が5年くらい早まったのではないでしょうか。

 

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