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2019年7月の記事

2019年7月19日 (金)

消費税の引上げは争点となるのか

 参議院選挙は,自民党の優勢が伝えられています。結果はどうなるかわかりませんが,消費税の引上げを争点とした野党の戦略ミスではないでしょうか。
 私の感覚がおかしいのかもしれませんが,消費税の2%の引上げというのは,どれほどのものなのでしょうか。たしかに消費税は逆進性があり,所得の低い人に相対的に打撃が大きい税金です。所得が高かろうが低かろうが,生活のための一定の消費は避けられないからです。だからこそ基本的な消費にかかわるようなものについては,軽減税率が導入されることになっていて,逆進性の影響を緩和しています。
 そのような配慮付きの増税において低所得者のダメージはどの程度なのか,ということです。たとえば月に15万円の可処分所得がある人を考えてみましょう。かりにその全額を消費にまわして8%の消費税が課されるとすると,実際に使える額は約13万9千円(15万÷1.08)です。10%に引き上げられると約13万6千円(15万÷1.1)です。3千円,使える額が減るということです。3千円でも痛いと言えば痛いのですが,野党が血相を変えて批判するほどの額ではないとみるのが常識的なところでしょう。しかも軽減税率もありますし,ポイント還元もあります。ということで,むしろ財政規律派からすると,増税の意味がないという批判が出てきても不思議ではありません。
 もちろん景気というのは「気」のものであり,増税が消費マインドを高めるものでない以上,景気にはよくないでしょう。そういう意味で,消費支出を増やし,デフレから脱却しようとするならば,増税は避けたほうがよいという意見もわからないわけではありません。ただ「気」というのであれば,今回の2%なんて不十分で,今後さらに増税があるかもしれない,という話のほうが実は問題は深刻でしょう。消費を控える誘因となるからです。その観点からは,もうこれ以上の増税が当面はないという範囲までしっかり税金を上げてもらったほうが良いという意見もありうるところです。
 一方で,年金2000万円問題は,深く考える人であれば,年金の保険料の引上げはできないから,年金給付も増やせないので,自助でやってもらうしかないというメッセージともいえます。社会保険料(これも広義には税金の一種)の大きな引上げがないと期待できるならば,「気」分的には減税に近いものといえるかもしれません。国民は誰でも,社会保険の財政が厳しいことは知っていますので。年金2000万円問題は,社会保険料の「増税」はしないということなんだと自民党は言うべきだったのかもしれません。
 ということで,自民党は(これ以外にも)多くの失策をおかしているのですが,少なくとも経済政策面に限定すると,冷静に考えると,与党のやっていることに不満がないと考える国民が多くいても不思議ではないのです。むしろ財政的な裏付けのない(あるいは現実性が乏しい)バラマキ政策には,信用が置けないと考えている国民が多いのではないでしょうか。
 たとえば最低賃金を上げますとアピールしている候補者がいます。では,どうやって上げますか,と聞きたくなります。そういう候補者は,最低賃金がどうやって決まっているかをわかったうえで言っているのでしょうか。もちろん理論的には,現在の最低賃金決定メカニズムを一新して政府が独裁的に決めたり,あるいは現在の最低賃金決定メカニズムのなかで,強制的に政府が介入して最低賃金を上げたりすることが,まったくできないというわけではありません(後者は,それに近いことを自民党がやっていると言えなくもありません)。でも,そんなの現在の野党が政権をとっても無理だろう(かつ望ましくもない)というのは,明らかです。
 そんなことより,先日もこのブログで書いたとおり,デジタル社会への対応をどうするかといった未来への投資という観点からの政策を主張すべきだったのです。いま最低賃金が上がっても,技術革新で雇用が奪われてしまえば,最低賃金なんて関係のないものとなります。
 そういえば,今朝の日経新聞の朝刊に,「増税前の駆け込み需要に関しては「(現在も今後も)ない」と答えた企業が48%となり,「既にある」「今後出てくる」を合わせた31%より多かった。」という記事が出ていました。国民が消費増税にそれほど反応していない証しでしょう。

2019年7月15日 (月)

日雇派遣規制の見直し

 昨日の日本経済新聞に「日雇い派遣は速やかに解禁を」というタイトルの社説が出ていました。「政府は規制改革推進会議の答申を受け,本業の収入が年500万円以上ないと認めていない副業としての日雇い派遣について,年収条件を見直す方針を決めた」ということのようです。
 2012年の民主党政権時に導入された労働者派遣に対する余計な規制は見直されるべきということは私も主張してきました(例えば,『雇用改革の真実』(日経プレミアシリーズ)の第4章「派遣はむしろもっと活用すべき」や『雇用社会の25の疑問-労働法再入門(第3版)』(弘文堂)の第23話「労働者派遣は,なぜたたかれるのか」を参照)。私以上に,明快に問題点を指摘していたのは,小嶌典明先生です。『労働法の「常識」は現場の「非常識」』(中央経済社)の第12話「『日雇い派遣』禁止の奇々怪々」では,2012年の法改正のおかしさを的確に指摘されています。
 日雇派遣のニーズの高い者(世帯収入500万円未満の主婦や定時制学校に通っている者など)に制限をかけて,世帯年収が500万円以上あって副業的に行う日雇派遣ならやってよいというようなおかしな法律があるのです(労働者派遣法35条の4,労働者派遣法施行令4条,労働者派遣法施行規則28条の3等を参照)。まさに小嶌さんが言われるような「奇々怪々」な規制です。日雇派遣をおよそ禁止するとまで言えば,まだわからないわけではありません(ただ派遣は臨時的・一時的なものであるのが原則とされているので(労働者派遣法25条),そうすると日雇派遣こそ望ましいことになるはずです)が,ニーズの低い者にだけ認めるという点で「常識」外れなのです。
 小嶌さんは,「政府や行政当局にやる気さえあれば,いつでも法改正はできる」と書かれています(「直接雇用のみなし」のこと念頭においた記述ですが)。今回は,労働政策審議会が動かないから,規制改革推進会議からの提案となってしまったのでしょうか。このルートが必ずしも良いとは思わないのですが,労政審がおかしな規制を自ら改めていくことができなければ,このルートが存在感をもつようになるでしょう。  
 いったん作ったものでも,おかしいものであれば,迅速に廃棄することが必要です。「直接雇用のみなし」にはいろいろな考え方の違いがあり意見が分かれるのはわかりますが,「日雇派遣」は論理的におかしい規制というべきなので,この時期の見直しは遅すぎたほどです。

2019年7月13日 (土)

反対意見

 712日の日本経済新聞夕刊のフリーランスに関する記事で私のコメントが1行だけ紹介されました。フリーランスに関する話は,緊急性を要するものではないので,何か記事に余裕があるときに掲載されるのだろうと思っていましたが,意外に1面で大きく扱われていましたね。
 ところで,今朝の日本経済新聞の朝刊で,小さな記事ですが,「政府は消費者庁の徳島県への全面移転を見送る方針だ。危機管理や国会対応に支障が出るおそれがあると判断した。」と出ていました。こんなことになるのではないかと危惧していましたが,それが当たってしまいました。危機管理をアナログ的にやろうとしているかぎり,また国会対応なるものを従来のようなやり方でやろうとしているかぎり,東京一極集中から脱することはできないでしょう。現状を変えようとするとき「変えない理由」はいくらでも見つけることができます。組織は上にいる人が変える気がなければどうしようもありません。消費者庁にどういう人が上にいるのかわかりませんが,とにかく結果は残念なことです(そういえば,少し前に厚生労働省が,議員への説明をオンラインでするということが報道されていました。これは大変良い試みだと思います)。
 季刊労働法の最新号(265号)に,「労働組合の資格審査は必要か-組合自治と行政サービスの効率性の観点からの再検討」という論文を発表しました。労働委員会の組織のあり方を根本的に見直すべきだというのは,労働委員会で仕事をしている者として強く感じていることです。私は3年前にも同誌252号で,「労働委員会制度に未来はあるか?」という論文で,制度改革の必要性を論じましたが,今回はより論点をしぼって書いたものです。労働委員会は,もっとスリムに効率的に,集団的労使紛争の解決という自己の専門性を生かしたサービスを提供することができるはずだという信念に基づいて書いています。
 今回の資格審査制度不要論は,労働委員会の何かの会合(同種のものがいろいろあるので,その名前は忘れてしまいました)で報告をしたものに,加筆訂正を加えて論文化したものです。
 現存する制度で少しでも無駄と思うものは,たとえ面倒であっても,その存在意義をしっかり検討すべきです。存在意義があると確認できても,同じ目的をより効率的に達成できる方法がないかを検討すべきです。それにより組織をスリム化できるときは,スリム化すべきです。スリム化することにより,マンパワーを,より重要な仕事に回すことができます。組織は,そういうスリム化を実行できた人を評価するようにすべきです。実際には,できるだけ組織をこれまでどおりに,次につないだ人が評価されることが多いようですが,これはほんとうに困ったことです。組織のために滅私奉公できる人が組織人としては立派なのでしょうが,そういう組織には,今後は良い人が集まらないでしょう。そして,やがて組織は衰退していくのです。
 大事なのは,労働委員会という組織ではなく,労働委員会が果たしている機能です。その機能の重要性は誰も否定しません。問題は,その機能を十分に発揮できるようにするためのシステムが,うまくできているかです。資格審査制度不要論は,労働委員会の本来の機能を発揮できるようにするためのシステムを構築し,労働委員会制度を延命させるための一つの理論的・実践的な提言です。
 とはいえ,労働委員会関係者からは喜ばれないでしょうし,残念ながら誰からも相手にされない論文であることは自分でも十分にわかっています。それでも書くことが自分の義務だと思ったのです。
 最近,アメリカの1905年のLochner(ロックナー)判決のことを少し調べました。ニューヨーク州でパン屋の労働者の労働時間を110時間,160時間に制限する州法に違反したとして罰金を科されたパン屋の経営者が,この州法は合衆国憲法の第14修正(修正14条)に違反していると主張したものでした(これは,第14修正の「デュープロセス」条項が,「実体的デュープロセス」にも及ぶのかという論点とかかわりますが,詳細な説明はアメリカ憲法の専門家にゆずります)。そして,この判決は,契約の自由を重視して,州法は違憲であるとしたのです。経営者の契約の自由を適正に制限したものではないというのが主たる理由です。この法廷意見に対して,Halms(ホームズ)判事は反対意見(dissent)を述べています。その最初のフレーズが次のものです。

I regret sincerely that I am unable to agree with the judgment in this case, and that I think it my duty to express my dissent.

「心から残念なことだが,私はこの判決に同意することはできないのであり,反対意見を述べることは私の義務だと思うのである。」

 アメリカの労働立法を冬の時代に追いやることになるLochner 判決に敢然と異議を述べたHalms判事の言葉に妙に惹かれるものがありました。同判事の考え方は,私と同じではありませんが,それよりも当時のアメリカの連邦最高裁判所の流れ(といっても,この判決は54の僅差だったのですが)に飲みこまれず,「反対意見を述べることは私の義務だ」というフレーズに勇気づけられたのです。 

2019年7月12日 (金)

参院選の争点に欠けているもの

 参議院は途中の解散がないので,今回選ばれる改選議員には,これからの任期6年を託すことになります。そうなると,6年間に起こりうる変化に対応できるような人を選ぶという視点が必要となってくるはずです。年金が争点となっていますが,現在の年金制度を前提としたとき,それをどう延命させるかは技術的な側面が強いので,政治の争点としても仕方ないでしょう。年金のあり方などを抜本から見直して,国民の老後の最低生活保障を再検討するというのなら政治的イシューとなるでしょうが,そういう議論はあまり出てきていませんね。
 今回の選挙では,生活の安定というのを各政党が競い合って言っているような気がします。どの政党も,国民の可処分所得を増やす政策を提示しています。こうした政策それ自体が悪いわけではなく,これにより消費を刺激し,デフレ脱却につながるシナリオを描くことができそうです。具体的な手法は,家計収入を増やす賃金引上げ,家計支出を減らす教育無償化や消費増税阻止(政府の消費増税はするがポイント還元や軽減税率をするといった方法もその一つです)が言われており,財源についても,消費増税分をまわすとしたり,景気改善による将来の税収に期待したりするものもあれば,国債の発行や大企業への法人税の引上げ・富裕層への累進課税の強化というような直接的な方法で財源をもってくる方法なども言われています。
 欧州では財政出動の足かせとなるEUの財政規律への不満が,反EUをかかげ,反緊縮財政(anti-austerity)を唱えるポピュリズム政党を生み出しました。イタリアでは,ここから反EU政権(Movimento 5 stelleLegaの連立政権)が誕生しました(いま連立は危機にあるようですが)。政府が国民の可処分所得を増やす政策は,受けがいいのです。
 国民の可処分所得にターゲットをしぼった政策は,振り返ると,アメリカでの労働法の誕生とも関係しています。ニューディール期のワグナー法(全国労働関係法:NLRA)が,労働組合の団結を認めたのは,団体交渉による賃金の引上げに期待したからです。同様の狙いによる公正労働基準法(FLSA)による最低賃金の設定などがなされたのも,この時期です。これはケインズ的政策の成功例とされました(ニューディールにケインズの影響が実際にどこまであったかは議論があるようですが)。
 アメリカのニューディールは,あの黄金の20年代の最後に大恐慌が起きて,どん底の不況となり失業者があふれている時期になされた緊急避難的な対策であったように思います(ちなみにアメリカの労働法は,あの時期のものから,大きくは変わっていません[差別禁止法は別ですが
]。むしろNLRAは,その後の法改正により,労働組合への規制が強化されました)。こうした強力な政策的な介入は一時的な効果はあっても,持続的な成長のためにはまた違った政策が必要となるでしょう。
 生活の安定というとき,最低限のレベルの保証は必要なものの,それを超えるレベルについては,中期的な視点からの政策が必要となると思います。そこで注目したいのは,生活に必要なインフラがデジタル技術を使ったものとなる以上,その部分の費用の引下げや無償化を打ち出す政策です。こうした政策のほうが,実はこれからの生活水準をよほどよくすると思います。
 先の国会でデジタル手続法(情報通信技術の活用による行政手続等に係る関係者の利便性の向上並びに行政運営の簡素化及び効率化を図るための行政手続等における情報通信の技術の利用に関する法律等の一部を改正する法律)が可決され,政府もいよいよデジタル化に向けて動き出そうとしているようですが,あまり本気度はみえてきません。
 そもそも選挙のやり方からしてそうです。過疎地域の問題がいわれていますが,オンライン投票を進めるべきです(リスクはありますが,それを乗り越える努力をしてもらいたいです)。それにより国民の政治への参加も広がります(それが悪いと考えているのなら別ですが)。思わぬ人が選ばれる可能性もありますが,(民主主義の支持者であれば)それが民意である以上受け入れるべきでしょう。また教育の無償化については,とくに高等教育のほうは,無償になっても,教える教育の内容が,デジタル経済社会に向けた適切なものになっていなければ,意味がありません。
 そもそもデジタル技術は,社会的弱者に優しい技術となりうるものです。国民全員にスマートフォンを無料配布したり,デジタル音痴の人をサポートする人材を配置したり,様々なデジタルサービスのプラットフォームの構築を政府がしたりするなど,安価で良好なデジタルサービスを享受できるような状況にすることのほうが,中期的にみた国民の生活の安定に役立つと思います。そうした公約を打ち出す政党が出てこないでしょうかね。
 その一方で,実は気になっているのは,「安定」という言葉の響きです。安定というのは現状維持というニュアンスがあります。国民が安心や安全(security)を求めるのは当然で,それを社会的に提供するのが社会保障(social security)ですが,それは「安定」とは少し違います。「安定」ばかりを求めると,転落への始まりとなります。変わる環境のなかでの「安定」とは,「変化」することです。国民に必要なのは,「変化」への適応能力なのです。それがあって初めて「安心・安全」が得られます。
 政党がデジタル経済社会への対応といった新しい問題に取り組もうとしないのは,将来に向けたsecurityよりも,現在の安定を重視する姿勢があるからでしょう。「そんなこと言ったって,当面は国民の可処分所得を増やして,デフレから脱却しなければ仕方がないじゃないか」という反論が来そうですが,何かそこに危険な匂いを感じるのは私だけでしょうか。

2019年7月 6日 (土)

労働法がなくなる前にやっておきたいこと

 『雇用社会の法と経済』(2008年,有斐閣)の巻末に,諏訪康雄先生と清家篤先生をお招きして,編著者を代表して一橋大学の神林龍さんと私がお話を伺うという形でなされた座談会が掲載されています。そのなかで,諏訪先生が,法学と経済学の違いについて,生理現象と病理現象という言葉をつかって説明をされています(英語でいえば,pathologyphysiology)。法学は,生理現象を意識しながらも,病理現象を扱わなければならないものであるのに対して,経済学は,生理現象を正面から扱うものであるが,ただ,立法のようなマクロの法政策を考える際には,法学も生理現象を扱い,その点で,経済学とすごく照応するところがある,ということです(291頁)。
 法は一般的なルールを定めるものではあるのですが,裁判の実践では,事案に応じた(casuisticな) 法の解釈・適用が必要とされます。法学のこのあたりの問題解決力を,清家先生は経済学の立場からみた法学の特徴として指摘されているのです(304頁)が,これはアリストテレス流にいうフロネーシス(φρονησιζ)であり,実践的な知恵なのだと思います。学問的知識であるエピステーメー(επιστημη)にとどまらない実践的な技芸も扱わなければならないのが法学であり,そこに経済学と法学の違いがあるように思えます。ただ,一般的なルールを定めようとするマクロ政策的な段階では,違いはあまりないのです。
 ところで,マクロの労働政策の立案では,その症状をきちんと診断する必要があり,病理現象が多く出てくる裁判や病理現象を好んで報道する一部マスコミからのミクロ的なエピソードをみているだけでは,診断を誤って過剰な治療をしてしまうおそれがあります。熱が出たときに,それが数日で治る風邪なのか,手術を要する重病が原因なのかでは大違いであり,そこの診断を間違ってはいけないということです (立法を根拠づける事実[立法事実]の存否の判断を誤ってはいけない,と言ってもよいでしょう)。11年前に,労働法律旬報1671号の巻頭言で「労働と法 適切な『診断』の必要性」のなかで,そのような趣旨のことを書いたのですが,これがプロレイバーには大変評判が悪かったようです(後にも先にも,労働法律旬報で執筆したのは,そのときだけとなりました)。
 診断を誤る危険性がある理由の一つは,エビデンスを無視するからということがあります。EBPMの重要性です。ただ何が信頼できる調査や統計かというのが,ちょっと揺らいでいる感じがしますので,エビデンスを基礎づけるデータの扱い方については,私のような統計や調査の素人は注意をしなければなりません。
 もう一つは,評価の視点にバイアスがかかってしまうからということがあります。この点で,依然として階級的対立を前提に資本家(経営者・株主)と労働者をとらえる伝統的な労働法研究者と,企業と労働者には支配従属のような身分関係が生じるとしても,その支配者は領主のような庇護をする存在でもある(日本やアメリカの「厚生資本主義」的企業経営を参照)という側面を注視する立場(主として,経営学者)では,評価がずいぶん異なることになります。労働法は,支配はダメで,庇護だけ拡張せよという発想になりがちで,それが非正社員への庇護の拡大(支配なき庇護)の話にもつながりやすくなっています。この企業内の労使関係という領域の分析は,経済学もずいぶんと発展していますが,労働法に本当に近い分野は,広い意味では経済学の一部といってよいのかもしれませんが,経営学,なかでも人事管理論なのだと思います。
 人事管理論は,支配をすることを前提に,そのなかでいかにして人に働いてもらうかを,経営効率の観点から考えていくものであり,そこでは労働者へのインセンティブが重要なファクターなので,そのような観点からは,労働法に言われるまでもなく,労働者の庇護にも取り組んでいるといえるのです。
 そのことを前提に,ただ,企業が自発的に庇護行動をとるときでも,なお労働法が介入すべき領域があるとすれば,それは何かというのが,「人事と法の対話」(以前に刊行した守島基博さんとの対談本のタイトル)における次のステップでの検討課題だと考えています。人事管理の標準的な議論では,労働法は,外的(環境的)制約の一つと位置づけられて,いわば固定点として君臨(?)していると捉えられていることが多いような気もします(コンプライアンスが強調されるといっそうそうなるでしょう)が,むしろ労働法は,そんなに出しゃばらず,良き企業経営を補完するくらいの役割が望ましいと考えています(なお,いわゆるブラック企業への対策は,拙著『君の働き方に未来はあるか?』(光文社新書)の第3章を参照)。ただ,このような役割をきちんと果たそうとするならば,現在の労働法をかなり修正する必要があります。
 私は第4次産業革命が進むと,企業のあり方が変わり,さらに個人での自営的就労が増えて,労働法は最終的にはなくなっていくと考えていますが,そこに至るまでにはまだ時間があり,その間にやることがあります。それが,上記のような観点からの労働法の見直しであり,それが結果として,労働法の(限界があるとはいえ)延命につながるのではないかと考えています。

2019年7月 4日 (木)

高齢者と支出管理,そして若者

 老後の生活設計を考えるうえで,実際に最も効果的なのは,支出を減らすことです。いったん上げてしまった生活水準を落とすのは難しいかもしれませんが,それではどうしても不足額が増えてしまいます。将来の自助を考えるうえでは,私たち高齢者予備軍は,資産形成と同時に,支出管理をすることも必要でしょう。私自身も,無駄なモノは買わないという物質面ではスリムな生活(体型はスリムではないのですが)を習慣づけようと試みています。ただ,こういう人が増えると,高齢者の消費に頼った経済ではいけないことにもなりますね。
 家計簿をつけて無駄な出費を減らすということは,多くの人がされているでしょうが,きちんと複式簿記をつけて,自分の資産状況を把握しながら,お金の出入りを管理するということが,大切かもしれません(私自身はつけていませんが,いつか将来,事業者として独立して青色申告をしようとなると,複式簿記をつけることが必要となりますね)。これからのフリーワーカーの時代の到来を考えると,子供のときから複式簿記を学んでおいたほうがよいかもしれません。ドイツの詩人Goethe(ゲーテ)も,学校で複式簿記を教育することを勧めたそうです。これもお金の教育の一つで,私たちが安心して生きていくために必要な技術といえるでしょう。
 ところで,支出を固定して収入不足を論じるのではなく,収入を固定して,支出削減を検討するというのは,言われてみれば当たり前のことであり,いまは若者であっても,堅実志向となり,そういう生活をしているのだと思います。たとえば私の周りの大学生は,限られた親の仕送りのなかで,バイトをしたりしながら,なんとかやりくりしています。昔なら就職して数年も経つと消費生活を楽しめるようになるということもあったのですが,いまの時代はなかなかそのレベルにまで給料が上がらないので,就職後も,収入に見合った支出をするなど当たり前のことでしょう(そこで借金をして消費を増やせば泥沼に陥りかねません)。飲食店でも,若者とシニア世代の行くところははっきり分かれてきていて,若者は飲食にあまりお金をかけていないような気がします(特別なイベントのときは別でしょうが,そういうときでも,若者が収益率が高いアルコールを飲まなくなったと嘆いている飲食店オーナーが多いです)。
 また時代の流れは,モノからコトへということで,モノを作って消費する経済から脱皮しようとしています。生きていくうえで必要なこと以上にモノを消費して欲望を充足していた時代から,より精神的なコトを消費することで欲望を充足できる時代への移行ということでしょう。若者が,昭和世代のおじさんたちからみて,どことなく覇気がないようにみえても,実はより洗練された欲望のコントロールと消費生活を楽しんでいる可能性は十分にあります。
 国の財政に目を転じれば,政府は,まず支出(歳出)ありきで,収入(歳入)不足は税金の引上げや国債などの公債の発行でまかなうという発想になりがちのようですが,支出を減らすことから考えなければならない,というのも,いまの話と同じことです。
 消費税引上げは必要だとは思っていますが,支出管理に慣れている若者からは,歳出で削れるところがあるんじゃないの,そっちが先じゃない?,ということで拒否反応が出てきても不思議ではありません。若者は,消費税が上がることについては,余計な消費をしなければいいだけと考えるかもしれませんが,それよりも歳出をコントロールせずに,教育無償化とか,アメリカからの戦闘機購入とか,財布のひもを緩めすぎているようにみえる政府の姿勢に対して,ノーをつきつける可能性はありますよね。

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