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2019年3月の記事

2019年3月31日 (日)

改元について思う

 世間では,「平成最後の○○」というフレーズが乱舞しています。元号が変わることに,何か新しさを感じている人が多いようです。私は,個人的には改元にまったく関心はないですし,むしろ元号が変わるのは困るのです。すでにいまでも,平成○○年の数字と西暦の下2桁とを混同することが多いのに,これが新しい元号になったら,もうパニックになりそうです。そう感じている人は,少なくないのではないでしょうか。
 昭和が長かったし,平成も30年も続いたので,改元の弊害は実感しにくいかもしれませんが,もし今後,天皇の在位期間が短くなり(生前退位もありうるので),頻繁に元号が変わるようになると,困ったことが出てこないでしょうか。歴史文献をみるとき,元号しか書いていないものもあって,それがいつ頃のことかさっぱりわからないということもありました。私の教養不足ということかもしれませんが,不便です。
 ということで,改元は自由にやってもらっていいのですが,せめて公式文書に元号を使うのをやめてもらえないでしょうかね。判決も西暦にしてほしいです。私は,自分の書くものについては,出版社の編集方針に反しないかぎり,これからはできるだけ西暦を使っていきたいと思っています。日本人なんだから西暦じゃないだろうというのなら,せめて皇紀でやってくれ,と言いたい気分ですが,それはそっち系の方が喜ぶだけなのでやめておいて,グローバル時代なのですから,まあ西暦でよいでしょう。
 元号は,天皇が武士に政治的な権限を奪われた後も,暦の制定と官位の授与と並んで,天皇の対外的な権限として残されていました。明治になってから,旧皇室典範では,「踐祚ノ後元號ヲ建テ一世ノ間ニ再ヒ改メサルコト明治元年ノ定制ニ從フ」とされ,天皇の即位(践祚)により元号が制定されることになっていましたが,戦後の皇室典範の改正により,その条文が消えてしまい,1979年に元号法が制定されたときに,あっさりと「1 元号は、政令で定める。 2 元号は、皇位の継承があつた場合に限り改める。」という内容となりました。政令で定めるので,これは憲法の定める内閣の所管事務となり(736号),天皇が関わるのは,政令の公布の場面だけとなるようです(これは,天皇の国事行為です。71号)。
 改元が,いまや内閣の行事のようになり,故小渕首相の官房長官時代の元号発表があまりにも印象的だったこともあり,今回も首相や官房長官は,新元号の発表を格好のアピールの場として使いたそうな感じです(などと言うのは勘繰りすぎでしょうか)。なんとなく天皇を政治的に利用しているように思えてしまうのは,私だけでしょうか。
 「天皇は国政に関する権能を有しない」となっているので(41項),内閣がやるのだということでしょうが,元号と国政の関係はよくわかりませんし,少なくとも天皇が「おことば」を発したり,災害見舞いなどのための行幸をしたりすることは,国事行為として列挙されていないものの,実際には行われています。こうした「象徴としての行為」(公的行為)は,内閣のコントロール下にあれば認められるというのが,憲法学で有力な見解のようです。それだった新元号は,(現天皇による)政令の公布だけでなく,国民への公表も,新天皇が,即位時の「おことば」と同じときに,内閣の助言と承認の下にやってよい,という考え方は出てこないのでしょうかね。これは,憲法の解釈として,やはり無理なのでしょうかね(普通に考えると,天皇にそういうことをやらせることこそ,政治利用だということかもしれないのですが)。
 ところで,天皇の権限といえば,暦もありました。織田信長の本能寺の変の背景には,信長が改暦を迫ったという事情があるという話もあります。天皇の大権に触れようとしたからではないか,ということです。明智光秀は朝廷との関係が深かったので,朝廷側の人間が光秀に信長暗殺を命じたという俗説です。
 現在,私たちはグレゴリオ暦(太陽暦)で,すっかり満足しているのですが,でも旧暦は悪くないのです。季節感を味わうなら旧暦のほうがいいはずです。桃の節句は33日ですが,これは旧暦なので,桃の花は咲かないです。新暦にすると,今年でいえば47日ですよね。こういう伝統行事(なんとかの節句とか,正月とか)は,旧暦でやるのも悪くないと思うのですが(中国がそうですよね)。
 改元も改暦も天皇制と密接に関係しています。平成が終わろうとしているいま,日本人は天皇に,どのようなことを託してきたのかを振り返ってみるのも悪くないでしょう。

2019年3月26日 (火)

雇われない働き方

 世間では41日に施行される改正労働基準法に関心が高まり,働き方改革がらみの本や講演が目白押しですが,私個人では,フリーランス・ブームです。先月の『会社員が消える』(文春新書),ジュリスト1529号の「雇われない働き方」に続き,今月に入り,NIRAのオピニオン・ペーパーで「『フリーワーカー』に対する法政策はどうあるべきか」が出ました。同じようなテーマを,媒体に応じて,いろいろな方法で発信しています。さらに今朝は,Huffpostにも,インタビュー記事が出ました(私のHPhttp://www2.kobe-u.ac.jp/~souchi/index.html の「News & Topics」から見つけてください)。この媒体には初登場です。
 ライターの加藤さんが,どうも以前に私が書いていた雇用的な働き方は「奴隷的」というフレーズが気に入ってしまったみたいで,ちょっと困ったのですが,それはともかく,フリーランスを使う側の人が,フリーランスにも社員と同じように接することに問題があるのでは,という目の付け所は,さすが現場の感覚というところで,こういう視点からの切り口はとても面白いし,また実務的にも重要です。スカイプでのインタビューでは,使う側もフリー側も意識改革が必要だし,とくにフリー側にはそのための準備が必要ですよね,というところで終わったのですが,この意識改革や準備というのが簡単なことではないのです。記事では,それをやるのがランサーズということで,ランサーズのFB事業の紹介につながっていって,なんとなくランサーズの事業の宣伝に使われてしまったような気がしないわけではありませんが,個人的には民間企業において,こうしたサービス事業が出てくるのは望ましいことだと思っていますので,別にかまいません。むしろ私の議論を使っていただけるなら,どうぞお使いくださいという感じです。
 『会社員が消える』を読んでインタビューしたいという依頼が,まだ数件あります。どれも観点が異なったもので,著者としても,非常に興味深く思っています。編集者やライターの人が,どのような関心をもって,どのような質問を私にしてくれるか,今から楽しみです。



 

2019年3月24日 (日)

残念な神戸

 私が神戸生まれだと書いているのを知った父はぽつりと「そうだったっけ?」と言ったのには驚きました。私にはもちろん記憶はないので,「2歳までは神戸にいただろう」と父に確認すると,そりゃそうだけれどと言いながら,なお釈然としない様子。まあ父としてみれば,宝塚市で約6年間,その後はつい数年前までずっと西宮にいたので,息子の出身地としても神戸という部分は欠落していたのでしょう。でも,川上麻衣子が1歳までしか住んでいないスウェーデンの生まれって言っているのですから,2歳までいた私が神戸生まれといっていいでしょう。まあ,いま父が住んでいる芦屋と合わせて,神芦西宝(造語ですが,「しんろせいほう」と読んでください)の出身とでもしておきましょうか。

 そんなことはさておき,自分の老後は,神戸に拠点を据えて生きていきたいと思っているのですが,それを真剣に考え始めると,不安も出てきます。この沈滞気味の神戸にほんとうに居続けてよいのかという不安です。
 不安の内容はさまざまです。最近の神戸市の職員の組合専従などからもわかるように,税金がきちんと使われているのか大いに不安です(税金の一部を他の自治体にふるさと納税しているので,偉そうなことは言えないのですが)。さらに気になるのは,神戸には華がないことです。神戸というとおしゃれなイメージはあるようですが,神戸はそのもつ潜在的な魅力を十分に発揮できていません。ぱっと思いつくだけでも,空港はしょぼいし,三宮駅近辺もガチャガチャしていて猥雑(新開発中)。やくざ屋さんの本拠地もある(近隣住民とは仲良くやっているようですが)。

 南をみると,石炭火力発電所の煙突から白煙が出ています。某大企業の煙突です。環境に影響がないということですが,これがあるかぎり,神戸はクリーンな町というイメージから遠いままでしょう。しかも,さらに2基建設されるということで,いま大きな問題となっています。この時代に石炭火力発電か,という素朴な疑問を禁じ得ません。建設推進派にも,言い分はあるでしょうが,せっかく地震から復興して輝く未来を模索しようとしているのに,残念です。電力問題の利害関係者は,私たちの子孫であることをよく考えておかなければなりません。子孫たちの代弁者として,いま私たちにとって何が賢明な選択なのか,英知を結集して考えていく必要があります。

 神戸ワインも,頑張っているようですが,まだレベルが低いです。神戸ビーフは世界的に名が通っています。昨年,欧州に行ったときも,どこに行っても,神戸ビーフの知名度は高く,驚きでした。外国から来た客に但馬牛を食べさせると,みんな大喜びでしたが,ワインがそれについてきていないのです。昨年の国際セミナーの後の懇親会で,せっかくだから神戸のワインをと思って自腹で買って持ち込んだのですが,ほとんど手がつけられず,そのまま持って帰るはめになったショックから立ち直れていません。

 昨年から個人的には日本のワインを,できるだけ飲むように心がけています。クオリティが上がっているので,生産者を応援したいからです。大分の安心院ワイン,山梨の甲州ワインなど,なかなかのものです。ただ,そのリストのなかに神戸ワインはまだ入っていません。口に入れるものですから,気に入らないものは選びません。気に入れば,多少高くても日本のものなら選ぼう,と思っているのですが。ちなみにヴィッセル神戸に来てくれたイニエスタの所有する製造所のワインも,まだ飲んでいないのですが,プロのソムリエの間での評判は悪いです(ごめんなさい)。あまりにも評判が悪いので,まだ口に入れていません。でも飲まなければ批評もできないので,いつかグラスで飲めるチャンスがあれば,チャレンジしてみようと思っています。

 神戸を盛り上げるために何ができるか。市はあんまり頼りになりそうにありません。だから,勝手連的に,神戸で頑張っている人たちと連携して,いろいろアイデアを出していければなあと思っています。

2019年3月18日 (月)

明石市長選挙に思う

 明石市長選挙が行われて,泉房穂前市長が再選しました。暴言問題がマスメディアで叩かれて辞職し,しかし市民の声に押されて立候補し,再選しました。テレビでは「火をつけてこい」などといった過激な発言部分が何度も報道され,パワハラ市長というイメージが植え付けられました。ただ,比較的早い時期に,神戸新聞で泉氏の発言の全体が報道されて,個人的には,こりゃ当該職員に対して市長が怒るのも当然だという印象をもっていました。そもそも以前から,隣の明石市は頑張っていて,市長が良いという評判を聞いていました。そうしたことから,今回の選挙で泉氏が立候補すれば再選されるであろうことは,ほぼ予想できることでした。

 もちろん,外面はよくて,内には厳しいというのは,よくあることです。日頃から口が悪くて,傷ついている職員が多いということもあるのかもしれません。ただ(私は明石市民ではありませんが)市民からすると,とっても職員に評判がいいけれど,何もやってくれない市長と比べると,どっちがいいのかは明らかです。職員の叱責の仕方は改めるべきだとしても,この程度のことで(というと怒られるかもしれないのですが)辞職をして,市長選をやるほどのことなのでしょうか。いったい,いくらの費用がかかっているのでしょうか。私は税金をもっと大切にしてほしいのです。

 ということで,泉氏は辞任する必要はなかったと思います。彼は感情に動かされて過激な発言をした自分を恥じたのかもしれませんが,もしそういうことでしたら,自分本意の理由での辞任です。投票率は半分程度ですが,7割近くの得票率を得て圧勝した選挙結果をみると,今回の選挙は税金の無駄使いだったのだと思います。泉氏は歯を食いしばっても辞任せず,1円たりとも税金の無駄が生じないようにすべきでした。4月には,また選挙があるそうです。余計な費用が発生しないようにすることこそ,市民への責務だったのです。

 一方,マスメディアにも言いたいことがあります。マスメディアは,権力を批判するのが仕事です。そのために,広範な自由が保障されるべきだと考えています。私も他の人に負けないくらい報道の自由は大切だと思っているつもりです。しかし,マスメディアも一つの権力です。それにともなう責任があります。自由を保持するためには,同時に責任を守らなければならないのです。それを忘れれば,権力の側は,目障りなマスメディアの自由を制限しようとしてくるでしょう。
 かつてフランスのマスメディアは,ミッテラン大統領の私生児問題を報道しなかったといいます。スキャンダルにしようと思えばできたのでしょうが,それがミッテランの政治手腕とは無関係であり,国民のためにならないと判断したからでしょう。

 もちろんマスメディアも万能の裁判官ではありません。判断ミスもあるでしょう。しかし,自分が報道しようとしていることが,どの程度の問題なのかを,自分たちの報道のもつインパクトもふまえて,判断するだけの最低限の力は必要です。その力をもたない者は,マスメディアを使って報道してはならないでしょう。

政治家の進退にかかわる問題は,芸能人の離婚とかそういったレベルのネタではないのです。

2019年3月17日 (日)

労働組合と総有

 法人格を取得していない労働組合は,「権利能力なき社団」に該当し,その財産は組合員全員の「総有」となる,というのが,判例の立場であり,どの労働法の教科書にも書かれていることです(学説としては,単独所有説も有力です)。 

 

 そこでいう判例とは,昭和321114日の品川白煉瓦事件の最高裁判決です。同判決は,「思うに,権利能力なき社団の財産は,実質的には社団を構成する総社員の所謂総有に属するものであるから,総社員の同意をもつて,総有の廃止その他右財産の処分に関する定めのなされない限り,現社員及び元社員は,当然には,右財産に関し,共有の持分権又は分割請求権を有するものではないと解するのが相当である。」という一般論を述べて,これを法人格なき労働組合にもあてはめています。組合から脱退した組合員が,たとえそれが集団的な脱退であって,事実上分裂したような場合であっても,元の組合の財産の分割請求はできないのが原則なのです(ただし,例外的に分割できる場合があるとする,昭和49930日の国労大分地本事件・最高裁判決もあります[学生が好きな論点]が,その例外の要件は厳格です)。

 

 それで「総有」ということなのですが,これは民法で共同所有権のところで出てくるものです。共同所有の形態には,共有,合有,総有があると説明されます。民法の条文として出てくるのは共有だけですが,(民法上の)組合では合有,権利能力なき社団では,先ほどの判例のように総有とされています。総有の特徴は,持ち分がなく,共同所有者は目的物の管理処分権はなく,使用収益ができるだけとされています。

 

 総有の典型事例が,入会地です。入会権は民法上の物権であり,林野などの土地に認められることが多いものです。これは古ゲルマンの村落共同体の所有形態にまで遡ることができ,農地などを共同体のメンバーが共同体的な規制の下で所有していた時代にあったものです。現在の日本でも入会地はあり,勝手に構成員が持ち分を処分できない点では,古き良き土地を守るために重要とされる一方,必要な買収ができない(全構成員の承諾が必要)などの問題もあるようです。

 

 話を元に戻すと,総有のもう一つの典型例が,権利能力なき社団です。前述のように,法人ではない労働組合も,これに該当するとされています。

 

 ところで,判例によると,「権利能力のない社団といいうるためには,団体としての組織をそなえ,そこには多数決の原則が行なわれ,構成員の変更にもかかわらず団体そのものが存続し,しかしてその組織によって代表の方法,総会の運営,財産の管理その他団体としての主要な点が確定しているものでなければならない」とされています(最高裁判所・昭和391015日判決)。

 

 菅野和夫『労働法(第11版補正版)』(2017年,弘文堂)の792頁の注30では,この要件は,労働組合の定義における「団体」と同じであると書かれています。私もずっとそうだろうと思っていました。ただ,もしかしたら民法の社団概念は,もっと厳しいのではないか,と思わないわけでもありません。

 

 権利能力なき社団については,民法上,もう一つ重要な最高裁判決があります。それによると,「権利能力なき社団の代表者が社団の名においてした取引上の債務は,その社団の構成員全員に,一個の義務として総有的に帰属するとともに,社団の総有財産だけがその責任財産となり,構成員各自は,取引の相手方に対し,直接には個人的債務ないし責任を負わないと解するのが,相当である」とされています(最高裁判所昭和48109日判決)。

 

 権利能力なき社団となると,第三者との関係での責任財産は,構成員個人から離れるという重要な効果があります。労働組合ではあまり注目されない部分ですが,財産的取引を重視する民法では重要なポイントとなるでしょう。というのは,法人格がない団体という点でみると,権利能力なき社団と民法上の組合(民法667条以下)は似たようなものですが,前者であれば,責任財産は社団財産(社員の総有財産)に限定されるのに対して,後者であれば組合員の個人財産にも及んできて,取引の相手方にとってその違いは大きいです。

 

 そうすると,権利能力なき社団は,もともと民法学における概念であることを考慮すると,その定義では,財産の管理という点が重要となり,責任財産が明確化されていないような形で活動をしていると,社団性を満たしていないということにならないのかが心配になってきます(ただ,この点は民法の先生に確認してみる必要があります)。おそらく労働組合の団体性の定義では,財産の管理は内部的なものが重要で,対外的な責任財産という視点は希薄ではないかと思うのです。

 

 万が一,ある労働組合の社団性が否定されて,民法上の組合の規定が適用されると,違法争議行為のときの損害賠償責任について,個人責任を負うかどうかという著名論点はさておき,組合が責任を負うときに,組合員も直接無限責任を負うことになってしまいます。
 初めは,沿革的にも慣習の支配する(民法263条を参照)村落共同体的な入会地で適用される総有概念が,(法人格のない)労働組合に適用されることへの違和感から始まった話だったのですが,法人格なき労働組合が,当然に,権利能力なき「社団」で,その財産が総有となり,持ち分が否定されて,個人財産から分離されるということでよいのか,その前に一度,社団性の内容を確認する必要があり,それと労働組合の「団体」性(労働組合法2条)の解釈との照らし合わせをしておく必要があるのではないか,という話に行き着いてしまいました。昔の学説は,こういうことをきちんと議論していたのかもしれないのですが,もう教科書から消えている論点ですので,ほじくってみました。

2019年3月15日 (金)

義務か,権利か。

 ビジネスガイドで連載中の「キーワードからみた労働法」の最新号(2019年4月号)のテーマは,「年次有給休暇の時季指定義務」です。これは,昨年の労働基準法改正により導入されたもので,この4月から施行されます。ということで,今回の原稿は,新法の解説という意味もあるのですが,実は川島武宜流の「日本人の法意識」の議論に立ち返るような問題意識も,挿入しています。

 労働基準法では,「権利」という言葉は,第7条(公民権),第23条(金品等の権利者),第83条(補償を受ける権利)に出てきますが,労働者が使用者に対して保有するものを「権利」として定めた部分はありません。つまり,労働基準法は,労働者の権利を保障した法律であるという表現は,条文の文言だけからみると,不適切ということになります。労働基準法は,使用者に義務を課しているのであって,労働者に権利を与えているわけではないのです。義務の反対は権利ではないか,という批判をしようとされている方は要注意です。労働基準法が使用者に課している義務は,公法上の義務(国に対する義務)であるというのが,普通の考え方です。その意味で,労働基準法は,まずは行政法なのです。労働者は,この公法上の義務規定による反射的利益を受けるだけで,使用者の義務違反行為がただちに私法上も違法になるとは限らないのです。だから,裁判所は,このあたりのことをよくわかっていて,労働基準法違反の私法上の効力を否定する場合に,民法90条を持ち出すことがよくあります。労働基準法が私法上の効力をもつかどうかは,行政法規の私法上の効力という問題の一つであり,当然には無効となるわけではありません。もちろん実質からみれば,労働基準法違反を無効とすることでよく,結果として強行規定となるのですが,労働基準法がアプリオリに強行規定となるというわけではなく,ここは一本,論理をはさむ必要があるのです。繰り返しますが,行政法規なのですから(たとえば,労働基準法104条に違反する解雇をした場合の私法上の効力は,普通の行政法学者であれば,いちおう同条が強行規定かどうかを検討したうえでなければ,無効とはいわないはずです)。

 これについては労働基準法13条があるではないか,という意見もありそうです。これは少し前に書いた論文(「「就業規則の最低基準効とは,どのような効力なのか」『毛塚勝利先生古稀記念 労働法理論変革への模索』(2015年,信山社)所収)でも論じているのですが,私の理解は,労働基準法13条は,同条違反の契約が結ばれた場合のサンクションを定めたものです(同条の見出しも参照)。労働基準法違反の制裁の内容として,労働者は,労働基準法の定める基準を使用者に対して,労働契約の内容として主張してよいということなのです。これも,結果としては,労働者に権利があるということになりそうですが,厳密には,間接的な付与と言ってもよいものです。

 こうした長いイントロは,紙数の関係もあるし,マニアックすぎる議論なので,ビジネスガイドでは書いておりません。本題は39条です。39条は,労働者に年休の権利を与えた規定とされていて,最高裁も昭和48年の判決(林野庁白石営林署事件)で,そう述べているのですが,やはり条文上は,どこにも労働者の権利とは書かれていません。「使用者は,・・・与えなければならない」という義務規定しかないのです。時季指定権や時季変更権といった「権利」があると言われていますが,その根拠を条文から見いだすことはできません(5項を参照)。一方で,同条には,「使用者は,・・・与えることができる」という規定もあります。これは,「時季指定」により年休を「与えなければならない」という1項・2項(年休の発生要件と日数についての規定)と5項の本則の例外を定めるときに,使われている文言です。たとえば4項は1日単位の年休付与の例外である時間単位年休の付与を認めるため,「与えることができる」となっています。先ほどの5項ただし書も,事業の正常な運営を妨げる場合には年休を取得できないという例外を定めるものなので,「与えることができる」なのです。計画年休を定める6項も,時季指定による付与の例外なので,「与えることができる」なのです。一般的なルールの下では「できない」ことを,「できる」としているのです。

 今回の改正で追加された7項(使用者による年休時季指定義務)は,「与えなければならない」という規定です。本則に関係する規定だということです。こうして39条は,使用者による年休付与義務の内容として,労働者の時季指定によるものと「並列」して使用者の時季指定によるものを定めたことになります。ただし,後者は,労働者の時季指定や計画年休付与がされない場合の補充的なものなので(新8項),いわば非対等な「並列」というべきでしょう。

 ここまではビジネスガイドのコラムで書いた内容です。それで川島の話に戻るのですが,やっぱり年休は義務のほうがよいのでは,という話です。川島が『日本人の法意識』(1967年,岩波新書)で例にあげる有名なエピソードに,日本人は貸した物を返してもらう場合にも遠慮するというものがあります(79頁以下)。これは所有権に関連して述べられているものですが,年休権という強大な権利(一方的に行使して有給で休める権利)にも,あてはまるような気がします。年休取得率が低い理由はいろいろあるのですが,まずは権利構成をやめて義務構成でいくほうがよいのでは,ということです。そして,労働基準法って,そもそも文言上も義務構成じゃないの,ということが言いたかったのです。義務構成であれば,付与義務だけでなく,時季指定も使用者の義務とすることは,それほど違和感がないでしょう(労働者の意向を尊重した時季指定は必要ですが)。

 日本人にとっては,権利なんて言わないほうが,かえって実利を得やすいのではないか,ということです。「利益」を守るためには「権利」という主張を引っ込め,いかにして相手の「義務」意識を引き出すか,というほうが戦略的に良いのです。労働紛争でも,このことをわかってくれない弁護士が関与すると,和解がうまくいかないというのが,日頃感じていることです(もちろん和解すべきでない事件もあるので,あくまで和解のほうがよい事件のことです)。

 労働基準法に使用者の時季指定義務が入ったことで,この古い議論をちょっと蒸し返したくなりました。

 なお,この号では,半日年休について,平成20年改正で時間単位年休制度が導入された後は,それまでのように労使協定がなくても認められるという行政解釈はおかしいのではないか,という疑問を投げかけています。なぜ半日年休は,時間単位年休ではないのか,という疑問です。この点は,今回の改正により,実は使用者の時季指定義務との関係で,問題となる可能性があると考えていますが,その点は掲載号(20194月号)で確認してください。

2019年3月11日 (月)

奴隷

 雇用の歴史というものを考えていくと,奴隷の問題に行きつきます。現在の日本の労働法研究者で,奴隷のことを研究している人は,まずいないでしょう。奴隷制が克服され,労働者がひとまず「ヒト」として尊重される近代社会が到来した後の,契約関係に基づく従属性にどう対処するかが労働法の課題とされてきたからです。そのためもあって,海外から指摘されることの多い外国人技能実習生の奴隷的な就労の問題についても,もちろんそれが問題ではないと考える労働法研究者は皆無だと思いますが,ただ,どことなく労働法の問題というよりも,より広い人権問題(あえていうなら憲法の領域)と考えている人が多いのではないかと思います。
 日本国憲法の18条は奴隷的拘束や意に反する苦役に服さない自由を保障しています。英文では,奴隷的拘束は,slavery ではなく,bondage という即物的な表現が使われており,また意に反する苦役はinvoluntary servitudeです。18条は,通常,労働法に関連する規定とは考えられていません(もちろん労基法5条には関係しているのですが)。一方,労働法に関係すると考えられている憲法27条や28条の「勤労」や「勤労者」には,英文では,work やworker という言葉が使われています。労働法学者は,「奴隷」問題は憲法に任せ,27条1項・2項や28条が扱う「勤労」のみを引き受けようとしたのかもしれません(27条3項の児童の酷使の禁止も,奴隷と同様,労基法には若干の規制はあるものの,一般には労働法の対象ではなく,こちらは児童福祉の分野に任されています)。
 ところで,アメリカにとって,日本国憲法18条に相当する修正第13条は,歴史的にも,とても重要な条文です。その第1項は,「Neither slavery nor involuntary servitude, except as a punishment for crime whereof the party shall have been duly convinced, shall exist within the United States, or any place subject to the their jurisdiction」です。日本の憲法18条とほぼ同じで,ただアメリカではbondage ではなく,slavery という単語を使っています。これは,アメリカではslaveryが制度化されていたことと関係しているようです。
 アメリカは,イギリスからの隷属に抵抗して1776年に独立した国です。アメリカの独立には,イギリスの有名なLocke(ロック)の思想が大きく影響しています。ロックの議論(『統治に関する二論』)は,王権神授説を論駁し,人々は神の下にみな平等であり,どのような権力(power)にも服さない自由があるとして,「slavery」を否定し(Essay2のChapter4),その後に有名なproperty 論が展開され,生命・自由・propertyを守るための政府(政治的社会)が社会契約により正当化されるという議論につながっていくのですが,どうしてこの考え方をアメリカ人は奴隷にあてはめなかったのでしょうか。イギリス国王への隷属を批判したアメリカ人が,自身で奴隷をもつことは,どう正当化できたのでしょうか。
 このあまりにも当然の疑問について,正面から取り組んだ論文があります。山口浩一郎先生の古希記念論集「友愛と法」(2007年,信山社)のなかに収録されている浜田冨士郎先生の「アメリカ独立革命と奴隷制」です。長年,アメリカ法や差別禁止法を研究されてきた浜田先生は,この原点の問題に取り組まざるを得なかったのでしょう。研究者というのは,こういうテーマにこそ取り組まなければならないのだということを痛感させられる論文です。浜田先生は,アメリカ憲法の歴史的価値を肯定する一方で,建国のエリートが奴隷制に対する安易な妥協をしたことについて厳しく批判します。アメリカは独立期には,真に欲すれば奴隷制を廃棄することができたのに,奴隷制に対する鈍感さや同情心の欠如により,あるいは直面する労を惜しんで奴隷制を温存させたという浜田先生の指摘は,辛辣で重いものです。
 自由と平等という建国の理念を掲げながらも,アメリカは奴隷制をその後90年近く存続させ,南北戦争というアメリカの歴史のなかの唯一の内戦を経て,ようやく解放に至ったという事実(Lincolnの奴隷解放宣言は1862年,合衆国憲法の第13修正は1865年)は,たんにアメリカのもつ矛盾という次元だけで捉えきれない教訓を残してくれているように思えます。
 アメリカは,奴隷は解放したものの,その後も黒人を差別し続けました。人種差別を禁止する公民権法が制定されたのは1964年です。さらに100年かかったのです。人種差別を禁止するという土台に,性,年齢,障害による差別の禁止も乗っていきました。差別禁止法の根源には,遠くアフリカなどから労働力として連れてこられ,物(動産)として扱われていた奴隷の深い悲しみと絶望があることを感じざるを得ません。法律家はついつい制度の表面的な理解にばかり目が行ってしまいますが,制度の深奥部にある人間の愚行の歴史にまで入り込んでいかなければ,真の理解には到達しないのではないか,浜田先生の研究から,改めて,こんなことを考えさせられました。

2019年3月 9日 (土)

非正社員改革

 中央経済社からの3冊目の単著です。『解雇改革』,『労働時間制度改革』に続く『~改革』の第3弾です。今回の本は,タイトルだけをみると,人事労務担当者に対して,現在の各企業の非正社員制度をこう改革すべきだ,というような実践的なことを書いた本のようにもみえますし,あるいは政府に対して,格差是正のためにこう改革をすべきだ,というような政策提言をした本のようにもみえますが,いずれでもありません。非正社員に対する政策的なアプローチの仕方を改革すべきであること,具体的には,法は余計なことをするな,というのが私の言いたいことのエッセンスです。

 前著の『解雇改革』は,私なりの改革プランをぶちあげて,その一部は,よりアカデミックなアプローチをした『解雇規制を問い直す-金銭解決の制度設計』(有斐閣)に結実しました。もう一つの『労働時間制度改革』は,今回の法改正に具体的なインパクトは与えていませんが,いろんな方から評価をいただき,確かな手応えを感じています。ただちに影響はなくても,5年,10年というスパンででも,私の主張が浸透していけば著者としては本望です。そして,今回の『非正社員改革』です。先ほど述べたように,法は余計なことをするななんて言っていると,規制緩和論のようなことをまだ言っているのかという表面的な反論が来そうですが,そういうことではなく,みんな格差是正を是とするところで思考がストップしているのではないか,それでよいのか,という問いかけをしているのです。

 この問題は,やや難しく言うと,私的自治,労使自治という根本的な法原理の問題,平等や差別とは何かという問題,採用や賃金などの労働条件のコアの部分に法が介入することの政策的妥当性という問題など,多くの解決すべき難問が関わっています。たんに非正社員の処遇がよくなればよいというだけではすまない問題が横たわっているのです。

 私は,これまでもずいぶんしつこく非正社員問題に法が介入することを批判してきました。古めかしい契約の自由にこだわっていると言われそうかもしれません。しかし,これについても10年後をみていろ,と言いたい気分です。原理を無視して,ポピュリズム労働法に陥った弊害は,必ず現れると思います。

 ということなのですが,実は本書では,将来は,正社員・非正社員問題はなくなるとも書いています。これは最近の『会社員が消える』(文春新書)でも,また2年前に出した『AI時代の働き方と法』(弘文堂)でもかなり論じていることですが,要するに正社員はなくなるし,ましてや非正社員もなくなるのであり(マシーンに代替される),真の格差問題はデジタルデバイドなのではないかというのが本当の論点なのです。政策的エネルギーをそこに傾注しなければならないのに,2020年4月のいわゆる「同一労働同一賃金」改革の施行に向けて厚生労働省は手取り足取りでサポートするなど,なんだかおかしなところにエネルギーを使っています(「パートタイム・有期雇用労働法対応のための取組手順書」なんかをみていると,行政は良かれと思ってやっているんでしょうが,日本全国の経営者があれを見ながら,賃金などを定めていく姿を想像するとゾッとしてしまいます)。

 2030年ごろに振り返ってみて,政府はあのときずいぶん無駄なことに力を入れていたよな,ということになるでしょう。いったい学者は何を見ていたんだろう,誰も何も言わなかったのだろうかと言われないためにも,本書を出した意味はあるのかな,と思っています。

2019年3月 4日 (月)

Tocquevilleの結社論

 敬愛する経済学者の一人である猪木武徳先生が編者となった『<働く>は,これから』(2014年,岩波書店)の最後に,猪木先生自身が「中間的な組織での自由な労働」という論文を執筆されています。国のためでもなく,個人の私的な利益のためでもない,中間的な組織のために働くというなかに,「自由な労働」の実現可能性がある,という主張です。そこで度々引用されていたのが,Tocqueville(トクヴィル)の「アメリカのデモクラシー」です。

 Tocquevilleは,名門貴族の子息ですが,フランス革命後の混乱期に,アメリカに10カ月ほど滞在し,アメリカの民主主義の状況をみて,それが成功しているとみて分析をし,結論として,アメリカは個人と国家の間をつなぐ「結社(association)」がうまく機能しているのに対して,フランスは中間団体をつぶしてしまったために革命と反革命が繰り返されるなどの不安定な状況になっているというのが,よく紹介される彼の議論です。

 猪木先生は,このTocquevilleの結社論もふまえながら,日本での結社の実例を紹介し,さらに労働金庫,労働組合へと分析を進めていきました。

 これだと,昨日紹介した労働者協同組合の話に行きつきそうな感じがありましたが,猪木論文では,そこには行っていません。ただ内容的には,猪木先生の考える自由な労働を実現する中間組織としては,労働者協同組合が一番合っているかもしれないなと思いました(なお,アメリカの議論を参考にしながら,比較的近い発想で集団を論じたものとして,水町勇一郎『集団の再生-アメリカ労働法制の歴史と理論』(有斐閣)があります)。

 ただ,猪木先生の結社に着目される気持ちはわからないではありませんが,(私の理解不足があるのかもしれませんが)私とは方向性が違います。実は私の博士論文をまとめた『労働条件変更法理の再構成』(1999年,有斐閣)の根底にあるのは結社論でした。この論考で,私は個人の「不同意の自由」をキーコンセプトとして,集団からの個人の自律を説き,そうした自律した個人の主体的な結社である労働組合こそ,個人を規律する法的正統性があるという議論を展開しました。このキーコンセプトに基づき,具体的な解釈論として,就業規則の不利益変更に関する判例の合理的変更法理(現在の労契法10条)を批判して,集団的変更解約告知説(個人の不同意の自由を貫徹したもの)を提唱し,ユニオン・ショップ違憲論を唱えて労働組合の任意団体性を貫徹させ,そうした任意団体としての労働組合が民主的に決定した事柄には組合員は従わなければならず,司法審査は不要とする見解(不利益制限法理の否定。この点は,後に『労働者代表法制に関する研究』(2007年,有斐閣)でも展開しています)などに具体化させました。

 結社は大切だけれど,まず集団から個人を解放しなければならず,そこで自律した個人が自己決定した結社でなければ意味がないと考えたのです。日本において結社論をやるには,この集団を一回解体するプロセスを経ることが必要です。ところが,現在においても,まだ集団は解体プロセスを経ていないまま非自律的な個人の集合体にとどまっているというのが私の認識です。それゆえTocqueville的な結社論を,ましてやアメリカをモデルにしながら論じるのは,時期尚早であり,あるいは,根本的に間違った方向である可能性もあると考えています。

 中間組織の議論は,とても難しいです。私は比較的最近でも,有斐閣の法学教室に4年前に「憲法の沈黙と労働組合像」という論文を発表しており,そこでは違った角度から,このテーマについて論じています。この論文では,憲法28条の保障する団結権が,勤労者個人にあると定めていることに着目しながら,労働者の連帯のあり方を考察したものです。そこではfragmentationatomizationを批判しています。その意味は,結社礼賛論ではなく,労働組合自体が個人を基盤にできないまま,「細分化」し,「原子化」してしまったままであることへの批判なのです。そして,労働者の職業選択の自由を保障するためにも,職業を基盤として自律した個人が自分たちの職業上の利益を守るために連帯していくことが,憲法の理念に合致した労働組合のあり方ではないか,ということを書いています。 そこでは,すでにフリーの個人自営業者のことも視野に入っていました(憲法の「職業」論は,雇用労働者よりも,個人自営業者のほうがぴったりする面があります)。

 中間組織は,ときには個人を抑圧し,ときには相互にいがみ合います。理論的に民主主義の補完物になりえることは否定しませんが,そうなるために必要なのは,まずは自律した個人なのです。その個人の再生のないまま中間組織に多くの期待をすることに,私は逡巡せざるを得ないのです。

 残念ながら私の20年前の著書で書いた問題状況は,完全には改善されていません。

2019年3月 3日 (日)

労働者協同組合

 拙著『会社員が消える』(文春新書)は,技術革新の発展にともなう雇用労働の減少という文脈で書いているので,登場しなかった論点なのですが(でも登場させておけばよかったかなと反省しています),会社員としての働き方のオールターナティブは,実はフリーの個人自営業者(フリーワーカー)だけではありません。会社員でもあり,フリーでもあるような働き方として,「労働者協同組合」での就労があります。イタリアには社会的協同組合(cooperativa sociale)があり,1990年代以降法整備がされていったことから,私もかつて紹介したことがありました。そのときの観点は,協同組合員の労働者性というものにとどまっていました。有償ボランティアなんかも,こうした問題の一つとして論じたことがありました。ただ,これを労働者性の問題としてみているかぎり,議論のブレイクスルーはできないという感覚をずっともっていました。

 ところで,それからずいぶんと年月を経て,昨年,さわやか福祉財団で,堀田力先生の司会に,山口浩一郎先生,JILPTの小野晶子さんと私が参加した,有償ボランティアの法的検討というテーマの座談会がありました(その内容が,いつ発表されるのかわかりませんが)。そこで私は,これは労働者概念の問題としてアプローチするのではなく,事業者側に対して規制を外すという適用除外のアプローチをするほうがよいという趣旨の発言をしました。この発想は,(いつ国会に出されるのかわかりませんが)「協同労働の協同組合法」の法案にも通じるものです。この法案は,新たな法人格をもつ協同組合を認めたうえで,組合員を,法的には「労働者」ではないが,労働保険との関係では労働者とみなしたり,就業規則に準じる就労規程を労働基準監督署のチェック下に置いたりするなど,労働者的な保護にも配慮したものとなっています。労働基準監督署が関与するのは,名ばかり協同組合が出てくることを懸念したものでしょう。

 いずれにせよ重要なのは,事業の目的であり,私は目的が非営利の公共性の高いものであれば,労働法の適用を全部ないし一部を除外するというアプローチがあるのかなと思い,そういう発言をしました(なお,山口先生は,労働の本質を突くもっと高尚な議論をされていました)。

 昨年,中央経済社から出された,水島郁子・山下眞弘編『中小企業の法務と理論-労働法と会社法の連携-』(いただいておきながら,お礼が遅くなり申し訳ありません)の最後に,商法学者の道野真弘さんの「『労働者協同組合法案』と経営参加」という論文が掲載されていました。本の趣旨から会社法の専門家が執筆されたのでしょうが,今後は労働法学者のなかで,このテーマについて執筆できるような人が出てくる必要がありますね(現在では,明治大学の野川忍先生でしょうか)。

 もう一つ,労働者協同組合というと,JILPTの濱口桂一郎さんが,労働組合の労働者供給を,労働者協同組合とみるべきだということを言われています。これはとても斬新な発想で,労働者供給をする主体としての労働組合の,なんともすっきりしない法的位置づけをクリアに解決する慧眼だと思います。ただ,この議論が広がっていくためには,労働組合(協同組合)側も,供給先との交渉のときに団体交渉という手法を使わないという決意が必要ですね。自分たちは事業者の団体だから,団体交渉は要求しないし,不当労働行為救済の申立てをしたりもしないという決意です。

 労働者の団体であれば労働組合。労働組合が共済事業をすることはもちろん認められている(労組法2条ただし書3号を参照)。事業者があつまれば,独占の危険性のある事業者団体。ただし,相互扶助を目的とする協同組合は,不当な対価引上げにならない限り,適用除外となる(独禁法22条)。中小企業等協同組合法による協同組合がその典型です。

 労働者協同組合法は,独禁法の例外というルートから行くのではなく,労働法の例外というルートで行くのでしょう。そうせざるを得ないのは,労働者協同組合の組合員は,客観的にみれば使用従属下で働く労働者となってしまうからです。

 しかしここで議論は,先ほどの論点に戻ることになります。労働法は,働く人がどのような事業に使用されるかによって,適用を分けることができないか,という論点です。公共性や非営利性といった一定の要件を満たす事業は,労働法の適用を除外することにしたらどうでしょうか(適用除外事業に使用されているから,労働者には該当しないという解釈です[労働基準法9条を参照])。もちろん,適用除外だけして,そのまま放置してはいけません。同時に,働き方に中立的なセーフティネットはどういうものか,ということを考えなければならないのです。この最後の点になると,私が『会社員が消える』でも扱った雇用労働者にもフリーの個人自営業者にも共通の公助の構築を,という議論につながってきます。こういう視点で,労働法や社会保障法を再構築し,さらに経済法や民法・会社法を巻き込んでいくというのが,これから私たちがやっていかなければならない研究テーマです。そしてこれが,ジュリストの最新号の拙稿「雇われない働き方」でも述べた,「労働法のディスラプション」なのです。

2019年3月 2日 (土)

『誰のために法は生まれた』

 東京大学のローマ法の先生だった木庭顕先生(私の博士論文の審査委員の一人)の『誰のために法は生まれた』(朝日出版社)は,木庭先生らしい語り口がふんだんに出てきて,たいへん面白い本です。法律を専門としなくても,知的チャレンジをしたいという人は,ぜひ読むことをお奨めします。ギリシア神話から,イタリア映画や近松の世界を経て,自衛隊や憲法9条の話にもつながり,これを(優秀すぎる)中高生との議論を通して見事に解きほぐしておられます。そこでは政治とは何か,デモクラシーとは何か,そして法や裁判は何かということが扱われているのですが,なかでも印象的なのは,政治の中核的理念は,「徒党を解体して個人の自由を保障すること」「政治的決定が絶対でなければならないのは,なにかによって曲げることができるならば,それは権力や利益,したがって徒党の介入であるからである」ということが力説されているところです。そこにあるのは自由な言論の絶対性であり,そうした自由をもつ個人の連帯こそが政治の基礎にあるべきだとするのです。このメッセージこそ,現在の政治をみるうえで重要な視点だと思います。
 さらに,この本では,木庭先生が昔からこだわっておられた「占有」の重要性もわかりやすく説いてくれています。「占有」という事実上の領域支配の重要性,しかもその占有には,(私の言葉でいえば)良い占有と悪い占有とがあり,その占有を奪いにくる者に対しては一回ブロックができなければならない,というのです。占有が所有権など正当な権限に裏付けられたものかどうかは最終的に裁判で決めるとしても,その前にいったん,占有それ自体が守られなければならない,とするのです(なお,占有の訴えについては,本権に関する理由に基づいて裁判をすることができないとする民法202条2項も参照)。この占有は物理的なものだけでなく,実は観念的なものにもつながっていきます(自分の大切な人,亡くなった家族,そして自分の精神など)。この占有の一次的な保護が重要なのです。これを,徒党を組んだ者がやってきて奪いに来ることをいかにして阻止するかが政治の役割であり,法もそのための手段となるのです。

 この徒党と個人との戦いというのが労働法で最もよく現れるのは,使用者性をめぐる紛争でしょう。使用者側の登場人物が複数現れたとき,誰が責任者かわからないというのが,木庭先生の言われる徒党を組んで,個人の占有を奪いに来る状況に合致するように思えるのです(もちろん,ほんとうに徒党かどうかの確認が必要なのは言うまでもありませんが)。

 実は世間ではあまり注目されていませんが,兵庫県労働委員会が扱った事件に伊藤興業事件というのがあります(平成2647日)。労働判例1137号にも掲載されている事件です。この事件,(私の担当事件ではありませんが)実はかなり大胆な使用者概念を展開しています。一族で複数の会社を保有しているのですが,家族で役員などを分有しており,資本関係も含めて,どこかの会社が被申立会社を支配しているとはいいにく,また特定の会社が被申立人会社の労働者の基本的な労働条件について現実的かつ具体的な支配力を有しているわけでもない(つまり,労組法7条の使用者性に関する朝日放送事件最高裁判決の判断基準にも合致しない)のですが,複数のグループ会社を全体としてみれば一族を保有主体とする一個の実在とみることができるものでした。 

 この事案で,兵庫県労働委員会は,「団結権を侵害する行為を不当労働行為として排除し,是正して正常な労使関係を回復することを目的とする労組法第7 条の目的に鑑みると,同条でいう使用者性を判断する上では,仮に私法上法人格を否認するための要件を充足しないとされる場合であるとしても,両社に実質的に経営体としての一体性があるという事情を重視すべきである」と述べて,最終的には,被申立人会社に不当労働行為の救済命令を出しています。

 その後,再審査にかかっているのか,取消訴訟が提起されているのか,よく私は知りません(聞いたかもしれませんが記憶にありません)。

 いずれにせよ,労働委員会としては,労組法第7 条の目的に鑑みた使用者性とはどういうものかを考えて判断したものであり,法解釈で許される範囲での法的正義を追求したものだと考えています(ただ,あくまでこれは私の個人的意見にすぎません。組織としての見解ではありません)。中労委や裁判所がどうこれを判断するか見てみたかった気もします。

 ところで,木庭先生の紹介されていたイタリア映画「自転車泥棒」では,アントニオから自転車を盗んだ犯人は,徒党を組んでいるようです。アントニオは,仕事を得るためにどうしても必要な自転車を,夫婦にとって大事なシーツを質にまで入れて購入していました。アントニオは息子のブルーノと一緒に必死に盗まれた自転車を探します。警察もアントニオの仕事仲間も教会も助けになりません。自暴自棄になったアントニオは,自転車を盗もうとしますが,こちらはすぐに捕まってしまいます。アントニオは,自転車を盗んだことで,徒党と同類に落ちていたのです。しかし,ブルーノをみた持ち主は,アントニオを許すのです。アントニオは,徒党側の人間ではなく,この親子をみて,自分たちと同じ仲間だという連帯感を感じたのかもしれません。

 木庭先生の議論を振り返ってみて,法をどのように適用するかというのは,徒党を組んで責任をあいまいにして「占有」を侵害していこうとする行為をいかにして許さないようにするかにポイントがあるのかなと思いました。これは先ほどの使用者概念をめぐる紛争の話にも通じます(もちろん使用者と窃盗グループを同視しているのではありませんので,誤解なきよう。木庭先生の本では,そのほかにも,いろいろなタイプの徒党が出てきます)。

 一方で,アントニオが盗んだ自転車の持ち主は,「占有」は自力で守ったうえで,侵害者に対して,泥棒は悪いという形式論をとるのではなく,自身で自分なりにアントニオの行為の評価をし,そして許しました。そこにあるのは,被害者でありながらも,冷静に法的正義をみることができる視点です。何が本当の悪かを見極める視点ともいえます。

 現在は,わりと何でも裁判にしようということが多いような気がします。まず第一次的な侵害のところで,ほんとうに公的な制度である裁判を利用するに値するものかどうかを吟味する法感覚が大切で,ましてや弁護士がそれを誘発するようなことがあってはならないだろう,ということを考えさせられました。

  誰のために法が生まれたか。法を扱う人間は,いつも考えておかなければならないことなのでしょう。それは私にとっては,とくに労働委員会の仕事をするときとなるのですが,その仕事の重さを感じざるを得ません。

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