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2019年4月の記事

2019年4月30日 (火)

コンビニの店長の労働者性

 今年の315日に,中央労働委員会が,コンビニエンスストアのフランチャイズ加盟店の労働組合法上の労働者性について,セブン-イレブン・ジャパンおよびファミリーマートのいずれにおいても,これを肯定した都道府県労働委員会(岡山県労働委員会と東京都労働委員会)の判断を覆す再審査命令を出しました。加盟者等(フランチャイジー)が加入している労働組合からの団体交渉の申込みを拒否した,フランチャイザー側の言い分が通ったということです。
 私たちの業界では少し驚きをもって迎えられた命令ですが,世間の関心も高く,中央労働委員会の事務局長が事前に日経新聞に内容を漏らしてしまって処分されるというオマケまでついていました。
 拙著『会社員が消えるー働き方の未来図』(文春新書)の186頁では,フリーの人たちの共助という観点から,この問題に触れています。拙著のなかでは,岡山と東京の労働委員会での判断を前提に,労働者性が肯定されていると記述していますが,中央労働委員会の再審査命令が出たので,現時点ではそこは修正が必要です。ただ,労働委員会の命令は,裁判所で取り消される可能性もあるので,まだ最終的な決着はついていません。いずれにせよ,拙著の「独占禁止法からみると,明らかに『事業者』でもあるので,その活動内容いかんでは違法な『カルテル』になることもあり得る」という記述には修正の必要はなく,そこで指摘したことは政策課題として残っています。
 現在,24時間営業の是非や「働き方改革」などとも関係して,コンビニの店長たちの苦況がいろいろ報道されるなかで,彼ら・彼女らが,「事業者」として「優越的地位の濫用」の法理やこれを具体化している下請法により保護されるかという論点に加えて,団結して戦うことができるか,ということが問われています。
 中央労働委員会は,団結して戦うことを否定したようではありますが,「顕著な事業者性を持つ者であっても,事業の相手方の規模等によっては,契約内容が一方的に決定されるなどして交渉力の格差が発生することはあり得るが,そのような交渉力格差は,使用者と労働者との間の交渉力格差というよりはむしろ,経済法等のもとでの問題解決が想定される,事業者間における交渉力格差とみるべきものである。」として,問題の解決を経済法(独占禁止法など)などに委ねたとみることができるような書き方をしており興味深いですし,さらに「本件における加盟者は,労組法による保護を受けられる労働者には当たらないが,上記のとおり会社との交渉力格差が存在することは否定できないことに鑑みると,同格差に基づいて生じる問題については,労組法上の団体交渉という法的な位置付けを持たないものであっても,適切な問題解決の仕組みの構築やそれに向けた当事者の取り組み,とりわけ,会社側における配慮が望まれることを付言する。」として,中央労働委員会としては,彼らの要保護性を無視しているわけではないが,自分たちではどうしようもないというメッセージを発しているようにも思えます。
 この命令については,理論的には,いろいろ突っ込みどころがありますが,無理に労働法の問題として解決することが妥当ではないというのが私のスタンスなので,その点で「政策的な」方向性は中央労働委員会と同じといえるかもしれません。ただ,この問題はコンビニという事業の特殊性もふまえる必要があります。4月10日の日経新聞の経済教室で,商法学者の小塚荘一郎さんが,コンビニには,本部と加盟店が契約に基づいて共同事業(分業)をするフランチャイズシステムの仕組みの展開形態であるという面と,中小の小売業の近代化という面とがあると書いている(「転機のコンビニモデル 本部,人手確保に自ら対応を」)のを読んで,なるほどと思いました。共同事業に組み込まれているという点では従属性が濃厚で労働者的要素が高まる一方,小売りの事業者(非労働者)という基本的性格も強いという,二面性がこの業態の特徴であり,そのどちらを重視するかによって労働者性の判断も変わってくることになりそうです。
 こうしたコンビニの特殊性はあるとはいえ,理論的には,フリーワーカーたちの団結をどう考えるかというより大きな問題にも関係してくるので,経済法に任せるというより,経済法と労働法が手を携えて,新たな法領域を開拓すべくチャレンジしていくことが必要だと考えています。

2019年4月28日 (日)

人類の歴史

  私がいま手元において,よくながめている本に,NHKスペシャル『人類誕生』(Gakken)があります。AI時代のこととか考えていると,機械と人間という対抗軸が浮かび上がってきて,人間とは何なのかということがどうしても気になります。そこで,人類のことを知るためには,人類の歴史から学ぶ必要があるということで,座右に置いているのです。
 私たちの世代が教科書で習っていなかったような人類が,次々と発見されているのは驚きです。2003年に発見されたホモ・フロレシエンシス(フローレス原人)は世界中に衝撃を与えました。さらに2008年にはデニソワ人(旧人),そして今年になってルソン原人が発見されています(4月11日の日経新聞)。ルソン原人のほうは,今後どう評価されるかわかりませんが,アフリカから出たホモ・エレクトス(原人)は,アジアにまで大きく多様に広がっていた可能性があり,ロマンを感じますね(すでに北京原人,ジャワ原人などが発見されています) 。そういえば,ホモ・エレクトスは,かつてはピテカントロプス・エレクトス(ジャワ原人)と呼ばれていたと思います。1990年にヒットした,たまの「さよなら人類」にも出てきますね。

 現在では,遺伝子を検査すれば,自分の先祖がどのような経路をたどって今住んでいるところに至ったかわかるそうです。父から受け継ぐY染色体と母から受け継ぐミトコンドリア。これを遡っていくと,アフリカに到達するはずです。さらに,かつては野蛮人とされていたネアンデルタール人のDNA2%混じっているそうです。『人類誕生』を読むと,ネアンデルタール人に,とても親近感が湧いてきます。ネアンデルタール人が絶滅する最期のときの話を読んでいると涙が出そうになりました。

 ホモ・サピエンスである私たちの起源がアフリカにあることは明らかです。人類みな兄弟と言いたいところですが,すでにホモ属は,サピエンス以外は絶滅しています。サピエンスが絶滅させたのか,環境の変化などで他のホモ属は絶滅し,サピエンスのみ運良く生き延びたのかはよくわかっていないようです。さらに,同じサピエンスのなかでも,殺戮が繰り返されてきました。人類みな兄弟として仲良くすることが,なぜ難しいのか。サピエンスの負の歴史をたどりながら,探っていく必要がありそうです(学界の評価は知りませんが,栗本慎一郎の『パンツをはいたサル-人間は,どういう生物か』は,こういうことを論じたもので,かつて大変話題になりました)。

 遺伝子の分析が進み,日本人のルーツもほぼ明らかになっています。縄文人と弥生人の関係も明らかになってきていて,ヨーロッパ人がアメリカ大陸に住んでいた同じサピエンスを殺戮したようなこと(メキシコの大統領がスペイン国王に謝罪を要求したというニュースが最近ありましたね(3月27日の日本経済新聞))は,私たち日本人の先祖はしなかったようです。縄文人と後から渡来した弥生人は共生し,その両方の遺伝子がしっかり現在の日本人にも伝えられているのです。日本人の和の精神は,こうしたところから育まれたのかもしれません。世界の平和のために,こうしたDNAをもつ日本人に貢献することができるとすれば,それは誇らしいことなのですが。

 

 

 

 

 

 

2019年4月22日 (月)

通年採用化の動きについて思う

 「経団連と大学側は22日午前に開く産学協議会で報告書をまとめ、通年採用を進める方針を示す。」という記事が,日本経済新聞に出ていました。「従来の春季一括採用に加え、在学中は専門分野の勉強やインターン(就業体験)に傾注した学生らを卒業後に選考するなど複線型で柔軟な採用を促進する。」ということのようです。
 経団連は会長が代わり,日本型雇用システムにチャレンジする姿勢を高めていたので,思い切ったことをするのではないかとみていましたが,今回の通年採用化は,昨年の「就活ルール」廃止に次ぐ注目すべき動きです。私は近著『会社員が消える-雇き方の未来図』(文春新書)のなかで,新卒定期一括採用の見直しという動きについて,「日本型雇用システムをその入口部分から見直そうとする動きであり,このシステムの崩壊への序曲が経団連の手によって奏でられた」と書いていました(8889頁)。 
 新卒定期一括採用から通年採用に移るのは,たんに学生の就活の時期が変わるとか,企業の採用時期が変わるとか,そういうことだけを意味するのではありません。今後,実際にどこまで企業が通年採用を広げていくかわかりませんが,理念的には,この変化は,日本型雇用システムにとって本質的な意味をもっています。新卒定期一括採用は,中長期的な雇用戦略に基づいて,即戦力としてではなく,企業が人材を育成することを前提に雇い入れるために行われるものであり,まさに「就社」型の採用であったのに対して,通年採用は,ポストや職務が先にあり,そこに空きが出たところで,あるいはそうしたポストを新たに増やした場合において,人材を補充したり確保したりするためのものであり,文字どおりの「就職」型の採用となるのです。後者は,仕事が先にあって,そこに人をあてはめるということなので,人のほうは,その仕事をするのに適した技能をもつことが求められます。経団連は,勉強する学生を求めると言っていますが,これは企業のほうでゆっくりと人材を育て,つくりあげることはしないというメッセージでもあります。もちろんOJTによる育成はなくならないでしょうが,何も特別な勉強をしてこなくても,組織に順応できる能力さえあれば,あとは企業のほうでしっかり育てるというような従来のやり方は止めるということです。
 これはたんに採用の方法が変わるというだけの話にとどまりません。育成をせず,即戦力を求めるようになると,賃金は職務に連動するようになっていくでしょうし,長期雇用へのインセンティブは不要となります(優秀な人材を引き留めたり,短期的な成果を上昇させるためのインセンティブは残るでしょうが)。日本型雇用システムの中核とされた長期雇用や年功型賃金は,すでに変容してきているとはいえ,いよいよ消滅へのスピードを高めることになるでしょう。平成や令和ということと結びつけて話すのはどうかと思いますが,あえてジャーナリスティックに言うと,令和時代の雇用システムは,「日本型」という形容語がとれてグローバル化するのです。そのあとに,どのような働き方の未来図があるかは,上記の拙著をぜひ手に取って読んでいただければと思います。

2019年4月15日 (月)

高度プロフェッショナル制度について思う

 労働政策について,私が,いろいろ政策提言をしても,それが実現する可能性は極めて低いです。労政審ルートで労働政策が決まるかぎり,私の政策提言が実現するチャンスはゼロです。内閣府ルートが動き出してから,私にもほんの少しだけ意見を述べる機会がありましたが,どうも内閣府ルートは急進的すぎて無理筋が多く,そのなかに放り込まれても,実現に多くの期待はできませんでした。結局,いわゆる「同一労働同一賃金」のような筋の悪い法律が通されただけです(これに対する批判は,『非正社員改革』(2019年,中央経済社)を参照)。
 それじゃ,政策に影響のない研究者が,政策提言をしても意味がないのかというとそうではないのだと思います。政策は,厚生労働省の正規軍に任せておけばよいということでもないと思います。正規軍が間違った方向に進んでいないのか,さらに正規軍さえ支配する上位の権力の動きも,監視する役割は必要だからです。それは専門家の責任でもありましょう。
 ただ本音では,監視だけでは物足りないので,もっと発信してシンパを増やし,いつか私の政策を取り入れてくれるような有力な政治家が登場することを祈りたいと思っています。私のゼミの卒業生にも政治家を目指している人がいるので,こっそり(?)見守っていくつもりです。
 ところで,この4月から高度プロフェッショナル制度が導入されています。誕生したときから,自由に羽ばたけないように重しをいっぱいつけられた可哀想な鳥のような制度です。私は『労働時間制度改革』(中央経済社)で,より純粋なの日本版ホワイトカラー・エグゼンプションの提言をしています(188頁以下)が,それと比べると,高度プロフェッショナル制度は,きわめて残念な内容になってしまいました(ちなみに私の提言は,アメリカのホワイトカラー・エグゼンプションとは直接の関係はありません)。
 325日の日経新聞の経済教室で,日本大学の安藤至大さんが,高度プロフェッショナル制度を労働時間規制の適用除外とする説明は不正確だと書いていました(健康確保の仕組みが変わったことが本質だということのようです)が,実務的にはそうなのかもしれませんが,法律家の目からは,この制度の本質は適用除外にあることは否定できません。むしろ健康確保関係の規定は,規制の適用除外を受け入れさせるための政治的妥協のようなものです。
 本来,適用除外であることの意味は,時間外労働の抑制手段として,割増賃金を使わないところにあります。割増賃金を使わなくていいのはなぜかというと,法律により時間外労働を抑制する必要がないからです。なぜ法律により時間外労働を抑制する必要がないかというと,健康確保などのための時間管理は,法律ではなく,労働者本人に任せてよいからです。したがって論理的に考えると,この制度を適用してよいのは,時間管理を本人に任せてよい労働者となります。そうした労働者の範囲をどのように画するかについての基準は,いろいろありえるのですが,イメージは,知的創造的な仕事に従事している人です。頭脳を働かせている時間は,そもそも他人は管理できません。法が介入してはいけないのです。だから健康管理も自分でやってもらうしかないのです。そのために,本人が休息をとりたいなと思ったときに権利として取れるようにしておく必要はあるというのが,私の提案です。これが現在の高度プロフェッショナル制度と大きく違うのは明らかです。
 私の提言の一つのなかに,年次有給休暇は,普通の労働者には,使用者主導か計画年休にしろというものがあります(今回の改正で5日は使用者主導となりましたが,この改正の評価についてはすでにこのブログで書いているので,ここでは省略)が,エグゼンプションの対象者については,制定当初の労働基準法39条の規定どおり,労働者にすべての年休について時季指定をさせる方式でよいというのが私の主張でした。むしろ必ず休ませるべき労働者には,使用者が無理矢理にでも休ませることが必要なのであり,一方,もともとの労働基準法39条の規定のように労働者に主導権がある休暇は,実は自分で健康管理ができる人に適した制度だったのです。
 今回の高度プロフェッショナル制度での健康管理のあり方は,こうした点からみてもおかしいのです。自分で健康管理をできないかもしれないから,法が休息や健康管理に配慮してあげなければならないということでしょうが,私の考えでは,そういう人は,そもそもエグゼンプションの対象としてはならないのです。エグゼンプションの対象とするから,休息や健康管理はより厳格に法が配慮するというのは,論理的におかしいのです。これは政治的妥協だから起こったことです。こういうおかしな制度を前提に法解釈をしなければならないというのは,研究者としてファイトがわくことではありません。
 もっとも,今回の改正で,少しずつではありますが,私の政策提言どおりの方向に向かっていると言えなくもありません。ただ,ゴールはまだ遠いですね。それに私の問題関心はすでにもっと先に行っていることは,『会社員が消える』(文春新書)でも書いています(108頁くらいから読んでいってみてください)。労働時間規制なんて過去のことになるだろうと考えているからです。テクノロジーを使って自分で健康管理することが,もう少しすると普通のことになるというのに,労働時間規制の問題に多くの研究エネルギーを割くのは無駄なことではないかと,いまでは考えています(高度プロフェッショナル制度の導入は,労使委員会制度への関心が高まるきっかけとなるかもしれないとは考えています)。

2019年4月 8日 (月)

名刺交換はやめませんか

 社会人になると名刺交換が大切なようですね。4月に入社した新入社員もそういうことを教わっているのでしょう。でも私は名刺交換が嫌いで,ついに名刺をもつことを止めました。営業などで自分が何者であるか示すときとか,自分の名前を売り込まなければならないときとか,そういうときには,名刺が必要なのでしょう。しかし,私は狭い社会に生きていて,あまり新しい人と会うことはないですし,会うときは,少なくとも先方は私のことをすでに知っていることが多いので,あまり私のほうから名刺を出す必要があることはないのです。困るのは,相手が名刺を出してきたとき,こちらに交換するものがなければ失礼ではないのか,ということです。私の言い分は,あなたの名刺は要らないので,私の名刺がなくても許してね,というものです。
 日本では,初対面のときには,名刺を交換するのは当然のようになっています。いつ頃からそうなったのでしょうか。ペーパーレスの時代なので,名刺はなしにしませんかね。私は名刺をもたないことにしたので,名刺交換はできないことを,あらかじめお断りしますが,いちいち言わなければならないので,とても面倒です。名刺を交換しますか,と聞いてほしいですね。初対面のときは名刺交換という慣習は止めにしましょう。なお私の場合には,どうしても私の名刺が必要という方には,名刺をいただければ,そのメールアドレスに,電子名刺をお送りします。
 そもそも名刺交換は,アナログ的な仕事の仕方をしているから可能なものです。テレワークをしている人は,名刺を直接渡す機会がないはずです。東京での会議で,オンライン会議にしか出席したことがなかったときは,会議の参加者との名刺交換はもちろんありませんでした。日本法令のビジネスガイドの原稿をずっと担当してくれている編集者の方とは直接会ったこともありませんし,もちろん名刺も交換していません。でも仕事に何も支障はありません。
 そんな私も,大学のロゴとかが入っていない職業に関係のない私的な名刺は作ろうかなと思ったりもします。気に入った店に自分のことを覚えてもらうために渡すことが目的です。やっぱり自分を売り込むときには名刺が必要と言うことですね。でも,いまならラインの友達になることとかで,名刺代わりになるので,やっぱり名刺は要らないかもしれません。
 私の名刺をもっている人は,もし私が有名人になれば価値が出るかもしれませんよ。そういえば大学院生のころ,菅野和夫先生に頼まれて何かの仕事をしたときに,先方に見せるために,先生の名刺をいただくことがあったので,後生大事にもっています(もしかしたら先生に返還すべきだったのかもしれないのですが)。院生が自分の指導教員の名刺をもらうということは,普通はないので,私には貴重なものです。
 そう考えると,名刺も悪くないかもしれません。でも,私は名刺を復活させるつもりはありませんが。

2019年4月 6日 (土)

サイボウズ青野社長との対談

 文藝春秋社のサイトで,私の『会社員が消える』(文春新書)の刊行にあわせた企画として,サイボウズの青野慶久社長との対談がアップされています(https://books.bunshun.jp/articles/-/4706)。現在,青野社長は,ご存じのように,婚姻時の選択的夫婦別姓制をめぐって裁判を起こしています(青野社長の主張は,https://note.mu/yoshiaono/n/n34c1a9b3d596 を参照)。ちょうどその判決が出る前の多忙な時期に1時間だけ割いていただいて実現した対談でした。裁判では負けてしまいましたが,青野社長はまだまだ戦うつもりのようです。青野社長の主張は賛同者が多いと思うのですが,裁判を通して実現するとなると,その道のりは大変そうです。国会議員のなかから,どれだけ賛同者を集めることができるかがポイントでしょうね。難しいのは,現時点では,青野社長は民法レベルでの夫婦別姓までは求めず,戸籍法レベルでの別姓の実現を主張するにとどまっているところです。民法改正を求めている論者からは生ぬるいと批判を受けているのです。青野社長は,民法改正を求めていたら,いつまで経っても実現しないので,無理がなく,コストも低く,そして青野社長のいま抱えている問題も解消できる(旧姓を使っていることに法的根拠を得られる)戸籍法改正というところから,まず攻めていこうとする戦略なのです。
 裁判には政策形成訴訟というのがあるので,こういう戦い方もあるでしょう。こうした訴訟(国家賠償訴訟)で原告が勝つのは難しいでしょうが,青野社長は,勝訴するかどうかより,世論が喚起されることを狙っているのだと思います。もっとも世論喚起ということならば,民法改正で攻めたほうがよいのでは,という気がしないわけではありませんが。経営者とのマインドとしては,最初から負け戦はしたくないということなのかもしれませんね。
 さて私との対談の方に戻りますと,実は対談前は,拙著に対して,法律家ごときが偉そうなことを言うなと,お叱りを受けるかと思っていたのですが,全くそうではなく,すっかり意気投合してしまいました。結局,サイボウズ自身が,個人が自立的に働くというスタイルをとっており,会社員のようだけれど,会社員ではない,組織のようだけど,組織ではない,という会社だからなのだと思います。会社は,各人の幸福追求の場を提供しているのだという,青野社長のスタイルが,成功する会社経営のこれからのモデルなのです。拙著で説いた水平的ネットワークは,サイボウズでは,会社レベルですでに実現しているのでしょう。
 今回は,バリバリ活躍されている第一線の経営者との対談ということで,私にとってとても刺激となりました。青野社長には心より感謝しますし,今後もその活躍を見守っていきたいと思います。

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