2019年6月19日 (水)

投資教育の重要性

 一昨日の続きです。
 労働者の多くはまだいまのところは会社員です。会社の多くは株式会社です。株式会社は,投資家がいるから成り立っています(日本は非上場の中小企業が多いので,あまり一般投資家が支えるという感じではありませんが)。国民が日本の会社に投資をし,その会社が事業を拡大して利益を上げ,それが株主である国民や労働者(会社の債権者)である国民に還元されるという仕組み(会社の法人税によって国の収入になるという形でも国民に還元される) は,株式会社を中心とする資本主義の世の中においては,とても重要なものです(ただし将来的には,大企業は減っていき,株式会社というスタイルとは異なる事業形態が増えると考えていますが)。日本の会社であっても,日本の投資家が少なければ,外国人投資家に頼らざるを得ず,ちょっと論理が飛躍するようですが,解雇規制の緩和という議論にもつながるのです。日本の会社が置かれている労働市場法制は,外国人投資家にとって大きな関心事です。こうした外国人投資家に日本の会社に投資をしてもらうためには,労働市場の硬直性の象徴ともいえる解雇規制の改革が必要となってくるのです(このことは,大内伸哉・川口大司編著『解雇規制を問い直す』(有斐閣)24頁にも少しだけ言及しています)。また,外国の投資家が多ければ,日本のことをよく知らない経営陣を送り込んできて,日本の労働者に合わない企業経営をする危険性もあります。
 もし日本人の投資家が中心となり,解雇規制を維持し,従業員の雇用を守ることこそが株主の考えだとなると,従業員主権型のコーポレートガバナンスが可能となり,労働法制をめぐる議論も変わることになるかもしれません。たとえばCSRの観点から従業員利益を重視する会社に将来性を感じて,そこに優先的に投資をするという投資ファンドに個人が資金を託すということになると,解雇規制の見直し論も弱まっていくかもしれません。
 いずれにせよ,今回の年金問題と株式投資は密接に結びついています。公的年金にしろ,企業年金にしろ,個人年金にしろ,投資による資産運用は不可避です。その投資を政府がやるか,個人がやるかの違いがあるだけです。それだったら個人でやってみようではないか,ということなのですが,どうも日本人には投資はおろか,お金のことを考えること自体がどこかよくないことだという考えの人が多いようです。そうなると,これを子供に教育するなんて論外ということになります。でも,お金のことを学ぶとは,稼ぎ方や運用の仕方だけでなく,使い方(寄付などの社会貢献,浪費をいさめ倹約を進めることなど)までセットなのです。これは,とても大切なことではないかと思います。
 あの村上ファンドの村上世彰氏が書いた『いま君に伝えたいお金の話』(幻冬舎)は,このような問題意識に十分に応えてくれるものでした。平易な文章ですが,「会社員が消える」時代のお金との付き合い方もきちんと書かれているなど,内容のレベルは高いです。また借金の危険性を指摘する部分は,大人こそ読んでおいたほうがよいです。お金は道具にすぎないですが,その道具に振り回されないようにするために,その危険性も知っておかなければなりません。人生には借金をせざるを得ないときもあるでしょうが,できるかぎり借金をしない範囲に自らの欲望を抑える。そのうえで,自分のやりたいことを実現するために働いて稼ぎ,しっかり投資もして増やしいく。そして幸運にも,自分のやりたいことに使う以上に資産形成ができれば,寄付をして社会に還元していく。こういうお金の教育は,ぜひ小学校や中学校からやるべきでしょう。すでに村上氏はそういう活動をされているようですね。

 

2019年6月17日 (月)

議論すべきなのは何なのか?-老後2000万円問題について愚考する

 自民党は参議院選挙に負けるのではないか,という気がしてきましたね。金融庁の金融審議会「市場ワーキング・グループ」の報告書を受け取らないという意味不明の行為は,ちょっと考えられないことです。ワーキング・グループのメンツを潰しただけでなく,普通はこういうものは担当官庁が,その意向に沿った人をメンバーに選び,メンバーの発言内容をうまく取り入れながら(実に見事に)作文して原案を仕上げるという自作自演で(今回の報告書がそうだったという確証はありませんが),大臣が受け取るのは単なる儀式ということなので,それを受け取らないというのは,よほど大臣が動揺したのでしょう。国民に誤解を招くものだからと言っていますが,それなら誤解を解消すればいいだけです。国民に説明しても無理というのなら,そんな国民に選ばれているあなたたちは何なの,と問いたくなります。それに,報告書をなきものにするというのは,あたかも独裁体制が,確かに存在していたものを抹殺するかのような不気味さを感じます。しかも選挙のことを意識していると堂々と口にする自民党幹部もいて,国民もほんとうになめられたものです(ただ,自民党に代わる政党がないのも事実ですが)。
 公的年金を大きくあてにした老後の生活設計をしている人は,少なくとも真剣に老後のことを考えている人の中では,ほとんどいないと思います。私たちの世代でもそうですし,若者になれば一層そうでしょう。共働きが当たり前になったのも,現在の生活水準を維持する目的もありますが,老後のために少しでも貯蓄しておかなければいけないという意識によるものでしょう。でも貯蓄だけだと老後の準備としては足りないので,きちんと投資をして資産形成をしましょうというのが,今回の報告書なのでしょう。そこまでは,あまりにも当たり前のことです。今回「なきものにされた」とはいえ,この報告書のおかげで,日本人がもっと投資に関心を示すようになれば,それだけでも報告書には意味があったのかもしれません。
 政府は,公助から自助なのか,と問い詰められていますが,堂々とそうだと答えてもらいたいものです。老後の生活保障はもはや国だけではとても無理で,国民自身が主体的に取り組んでいかざるを得ないのです。そして,そのことは国民の多くはわかっているのです。自分たちが祖父母世代と同じように老後を送れると考えている日本人なんてどこにもいないのです。選挙のために隠すと,かえって政府の隠蔽体質を露呈して票を落とすことになるでしょう。
 もちろん,自助というだけで放置するのは無責任です。自助をサポートする公助も必要です。
 私は,今後,フリーで働く個人が増えるという文脈のなかで,基本的には自助だが,セーフティネットも必要と述べて,公助や共助のことに言及しています(拙著『会社員が消える』(文春新書)の第4章)。セーフティネットには,貧困になったときのサポートもありますが,貧困にならないようにするための予防的サポートもあり,これもセーフティネットに入れるようにと提言しています。この予防的サポートこそが,これからの社会保障の重要な分野になると考えています(社会保障法学者からは,とても相手にしてもらえないような議論でしょうが)。私は,その予防的サポートとして,職業教育のことを挙げましたが,とくにお金のことについていうならば,投資教育も挙げるべきでしょう。ファイナンスの知識は,個人が事業資金を得るためにも必要ですし,老後の生活のためにも必要です。後者の面では,政府は国民が資産形成をしやすいような制度作りに尽力すべきですが,それは現在の厚生年金ではなく,確定拠出型の個人年金を中心にしたものとならざるをえないでしょうし,しかも制度を活用できるだけの知識や情報を与える教育も必要なのです(先日のゆうちょ銀行の投資信託不適切販売のような事例に厳正に対処するのも政府の重要な仕事ですhttps://www.nikkei.com/article/DGKKZO46135270U9A610C1EA4000/ )。
 いずれにせよ,老後の生活設計は,人によって違います。生きていくのに最低限のお金があればいいという人と,現役時代の生活水準を維持したいという人では,準備すべき資金の量も変わります。そう考えると,政府がやるべきことは,資産形成に必要な教育をしっかりやったうえで,老後の資産形成は個人に任せること,ただし,実際に生活リスクに直面した人(最低限の生活水準を送ることができない人)には,政府がしっかり生活保障をすることです。後者は,生活保護の延長のようなものとなるかしれませんし,最低基礎年金のようなものに組み替えることになるかもしれませんし,金銭だけでなく,医療,介護,種々の生活サポートが含まれます(その先には,ベイシックインカムの議論もあります)。
 これは要するに年金廃止論です。100年安心というのは,制度がなんとか存続し続けるということを意味するだけで,国民の給付の水準は下がっていくことは避けられません。国からもらえるものがなくなるというのは大きな不安を与えますし,これまでの保険料納付分に対する配慮は必要ですので,廃止するとしても移行期の対策をしっかりすることは必要です(廃止反対論者は,この移行期のコストが甚大と考えるのですが,できるだけコストを小さくする方法もいろいろ提案されています)。大事なのは将来のシナリオです。国民は,ほんとうに年金の保険料を支払い続けたいのでしょうか。厚生年金に入らなければ損をするとよく言われていますが,それは現在の年金制度が存続することを前提とした話です。しかも現在の年金制度には税金が投入されていますし,制度維持には税金投入が増える可能性もあり,そこでは実は税金という名の保険料が支払われているのです。それを知ったとき,老後資金は自分でしっかり工面して国に面倒をかけないから,保険料もとらないでほしいという国民は,もっと出てこないでしょうか。
 老後の所得保障は重要です。だからこそ,年金廃止も選択肢の一つに入れたうえで,いかにして本当の意味で100年安心の所得保障制度を構築するかと議論を,政治の場でやってもらいたいです。それでもやっぱり現在の年金制度を続けたほうがよいという説得的な理由が示されれば,それはそれで幸せなことなのです。ただ,私はそれについては悲観的ですが。

2019年6月11日 (火)

副業促進に思う

 規制改革会議の「規制改革推進に関する第5次答申」のなかに,副業・兼業の促進というのが入っていました。私も,副業についてはよく語ってきましたし(NHKの番組で話したこともありました),『会社員が消える-働き方の未来図』(文春新書)でも書いています(49頁以下)。ということで,関心をもって答申を読んでみたのですが,少し違和感をおぼえた部分がありました。「法定時間外労働は『後から結ばれた労働契約』で発生するという解釈により,主に副業の使用者が,時間外労働に対する割増賃金支払義務を負うとともに,時間外労働規制の上限規制の遵守の義務を負うこととなる。……本業の使用者における副業・兼業者の労働時間の把握・通算に係る実務上の困難や,副業の使用者における割増賃金支払義務等の負担感等から,企業が副業・兼業の許容や,副業・兼業者の受け入れに関して過度に消極的な姿勢に陥ってしまっている恐れがある」というところです。
 異なる事業場間での労働時間の通算に関する労働基準法381項の見直しは,私も数年前に中小企業庁の会議で,プレゼンしたことがあり,ようやくそれが具体的な提言になったかという思いですが,副業受入れ先の使用者が受入れを渋るという話はしていませんでした。そういう話を聞いたことがなかったので,驚きました。私が不勉強で知らなかっただけなのでしょうが,どこかに調査結果が出ていたのでしょうかね。
 労働基準法38条1項は盲腸のような規定で,ほとんど誰も意識していなかったものなので,この規定が企業の行動に影響を及ぼしていたとは考えにくい気もします。自分の従業員がどこの企業で副業をしているかを把握していることなどほとんどなく,わかっていたときも,そこでの労働時間数についてわざわざ問い合わせたりしないでしょうし,あるいは副業先の企業が,その労働者の本業の企業での労働時間数がどの程度であるのかを気にしたりすることなども,考えにくいことです。私が上記の会議で労働基準法38条1項に言及したのは,副業の促進をしようとする際に,あえていえばこの法律の規定が障害になるからだったのですが,通算は同一企業での異なる事業場間でなされるものに限定すると通達を改めればすむ話でもあります。厚生労働省に,とっととやってもらいましょう。しかも副業が自営であれば,そもそもこの規定は適用されません。あくまで雇用されている労働時間の通算の規定ですので。中小企業庁の問題意識も,むしろ,自営的副業のことにあったと記憶しています。上記の拙著では,副業が,自立的なキャリアを形成していくうえで有効だということも書いています(203頁以下)。
 副業というと,健康管理のことも言われますが,副業を許可したからといって,その企業に副業時の労働に関する安全配慮義務がかかってくるわけではありません。企業のなかには,副業を認めると従業員が過労になるのが心配だといって,副業に消極的なところもあるようですが,これは余計なお世話なのです。少なくとも法的には,副業を認めることにより(強制すれば別ですが),安全配慮義務が追加されるということはありません。企業は,従業員のエネルギーをできるだけ自企業に集中してもらいために,副業を渋るのであって,法的な健康管理責任に言及するのは,たんなる口実ではないかという疑念があります。
 ただ最近は企業の利益を考えた場合でも,副業を認めたほうがよいという考え方が広がってきているようです。日経ビジネスの65日号の「時事深層」でも,「みずほ銀行で副業解禁の方針」という記事が出ていました。ただ,この記事だけをみると,みずほ銀行は,方向性を打ち出しただけで,具体的にどう副業を認めていくかは未知数と思えます。記者には,就業規則におけるどのような規定で認めるのかまで,踏み込んで取材をしてもらいたいです。経営者が口に出すだけなら,それを報道することにあまり意味はありません(「AIを利用します」という経営者の言葉を採り上げることに価値がないのと同じです)。許容する副業の範囲,副業を認める手続(届出,許可など),例外的に許容しない事由などまで,しっかりみなければ,副業解禁に本気で取り組むのかについての評価はできません。なお,この記事では,安全配慮義務を労働基準法上の雇い主の義務としていましたが,労働契約法(5条)上の義務です。単なる書き間違いかもしれませんが,この種の間違いはいろいろなところでよく目にするので,いちおう指摘しておきますね。

2019年6月 9日 (日)

ポピュリズムと労働政策

 古代ローマ帝国の「パンとサーカス」に示されるように,ポピュリズム政策は,国民を堕落させ,ひいては国家の衰亡につながるというのが歴史の教訓です。今日の労働法に関する諸々の施策が,古代ローマにおける食料(パン)の無償供与に相当するようなものでないのかが気がかりです。とりわけ最低賃金の引上げ論が問題です。これは,ある面では,労働者に対する賃金の「無償供与」のようなものです。これまでの時給が,自動的に上がるわけですから。しかも,これが中小企業の補助金とセットになっていれば,今度は中小企業への賃金原資の「無償供与」のようなものになります。そういうことをやる政権は,「無償供与」を受ける側からすれば,良い政権だと思うでしょう。日本全国の中小企業やそこで働く人に恩恵が及ぶこういう政策は政治的な効果が絶大で,選挙が近づくと,やりたい誘惑に駆られるでしょう。しかも保守政権がやると,本来,リベラルな政権がやりそうなことなので,リベラル派の野党からの批判がされにくいというメリットもあります。
 ローマでの食糧供給は,Wikipedia情報ですが,「公の場で行われ,受給者は受け取りの際には物乞い行為が大衆の視線に晒されるリスクを負わされた。この配給の仕組みによって無限の受給対象者の拡大を防ぐことが出来た」ということのようです(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%B3%E3%81%A8%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%82%B9)。ところが,現在の最低賃金の引上げは,「物乞い」のようなものではなく,法律上の裏付けがあるかのようなので,堂々と供与を受けることができるのです。政府も,これはみなさんの権利です,というような顔をしています。ほんとうに法律上の明確な裏付けがあるのだろうか,という疑問は先日書いたので,ここでは繰り返しませんが。
 もちろん政権が,国民の喜ぶ政策を打ち出すこと自体は悪いことではありません。むしろ,そういうことは進んですべきです。しかし,それが国民の中長期的な利益になっているのかを,よく見極める必要があるのです。賃金制度をどのように設計して,どの程度の水準で支払うかは,個々の企業の人事政策の根幹に関わるものです。賃金をどう払うかは,企業が「答え」を出すものです。政府は,「答え」を与えるのではなく,良い「答え」を引き出せるような情報提供や環境整備をどうするかを考えるべきでしょう。AIなどの先端技術への対応が,そのための有効な手段ですが,その点はなかなか進んでいないようです。最低賃金や同一労働同一賃金といった「答え」に手をつけるのは,企業や国民を堕落させる誤った政策なのです。ましてや,労働者の購買能力を高めて消費を増やすという目的にも貢献しないのではないかという指摘もあり(6月8日の日本経済新聞朝刊の「マーケット商品」欄の「バイト時給に天井感」),そうなるとなおさらです。
 労働者の生産性が高まり,それが賃金に反映し,消費に回ったり,税収の増加につながったりするのには,時間がかかります。だから政権は,とくに選挙が近くなると,将来に禍根を残すおそれのある政策であっても,それに手をつけたくなるのです。
 実は私は民主主義というものに,最近疑問をもっています。とくに選挙というものに対する評価をもう少し考えなければならないと思っています。それは,また別の機会に改めて書くことにしますが,とにかく選挙が近づくと,問題のある政策が出てきそうになるので,警戒する必要があります。

2019年6月 1日 (土)

エルネオス

 「エルネオス」という雑誌の2019年6月号のなかで,ジャーナリストの元木昌彦さんが,本の著者にインタビューをする「メディアを考える旅」に登場しました。第257回目という歴史のある企画に,拙著『会社員が消える-働き方の未来図』をとりあげていただきました。元木さんは,私よりもかなり上の世代で,そういう世代の方からの率直な疑問や比較的リベラルな視点からの質問をしていただき,個人的には逆に自分の考え方を説明する機会が十分に得られてよかったと思っています。それにしても,いつも思うのですが,世の中には多くの雑誌があるものですね。この雑誌のことも知りませんでした。今回の話が来たときに過去の号をいくつか送っていただき読んでみたのですが,なかなか個性的で読みごたえのある雑誌でした。私の周りにこの雑誌を読んでいる人はいないと思うので,読者の顔が想像できないなか,それゆえ逆にかなりリラックスして自由に話してしまいました。前のInnovators Talkとほぼ同じ時期に受けたインタビューなので,内容的には重複していますが,やはりインタビュアの世代や性別がまったく違うので,答える私の話の与える印象も少し異なっているかもしれません。
 元木さんは,いきなり拙著が「テレワークについての本」である,と指摘しています。これには最初少し違和感がありましたが,よく考えると,私はフリーの個人が,好きな時間や場所で働く時代がくるということを強調しているので,そうなるとこれは「テレワークについての本」だということなのでしょう。AIやロボットに仕事が奪われるとか,雇われて働く会社員が減るということだけではなく,個人がデジタル技術を使って働くようになるところに変化の本質があるという点に正面から反応されたのが,「テレワークについての本」であるという言葉なのではないかと思いました。インタビューのなかでは,そのほかにも,教育の話,労働なき時代の話などもして,最後は農業の将来性を語って終わりました。
 このなかで最初に,テレワークがらみで,私の話が出てきます。大学教授の本業を授業だとすると,そこは残念ながらオンライン化がされていないので,テレワークも実現できていませんが,これもできるだけ早急にオンライン化すべきでしょう(院生の指導はメールやSkypeで可能ですし,会議もその大半はメール会議で済むレベルのものです)。一方,研究という業務(意識としては,こちらが本業)や研究成果の社会還元につながる学外での業務は,まさにICTを使う可能性を試すことができるものです。文科系の場合,実験施設などは不要で,必要な文献がデジタル化されていれば,自宅で作業は可能です。また,テレワーク化により,私たちの時間を奪ってきた学外業務での移動時間のロスをなくし,エネルギーの消耗を減らすことができれば,どれだけ仕事の効率が上がり,余暇や休息の時間を増やすことができるでしょうか。仕事はデジタル技術を使って効率を上げ,仕事以外はアナログ的に楽しむという生き方がよいのでは,と思っています。そういえば,神戸労働法研究会は,オンライン化をしていません。研究会だけならZoomを使ってもよく,そうすると参加者も増えるかもしれませんが,そうしないのは,研究会のメインの目的は,その後の飲み会にあり,効率化が不要だからでしょう。ひょっとしたら日本企業でテレワークが進まないのは,仕事後に部下と飲みに行くというカルチャーが衰退するなか,それを決定づけることになりそうなテレワーク化に心理的抵抗を感じる昭和世代のおじさんがまだ多いからかもしれませんね。
 ところで先日は,アサヒ芸能にも登場しました。やはり拙著の紹介記事です。掲載日がわかっていたので,コンビニで立ち読みしようとしたのですが,ページをめくっていると,女性のヌード写真や風俗関係の記事,芸能人のゴシップなどが次々と出てきて,これは学生に誤解されてはまずいと思い,あわてて退散しました(あとから編集者から該当ページのPDFが送られてきました)。私の紹介記事自体は良いものでしたが,このブログの読者の方で見た方はほとんどいなかったでしょうね。

2019年5月29日 (水)

最低賃金の引上げについて考える

 

 最低賃金のことは,これまでもよく書いてきているのですが(たとえば拙著『雇用改革の真実』(日経プレミアム,2014年)の第5章「政府が賃上げさせても労働者は豊かにならない」)……。
 最低賃金の引上げ論が問題となっています。政府がなんとか賃金を上げたいと考えていることは理解できますし,先般経済教室でも採り上げた「同一労働同一賃金」と同様,政府にとっては財政を痛めずに国民の支持を得やすいものといえますが,ポピュリズムの匂いが強く,賛成できません。しかも最低賃金は「同一労働同一賃金」よりも筋が悪いものです。最低賃金は,法律上の強制力があり,違反には罰則もあります。労働市場への強力な介入です。こうした政策が労働市場をどの程度ゆがめるかについては,経済学者の実証研究に委ねる必要があり,この点について意見も多少分かれているようですが,その点はさておき,最低賃金法の構造からみても,政府が最低賃金の引上げに介入することには疑問があります。
 新聞報道によると,政府は6月に発表する「骨太方針」のなかに,最低賃金の全国一元化,また2020円前半までの1000円(時給)の実現を盛り込むことを,検討しているようです。
 最低賃金法は,地域別最低賃金(都道府県ごとに決定される)について,その原則として,「地域別最低賃金は,地域における労働者の生計費及び賃金並びに通常の事業の賃金支払能力を考慮して定められなければならない」と定めており(92項),全国一元化は,この規定と抵触するのではないかと思われます。日本全国の生計費や賃金水準が同じであるとは考えられないからです(ちなみに,域内の自由移動を認めているEUでも,最低賃金の設定については加盟国に委ねている)。
 最低賃金を一律にせよとか,もっと引き上げろとかいう論者は,どうも最低賃金を現実賃金と混同しているのではないかと思います。最低賃金は,罰則によって強制される最低水準の賃金のことです。何が犯罪になるかの水準を決めるものなのです。だから事業の賃金支払能力などの現実的なところを考えていかざるを得ないのです。
 地方での労働者の確保という経営者側の理由が,最低賃金の引上げの根拠として言われることもあります。もしそういうことなら,自発的に賃金を上げればよいのです。自発的に引上げれないのなら,法律で強制されても,引き上げることは困難でしょう。もし,法律で強制されれば,補助金が支払われるかもしれないと期待して最低賃金の引上げを求めているとすれば,それは経営者としての資質を問われることになるでしょう。
 最低賃金が引き上げられれば,賃金相場が上がることはあるようですが,最低賃金の絶対額の水準に,賃金が引き下げられる傾向があるかどうかは,私はよくわかりません。しかし,最低賃金に合わせた賃金を支払おうとする経営者がいれば,それでは良い人材が集まらないので,そうした企業は市場で淘汰されていくはずです。
 むしろ考えるべきなのは,多くの中小企業は,人材確保の必要性を考えて,ぎりぎりいっぱいの賃金を提示しているのではないか,ということです。そのような努力を軽視して,世論受けのする政策を打ち出すことは,やってはいけないことです。日本商工会議所などが,これに抗議する緊急提言をしたのも理解できます。
 経営者が賃金を引き上げる努力をするのは当然のことです。また賃金を大きく引き上げることにより,うまくやっている企業も多いでしょう。でも自分たちができるから,おまえたちもやれるというのは,ちょっと違うと思います。経営者の努力の仕方は,それぞれなのです。賃金をうまく上げたり,制度設計したりすることができずに,生産性が下がったり,人が集まらなかったりすれば,責任を負わなければならないのは,その経営者です。だから経営者には,そうならないよう自助努力するインセンティブがあります。そこに政府が介入するのは,できるだけ避けるべきなのです。余計な介入により,うまくいかなくなったときの経営責任は,誰がとるのでしょうか。
 労働契約法20条も同じですが,作ったうえで,あとはよろしくということでは混乱が残るだけです。最低賃金も,引上げの道筋を作ったぞ,あとはよろしくでは困るのです。そういう政策を進めれば,次にどうなるかまで,しっかり考えてもらいたいです。選挙が終われば,あとはどうでもよいということでは困るのですが,どうもそのような気がします。というのは,トランプが貿易問題について選挙が終わるまでは待つと言っているのは,選挙が終われば,国民に不利なことでも大丈夫と,安部首相が言ったからではないかと勘繰りたくなります。もしそうなら,国民もずいぶんと馬鹿にされたものです。 
 最低賃金の決定プロセスには,最低賃金審議会という専門機関があります。とくに重要なのは中央最低賃金審議会です。最低賃金の引上げペースを加速化せよという政府の圧力は相当なものかもしれませんが,その存在意義をしっかり発揮してもらえると信じています。

2019年5月23日 (木)

「ジョブ型正社員の雇用ルールの明確化に関する意見」を読んで

 規制改革推進会議で出された「ジョブ型正社員(勤務地限定正社員、職務限定正社員等)の雇用ルールの明確化に関する意見」(以下,「意見」)をみました。ジョブ型正社員のなかに「勤務地限定正社員」を含むというネーミングの問題は別として,勤務地や職務を限定するような多様な正社員がいてもよい,ということには異論はありません。職務内容や勤務地が無限定な働き方にいろいろ問題があることもそのとおりでしょう。でも,これは法規制には関係がありません。
 「意見」は,現状の把握,問題点の指摘,改革の方向性に分かれていますが,少なくとも労働法の研究者が入っていれば,こういう内容にはならなかったと思います(だから良いのだ,ということかもしれませんが)。でも今後,もし労政審に作業を任せるのだとすれば,労政審にはあまりファイトがわかない仕事になるのではないかという懸念があります。
 「意見」は,冒頭で,「労働契約はその名称の通り,使用者と労働者の「合意」によって成立する。労働契約法では,個々の労働者と使用者間の「対等の立場における合意」を求めている。日本では労働契約の締結時には労働条件について明確な合意がなされないのが通常であり,たとえ書面による合意がなくとも,労働者が使用者に使用されて労働し,使用者がこれに対して賃金を支払うことの合意さえあれば労働契約は成立しうる。事実,企業の包括的な指示のもとで,自身の労働条件が曖昧なまま働いている労働者は少なくない。」と述べています。
 ここで注目すべきは,労働契約法は合意原則や労働条件対等決定の原則をかかげているが,実際の労働契約では明確な合意がされていないので,事実上,労働者は企業の包括的な指示のもとで,自身の労働条件が曖昧なまま働いている,という認識です。この「曖昧性」の除去が,「意見」の基本的な主張となっています。
 そして「現状」のところで,次のように述べます。
「・就社型(メンバーシップ型)雇用モデルが高度成長をもたらしたという強い成功体験から,正社員であれば企業の命令により,職務,勤務地,労働時間等の労働条件が変更されるなど,無限定な働き方を許容するのが当然という意識がいまだに強い。
 ▪ 職務や勤務地等が無限定な働き方は我が国の雇用慣行に過ぎず,何らかの法規制に基づいているわけではない。実務的に契約意識の低い日本において労働契約の締結も漠然としており,当事者はいつ,どのような内容の労働契約がどのようにして締結されたのかを明確に意識していない。環境変化によって労使それぞれの事情が変わった場合,慣行であるが故に,個別に労働条件の確認や見直しをしようとしても拠り所がない。」
 「意見」では,就社型雇用モデルの無限定な働き方は,契約意識の低い日本で,労働契約がきちんと締結されておらず,労働条件が明確でないことに起因すると分析しているようです。そして,ここから「問題点」として,限定正社員の話に移ります。
「「勤務地限定正社員」,「職務限定正社員」等は,多くの企業で導入が進んでいるが,労働契約法第4条第2項において、労働契約の内容については,できる限り書面による確認をすることとされているにすぎないため,勤務地等の限定が労働契約や就業規則で明示的に定められていないことが多い。雇入れにあたって義務付けられている労働条件明示(労働基準法第15条)だけでは,明示すべき対象として掲げられていない事項には及ばない。また,労働者が同一企業内で長期に勤務する過程で,個別労働者への人事権の行使として,勤務場所や職務が次々と変更されていく状況から,就職当初の条件だけでその後労働条件がすべて決まってしまうというのは,いかにも形式的で実態に合わない。我が国独自の雇用慣行のもと,使用者が曖昧な運用をすることで労使間の合意範囲の認識に齟齬を生み,職務や勤務地等の限定条件をめぐる紛争の原因になりかねない。」
 そして,具体的な改革提案として,次の三つをあげます。
 ① 労働契約の内容を書面で確認できるよう,労働契約法第4条第2項を改正し,「勤務地限定正社員」,「職務限定正社員」等については,労働契約の締結時や変更の際に,限定の内容について,労使当事者間の書面による確認を義務化する。
 ② 労働条件に勤務地変更(転勤)の有無,転勤の場合の条件が明示されるよう,労働契約の締結に際して,労働者に書面で明示しなければならないとする労働条件の記載事項(労働基準法第15条,労働基準法施行規則第5条1項)に,「勤務地変更(転勤)の有無」,「転勤の場合の条件」を追加するとともに,労働条件の変更の際も労働者に書面で明示する。
 ③ 勤務地の変更(転勤)を行うことが予定される場合は,就業規則にその旨が示されるよう,就業規則の記載事項(労働基準法第89条)に,労働者の勤務地の変更(転勤)を行うことを予定する場合には,当該事項を,また,労働者の勤務する地域を限定して使用する場合には,その限定に関する事項を,追加する。
 私としては,限定正社員は,勤務地や職務等が限定されているから限定正社員なのであって,それらが限定されていることやその範囲は当事者間にあまり争いがないと思うのですが,それでもなおそのことを書面で明示せよということでしょうかね。
 ひょっとすると,「意見」は,欧米的なジョブ型の雇用をモデルとして,欧米では従事するジョブの内容がはっきり特定しているのに,日本では,契約意識が低いから特定されていない,とみているのかもしれません。契約意識の低さについてはエビデンスが示されていないので,ここではひとまず無視して,労働条件が特定されていないという点については,それは労働条件の明示方法の問題ではなく,そもそも勤務地や職種を限定しない契約を締結しているから特定されていないだけだという説明はつかないでしょうか。そして,日本の通常の就業規則では,配転命令についての規定がある(厚生労働省のモデル就業規則の81項も参照)ので,労働者は勤務地が無限定のなかで具体的に労働条件を変更していく権限を企業に与える旨の合意が就業規則を通してなされているとみることはできないのでしょうか。
 つまり無限定な契約は,日本人の契約意識が低く,労働条件をきちんと特定しないでいるために,事実上生み出されたものではなく,明確にそういう契約でよいという合意があるからなのです。また,そういう無限定な契約がいやという人は,就業規則の規定があっても,勤務地や職務の限定の合意をすることができ(こうした合意は,労働契約法7条ただし書により有効となります),そうした合意をした人は,通常,その限定した部分の労働条件は明確に意識しているはずなのです。そうなると,限定正社員のための労働条件の明確化というニーズはどこにあるのか,という疑問が出てきます。
 現行の規制を確認しておきましょう。使用者は労働者は採用の際には労働条件を明示しなければなりません(労働基準法15条。企業には募集時からも労働条件明示義務があります。職業安定法5条の3)。明示されるべき労働条件には,「就業の場所及び従事すべき業務に関する事項」が挙げられています(労働基準法施行規則5113号)。これは書面で明示すべき事項にもなっています(労働基準法施行規則53項)。これに違反すれば,労働基準法151項違反として,罰則が科されます(労働基準法1201号)。そして,就業規則には,前述のように,就業場所や従事すべき業務に関する変更についての規定があるのが通常です。こうした変更を,その企業の制度として定めている場合には,「当該事業場の労働者のすべてに適用される定めをする場合」における「これに関する事項」として就業規則の必要的記載事項となります(労働基準法8910号)。記載しなければ罰則の適用となります(労働基準法1201号)。そして前述のように,その例外として勤務地等の限定合意をしたい人は,そういう合意をすることは就業規則と抵触していても有効なのです(労働契約法7条ただし書)。さて,この規制のどこを変更する必要があるのでしょうか。
 改革提案のなかの①によると,たとえば労働契約法42項を,「勤務地限定の無期雇用労働者又は職務を限定する無期雇用労働者及び使用者は,限定されている労働契約の内容について,書面により確認することとする。その他の場合については,労働者及び使用者は,労働者及び使用者は,労働契約の内容(期間の定めのある労働契約に関する事項を含む。)について,できる限り書面により確認するものとする。」というようなものとなるのかもしれません。「できる限り」というヘンテコな文言に反応したのはよいとしても,「確認」を義務化しても,罰則がかかるわけではなく,また私法上の制裁があるわけでもないでしょう。そうなると実効性には疑問が出てきます。むしろ書面化されなかったら,限定の合意がないというような解釈が生まれる可能性があるので,限定正社員を広げようとする立場からは余計な規制となりかねません。ここは労働契約法4条という「怪しげな(?)」条文のトラップにかかってしまったような感じがしてしまいます。
 現行法のように,労働条件明示義務については,コアな労働条件についての厳格な規制は労働基準法15条で,その他の部分は訓示規定の労働契約法4条で対処するということでよいのです。「意見」のねらいそれ自体は,現在の規制でも,十分に対処できると思っています。労働契約法4条2項を部分的に変えようとするのは,容易ではありません(個人的には,労働契約法4条が良い条文とは思っていませんが)。
 改革提案の②と③は,転勤についてのことですが,②はありえるとしても,労働基準法15条の明示義務に労働条件変更の場合を含むという部分については,他に波及しかねない大きな改正となり,簡単ではありません。③は,現在でも就業規則に規定があるので,改革の意味はあまりないと思います。限定された内容について,就業規則(そこには従業員一般に対するルールが定められる)に記載させることに意味があるということかもしれませが,個別の契約ではなく,就業規則に記載する場合,どのような規定になるか想像がつかないのですが。勤務地を限定するパターンがごく限られたものであれば,対応できるのでしょうが。
 もっとも,転勤については,一番ラディカルな規制は,労働者の勤務地は,デフォルトとして採用されたときの勤務地(初任配属地)に特定されるとし,そこから変更する転勤可能性がある場合については,その可能性と範囲を,書面で合意しなければ,企業は転勤を命じることができないものとし,就業規則の転勤規定だけでは転勤を命じることはできない(個別的合意説),といったものです。これだと経営者からは叱られそうな内容となりますが,比較的多くの労働法学者の支持を得ることはできるでしょう。
 いずれにせよ転勤にフォーカスをあてるのなら,労働契約法に転勤の権利濫用規定がないのはなぜか(出向にはある),逆に就業規則の必要記載事項とするなら,労働者にとってより利害が大きい出向はどうするのか,といった話も出てきます。法改正には,こうした労働法全体に対する体系的な思考が必要であり,法律家が介入する役割はまさにそこにあると思います。
 私は,繰り返すように,無限定正社員は,労働条件が曖昧に特定されていないから生じるのではなく,無限定な働き方に合意があるから生じるとみています。こうした無限定な働き方が問題だというのなら,それを正面から論じるべきで,労働条件の明確化というレベルでやるのは,狙い所が違うように思えます(これは以前の解雇ルールのときに,私のガイドライン方式の意図がうまく伝わらなかったときと似た感覚です[拙著『解雇改革』(中央経済社)も参照])。
 今後,企業には限定正社員を活用するニーズがいっそう高まるでしょう。そうしなければ良い人材が集まらないからです。この点で「意見」の問題意識には共感できるところがあります。しかし,それは規制改革でやることではなく,当事者が契約によって実現していくことなのです。「日本人は契約意識が低いから無理なんだよ。だから政府が,いろいろ助けてあげるのさ」と言うことでしょうか。契約意識が低いなら,契約意識を高める教育をするべきではないか,というのが私の意見です。規制改革推進会議が,もしパターナリズムによる改革を提言するのなら,それは意外な驚きとなりますが,偉い方たちが考えておられるので,おそらく深謀遠慮があるのでしょう。

2019年5月17日 (金)

豊島名人誕生

 久しぶりに将棋のことを書きましょう。アモリスタ・ウモリスタになってから初めてかもしれません。
 名人戦第4局は,豊島将之2冠(王位,棋聖)が,佐藤天彦名人に勝ち,4連勝で名人位を奪取しました。1年ちょっと前までは,無冠だが実力ナンバーワンと言われていた豊島新名人でしたが,昨年の棋聖戦で,当時の羽生善治棋聖からフルセットの末,初のタイトル奪取をし,次いで,王位戦でも菅井竜也王位から,同じフルセットの末,タイトルを奪取して2冠となり,いきなり棋界の第一人者に登り詰めました。その後,竜王戦では,広瀬章人八段(当時)が,羽生竜王をフルセットの末破って,竜王を奪取し,羽生の100個目のタイトルを阻止し,かつ無冠にさせたことで,主役を奪われましたが,2018年度は,間違いなく豊島2冠の1年でした。そして順位戦(A級)も順調に勝ち上がり,初の挑戦で,見事に名人を奪取し,これで3冠となりました。A級に昇給したばかりの2017年度(第76期)は,後半に失速して史上初の6人のプレーオフとなり,順位が一番下の豊島八段(当時)は,5連勝しなければ挑戦できないという過酷な状況になりました。さらに王将戦の挑戦者にもなり,その戦いも併行するという超過密スケジュールでした。結局,A級順位戦プレーオフでは3連勝のあと羽生2冠(当時)に破れ名人挑戦を逃し,王将戦でも久保利明王将に敗れタイトル奪取はならなかったのですが,そこから立ち直ったのはさすがです。
 タイトルの序列では,竜王が最高とされていますが,歴史の重さからすると,名人位が棋界最高のタイトルであることは間違いありません(棋士たちは,高額の賞金を出す竜王戦のスポンサーへの配慮からでしょうか,そうは口にしませんが)。ついに,このタイトルにたどり着いた豊島名人は感無量でしょう。これからはタイトル5期で得られる永世名人を目指してほしいです。
 しかし,現在,棋界は,まだ豊島名人による天下統一とまでは言えません。数日前には,昨年から絶好調の永瀬拓矢新叡王が誕生しました。一昨年羽生王座からタイトルをとった中村太一王座を破って,昨年秋には斉藤慎太郎王座が誕生しました。広瀬竜王もいます。それになんと言っても,いま一番注目の強豪棋士は,渡辺明2冠(棋王,王将)です。まさかのA級陥落をした昨年,鬼の住処と言われるB級1組を全勝で駆け抜けて今期A級に復帰しました。その間,まさに鬼のような強さで勝ち続け,棋王の防衛戦では,広瀬新竜王を寄せ付けず,王将戦は久保王将から4連勝でタイトルを奪取しました。そして,もうすぐ豊島新名人の棋聖に挑戦します。勝ったほうが3冠という頂上対決です。
 とはいえ,これが本当に実力ナンバー1の決定となるかというと,そうではないのです。今年初めの朝日杯の決勝で,絶好調の渡辺棋王(当時)を決勝で破って優勝したのが,藤井聡太七段でした。この棋戦は2連覇です。現時点では,まだ豊島新名人のほうが実力は上かもしれませんが,渡辺2冠も含め,この3人の誰がナンバーワンか。また,羽生九段も,NHK杯では豊島2冠(当時)を破るなどして優勝しており,さらに王位戦も挑戦に近いところまで来ていて,まだわかりません。永瀬叡王も広瀬竜王もいます。ということで,現在の状況は,藤井時代が到来するまえの一時的な混乱なのか,それとも,藤井時代の到来はまだもう少し先なのか。藤井七段は,昨年度(第77期),順位戦C級1組で,9勝1敗という好成績ながら,まさかの頭ハネで昇級を逃しました(師匠の杉本昌隆八段が昇級して話題になりました)。これで名人になる可能性がある年が1年遅くなりました。今年はすでに発表される対戦相手をみると,全勝できそうですが,個人的には,昨年やはり9勝1敗で昇級できなかった船江恒平六段に頑張って欲しいですね(第7局が藤井戦です)。藤井七段の初タイトルの最短の可能性といえば,王座戦です。現在,挑戦者決定トーナメントに進出しています。4回勝てば挑戦者となれますが,それまでに羽生九段,そして豊島3冠か渡辺2冠と対戦する可能性が高いです。竜王戦もすでに3組昇級を決め,さらに4組優勝者として決勝トーナメントに出る可能性が残っています。一番早いタイトルは,王座,次いで竜王というところでしょう。

 

2019年5月16日 (木)

戦争を知らない愚か者

 今朝の日本経済新聞の「春秋」で,「戦争を知らない子供たち」のことが書かれていて少し驚きました。私も丸山議員の戦争発言を聞いて,この言葉を思い出していたところだったからです。おそらく私やその上の世代は,同じように感じた人が多かったことでしょう。
 1970年の大阪万博の年に生まれたこの曲は,北山修作詞,杉田二郎作曲で,杉田がボーカルをするジローズの曲としてヒットしました。コード進行はきわめて平易で,私もギターの練習に最適だったので,数え切れないくらいギターの弾き語りをしました。当時はあまり歌詞の意味を理解せずに歌っていたのですが。
 この曲がヒットした昭和40年代後半の日本は,日常生活では戦争の名残はほとんどなかったと思います。しかし,自分たちの両親も含め,悲惨な戦争の経験をした人が周りにたくさんいて,戦争の恐ろしさを皮膚感覚で知っていました。戦争というのは絶対ダメというのが,おそらく当時の国民のほとんどに共通していた意識ではなかったでしょうか。
 もちろん戦争をしかけなくても,しかけられる危険性はあるわけで,そのために自衛力をもつ必要があるかどうかは,今日の大きなイシューですが,少なくとも日本から戦争を仕掛けるというようなことは,憲法上どうこう言う前に,そもそもありえないというのが,あまりにも当然のことだったのです。
 しかし,こういう国民共有の意識や認識というのは,最初はあまりにも当然と思っていても,時代とともに変わっていくのでしょう。だからきちんと文章化しておかなければならないのです。憲法とは,そういうものであり,とりわけ9条は,そうした文章化されたものなのです。だから憲法9条を無視するような発言をする国会議員が出てきたことは驚きです。
 憲法の第2章の表題は「戦争の放棄」です。憲法91項には,「武力による威嚇又は武力の行使は,国際紛争を解決する手段としては,永久にこれを放棄する」と明記されています。そして,憲法99条は,「天皇又は摂政及び国務大臣,国会議員,裁判官その他の公務員は,この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」と定められています。丸山議員は,反憲法的な国会議員であり,憲法を最高法規とする現在の法秩序の下では,非常に危険な存在であると思います。反憲法的に行動したいのならば,一市民に戻るべきでしょう。
 もちろん憲法改正を議論すること自体は悪いことではありません。国会議員であっても,自分自身の見解として,憲法に改正されるべき部分があると指摘し,それを政治的な信念として発表することが許されるのは当然です。憲法自身,改正されることがあることを想定しています(第9章)。しかし,国会議員としての活動において,現行憲法を遵守しない言動をすることは許されません。改憲論を唱えることと,現行憲法を無視することを混同してはなりません。維新はこの議員を除名するのは勝手ですが,それで済むわけではないでしょう。きちんと教育をしていなかった責任は問われるのではないかと思います。
 なぜ日本が戦争の放棄を宣言したか。単に平和を希求したというようなことではありません。あの戦争によって自分たち日本人が苦しみ,そして多くの人を苦しめたことへの深い悲しみと反省があるのです。前の天皇(現在の上皇)が退位のときに,平成の間,戦争がなかったことに言及しました。彼の父である昭和天皇が最高責任者として起こしてしまった戦争に対する責任に彼も苦しめられてきたのでしょう。戦争への反省,この点で,天皇は国民は結ばれ,国民の象徴としての役割を果たしたのです。
 それのみならず戦争放棄は,私たちにとって大きなメリットをもたらしました。戦争放棄のおかげで,ここまでの経済的な繁栄を享受できたし,国際的な地位の向上にもつながったのです。今日の日本人としてのプライドは,戦後の戦争放棄という姿勢からくるものなのです。こういう過去をわかっていない者が議員となっているのは,ほんとうに嘆かわしいことです。
 「僕らの名前を覚えてほしい 戦争を知らない子供たちさ」
 これからの子供たちが,未来永劫「戦争を知らない子供たち」であることを,心より祈るばかりです。

 ちなみに,終戦時のことを考えると,ロシアは私たちにとってとても恐ろしい国です。最後までソ連は中立を守ってくれると信じていた当時の日本政府の甘さはともかく,日ソ中立条約を破棄して日本を奇襲し,中国大陸では,たくさんの日本人女性がレイプされたと言われています。また多くの日本人がシベリアに連れて行かれました。これも原爆投下と並ぶおぞましい戦争の傷跡です。その恐ろしい国と必死に外交交渉をし,奪われた領土を取り戻そうとしているのです。歴史をふまえた日本人の悲しみや怒りや反省を共有しない者に,国の代表として,軽々しくロシアとの問題にタッチしてもらいたくはありません。

*タイトルを曲名をもじって「馬鹿者たち」としていましたが,単数なので「たち」をとり,4文字はおさまりがわるいので,「愚か者」に変えました。

2019年5月13日 (月)

自動運転への期待

 拙著『会社員が消える』(文春新書)のなかで,ゼロリスク主義の問題点に言及しています(128頁)。自動運転技術の社会実装に対して,ゼロリスク主義的な対応で臨んではいけないということです。人間のエラーには比較的寛大で,機械のエラーに過度に厳しく対応するのはおかしいのではないか,ということです。
 本のなかでは,もともとは原発裁判を例に,ゼロリスク主義をめぐる問題は難しいということを書いていましたが,しっかり書くと長くなりすぎるのでカットしました。そのかわり,ゼロリスク主義的な対応よりも,人類にとって有用であれば,リスクをとりながらも,それを減らすことに全力を傾けるべきということを強調した内容としました(なお,原発再稼働に対する,私の最終的な考え方はまだまとまっていません)。
 実は自動運転だけでなく,自動車の導入そのものが,ゼロリスク主義との戦いだったことも想起しなければなりません。本のなかでも,イギリスの赤旗法の例に言及しています。リスクを過大に評価してしまうと,自動車の利便性を生かすことはできなかったでしょう。リスクをとって,そのうえで,リスクを減らす努力をしてきたからこそ,今日に至るまでの自動車の歴史があるのです。自動運転にも同じことをあてはめるべきです。
 つまり,これだけ悲惨な事故が続く現状では,二つのことが重要なのだと思います。自動運転の実装化について,そのメリットの評価値を高めて,スピードアップすること,他方で,人間の運転については,いっそうのリスク軽減策をとることです。危険だけれど,有用というものとの付き合い方は,危険性をきちんとコントロールするという,ごく当たり前のことが大切なのです。
 私は車の免許をもたず,運転をしないので,純粋に歩行者目線での話になりますが,車の運転をする人には,自分たちが危険なものを操作しているという意識が低いのではないかと思います。私もバスやタクシーには乗りますが,これらの運転手はプロです。プロでもミスがあり,それは厳しく断罪されなければなりませんが,普通の人の運転よりも歩行者に対する危険性は低いでしょう。自動車は,プロ以外の一般の人が,多数運転しているのです。ちょっとしたドライブという軽い気持ちで,車を運転している人も多いでしょう。多くの人は慎重に運転をしていると思います。ここ数日は,歩行者に優しいドライバーが急に増えてきました。歩行者優先という原点に気づいたからでしょう。しかし,まだそのことを忘れてしまっている人が少なくないと思います。
 これだけ悲惨な事故が続出しているのに,なお車を運転するメリットを声高に言う人がいます。たとえば高齢者の免許返納は,生活に不便となるから気の毒だという議論もあります。しかし,生活に不便という程度の理由で,運転をしてもらっては困るのです。運転しているのは,ちょっとしたミスで人を殺しかねない機械です。高齢者が自動車なしでは生活できないような状況にあるとき,自動車が使えるから良しとしている現状を改めなければなりません。高齢者と自動車を引き離して,それでも高齢者が生活できるような状況を作ることこそが必要なのです。自動車を使って自立しているのは,自立とは言わないというくらいの発想の転換が必要でしょう。
 高齢者のなかでも運転が上手な人はいるのでしょうが,実は巧さの絶対的なレベルはそれほど問題ではないのです。どんな人でも加齢により確実にレベルが落ちます。若いときのように運転できなくなっているときに生じる認識ギャップが事故を生みやすくするのだと思います。だから高齢者ドライバーの問題は,運転が上手か下手かは必ずしも重要ではないのです(もちろん,上手なほうが,危険は小さいでしょうが)。
 一般市民の運転免許への規制などと言い出すと,人権侵害といった反論が出てきそうです。しかし,この免許は,危険なものを扱う資格にかかわるものであることを忘れてはなりません。私たちは,アメリカの銃規制が進まないのを野蛮だと思うしょう。多くのアメリカ人は,銃をきちんと扱っているのでしょうが,ときどき深刻な事件が起きています。私たちは,銃の取得が簡単にできることに違和感を覚えるのです。彼らにしてみれば,銃は自らを守るための必須の道具であり,その取得を規制することも人権問題なのでしょう。その点で自動車運転と似ています。
 もちろん,銃の場合の事件は故意によるもので,自動車事故は過失によるのが通常だから次元が違うということは理解できます。しかし,歩行者目線からすると,たとえば前方不注意の自動車運転というのは,事故が起きても仕方がないと思っているようにうつり,そうなると故意と変わらないのです。
 私の住む神戸で,日頃の行動範囲でいうと,安心して歩ける道はほとんどありません。いつも車にびくびくしながら歩かなければなりません。歩道でも自転車が猛スピードで駆け抜けていきます。自転車は混雑を回避できて早く到着できるから便利だという人もいますが,その早く到着できるところが危険なのです。スピードを出すことに肯定的な姿勢がうかがえるからです。そもそも自転車は歩道を走れないのが原則ということ(道路交通法17条,63条の4)を忘れている人が多すぎます。堂々と歩行者に道をあけるように要求してくるのです。
 私は,一般市民が自動車や自転車を使わない社会の実現を待望しています。それは自動運転が公道を走り,人間が運転しなくてもよい社会です(道がないところの物資の輸送などでは,ドローンの開発が期待されますし,将来はドローンタクシーもありえるでしょう)。どうしても運転したい人は,歩行者が絶対来ない専用の区域を設けて,そこで楽しんでもらえればと思います。
 こうした意見は暴論かもしれませんが,自動車の運転は,普通の市民がほんのちょっとした不注意で,生涯かけても償えないような悲惨な事故をもたらし,(加害者側も含む)多くの家庭を不幸にする危険をはらんでいることの意味を重く受け止めるならば,(人間による)自動車の運転のメリットを強調することなどできないと思います。早く自動運転技術を実用化してほしい,という声がもっと高まることを期待しています。

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