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2019年11月の記事

2019年11月21日 (木)

英語の民間試験導入騒動に思う

 大学入試というのは,本来,個々の大学で,自分たちの教育を受けるのに適した学生を選抜することを目的としたものです。欧州では,入口での選抜はせず,出口(卒業)のところで厳しく選別するのが一般的だと思いますが,日本では,そういう方法はとっていません。そのため,日本では,大学入試が人生にとってきわめて大きな意味をもっていることは周知のとおりです。とりわけ入試の科目や内容は,受験生にとってきわめて大きな関心事です。

 私は,今後はさほど将来の保障につながらない大学への入学をめぐる競争に巻き込まれていることからして,受験生に同情的なのですが,それはさておき,現実には多くの受験生は,良い大学に入学することを,人生初期の最大の目標にしているはずです。

 萩生田大臣の「身の丈」発言などにみられるような,都市部と地域との格差が問題となって,野党はそこを攻めようとしているのかもしれませんが,そうしたことより,大学受験というものの重要性について,大臣も文科省も意識が足りないのではないか,ということが気になります。あれやこれや言われたから,問題をさっさと認めて民間試験の導入を延期すればよいというような軽々しい取扱いには,非常に強い違和感をおぼえます。「過ちては則ち改むるにはばかるなかれ」ということで評価する声もあるようですが,新しい試験に備えて準備をしてきた受験生や受験生を子にもつ家庭にとっては,たまったものではないでしょう。

 大学入試の試験問題をなんだと思っているのでしょうかね。共通一次やセンター試験に真剣に取り組んだことがある人であれば,試験の内容が変わるのが,どれだけ大きなことかはわかっているはずです。ひょっとしたら,そうした経験のない人が,いろんなことを決めているのではないか,と思わざるを得ません。

 国民は,なめられているのです。受験生やその家族の怒りは深く沈殿していくでしょう。政府が大事なことをいとも簡単に変えたという事実は,若い人たちに,政府を信頼していれば酷い目にあうという教訓となって残るでしょう。これは将来,政府を信頼しない国民を増やし,私たちの社会の将来に悪い影響を及ぼすでしょう。

 もちろん,今の入試制度が良いわけではありません。大学入試センター試験(2020年度から「大学入学共通テスト」)のようなものがなぜ必要なのか,試験科目はどういうものであるべきか,ということをゼロから議論してもらいたいです。デジタライゼーションの時代には優秀さの定義が変わるのであり(拙著『会社員が消える-働き方の未来図』231頁以下を参照),教育のあり方からして,根本的に変わらなければなりません。政府は,今後どういう人材を育てたいのか,そのためには,どういう大学(あるいは教育システム)にしなければならないのか。こういうことをしっかり議論するためには,まったく新たな発想をもつ人に教育政策をめぐる議論に参加してもらいたいです。

 ついでに言うと,国語の記述式問題も困ったものです。その採点基準にみられるように,記述とはいえ,型にはまった答えしか求められていません。採点基準に寄り添うことができるような人材しか良い点がとれません(だから予備校的な試験対策が可能となるし,アルバイトでも採点できるような試験となるのです)。これがAI時代に最も不要な人材になるのです。こんなことはわかりきっていることなのに,止まりそうにない現状が嘆かわしいです。

 

 

 

2019年11月 4日 (月)

予想は外れたが

 ラグビーのワールドカップが終わりましたね。「にわかファン」よりは,少しはファン歴が長いかも知れませんが,ほとんど「にわかファン」に近い私も,日本の躍進に感動し,楽しませてもらいました。いまは「祭りの後」の寂しさですね。ただ冷静に出場国の顔ぶれをみると,これって大英帝国の運動会ですよね。そこに日本がゲスト出場して,ゲストの割にはかなり頑張ったというところなのかもしれません。
 実は,弘文堂から2017年に刊行された『AIがつなげる社会-AIネットワーク時代の法・政策』(福田雅樹他編)のなかに収録されている,私の「変わる雇用環境と労働法-2025年にタイムスリップしたら」というエッセイでは,冒頭にラグビーのワールドカップの話題をもってきて,日本は「予選免除による時間的余裕も得て,対戦予定国の情報を集め,さらに会場予定地の気象状況や競技場の芝の状況などのデータを徹底的に分析して戦術をたてて臨んだ結果,決勝では惜しくもニュージーランドに敗れたものの,準優勝となり世界に衝撃を与えた」という予言をしていました。南アフリカに勝って,ウエールズに勝っていれば,決勝はニュージーランドだったのですが,残念ながらベスト8どまりで予言は外れました。また今回のチームで,データがどれだけ活用されたかわかりませんし,外国人も含め他のチームの一体化といった精神的なものの重要性が強調されているので,デジタル技術の勝利というより,アナログ的なものが勝利をしたのかもしれません(もちろん,スクラムの組み方の強化などにもみられるように,デジタル技術を使った分析が当然役立っているとは思うのですが)。かりにそうだとすれば,もしデジタル技術をもっと味方につけていたら,さらに上をめざせるのかもしれませんね。次のワールドカップを楽しみにしています。
 私のエッセイに戻ると,上記の部分に続いて,「そこで活用された人工知能(AI)を用いた分析手法は,翌年の東京オリンピックでも,ほぼすべての競技や種目において取り入れられた。その結果が,それまでの最多だった前回の東京オリンピックの16個から倍増の32個の金メダルだった」という予言もしています。これは,あたるでしょうか。
 マラソンと競歩については,すでに対策をとるうえで有利と思っていた地の利が,会場の変更により,大きく損なわれてしまいました。会場の変更をいとも簡単に決めてしまえるIOCの巨大な権力のすごさをまざまざと見せつけられたと同時に,選手側は緻密な戦略を立てて対策を立てても,こういう大きな力によって,簡単にそれがひっくり返される非力な存在だということも思い知らされました。
 ただ私は,そもそも灼熱の東京でマラソンなんてやるのは正気の沙汰ではないと思っていたので,結果としては良かったのですが,それならもっと早く決めろよと言いたいです。マラソンはやはり冬にやるべきもので,冬季オリンピックの種目に含めたほうがよいのでは,などと思ってしまいます。どうしても夏にしたいのなら南半球でやるというのが,選手ファーストでしょう。
 ところで今回のラグビーでは台風被害も大きな問題となりました。オリンピックでの野外競技や海上競技では,当然,台風に何度か直撃されて影響を受けるでしょう。その対策はもちろんされているでしょうが,それでも今回のラグビーの日本対スコットランド戦では,スコットランドがルール無視で試合の中止はまかりならぬと恫喝したように,傲慢な国は何を言ってくるかわかりません。中止や順延の判断はきちんと事前にルールを決めて,それを例外なく毅然と実行してもらいたいですね。ゆめゆめ,アメリカでのテレビ放映の都合などによって左右されることのなきよう,お願いしたいものです。

2019年11月 2日 (土)

教育

 

 

 サバティカルから復帰して1カ月。学部,通常の大学院,そして法科大学院(LS)の三つを併行して授業をやっています。どれも労働法がテーマであることに変わりないのですが,やっている内容はかなり違います。学部は,オーソドックスな労働法の講義です。講義に出てくる学生はそれなりにやる気がある人が多いとみなして,講義のレベル面ではそれほど手加減しません。ワンステージ(90分の講義)は,私のもっているものをできるだけ伝えようという意欲をもって,しゃべり続けるので,終わればぐったりします。それが学生にとってほんとうに良い教育になっているかどうかはわかりませんが,それでも大学の教育は,まずは大講義でなければ,という気持ちです。そう書きながら,2年ほど前は,試験の答案の出来があまりに悪いことから,もうこういう形式の講義は止めようと思っていたことも思い出しました。教育効果がでない教育をしているのは良くないと思ったからです。そして,そのときは,学部生にとってほんとうに役立つ講義とは,もっと市民講座やカルチャーセンター的なもので,実用性を重視したものではないのか,という気分でした。しかし,やっぱりそれは間違いだと思い直しています。たとえ少数でも(かりに5名くらいでも),私の労働法を真剣に聞いてくれる学生がいるかぎり,その人たちに絞った講義をするのが大学教育の責務だと考えるようになっています。もちろん,労働法はいつかなくなるよ,といういつもの主張は冒頭にしているのですが。

 通常の大学院は,数年前から,アジア系の外国人が多数なので,外国語の購読はせずに日本の判例を読ませていますが,こちらは私が本気で臨むと学生が消化不良となるので,ある程度,手加減しなければなりません。もちろん,それは手を抜くという意味ではなく,受講生のレベルにあった授業を全力で行うという意味です。特訓についてきて,力を伸ばせるかどうかは,本人次第です。
 大学院というのは,世間では学部よりも高度なものを学ぶ場だというイメージがまだあるかもしれませんが,おそらく多くの大学(とくに文科系)で,そうはなっていないのではないかと思います。大学院は,研究の場のはずですが,研究をするスタートラインに立てるレベルに達していない者でも入学できてしまうという話も,よく耳にします。なぜそうなるかというと,一つは大学院の目的が,たんなる研究だけではなくなっているからでしょう。もう一つは,定員充足という強い要請があるからでしょう。もちろん優秀な院生もたくさんいるのですが,そういう人たちにとって,ひょっとしたら大学院は物足りないものになってきているかもしれません。日本の大学に本当に優秀な大学院生を集めるためには,定員を絞って,教授のやっている最先端の研究をともに行うことができるくらいのレベルの者に限定して入学させる,ということにしてもよいのではないかと思います(そうでない者は,それぞれの国の大学の学部を出ていても,まずは日本の学部で勉強してもらう)。

 法科大学院では,今年はケースブックを使っていますが,この方式が良いかはなお結論が出ていません。きちんと予習をしてくれば,一番効果的な学習方法であることは間違いないです。しかし,予習をしない学生にとっては,まったく効果が出ないでしょう。でも本当に優れた法曹を生み出すためには,この方法でやるべきだと思います。一方,法曹養成ではなく,法律の専門的知識のある者を民間や公務員に送り出すことをLSの主たる目的とすることにするならば,ケースブックを使う必要はないような気がします。ただ,そうなると,講義形式で十分で,それなら法学部はやめて,法科大学院に一本化して,そこで学部の講義のような形式で授業をするという方法もありそうです。

 私の持論は,法学の基本的な知識は,国民が広く共有したほうがよいので,それは大学よりもっと早い段階で学習できるようにすべきだというものです。その一方,専門的な知識は職業専門学校としての法科大学院(大学院と呼ぶよりも,「ロー・スクール」と呼んだほうがぴったりします)で教えるのです。大学院は残してよいですが,そこでは高度な研究ができる場とし,上述のように,大学院生は留学生も含め,そのレベルについてくることができるものに厳選すべきでしょう。

 以上は,私の日常の労働(大学教育)をしながら感じていることなのですが,でも私のほんとうの問題関心からすると,もっと大学,いや研究体制全体をAIシフトにすべきだということになります。大学入試の英語に関する混乱はバカバカしいです。英語に多くの時間を割くのは,これからのAI時代において,どれだけ必要かを吟味すべきです。おそらく英語が必要な仕事についたとき,いまよりはるかに効率的な学習法が用意されて,どうしてあんなことを高校生のときにやらされていたのかと後悔する時代が来るでしょう。そもそも日本人が英語を苦手にするのには,それなりの理由があるのです。100メートルを13秒でしか走れない人に,どんなに猛特訓を課しても11秒で走れるようになりません。無理なものは無理なのです。それならテクノロジーを使って英語能力をどう補塡するかということに注力して,苦手なことに時間やエネルギーを使わないほうがよいのです。英語コンプレックスを捨て,英語なんて学ばなくても使いこなせるよ,というのが日本らしいやり方ではないでしょうか。

 大臣は無能でもいいですが,文部科学省の役人は,これからの社会をしっかり見据えた教育プログラムを考えてくれなければ困ります。もしそれができないのなら,せめて余計なことはしないでほしいというのが心からの要望です。子供たちの時間が,無意味なものに費やされないようにしてほしいです。

 これからの教育は,憂国の士が「寺子屋」的なものを(ときには,それはネット上で)開設したりするということになるのではないか,と思います。ほんとうに学ぶべきことは,公教育では学べず,そうした「寺子屋」的なところでしか学べないという時代が来るかもしれません。

 

 

 

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