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2019年12月の記事

2019年12月30日 (月)

今年1年を振り返って

  一昨日は神戸労働法研究会とその忘年会がありました。研究会のコアのメンバー(遠方からの参加の人もありがとうございます)がほぼそろい楽しい時間を過ごすことができました。私のサバティカル期間中は変則開催でしたが,今年の9月末の例会からは平常の毎月開催に戻りました。私はよく覚えていませんが,オランゲレルさんの記憶によると,研究会を立ち上げてから13年が経っているということだそうです。初期のメンバーたちも,みんな立派になり,いまでは私が若い研究者から教わる場になっています。この研究会があるから,なんとか解釈論の勘を維持できているという感じです。それに,研究会があるから,ちょっとした試論でもぶつけることができ,やはり自分一人で勉強するのとは全然違います。私のメインの研究領域は,現在では,立法政策論になっていますが,やはり解釈論の鍛錬をしておかなければ,議論が雑になってしまいます。ゲストの報告者も積極的に招いて,常に新鮮な議論の場を作るように心がたいと思っています。

 実際に私が雑な議論に陥ることを回避できているかといえば,そうではなく,なかなか本格論文は書けていない状況です。今年執筆した論文で一つあげるとすれば,季刊労働法265号の「労働組合の資格審査は必要か-組合自治と行政サービスの効率性の観点からの再検討」です。ずっと暖めていたテーマで書いたのですが,マイナーな論点であったこともあるかもしれませんが,それよりもクオリティに問題があったのかもしれません。不当労働行為関係では,何年かに1本,自分では力作を書いているつもりなのですが,なかなか評価してもらえないです。精進です。とくに個人的には2013年に執筆した「不当労働行為救済制度における集団的利益の優越についてー複層侵害事案における申立適格をめぐる一試論」(『石川正先生古希記念論文集 経済社会と法の役割』(商事法務)所収)がそれなりに自信作なのですが,これもほとんど存在が認識されていない論文です(抜き刷りを送っていない私が悪いのですが)。

 それはさておき,今年,研究会で何度か議論の対象となって私にとって印象的なのが,労働者の同意についてだと思います。個人情報保護法関係でも出てくる話ですが,そのほかにも,自由意思とは何か,強行規定とは何かという原理的な議論ともつながっていて,これは,もっと詰めて考えなければならないと思っています。少し前になりますが,千葉大学の皆川宏之さんの「労働法における労働者の自由意思と強行規定-民法改正を踏まえて」日本労働研究雑誌700号(2018年)という論文のなかで,私が,シンガーソーイングメシーン事件・最高裁判決と日新製鋼事件・最高裁判決について,自由意思があれば強行規定からの逸脱が可能であることを認めた判例と理解しているとし,そうした理解は妥当でないという批判をしてくれました(93頁)。相手をしてくれたことに感謝です。皆川さんの理解では,この2判決は,強行規定の例外を設定したものではなく,強行規定の及ぶ範囲の解釈を示したものであって,自由意思に基づく法律行為の成立と強行規定による制限という枠組み自体は維持しているとします。実は,最高裁の意図というか,判例の客観的な理解という点では,そのとおりで彼が正しいと思っています。ただ,この判決は,原理的には,derogation を認める議論を内包しているとみることができないか,というのが私の問題意識でした。とはいえ,研究会でいろいろ発言しているうちに,個人の自由意思を重視する議論を,derogation の形で論じることは,あまり成功していないのではないかという疑問が出てきました。むしろ,そもそも労働基準法は,どこまで強行規定なのかというところから考えてみる必要があると思い始めています(行政取締規定と効力規定,労働者の同意による違法性阻却の議論など)。もし機会があれば,ぜひ書いてみたいテーマです。近年は,還暦記念とか古希記念の依頼があったときに備えて論文のテーマを貯めるということをしていたのですが,そういう依頼がなくなってきているので,ストックはできるだけ熟成を早めて世に出していこうと思っています。

 還暦や古希であっても,特定の企画で特定のテーマを割り当てられて書くという依頼は,よほど自分のそのときの関心に合っていなければ引き受けないことにしています。ジュリストの最新号のフランチャイズの論文(「フランチャイズ経営と労働法」)は,私の関心にあっていたので引き受けました。他の法分野との分担ということだったので,もっと労働法の代表として,フランチャイズと労働法に関する論点を広く拾って整理する必要があったのかもしれません。どうもそういうものを書く気にはならず,いま自分が書きたいことだけを書こうということになってしまいました。依頼の趣旨に合わなかったならば,お詫びします。でも,いまの私はそういうものしか書けないのです。

 ジュリスト論文では,サブタイトルにもしたように「交渉力格差にどう取り組むべきか」,ということが私の関心事です。資本主義社会の持続的発展のためにも,このことは重要であるという意識をもっています。交渉力格差は顕在化したものへの対処もあれば,顕在化しないようにするための予防的な対処もあり,むしろ後者のほうが重要だと思っています。今回の論文では前者が中心であり,後者は扱っていませんが,最近のフリーランス関係で書いたものでは,予防的な対策である教育の必要性を力説しています。

 一方,同論文では,労組法上の労働者概念は,1949年の改正時に,文言は同じだが,その内容は変わったと解すべきという「珍説」も唱えています。不当労働行為の行政救済制度を認めた法改正により,労組法の労働組合に対する姿勢は単なる不介入から介入へと原理的大転換があったとみるべきであり,労組法の積極的介入によって保護の対象となる労働者や労働組合の範囲は限定されることになったと考えるのです。他方,1945年の制定段階の労組法は,不介入の姿勢をとるものであるので,零細個人事業者なども含む広い労働者の団結を許容する法律であるとしています。

 もう一つ,私のジュリスト論文のポイントは,零細個人事業者も,社会学的にいえば「労働」している人ではないか,という素朴な問題意識に立っていることです。「労働」をしている人を法が無理やり従属的労働と独立的労働とに分けて,法的扱いを変えることは歴史的には意味があったが,これからはそれでよいのかという問いかけをしています。個人で働いている人は,それが雇用されていようと,業務委託であろうと,起業して人を雇っていようと,共通に括れる部分があるはずであり,それをどのように括りながら,どのように法的に扱っていくかが,これからは重要な問題ではないかと考えています。

 とても大学院生にはお勧めできない筋の悪いテーマですが,来年は,こうした研究をもっと進めていこうと思っています。

 

 

 

2019年12月27日 (金)

日本労働法学会でのワークショップに参加して

 先の日本労働法学会のワークショップで「問題提起報告」というものをさせてもらいました。テーマは,「解雇規制の在り方を考える」というもので,昨年,有斐閣から刊行した大内伸哉・川口大司共編著『解雇規制を問い直す-金銭解決の制度設計』を採り上げて,日本労働法学会で議論しようというものです。

 これまでの議論とはまったく異なる解雇の金銭解決(完全補償ルール)の提唱ですので,ワークショップで労働法学会の会員の方に解雇規制の在り方を議論してもらうには良い起爆剤となるかと思い,基調報告をさせてもらいました。こういう機会を設けて声をかけてくださった山口浩一郎先生と土田道夫先生には,心より感謝しています。とくに土田先生には,ご自身もいろいろ言いたいこともあるはずなのに,それを封印して,ファシリテータに徹してくださり,感謝いたします。

 とはいえ,このワークショップは大失敗だったような気がします。結局,私の報告に対する質疑応答だけで終わったからです。私たちの構想のポイントは,「解雇は完全補償をしなければできない」ということです。解雇規制について「解雇無効ルール」しかない日本法の貧弱さを補うために,「許されうる解雇」については金銭解決を「認める」が,それは完全補償の義務つきなので,実際上はきわめて厳しい解雇規制となります。従って,金銭解決イコール解雇の自由化ではないのです。このことを私は報告の冒頭で念入りに確認したつもりだったのですが,その後の質疑では,それをまったく理解できていない人がいて,がっかりしました。私はこの問題について海外の研究者とも議論をしましたが,金銭解決はその水準いかんでは強い規制となることに異論を唱える人などいませんでした。ところが,日本労働法学会では,そうではなかったようです。比較法的にみても最も厳しい規制の一つであろう「完全補償ルール」を,解雇の自由化や規制緩和と評価するコメントが寄せられたことには,唖然とすると同時に,もうこの議論は日本労働法学会の場でやるべきではないと確信しました。私のプレゼンがあまりにも悪かったのかもしれないのですが。

 ちなみに日本型雇用システムへの影響ということも指摘されました。そんなものはどんどん変わっていくという状況認識も共有できていませんでした。ただ,これについては,変化するということを主張する「立証責任」は私のほうにあると思うので,立証が十分にできていなかったと反省すべきなのでしょう。それに,これまでのシステムへの郷愁に浸りたいということは心情的にもよくわかります。私も個人的には日本型雇用システムがずっと続いてくれればそれが一番だと思っています。でも,現在の技術革新のスピードや国際的に置かれている日本企業の状況をみていると,それは不可能ですし,夢物語を前提に議論をすることは危険だと思っています。ただ,これは見解の相違なので,私の考えに同意できない人が多くいることは理解できます。もっとも,世の中の多くの人は,日本型雇用システムが続くなどと考えていないと思いますが。

 あと,もう一つ言っておかなければならないのは,私たちの『解雇規制を問い直す』というのは,従来の労働法関係の本としては,やや異なった性格があるということです。これは現状の解雇規制には問題があるという共通認識をベースに,経済学の立場からの理論(経済学にもいろいろな立場があり,本書の理論が唯一のものではないのですが)を具体的な立法構想に落とし込んだというものです。

 私個人の解雇規制に対する考え方は,すでに『解雇改革』(中央経済社)で表明しており,自分の学説としては,これが基本ですが(エッセンスは,ガイドライン構想と金銭解決),ただこのなかの金銭解決の内容をもっと理論的に詰めればどうなるかということを,『解雇規制を問い直す』では,経済学者に教わりながら一緒に実験的にやってみたのです。これは現状を漸進的に変更していくということではなく,理論モデルの提示なので,当然,これを採択するのであれば移行期の問題は出てきます。企業に重い負担を課すことになる提言なので,それに配慮した解雇保険は重要なのですが,その構想の現実性という問題も出てきます。そういうところを,学会では議論できればよいかなと思っていましたが,残念ながらそうはなりませんでした。

 こうしたワークショップでしたが,山口先生は,さすがに正鵠を射たコメントをしてくださいました。山口先生は,私たちの本について,原理論,現行制度との関係,現状認識という三つの観点から検討できるとし,原理論の面では,経済理論を使った法制度構築論は一応理解できるとおっしゃってくださいました(ただし,山口先生は,経済理論を純化させれば,「許されない解雇」でも使用者主導の完全補償ルールになるべきであるという,もっともなご指摘もされています)。現行制度との関係とは,私たちの構想を具体的な条文に落とし込んで運用してくる場合の問題はどうか,ということです。この構想を立法化していく際には,いろいろすりあわせていくべきところがあるのは,当然のことです。おそらく,私たちの構想に理解を示してくださる人も,そのあたりの懸念はおもちだと思います。その点は,私たちだけでは知恵が足りないので,みんなで一緒に考えていければと思っています。現状認識については,山口先生も,実際に訴訟外での金銭解決がどれだけされているのかよくわからないところがあるとおっしゃっておられて,この点からの評価は留保されていました。ただ,その後での議論で,山口先生も,前述した人たちと同じように,日本型雇用システムについて,まだ維持できるのではないかと考えておられるようでした。そして,この点で,山口先生は,結論としては,私たちの構想に賛成できないということのようです。最も重要な現状認識のところで考え方が違うので,そうなると,結論や評価が違ってくるのは仕方がないと思います。

 ということなのですが,実は,はなはだ個人的なことですが,私はワークショップが終わったあと,深い感動に包まれていました。涙が出るほどの感激だったのです。山口先生は,私にとって大恩師です。大学院に入って菅野和夫先生から,イタリア労働法を勉強したらどうかという勧奨を受け,山口先生と諏訪康雄先生に入門してから,3人の先生はずっと高い存在でした。なかでも山口先生は,一番年長でとりわけ高い存在でしたが,同じ関西出身ということもあって,いろいろ気に掛けてくださり,その受けた恩はとても語り尽くせるものではありません。師弟というには,あまりにも差がある関係なのですが,その山口先生が,おそらくほとんど来られたことがなかったであろう日本労働法学会に,わざわざ私の報告への,たった10分のコメントをするために来てくださり,そして本気で私の見解を論評してくださったのです。もったいなくて,ずっと先生のコメントを聞いていたかったくらいです。真の研究をずっと貫いてこられた大先生にまともに相手をしてもらえることの喜びは無上のものです。横に座っていた明治大学の小西康之教授も,横でそれを感じてくれていて,山口先生の愛を感じた,と言っていました。厳しい学問的な批判のなかにも,かいまみえる人間愛こそが,山口先生が多くの人に好かれる理由です。

 ワークショップが終わって帰るとき,山口先生が,私に手を差し出されました。先生と握手をするなんて初めてのことです。やっと,一人前の研究者として認めてもらえたような気がしました。

 

 

 

2019年12月 7日 (土)

「優」の答案を書く能力が無駄遣いされている

 

 クオーター制の導入により,後期は11月末に(第3クオーターの)期末試験をしなければならなくなったのですが,そのクオーター制(年4学期制)の導入が私のサバティカル中に廃止されることになったようで,なんと私の労働法の講義を聴いている学生のうち3年生と4年生はクオーター制の適用で,2回試験を受けることになり,2年生はセメスター制に戻っているので1月末に1回だけ試験を受けることになっています。結果,私は同じクラスの学生に対して,セメスター制だけであれば1回ですむはずの試験を,3回しなければなりません。困ったものです。クオーター制の導入には,それなりの狙いがあったのでしょうが,労働法は,もともと4単位でやっていて,個別法を4分の3,集団法を3分の1くらいでやっていたので,これを無理矢理二つに分割するとなると,不自然なことが起きます。私は,労働法総論と集団法を1クオーター,個別法だけを1クオーターとしていますが,学生にとってよい構成だとは思えません。かつて労働法を8単位でやっていたときは,たしかに労働法総論と集団法を4単位,個別法を4単位でやっていましたが,これでは集団法が多すぎるということで全体に4単位に圧縮したうえで,集団と個別の比率をだいたい1対3にしたという経緯もあるので,クオーター制の導入はそもそも迷惑なことでした。

 それはさておき,久しぶりに学部の試験を採点することになったのですが,何となく前よりも手応えがあるかなという気もしました。答案は,授業に出ていない学生のものはすぐにわかります。労働法は,六法を調べながら,労働者保護ということを書いておけば「可」はもらえると思っている学生はかなりいるのですが,授業の最初に述べるのは,集団法では六法をみて書けるような問題は出ないということです。授業に出ていない学生は,そのことを聴いていないのですが,案の定,手も足も出ない結果に終わります(今年はロックアウトの問題を出しました)。一方,毎年,数枚は,よくぞここまで書いてくれたというような素晴らしい答案に出会います。また,少なくとも私の話した内容は正確に理解して答案に反映している答案も,ある程度はあります。前者が「秀」,後者が「優」です。また,結構あるのは,知識が半端だけど,その半端な部分を,自分独自の論理で埋めて,なんとか形にするという答案です。前にゼミ生に聴いたときも,よく勉強していない問題が出たときは,自分の説を構築してしまうと言っていました。こうした答案を読まされると,これまでみたこともないような強引な説に直面することになるのですが,これが答案としてダメかというと,そうは言い切れません。試験は「成果主義」であり,「努力主義」ではありません。十分に勉強していなくても,素晴らしい答案を書くことはありえるのです。ただ,畢竟独自な説をどう評価するかは難しくて,天才的な答案を見落とすおそれもあります。しかし,そのおそれよりも恐ろしいのは,こうしたタイプの答案を読んでいくと,こちらの脳みそが徐々に破壊されていくことです。懸命に理解しようと読んでいるうちに,感覚が狂ってくるのです。といっても,これは困ったことと言いながら,ひょっとしたら凄いことを書いているかもしれないというワクワク感もあり,必ずしも悪いこととは思っていません。ただ過去において,学生の独自の説で,確かにそれも一理あるなと思ったようなものは,ほとんどありませんでした(私が天才的な説を見落としている可能性はありますが)。それでも,自分の説を堂々と書き切れる力は評価に値します。「優」はつけられないことが多いのですが,「良」はつきます。

 ところで,これまでの日本社会で役所や企業で活躍できる人というのは,「優」をとる学生だったと思います。「秀」だと尖がっていて扱いにくい人材かもしれませんが,「優」はきちんと上の人が言ったことを咀嚼して,忠実に答案に反映できるのです。東大に行って,国家公務員試験に合格し,役所に任用されるような人は,みんな「優」をしっかり取れる人たちでしょう。「良」的な人材は,独自の答案を書ける力はあるけれど,組織人としては扱いにくいので,組織社会では出世しにくいのです。もっとも,これからのAI時代は,こうした「良」か,あるいは飛び抜けて優れている「秀」的な人材が必要となるなのですが。

 役人は,問題を与えれば,きちんと上司が満足するような「優」的な答案を書くことができます。どんな難題や筋の悪い問題でも,そこに問題があれば,素晴らしい答案を仕上げてきます。役人に対して,例えば「嘘を隠すためにつじつまを合わせるにはどうすればよいか」という問題を出せば,きちんと素晴らしい答案を書いてくるはずです。ただ,それにも限界があるかもしれません。「「桜をみる会」の名簿について,これを電子データとしても残っていないことにするためには,どのような答弁をすればよいか」という問題は,かなり難度が高いものです。「優」をとりにくい問題でしょう。それと同時に,役人だってロボットではありません。答案を書くことに,良心的拒否をしたくなることもあるでしょう。「優」を書く能力はあるけれど,あえて白紙答案や不出来答案を出して「不可」をとるという豪傑役人が一人くらいは出てきてもいいのではないでしょうかね。

 優秀な学生は,役所に入るとどうなるのかというところを,いましっかりと見ていることでしょう。志をもっている学生であっても,「優」をとる能力がこんな風に使われるなら,役人になんてなりたくないと考えるでしょう。あるいは,自分の「優」をとる能力をふんだんに活用して,バカな政治家を転がしてやろうと考える政治的野心をもつ者もいるかもしれません。どっちにせよ,国家公務員制度は,非常に危険な状況にあるのではないかという気がします。

 

 

 

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