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2019年1月の記事

2019年1月30日 (水)

パワハラ認定の怪しさ

 Wedgeの原稿では,パワハラの定義の難しさも論じています。今回の法規制の動きとは直接関係しないことですが,体操のパワハラ問題が,昨年たいへん話題となりました。第三者委員会の報告書が出たそうですが,(私はそれを読んでいませんが)報道によると,パワハラがなかったという認定だったようです。しかし,これには違和感があります。まずパワハラがなかったというためには,暴言などの具体的な行為があったかどうかと,その行為がパワハラに該当するかどうかという二つの問題に分けて考える必要があります。前者は事実の問題なので検証可能としても,後者についてはそもそもパワハラの定義はないので,認定のしようがないのです。やるとしたら,委員会が独自にパワハラを定義して,それに該当するかどうかを論じることになるのですが,そんなものには信用性はありません。定義を狭くすれば,成立しづらくなります(逆も同じ)が,そうした定義がいけないと批判する客観的な根拠がないのです。法律の専門家が委員に入っているから安心と世間は思うでしょうが,法律家は法律があってこそ機能するもので,法律がない状態ではなかなか機能しません。自分でルールを作って自分で判断するというのでは,意味がないのです。民事上の不法行為や公序良俗違反に該当するかどうかといった判断はありえますが,そういう次元のことなら,裁判所で決めるべきものです(被害を訴えている人も同意した仲裁人に依頼するということであれば,話は別でしょうが)。

 パワハラの認定を第三者委員会にゆだねるというのは,無茶なことです。そういうことよりも,何らかの問題が起きていることは明らかなので,環境改善をどうすればよいかという経営的な視点のほうが重要です。T夫妻が体操協会の体質改善に阻害的な存在なのであれば,その過去の行為がパワハラ的なものに該当するかどうかに関係なく,辞任勧告をするといったことが必要なのだと思います。そういうことをする第三者委員会だとすると,法律家中心ではなく,もっと違う人選になるべきでしょう。

 ちょっと関連する話ですが,厚生労働省の統計不正問題で,特別監査委員会が設置されましたが,その報告書が批判されています。私はこの報告書も読んでいませんが,新聞報道によると,「組織的隠蔽」はなかったと認定されたそうです。「隠蔽」のような故意の行為はなかったが,重大な過失はあったので,それは言語道断だということのようです。ただ,「組織的隠蔽」は,どのように定義されるのでしょうか。パワハラと同様に定義のないものの存否を認定するのは,意味のあることではありません。そもそもどんなに調査をしても,役所の「組織的隠蔽」を認定するのは困難でしょう。それこそ,そういうボロがでないように「組織的隠蔽」をするのが,役所だからです。

 野党もマスメディアも,「組織的隠蔽」の有無にこだわる必要はないのではないでしょうか。「犯人」探し的なことをしても,時間の無駄です。重大な過失があって言語道断なことをしたということだけで,すでに役所の責任はあるのです。それについて役所は組織として責任をとるべきで(担当大臣などの責任者の処分です),あとは今後の再発防止(今回は統計の信頼性の回復)のためにエネルギーを傾注すべきです(それには組織の抜本的な再編が必要ということになるかもしれません)。「犯行」の内容がわからなければ再発防止もできないという正論も聞こえてきそうですが,この問題に関しては空虚に思えます。「犯人」探しなど,役所に対してはできっこないし,やれるとしてもそれには莫大な時間がかかるでしょう。そんなことに時間をかけるのは無駄ですし,多くの無関係の職員の業務の邪魔になってしまうことのほうが国民にとって害が大きいと思います。

Wedge登場

 

 現在,発売されているWedge2月号に,私の論考が掲載されています(1年半ぶりくらいです)。テーマはパワハラ(職場のパワハラ)です。パワハラについて本格的に書くのは,これが初めてではないかと思います。普通の切り口とはちょっと異なり,パワハラというテーマについて法的に介入することの意味はどういうことか,法的介入には副作用がないか,といったことを,私自身の視点で論じてみました。
 
 職場のパワハラは,本来は,法で対処するようなものではなく,企業が自ら対処していくべきものであるが,それにもかかわらず法が介入せざるを得なくなった現在の状況は,企業のガバナンスの機能不全を示すものであり,情けないことであるという,という書きぶりになっています(怒っている経営者も多いかもしれませんね)。最後のほうでは,パワハラは企業内の組織構造のあり方とも関係していて,今後は階層構造から水平的な構造に変わっていくので,パワハラもなくなっていくのではないかという展望(楽観的すぎる?)を提示しています。
 
 パワハラを広く定義すると,どこの社会にも「いじめ」はあるといった話もパワハラに関係してくるのですが,ここではもう少し狭く職場の上司による権限濫用型のパワハラを中心に論じました。これこそが最も労働法で取り扱うべきものだと考えたからです。もちろん,パワハラには,同僚間のものもあれば,部下から上司へのものもあります。いずれにせよ,快適な職場環境の実現は,労働者にとって利益となるだけでなく,企業が事業を遂行するうえでも重要なものです。パワハラ問題は,人権問題というようなアプローチよりも,快適な職場を実現するにはどうすればよいかという観点から取り組むべきでしょう。
 
 その意味では,新しい法律は,労働安全衛生法のなかで規定されるのがよいのかもしれません。あるいは,受動喫煙などの規制や他のハラスメント規制(セクハラ,マタハラなど)も含めて,快適職場法のようなものを作ることを考えてもよいかもしれません。

 

 *なお,原稿のなかで,工場法の施行年にミスがあります。最初の原稿では「1916」でしたが,ゲラで「16」となっていたので,(19162016か紛らわしいため)元に戻すよう指示したところ「2016」となっていて,それがチェック漏れで,そのまま残ってしまいました。お詫びとともに訂正をお願いします。デジタル版では訂正済みです。

2019年1月25日 (金)

統計不正問題

 厚生労働省の「毎月勤労統計」に不備があったことが大問題となっています。この不備が,どれくらいの影響があるかについては,よくわかりません。ただ,少なくとも雇用保険や労災保険の給付(スライド率に影響)については,一件ごとの平均はそれほど多額ではなくても,関係している人数が大きいので,トータルではかなりの額となっているようです。

 それ以上に困っているのは,経済学者ではないでしょうか。この統計を活用して実証研究をしてきた人も多いと思われるからです。法学者は,統計を使うことがあっても,通常,大きな傾向を把握するといった目的で使っているにすぎないので(法社会学者は除く),細かい数字の問題については気にしていないことが多いでしょう。しかし,経済学者は,統計の正確性は論文のクオリティに直結するはずですので,今回の統計の誤りがどの程度のインパクトをもたらすのか,とても心配です。ましてや政策立案において,統計が誤っていれば,その影響は甚大なものとなります。エビデンスによる政策の基盤が崩壊してしまうからです。

 どこの国の統計でも,政府が出すものは,政治的な思惑でゆがめられていないかという視点でみておくことは必要でしょう。ただ,日本では,多くの専門家が統計を使っていることから,さすがに信用できるのではないかと思っていました。しかし実は,この信用も,役所がきちんとデータを収集しているという性善説に依拠していたのですね。

 イタリアでは,ISTATIstituto Nazionale di Statistica:国家統計局)という統計を専門にする国家機関があり,イタリアの統計を一手に引き受けています。ISTATが どこまで政治から独立しているのかよく知りませんが,それでも労働統計は,ここから引用しなければ,信頼性がありません。日本には,こういう国家機関がないのですね(いちおう総務省統計局がこれに該当するのでしょうか)。政府統計を一手に引き受ける独立した専門的な機関を設けるべきではないでしょうか。

 厚生労働省はピンチです。統計の軽視と隠蔽体質が合わさり,国民からの信頼は地に落ちています。

 ただ,私はいつも言っているのです。そもそも役人が言うことややることをそのまま信じてはなりません。役人は組織の人間です。組織のために働いているのです(会社員だって,多くの人は,会社という組織のために働くので,同じことです)。彼らの行動基準は組織のためになるかどうかです(若手のほとんどは国家国民のために働くという志をもって入省するのでしょうが,数年経つと組織の人間になってしまいます)。問題は,組織の利益と国民の利益が,必ずしも合致していないことです。だから,国民は,役人の言うことを基本的には疑うという姿勢をもつ必要があります。彼らは優秀ですが,その優秀さは,組織の維持のために活用されがちです。そういう観点からすると,今回の不正問題が起きたことは,まったく不思議なことではありません。

2019年1月23日 (水)

ボヘミアン・ラプソディー

 いま話題の映画です。とりあえず観ておこうと思い,映画館に行ってきました。あまりにも高い評判を聞いていたので,感想は「そこまでではないが」という感じですが,それでもとても良い映画でした。観る価値は十分あると思います。

 クイーンのリードボーカルのフレディ・マーキュリーの伝記的な映画ですが,この映画は他にもいくつかの面があると思います。

 まずクイーンファンにとっては,たまらないものでしょう。クイーンの栄光と挫折のストーリーは,まさにフレディの人生とともにあったのです。映画のなかでは,クイーンの有名な曲がたくさん聞けますし,ボヘミアン・ラプソディーの作成秘話のようなものも出てきます。私は,どういうわけか,あまりクイーンの音楽は好きではなく,ほとんど聞いたことがなかったのですが,いま思えば,知らぬうちにクイーンの音楽は自分の周りに浸透していたのですね。そして,いまその良さを確認しているところです。ボヘミアン・ラプソディーの斬新性は,感動的です。新しいものを作ろうとしたフレディらクイーンの姿勢には,心より敬意を表したいです。

 この作品は,もう一つ,メアリーとフレディの切ない恋の物語もあります。自分の愛する彼氏がゲイであるとわかったときのメアリーの心のなかの葛藤は,想像するに余りあります。

 そして,最愛のメアリーに去られたあとのフレディの孤独。彼の周りに集まるゲイの仲間では,彼の心の空白は埋められなかったでしょう。そして,何よりも大切な「家族」であったクイーンの仲間との対立。フレディにとっては,クイーンの他のメンバーには家族がいるけれど,自分には家族がいない。夜,一緒に食事をしてくれる人もいない。フレディにとっての「家族」は,仕事上の仲間というだけでは足らなかったのでしょう。それに,メンバーのなかには,ゲイに対する偏見もあったのかもしれません。

 フレディは,彼をクイーンから隔離していた張本人であったポールの裏切りを知ります。それを教えてくれたのはメアリーでした。フレディは悔悟し,クイーンに戻ります。そしてメンバーにエイズであることを告白し,感動的なライブ・エイドをしたところで幕を閉じます(実際のものの完全コピーだそうです)。多くの観客は,ここで涙するのです。

 フレディは,新たなパートナーと残りの短い人生を送ったそうです。

 映画を観た後も,彼のハートフルな歌声がこだましています。とくにボヘミアン・ラプソディーのバラード部分(ジョー山中『人間の証明』と出だしが酷似)の,美しくも,悲しい響きを聞いていると,彼の魂の叫びが伝わってくるような気がします。

2019年1月21日 (月)

名ばかり自営業者

 Yahooニュース(朝日新聞デジタル)で気になるものがありました。「ヤマハミュージックジャパン」の英語教室で働く講師の女性14人が,待遇改善を求めて,労働組合を結成したというニュースです。女性たちは契約上「個人事業者」とされ,社会保険などが適用されていなかったのですが,その実態は「労働者」ではないか,ということです。記事では,相談にいったO労働局から,「あなた方は労働者じゃない」と言われて,取り合ってもらえなかったということでした。これは,私が,ビジネスガイドの今月号の「キーワードからみた労働法」でも取り扱った「偽装自営業者」に関する話ですね。実際に労働者と認定できるかどうかは,裁判所の判断を待つ必要がありますが,契約が雇用(労働)契約でなかったり,企業での社会保険の取扱いが被用者でなかったりすれば,それだけで労働法上も労働者でないと行政の窓口で扱われてしまうということであれば,問題ですね。契約の名称や保険・税法上の取扱いは,労働者性の判断では決め手になりません。
 この事件のようなケースでは,労働組合を結成して戦うというのでもいいのですが(法的には,労働組合法上の労働者の範囲は,労働基準法上の労働者より広いとされています),労働基準法上の問題であれば,まずは行政が適切に対処してもらいたいものです。
 名ばかり自営業者を生まないためにも,そのあたりの行政実務の対応はどうなっているのか気になるところです。

2019年1月20日 (日)

ブログ再開

 ブログを閉鎖してから半年以上経過しました。過去2回閉鎖したのですが,1回目はniftyから退会したために,ブログが消滅してしまったというアクシンデントによるものでした(大ショック)。一方,前回は,国家的秘密をブログに書いてしまったために,その責任をとって,自らの意志で閉鎖したというものでした。首相の滞在予定の外国のホテルを,噂の情報とはいえ,うっかり書きこんでしまい,政府関係者の削除要請に気づかないまま数時間もそのまま掲載してしまったことについて深く反省したため,こういう危ないことは止めようと思ったのです(実際には首相の外遊は中止されたのですが)。

 それと同時に,本の本格的な執筆に入るために,アウトプットを控えて,書くエネルギーを充填しようという目的もありました(当時はほぼ毎日更新していましたから)。

 ようやくアウトプットの作業がほぼ一段落つき,再びインプットの季節に入ることになったことから,ブログでときどきアウトプットする余裕が出てきました。

 それに元々ブログは本の宣伝のために始めたものであり(そのほか,本の内容の事後解説,誤植訂正,法改正などによる情報のアップデートといった目的もありました),その趣旨からすると来月以降,刊行される本の宣伝もしようかなという気持ちが湧いてきました。加えて,たくさんの本をいただいておきながら,何も返事をしていないことも心苦しくなってきました。

 ということで,前のように日々更新とはいきませんが,以前と同じようなテイストでブログを再開することにしました。タイトルは,「アモーレと労働法」は飽きたので,ちょっとだけ変えて,アモリスタ・ウモリスタ(amorista umorista)にしました。アモーレ(愛)とウモーレ(ユーモア)にこだわっていきたいと思います。

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