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2019年11月 2日 (土)

教育

 

 

 サバティカルから復帰して1カ月。学部,通常の大学院,そして法科大学院(LS)の三つを併行して授業をやっています。どれも労働法がテーマであることに変わりないのですが,やっている内容はかなり違います。学部は,オーソドックスな労働法の講義です。講義に出てくる学生はそれなりにやる気がある人が多いとみなして,講義のレベル面ではそれほど手加減しません。ワンステージ(90分の講義)は,私のもっているものをできるだけ伝えようという意欲をもって,しゃべり続けるので,終わればぐったりします。それが学生にとってほんとうに良い教育になっているかどうかはわかりませんが,それでも大学の教育は,まずは大講義でなければ,という気持ちです。そう書きながら,2年ほど前は,試験の答案の出来があまりに悪いことから,もうこういう形式の講義は止めようと思っていたことも思い出しました。教育効果がでない教育をしているのは良くないと思ったからです。そして,そのときは,学部生にとってほんとうに役立つ講義とは,もっと市民講座やカルチャーセンター的なもので,実用性を重視したものではないのか,という気分でした。しかし,やっぱりそれは間違いだと思い直しています。たとえ少数でも(かりに5名くらいでも),私の労働法を真剣に聞いてくれる学生がいるかぎり,その人たちに絞った講義をするのが大学教育の責務だと考えるようになっています。もちろん,労働法はいつかなくなるよ,といういつもの主張は冒頭にしているのですが。

 通常の大学院は,数年前から,アジア系の外国人が多数なので,外国語の購読はせずに日本の判例を読ませていますが,こちらは私が本気で臨むと学生が消化不良となるので,ある程度,手加減しなければなりません。もちろん,それは手を抜くという意味ではなく,受講生のレベルにあった授業を全力で行うという意味です。特訓についてきて,力を伸ばせるかどうかは,本人次第です。
 大学院というのは,世間では学部よりも高度なものを学ぶ場だというイメージがまだあるかもしれませんが,おそらく多くの大学(とくに文科系)で,そうはなっていないのではないかと思います。大学院は,研究の場のはずですが,研究をするスタートラインに立てるレベルに達していない者でも入学できてしまうという話も,よく耳にします。なぜそうなるかというと,一つは大学院の目的が,たんなる研究だけではなくなっているからでしょう。もう一つは,定員充足という強い要請があるからでしょう。もちろん優秀な院生もたくさんいるのですが,そういう人たちにとって,ひょっとしたら大学院は物足りないものになってきているかもしれません。日本の大学に本当に優秀な大学院生を集めるためには,定員を絞って,教授のやっている最先端の研究をともに行うことができるくらいのレベルの者に限定して入学させる,ということにしてもよいのではないかと思います(そうでない者は,それぞれの国の大学の学部を出ていても,まずは日本の学部で勉強してもらう)。

 法科大学院では,今年はケースブックを使っていますが,この方式が良いかはなお結論が出ていません。きちんと予習をしてくれば,一番効果的な学習方法であることは間違いないです。しかし,予習をしない学生にとっては,まったく効果が出ないでしょう。でも本当に優れた法曹を生み出すためには,この方法でやるべきだと思います。一方,法曹養成ではなく,法律の専門的知識のある者を民間や公務員に送り出すことをLSの主たる目的とすることにするならば,ケースブックを使う必要はないような気がします。ただ,そうなると,講義形式で十分で,それなら法学部はやめて,法科大学院に一本化して,そこで学部の講義のような形式で授業をするという方法もありそうです。

 私の持論は,法学の基本的な知識は,国民が広く共有したほうがよいので,それは大学よりもっと早い段階で学習できるようにすべきだというものです。その一方,専門的な知識は職業専門学校としての法科大学院(大学院と呼ぶよりも,「ロー・スクール」と呼んだほうがぴったりします)で教えるのです。大学院は残してよいですが,そこでは高度な研究ができる場とし,上述のように,大学院生は留学生も含め,そのレベルについてくることができるものに厳選すべきでしょう。

 以上は,私の日常の労働(大学教育)をしながら感じていることなのですが,でも私のほんとうの問題関心からすると,もっと大学,いや研究体制全体をAIシフトにすべきだということになります。大学入試の英語に関する混乱はバカバカしいです。英語に多くの時間を割くのは,これからのAI時代において,どれだけ必要かを吟味すべきです。おそらく英語が必要な仕事についたとき,いまよりはるかに効率的な学習法が用意されて,どうしてあんなことを高校生のときにやらされていたのかと後悔する時代が来るでしょう。そもそも日本人が英語を苦手にするのには,それなりの理由があるのです。100メートルを13秒でしか走れない人に,どんなに猛特訓を課しても11秒で走れるようになりません。無理なものは無理なのです。それならテクノロジーを使って英語能力をどう補塡するかということに注力して,苦手なことに時間やエネルギーを使わないほうがよいのです。英語コンプレックスを捨て,英語なんて学ばなくても使いこなせるよ,というのが日本らしいやり方ではないでしょうか。

 大臣は無能でもいいですが,文部科学省の役人は,これからの社会をしっかり見据えた教育プログラムを考えてくれなければ困ります。もしそれができないのなら,せめて余計なことはしないでほしいというのが心からの要望です。子供たちの時間が,無意味なものに費やされないようにしてほしいです。

 これからの教育は,憂国の士が「寺子屋」的なものを(ときには,それはネット上で)開設したりするということになるのではないか,と思います。ほんとうに学ぶべきことは,公教育では学べず,そうした「寺子屋」的なところでしか学べないという時代が来るかもしれません。

 

 

 

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