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2020年1月13日 (月)

ミルクボーイ

 一夜にして人生が変わる,というのは,こういうことでしょうか。テレビ出演もほとんどなかった若手漫才師がM1のチャンピオンになって,たちまち大スターになりました。夢のある話ですね。私は,彼らの漫才をみて,それほど笑うことはできませんでした(サンドイッチマンのほうが面白い)が,それでも彼らが支持されるのはよくわかります。ボケ担当の駒場の「おかん」や「おとう」が何か忘れるという設定の下に,二人でそれが何かを推測するというのが得意のパターンです。M1では,「おかん」が忘れた好きな朝ご飯を当てるというネタです。特徴をきくとコンフレークのようだけど,でもそうでないという掛け合いをしながら,ツッコミの内海が徹底的にコンフレークを分析していきます。誰でも知っているコンフレークの特徴を,これでもかというくらい指摘しながら,内海がどんどん話を展開していくところが見せ場です。みんながそれとなく思っているところを強調して話すので,客との一体感が生まれ,それが徐々に高まっていくのがわかります。しらぬまに,駒場の「おかん」の好きなものを当てるというのはどうでもよくなっていて,それで最後に駒場が「おかん」が「コンフレークではないって言うてた」とあかして,それまでのやりとりは全く意味がないということがわかり,ずっこけます。駒場がそれをわかっていながら,内海が勝手にどんどん展開していく話に合わせていたというボケっぷりがわかり,さらに「おとん」はコンフレークとはまったく違う「サバの塩焼きちゃうかって」と言ってたというシュールなボケをかまして,「絶対ちがうやろ」と内海が言うのがオチでした。普通,ボケというのは,見た目や動きが変わったことをする人が多いのですが,駒場は,どちらかというと無個性で,体格のいいことくらいが目立つ普通の青年で,ツッコミ側の内海のほうが個性的な外見なのです(角刈り)が,そういう逆転も面白いし(しかも内容的には内海のほうがボケ的な面もある),コンフレークという普通の食べ物を,ここまで徹底的にイジるところも独創的でした。決勝では,同じような展開を,「最中」を素材としてやりました。最中業界を敵に回しそうな内容でしたが,それでも毒を感じさせないところが彼らの漫才の技でしょう。

 ネタ以外の面でも,最近では早口で何を言っているのかわからない漫才師が多い中,言葉がはっきり聞き取れ,内容も上記のようにわかりやすく,老若男女に支持されやすい安心できる漫才でした。

 彼らが真摯に芸磨きに取り組んで,ストイックに夢を思い求めてきた姿にも深い共感をおぼえます。一歩間違えれば,夢追い型ストーカーの失敗例となりかねないなか,大きな成功を遂げました。

 もちろん,ストイックに自分の芸を磨くのは,芸人である以上,当然のことのような気もします。ただ,芸人にかぎらず,誰でも,効率的にスキルを習得したり成果を出したりする方法はないか,ということを模索しがちです。そのこと自体は悪いとは思いません(意味のない苦労はやらなくてよい)が,それは楽をすればよいということではないのです。ミルクボーイの二人にとって,アルバイト以外の時間は,ひたすらネタを練り上げ,またテレビの声はかからなくても,舞台でお客さん相手にひたすら自分たちの芸を披露して,芸人としての技と感覚を磨きながら,徐々に力をつけていったのでしょう。こうしたやり方は,時間がかかったようにみえるものの,実は最短距離を走っていて,一番効率的なやり方であったのかもしれません。

 いまはまだ何もなし遂げていないが,夢はある。そのための努力もしている。そうしていると,神様が降りてくるかもしれないのです。茂木健一郎の対談集に『芸術の神様が降りてくる瞬間』(光文社)という本があります(初期のブログで紹介したことがあります)が,ミルクボーイにも漫才の神様が降りてきたのでしょう。もちろん,努力をしている人すべてに,神様が降りてくるわけではありません。世の中は不公平です。でも,ふさわしい努力をしていない人には,神様が降りてこないことも確実なことです。そのわずかな確実にすがりながら,不確実な将来に向けて歩んでいくというのが人生なのでしょう。成人となる若者に贈る言葉です。

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