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2019年3月 2日 (土)

『誰のために法は生まれた』

 東京大学のローマ法の先生だった木庭顕先生(私の博士論文の審査委員の一人)の『誰のために法は生まれた』(朝日出版社)は,木庭先生らしい語り口がふんだんに出てきて,たいへん面白い本です。法律を専門としなくても,知的チャレンジをしたいという人は,ぜひ読むことをお奨めします。ギリシア神話から,イタリア映画や近松の世界を経て,自衛隊や憲法9条の話にもつながり,これを(優秀すぎる)中高生との議論を通して見事に解きほぐしておられます。そこでは政治とは何か,デモクラシーとは何か,そして法や裁判は何かということが扱われているのですが,なかでも印象的なのは,政治の中核的理念は,「徒党を解体して個人の自由を保障すること」「政治的決定が絶対でなければならないのは,なにかによって曲げることができるならば,それは権力や利益,したがって徒党の介入であるからである」ということが力説されているところです。そこにあるのは自由な言論の絶対性であり,そうした自由をもつ個人の連帯こそが政治の基礎にあるべきだとするのです。このメッセージこそ,現在の政治をみるうえで重要な視点だと思います。
 さらに,この本では,木庭先生が昔からこだわっておられた「占有」の重要性もわかりやすく説いてくれています。「占有」という事実上の領域支配の重要性,しかもその占有には,(私の言葉でいえば)良い占有と悪い占有とがあり,その占有を奪いにくる者に対しては一回ブロックができなければならない,というのです。占有が所有権など正当な権限に裏付けられたものかどうかは最終的に裁判で決めるとしても,その前にいったん,占有それ自体が守られなければならない,とするのです(なお,占有の訴えについては,本権に関する理由に基づいて裁判をすることができないとする民法202条2項も参照)。この占有は物理的なものだけでなく,実は観念的なものにもつながっていきます(自分の大切な人,亡くなった家族,そして自分の精神など)。この占有の一次的な保護が重要なのです。これを,徒党を組んだ者がやってきて奪いに来ることをいかにして阻止するかが政治の役割であり,法もそのための手段となるのです。

 この徒党と個人との戦いというのが労働法で最もよく現れるのは,使用者性をめぐる紛争でしょう。使用者側の登場人物が複数現れたとき,誰が責任者かわからないというのが,木庭先生の言われる徒党を組んで,個人の占有を奪いに来る状況に合致するように思えるのです(もちろん,ほんとうに徒党かどうかの確認が必要なのは言うまでもありませんが)。

 実は世間ではあまり注目されていませんが,兵庫県労働委員会が扱った事件に伊藤興業事件というのがあります(平成2647日)。労働判例1137号にも掲載されている事件です。この事件,(私の担当事件ではありませんが)実はかなり大胆な使用者概念を展開しています。一族で複数の会社を保有しているのですが,家族で役員などを分有しており,資本関係も含めて,どこかの会社が被申立会社を支配しているとはいいにく,また特定の会社が被申立人会社の労働者の基本的な労働条件について現実的かつ具体的な支配力を有しているわけでもない(つまり,労組法7条の使用者性に関する朝日放送事件最高裁判決の判断基準にも合致しない)のですが,複数のグループ会社を全体としてみれば一族を保有主体とする一個の実在とみることができるものでした。 

 この事案で,兵庫県労働委員会は,「団結権を侵害する行為を不当労働行為として排除し,是正して正常な労使関係を回復することを目的とする労組法第7 条の目的に鑑みると,同条でいう使用者性を判断する上では,仮に私法上法人格を否認するための要件を充足しないとされる場合であるとしても,両社に実質的に経営体としての一体性があるという事情を重視すべきである」と述べて,最終的には,被申立人会社に不当労働行為の救済命令を出しています。

 その後,再審査にかかっているのか,取消訴訟が提起されているのか,よく私は知りません(聞いたかもしれませんが記憶にありません)。

 いずれにせよ,労働委員会としては,労組法第7 条の目的に鑑みた使用者性とはどういうものかを考えて判断したものであり,法解釈で許される範囲での法的正義を追求したものだと考えています(ただ,あくまでこれは私の個人的意見にすぎません。組織としての見解ではありません)。中労委や裁判所がどうこれを判断するか見てみたかった気もします。

 ところで,木庭先生の紹介されていたイタリア映画「自転車泥棒」では,アントニオから自転車を盗んだ犯人は,徒党を組んでいるようです。アントニオは,仕事を得るためにどうしても必要な自転車を,夫婦にとって大事なシーツを質にまで入れて購入していました。アントニオは息子のブルーノと一緒に必死に盗まれた自転車を探します。警察もアントニオの仕事仲間も教会も助けになりません。自暴自棄になったアントニオは,自転車を盗もうとしますが,こちらはすぐに捕まってしまいます。アントニオは,自転車を盗んだことで,徒党と同類に落ちていたのです。しかし,ブルーノをみた持ち主は,アントニオを許すのです。アントニオは,徒党側の人間ではなく,この親子をみて,自分たちと同じ仲間だという連帯感を感じたのかもしれません。

 木庭先生の議論を振り返ってみて,法をどのように適用するかというのは,徒党を組んで責任をあいまいにして「占有」を侵害していこうとする行為をいかにして許さないようにするかにポイントがあるのかなと思いました。これは先ほどの使用者概念をめぐる紛争の話にも通じます(もちろん使用者と窃盗グループを同視しているのではありませんので,誤解なきよう。木庭先生の本では,そのほかにも,いろいろなタイプの徒党が出てきます)。

 一方で,アントニオが盗んだ自転車の持ち主は,「占有」は自力で守ったうえで,侵害者に対して,泥棒は悪いという形式論をとるのではなく,自身で自分なりにアントニオの行為の評価をし,そして許しました。そこにあるのは,被害者でありながらも,冷静に法的正義をみることができる視点です。何が本当の悪かを見極める視点ともいえます。

 現在は,わりと何でも裁判にしようということが多いような気がします。まず第一次的な侵害のところで,ほんとうに公的な制度である裁判を利用するに値するものかどうかを吟味する法感覚が大切で,ましてや弁護士がそれを誘発するようなことがあってはならないだろう,ということを考えさせられました。

  誰のために法が生まれたか。法を扱う人間は,いつも考えておかなければならないことなのでしょう。それは私にとっては,とくに労働委員会の仕事をするときとなるのですが,その仕事の重さを感じざるを得ません。

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