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2019年8月17日 (土)

英語教育と比較優位

 2020年から小学生の3年生以上に英語教育が必修になるということに,私は反対の立場です(拙著『会社員が消える-働き方の未来図』(文春新書)の223頁)。理由は,英語能力は技術で補うことが期待できるからです。時間的に余裕があれば英語を勉強するのもいいでしょう。しかし,子供の限られた時間について,何に高いプライオリティを与えるのかは,とても重要なことです。やっておいたほうがよいことは沢山あります。そのなかでなぜ英語なのか,ということです。グローバル化が進むから。日本人は英語がそもそも苦手だから。英語をできたほうが外国人と直接コミュニケーションができるから・・・。
 でも半端に英語ができて中身のある話ができない人間が,外国人と英語で話して,丸め込まれてしまうというような心配のほうが大きいです。苦手なものを努力で克服しようとするのは,どうも受験秀才的な発想で,これからはそういうことではダメではないかと思います。苦手なことはやらず,得意なことを伸ばすことに力を入れるほうが大切です。何でもできるというのは,多くの場合,何もできないと同義です。もちろん,苦手であろうかなかろうが,誰でも身につけておくべきことはあります。それが教養です。たとえば,世界に目を向けて,いま何が起きているのか,その原因は何かを考えていくことは,とても重要です。哲学,歴史,地理などが重要な科目です。これを学ぶには,とても時間がかかります。英語なんてやっている時間がもったいないです。英語は,道具にすぎません。しかも多くの人は自分でやらなくてよいのです。海外旅行にツアーで行くと日本語だけですむでしょう。ビジネスでも,重要な商談では優秀な通訳をつけたほうが確実です。
 ちなみに私は英語がとても苦手ですが,それでも国際会議で司会をやったりしたことはあります。大学教育でこれから試される「読む」「書く」「聞く」「話す」のうち,とくに「聞く」は苦手です。アメリカの映画などをみても,とくにドラマとなると字幕がなければほとんど理解できません。でも専門用語が中心となる会議となると,なんとかなるのです。専門の文献を「読む」ことは勉強してきました(英語だけではありませんが)。ボキャブラリーがあるので,専門領域になれば「話す」ことも,なんとかなります。「書く」のはとても苦手ですが,それでも最近でも英語の論文は書いています。これはネイティブの助けを得ることができるからです(ネイティブチェック)。というか「書く」ほうは,どんなに勉強してもネイティブチェックが不要となることはありません。それだったら「書く」ことに,そんなに力を入れなくてもいいです(メールのやりとりも,うまい英語を書くなんてことを考えなければ,これまでの英語教育のレベルで十分に対応できます)。
 しかも,これからの若者は,もっとテクノロジーの助けを得ることができます。私のような英語劣等生であっても,もっと楽に英語を使えるようになるはずです。というか,そもそも外国語を使わなくても,外国人とコミュニケーションがとれる時代が来るのです。機械がやってくれますから。となると大事なのは,話す内容のほうです。
 私は若いころ,ある国際会議で,ある大先生が,抑揚のない典型的な日本語英語で話されるのを聞いて衝撃を受けたことがあります(その先生は「聞く」能力は素晴らしかったですが)。とくに衝撃だったのは,みんなが熱心に耳を傾けて聞いていることに対してです。一緒にいた外国人に聞いたら,初めて聞いたときは何を話しているのか全く理解できなかったそうです。しかし,そのうち,「彼の英語」の発音の特徴がわかったので,理解できるようになったというのです。そして,そのように理解しようと努めたのは,彼の話を聞きたい(彼が何を言っているのか知りたい)と思ったからです。そういえば,私たちも,外国の偉い先生が,日本語を多少でも話してくれれば,理解しにくくても,一生懸命に理解しようと努めるはずです。コミュニケーションというのは,そういうものです。
 ちょうどWedgeの7月号でも,「迷走する日本の英語改革」という特集で,似たようなことを言っている記事が出ていました。AI時代における英語の必要性がどこまであるのかを,もっと考えるべきです。英語教育に力を入れるなら,英語を話せる人材ではなく,英語を話さなくてもよい機械を開発してくれる人材の育成のほうにエネルギーを注入してほしいです。
 同様のことは,プログラミング教育にもあてはまります。プログラミング教育には,プログラミングそのものよりも,これを通して論理的思考が習得できるメリットがあると言われています。でも,英語が苦手な人がいるように,論理的思考が苦手な人がいます。論理的な思考をもっている人は,論理的な思考をもたない人を見下す傾向にあるように思えますが,実は,論理的な思考をもたなくても感性が豊かな人のほうが高級な人間かもしれません。まあ何が高級かは価値観の問題かもしれませんが,とにかく人それぞれ自分独自の優秀さを発揮できる分野があるのです。個人がそうした様々な分野で社会的分業をしていったほうが,国の経済力は増します(アダム・スミスの時代から,そう言われています)。リカードで有名な比較優位論からすると,英語が堪能な国際弁護士は,弁護士活動も英文レターを書くことも得意だけれど,後者は自分よりも英語能力が劣るとしても秘書にやらせて,自分は弁護士活動に専念したほうがよいのです(それに,今後は秘書も機械を使えば,かなりのレベルのことができるかもしれませんし)。国民が相対的に優位な分野で専門能力を磨き,社会的分業をしていくという経済的な視点で,教育政策も考えていってもらう必要があると思います。論理的な思考は苦手だが直感的な閃きをもつ人を,論理的思考をもつ人が支えるということでよいのです。どこかの大国は,そういうようにして回っているようにみえます。

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