2019年8月17日 (土)

英語教育と比較優位

 2020年から小学生の3年生以上に英語教育が必修になるということに,私は反対の立場です(拙著『会社員が消える-働き方の未来図』(文春新書)の223頁)。理由は,英語能力は技術で補うことが期待できるからです。時間的に余裕があれば英語を勉強するのもいいでしょう。しかし,子供の限られた時間について,何に高いプライオリティを与えるのかは,とても重要なことです。やっておいたほうがよいことは沢山あります。そのなかでなぜ英語なのか,ということです。グローバル化が進むから。日本人は英語がそもそも苦手だから。英語をできたほうが外国人と直接コミュニケーションができるから・・・。
 でも半端に英語ができて中身のある話ができない人間が,外国人と英語で話して,丸め込まれてしまうというような心配のほうが大きいです。苦手なものを努力で克服しようとするのは,どうも受験秀才的な発想で,これからはそういうことではダメではないかと思います。苦手なことはやらず,得意なことを伸ばすことに力を入れるほうが大切です。何でもできるというのは,多くの場合,何もできないと同義です。もちろん,苦手であろうかなかろうが,誰でも身につけておくべきことはあります。それが教養です。たとえば,世界に目を向けて,いま何が起きているのか,その原因は何かを考えていくことは,とても重要です。哲学,歴史,地理などが重要な科目です。これを学ぶには,とても時間がかかります。英語なんてやっている時間がもったいないです。英語は,道具にすぎません。しかも多くの人は自分でやらなくてよいのです。海外旅行にツアーで行くと日本語だけですむでしょう。ビジネスでも,重要な商談では優秀な通訳をつけたほうが確実です。
 ちなみに私は英語がとても苦手ですが,それでも国際会議で司会をやったりしたことはあります。大学教育でこれから試される「読む」「書く」「聞く」「話す」のうち,とくに「聞く」は苦手です。アメリカの映画などをみても,とくにドラマとなると字幕がなければほとんど理解できません。でも専門用語が中心となる会議となると,なんとかなるのです。専門の文献を「読む」ことは勉強してきました(英語だけではありませんが)。ボキャブラリーがあるので,専門領域になれば「話す」ことも,なんとかなります。「書く」のはとても苦手ですが,それでも最近でも英語の論文は書いています。これはネイティブの助けを得ることができるからです(ネイティブチェック)。というか「書く」ほうは,どんなに勉強してもネイティブチェックが不要となることはありません。それだったら「書く」ことに,そんなに力を入れなくてもいいです(メールのやりとりも,うまい英語を書くなんてことを考えなければ,これまでの英語教育のレベルで十分に対応できます)。
 しかも,これからの若者は,もっとテクノロジーの助けを得ることができます。私のような英語劣等生であっても,もっと楽に英語を使えるようになるはずです。というか,そもそも外国語を使わなくても,外国人とコミュニケーションがとれる時代が来るのです。機械がやってくれますから。となると大事なのは,話す内容のほうです。
 私は若いころ,ある国際会議で,ある大先生が,抑揚のない典型的な日本語英語で話されるのを聞いて衝撃を受けたことがあります(その先生は「聞く」能力は素晴らしかったですが)。とくに衝撃だったのは,みんなが熱心に耳を傾けて聞いていることに対してです。一緒にいた外国人に聞いたら,初めて聞いたときは何を話しているのか全く理解できなかったそうです。しかし,そのうち,「彼の英語」の発音の特徴がわかったので,理解できるようになったというのです。そして,そのように理解しようと努めたのは,彼の話を聞きたい(彼が何を言っているのか知りたい)と思ったからです。そういえば,私たちも,外国の偉い先生が,日本語を多少でも話してくれれば,理解しにくくても,一生懸命に理解しようと努めるはずです。コミュニケーションというのは,そういうものです。
 ちょうどWedgeの7月号でも,「迷走する日本の英語改革」という特集で,似たようなことを言っている記事が出ていました。AI時代における英語の必要性がどこまであるのかを,もっと考えるべきです。英語教育に力を入れるなら,英語を話せる人材ではなく,英語を話さなくてもよい機械を開発してくれる人材の育成のほうにエネルギーを注入してほしいです。
 同様のことは,プログラミング教育にもあてはまります。プログラミング教育には,プログラミングそのものよりも,これを通して論理的思考が習得できるメリットがあると言われています。でも,英語が苦手な人がいるように,論理的思考が苦手な人がいます。論理的な思考をもっている人は,論理的な思考をもたない人を見下す傾向にあるように思えますが,実は,論理的な思考をもたなくても感性が豊かな人のほうが高級な人間かもしれません。まあ何が高級かは価値観の問題かもしれませんが,とにかく人それぞれ自分独自の優秀さを発揮できる分野があるのです。個人がそうした様々な分野で社会的分業をしていったほうが,国の経済力は増します(アダム・スミスの時代から,そう言われています)。リカードで有名な比較優位論からすると,英語が堪能な国際弁護士は,弁護士活動も英文レターを書くことも得意だけれど,後者は自分よりも英語能力が劣るとしても秘書にやらせて,自分は弁護士活動に専念したほうがよいのです(それに,今後は秘書も機械を使えば,かなりのレベルのことができるかもしれませんし)。国民が相対的に優位な分野で専門能力を磨き,社会的分業をしていくという経済的な視点で,教育政策も考えていってもらう必要があると思います。論理的な思考は苦手だが直感的な閃きをもつ人を,論理的思考をもつ人が支えるということでよいのです。どこかの大国は,そういうようにして回っているようにみえます。

2019年8月12日 (月)

Bidenは大統領になれるか

 Trump大統領の再選にとって,民主党候補として一番手強いのはBiden元副大統領だと言われています。政治経験は長く(上院議員を636年),オバマ前大統領の副大統領時代の仕事ぶりの評価も高い彼は,白人層の支持もかなり得ることができそうです。過去2度の大統領選出馬への失敗に対する同情もあるかもしれません。
 ただBiden氏にも,いろいろ問題があります。親中派とされることはともかく,Wikipediaによると,19421120日生まれであり,すでに高齢76歳の高齢です。大統領に選ばれると就任時は78歳になっています。それに加えて私が注目しているのは,あのAnita Hillのセクハラ告発問題です。
 1991年,合衆国最高裁判所において,初の黒人判事であるThurgood Marshall が引退を表明したことから,当時のGeorge Herbert Walker Bush大統領(パパ・ブッシュ)は,その後任に保守系の黒人であるClarence Thomas判事を指名しました。連邦の最高裁判事は終身制であるため,その影響力は大きく,アメリカにおいて大統領が選ぶ最も重要な政治的ポストであると言われています(現在でも,Trumpが立て続けに保守系の判事を最高裁に送り込んで,大きな問題になっています)。
 最高裁判事は上院の承認が必要であり,慣例により,上院の本会議の前に,司法委員会で審議されます。Thomas判事の指名のときも,司法委員会が開かれましたが,そのときの委員長がBidenだったのです。ここから先は,映画「Confirmation」(https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B0791YBL72)によるものとなりますが,Thomas判事には,セクハラがあったとの噂があり,Bush共和党政権と対立する民主党側は身辺調査をします。そして,かつてThomasが教育省やEEOC(雇用機会均等委員会)で働いていたときの部下であり,現在は法学部の教授であるAnita HillがThomasからセクハラにあっていたという情報をつかみ,彼女に司法委員会で証言するように依頼します。彼女は,こうした告発はやったほうが悪者になってしまうと言って渋っていたのですが,最高裁判事人事は,アメリカ人女性の人権に影響すると説得されて,証言をするのです。そのなかで,Biden委員長は,民主党員ではあったものの,あまりHillの告発に前向きに取り組みませんでした。むしろ,Anitaにセクハラの事実を克明に証言させるなど,二次的なセクハラといえるようなこともしています。全員が白人男性という司法委員会において,若い黒人女性が証言するという状況のなかで,彼女をサポートをできる立場にあったにもかかわらず,それをしなかったということで,これはBidenにとっては痛い汚点になってしまいました。最終的には上院の本会議では5248の僅差で,Thomas判事の指名は承認(confirmation)されました。Thomas判事は,まだ現役です。
 Thomasの経歴からは,彼が優れた法律家であることを示すものはありませんでした。また彼は,法的信条については徹底した沈黙路線をとっていました。それは4年前のReagan大統領のとき,Bork判事が最高裁判事に指名された際に,Borkの保守思想を警戒した民主党陣営から徹底的な抵抗があり,Borkもこれに正面から反論しましたが,最終的に指名は承認されなかったということが教訓となったと言われています(Borkは,その後,英語のスラングで,メディアなどで叩かれて公職につくことが認められないという意味の「動詞」 になり,上記の映画のなかでもThomas反対派から「bork されろ」という表現で出てきてます)。とくに,最大の争点であったのは,人工妊娠中絶の規制の違憲判断(1973年のRoe v. Wade事件)についての立場でした。Borkが最高裁判事になると,これが覆されかねないという懸念があったのです。Thomasは注意深く何も述べなかったのですが,その保守的思想から,Borkと同じと推測され,それがリベラル派からは批判の対象となっていました(これも現在,Trumpが保守的思想の最高裁判事を指名したことから,たいへん注目されています。州のなかには人工妊娠中絶を規制する法律を制定するところもあらわれ,連邦最高裁は,約半世紀ぶりに,これを合憲とする可能性が出てきたからです)。
 ところで,Thomasは,当初から,黒人だから判事になれたのではないか,という疑惑もありました。初の黒人最高裁判事であったMarshallの後任だったからです。Marshall自身は,引退会見で,「人種」を,誤った人を選ぶときのexcuse に使ってもらいたいくないと述べて,暗にThomasの適格性に疑念を示していました。会見での「there's no difference between a white snake and black snake; they'll both bite」(白い蛇と黒い蛇との間には違いはない。どちらも噛む)という発言は有名です。
 ThomasがHillに対してしたとされる行為は,身体的な接触のようなものではなく,不適切な発言や執拗なデートの誘いというレベルのものでした。そのことが,当時のBidenらを含む男性白人議員の対応を鈍いものにしたようです。多くの男性議員には身に覚えがあったからでしょう。しかし,前記のように,このときのBidenの対応が,いまとなっては汚点となってしまっているかもしれません
 セクハラがほんとうにあったかどうか,真実は不明なままですが,そのこと自体は,あまり重要ではありませんでした(Thomasとその白人の妻ら家族にとっては重要なことでしょうが)。最高裁判事の承認という一大政治ショーで,Hillの行動が大きく注目されたことにより,多くの女性たちに,男性が支配する現在の社会のままでは,女性は泣き寝入りになってしまう,だから自分たちも立ち上がろう,という勇気を与えたのです。Hillの勇気ある告発が,女性の政界進出へのきっかけを与え,社会を変えるきっかけとなったのだと思います。
 もっとも,その加害者(とされた者)が,黒人であったことは,人種差別と男女差別の政治的な問題としての優先順位(それがあるかどうかも議論がありましょうが)を逆転させるきっかけとなったのではないか,という気もしますが,このあたりはもう少し勉強してみたいと思います。
 そして現在。アメリカの人種差別問題は新たな次元に入りつつあります。白人たちが,自分たちは移民による被害者であり,あたかも自分たちの権利かのごとく移民排斥を主張し始めているのです。こんな時代だからこそ,リベラル派の民主党を長年背負ってきたBiden氏の出番という声が高まっているのかもしれません。若手のなかの急進的なリベラル派も勢いがあるものの,彼ら・彼女らではTrumpには勝てないでしょう。Biden氏の弱点は,皮肉にも男性で白人であるということかもしれませんが,それを乗り越えて,悲願の大統領ポストを得ることができるでしょうか。

 

 

 

2019年8月 7日 (水)

アスクル問題を考える

 一昨日の日本経済新聞の社説で,アスクルの問題が出ていました。オフィス用品通販大手のアスクルに対して,その約45%の株を持つヤフーが消費者向けネット通販サイト「LOHACO(ロハコ)」の事業譲渡を申し入れたことから,両社の関係が悪化し,先日の株主総会で,ヤフーと約11%を持つ第2位株主のプラスが,アスクルの岩田彰一郎社長の再任に反対し,岩田氏は再任されませんでした。これに加えて,ヤフーの社長解任の動きを批判していた戸田一雄氏ら,3人の独立社外取締役も再任されませんでした。
 上記社説では,「上場企業が子会社も上場させる『親子上場』の弊害が看過できなくなってきた。弱い立場に置かれている上場子会社の一般株主の利益を守る仕組みをつくるとともに,企業も日本特有の親子上場の数を減らす努力をすべきだ」とし,とくに「独立社外取締役は,中立の立場から一般株主の利益を守る役割を負っている。仮にヤフーが自分の方に有利な条件でロハコ事業を取得しようとしても,他の一般株主は対抗手段がなくなってしまう」と述べています。
 労働法的観点から言うと,支配株主と社長ないし独立社外取締役が真っ向から対立して,社長がクビになってしまうという事態は,従業員からすれば不安でたまらないでしょう(従業員のどれだけが社長支持であったかわかりませんが)。もちろん,会社で雇われて働くというのは,そういうものだということかもしれませんし,従業員には労働法上の保護が別に確保されているのだから,それ以上のことを労働法の観点から言うべきではないのかもしれません。取締役会への労働者代表が制度化されていない日本法の下では,従業員の発言権にも限界があります。
 ただ,今回の取引が,もしかしたらヤフーに過度に有利で,それがさらにはヤフーの親会社のソフトバンクに有利なものであり,結果,アスクルが搾取されているおそれもあり,もしそうならば,アスクルの従業員の犠牲の下に,ソフトバンクやヤフーが利益を得ることになります。従業員が,経営者の取引の失敗のせいで経営が傾いてしまうことは,労働法の解雇規制(労働契約法16条)の範囲でしか守ることができないかもしれませんが,経営問題が支配株主との取引に起因するとなると,釈然としないと感じる従業員も多くなるでしょう。
 ただ,会社法の観点からは,従業員のことよりもまずは少数派株主の利益を守ることが問題となります。支配株主が搾取して,会社の価値を下げてしまうと,その悪影響をダイレクトに受けるのは少数派株主だからです。もちろん会社の価値が下がると支配株主も損をするのですが,支配株主は個別の取引のほうで得をしているとすると,それで元が取れているかもしれないのです。
 今年の「骨太の方針2019」のなかでも,「④ コーポレート・ガバナンス」という項目があり,そこに「上場子会社のガバナンスについてのルール整備を図り,親会社は事業ポートフォリオの再編のための上場子会社の意義について説明責任を果たすとともに,上場子会社側については,適切なガバナンスの在り方を特段に明確にし,実務への浸透を図る」とし,「(ⅰ)実務指針  上場子会社のガバナンスの在り方を示し、企業に遵守を促す『グループ・ガバナンスシステムに関する実務指針』を新たに策定する。(ⅱ)東京証券取引所の対応等  『グループ・ガバナンス・システムに関する実務指針』の実効性を高めるため,同指針の方向性に沿って,東京証券取引所の独立性基準の見直し等,上場子会社等の支配株主からの独立性を高めるための更なる措置等を講ずる。」ということが記載されています。
 親子上場が多いのは,どうも日本特有の現象らしく,外国人投資家からはあまり評判がよくないようです。子会社のガバナンスが効きにくいことなどが問題とされているようです。
 とくに経営者が支配株主との取引が会社の利益とならないと判断してこれを拒否し,社外取締役もそれを支持しているときに,支配株主が,この取引に反対している経営陣をクビにしてしまう事態は,会社法ではどのように考えられているのでしょうか。
 かつての同僚である,加藤貴仁・東京大学大学院法学政治学研究科教授が,東京大学法科大学院ローレビューVol.112016年)に寄稿されている「支配株主と少数派株主のエイジェンシー問題に関する覚書~社外取締役などにどこまで期待できるのか~」という論文を読んで勉強すると,少なくとも日本では,支配株主(親会社)が従属会社(子会社)ないし少数派株主に対して何らかの義務を負うとする会社法上の規定も判例もないとのことです。同論文では,独立社外取締役は,選任権のある支配株主の意向に反する行動をとることは難しいのではないかということが書かれていましたが,今回は,あえて反旗を翻し,社長に殉じるということが起きてしまいました。
 もちろん今回の騒動の背景には,岩田元社長の経営失敗という問題もあったようです。支配株主が,経営者の経営責任を追及するのは当然のことであり,それは経営者が創業者であろうとなかろうと関係ないことです。日本経済新聞の続報では,再任が認められなかった独立社外取締役の再任については,「ヤフーとプラスを除く一般株主からは93%95%の賛成比率だった。中立の立場から一般株主の利益を守る役割を負う独立社外取締役については,一般株主の大半は再任の意思表示を示していた」のに対し,「岩田彰一郎前社長の取締役再任議案への賛成比率は20.8%。両社を除いた賛成比率も75.74%で,業績低迷を反対の理由としたヤフーの主張が一般株主からも一定の支持を得たとみられる」,とされていました。
 とするならば,ヤフー側の社長解任は広く支持されており,独立社外取締役までクビにしてしまったことが行き過ぎだったということなのかもしれません。 
 会社には,会社の機関である,社長を頂点とする「経営者」,それから会社によっては,日本型雇用システムの下では社長をチェックできない一般取締役に代わり,独立した立場から経営をチェックする役割を担う「社外取締役や独立役員」がいて,このほかに,会社の所有者といわれる「株主」がいて,それは今回のように「支配株主」(とくにこれが上場会社である親子上場の場合に問題がある)とその他の「少数派の一般株主」(個人,法人)に分かれることがあり,さらに会社法上は表面に出てこないのですが「従業員」や他の「取引先」などもいて,こうした立場の異なる者たちの利益が複雑に絡み合っているのが会社という組織です。素朴な正義感からすると,これらのステイクホルダーのうち,最も強い立場にある者に,最も強い倫理性が求められるべきであり,そうだとすると,今回はヤフーやソフトバンクには,今回の社長や独立社外取締役の解任劇についてきちんとした説明を行うのが,「社会の公器」にかかわる者としての社会的責任のような気がします。

 というように,素人がダラダラと雑ぱくなコメントを書きましたが,現在の会社制度のもつ重要性を考えると,無関心ではいられない問題でした。会社法の専門家や経営学の専門家の意見も聞いてみたいものです。

2019年8月 4日 (日)

吉本興業問題に思う

 かつて一緒にNHKのテレビ番組に出演したことのあるロンブーの田村亮さんの涙の謝罪会見。私が会ったときの田村さんの印象は,あまり芸能人としてのオーラはなく,普通の善良な市民。もちろん,数十分間,テレビスタジオの本番で一緒にいたときに受けた印象にすぎないのですが。
 関西人にとって,吉本興業とその所属芸人はなくてはならない存在です。吉本興業や松竹芸能の笑いの文化にどっぷりそまって私たち関西人は育ってきました。テレビに吉本の芸人が出過ぎという気はしていますが,吉本興業の力はそれだけすごいんだなと思っていました。また吉本興業の労働環境が悪いことは,芸人がネタにして喋っているので,これも周知の事実です。よくこんなことを芸人に言わせて平気だなと思うくらいでしたが,それで笑いをとれるなら良しとして,吉本興業は許容していたのではないかと思います。すべては笑いのため,です。ところが,いま芸人たちが労働環境の悪さを,笑いのネタとしてではなく,本気で口に出し始めました。もちろん,待遇改善のために立ち上がることは,まったく問題はありません。それを,SNSで発信したり,マスメディアを通して世間を味方につけてやろうとするのは,現代風の戦略なのかもしれません。ただ,お笑い芸人は,すべては笑いのためということに徹して芸を磨いて,それを私たちに見せてくれるから,その芸を尊敬できたのです。待遇改善のための世間の同情があったとしても,同時に,舞台裏の見たくないものを見せられてしまったと思った人も少なくないのではないでしょうか。
 以上は一お笑いファンとしての意見ですが,労働法屋としての視点からはどうでしょうか。芸人は労働者ではありませんが,その多くは交渉力のない自営業者なので,労働者に近い存在でしょう。彼ら・彼女らが待遇に不満があるのなら,そのための解決策は,次の二つです。Exit Voiceかです。前者は,要するに,吉本興業と縁を切って,別の事務所に移籍することです。YouTubeの時代なので,事務所に所属しなくても個人で動画配信で食べていけるかもしれません(ピコ太郎の例もあります)。もし辞めたあと,芸能活動を妨害するようなことを吉本興業がすれば,それはジャニーズの元SMAPのメンバーに対するのと同じような独占禁止法上の優越的地位の濫用の問題が出てきます。もちろん,ダーティーなイメージのついた芸人の芸を見たくないという人が増えれば,事実上,活動はできなくなりますが,それは自業自得です。もう一つのVoiceとは,辞めずに待遇改善を要求することです。同じような不満をもっている者が集まって交渉を要求することです。自営業者は労働者ではないので,労働組合は結成できず,会社に団体交渉を申し込んでも,会社には応諾する法的義務はありませんが,会社が任意に応じる可能性はあります(吉本興業は,役員の退陣を迫るお笑い芸人個人との協議に応じたようです[加藤の乱])。なお,労働者ではないと言いましたが,就労の実態いかんでは,裁判所は労働者と認める可能性は皆無ではありません。
 個人的には,Voice よりもExitのほうがよいように思います。いろんな事務所に所属する芸人が,私たちに良いお笑い芸を見せてくれるように競い合い,そのなかで本当に面白い芸人が交渉力をもって,お金持ちになって成功していく姿をみてみたいなという気がするからです(労働法より,競争法的な視点かもしれません)。どこかアウトローの危険な香りがするが凄い芸を見せてくれるような人が,常識の枠内で平凡な人生を送っている多くの人に夢を与えるのです。
 一方,吉本興業のほうはどうすべきでしょうか。契約書がないとか,パワハラ的な発言があるとかは,直ちに改善していくべきでしょう。前述の優越的地位の濫用がないように注意する必要もあります。公正取引委員会も目を光らせていることでしょう。家族的経営が悪いとは言いませんが,それに納得できていない芸人が多いのであれば,その意見は無視できないでしょう。
 それにプラスして,会社のイメージとしても,今回の騒動で傷ついた芸人へのケアは必要でしょう。何らかの処分(謹慎,始末書など)はせざるを得ないでしょうか,教育も同時にして,本人が吉本に所属し続けることを希望するならば,再生させなければなりません(芸能人は,とくに反社会的勢力から狙われやすいので,教育は大切です)。今後,宮迫氏や田村亮氏らの芸をみて笑うことは難しくなるでしょうが,でもそうした芸人であっても,何とかうまくやっていけるようにサポートすることが,吉本興業のイメージ回復のために必要でしょう。その取組を面白おかしくやって,芸の域にまで高めてくれれば,さすが吉本と言われることでしょう。
 最後に気になったことを二つ。田村亮さんには申し訳ないですが,謝罪会見で,会社が親なら子(田村さんのこと)が正しいことをするのを後押しすべきだろうという発言はすべきではなかったと思います。正しいことができない子だったから今の問題が起きているのです。謝罪会見をすることが正しくないかもしれないから,させないようにするというのが親心です。会社が言うことを聞かずに謝罪会見すればクビだと言ったのは,親が子に対して言うことが聞かなければ勘当だというのと同じで,ほんとうに勘当したいわけではないこともあるのです。親子関係になぞらえるなら,むしろああいう会見をすべきではなかったのです。一事業主として弁護士もつけて会社と対峙するまでの気概を示すのなら,会社に甘えるような発言(親として子を支えてほしかったという発言)をすべきではなかったのではないでしょうか。厳しいようですが,そんな気がしたので,あの会見には良い印象がもてませんでした。
 ところで,もし彼らが個人事業主ではなく,雇用労働者であったとすれば,どうだったでしょうか。吉本興業は直営業(闇営業)を黙認していたようなので,これは副業の許容ということになります。副業を許す会社は,現在の風潮ではホワイト企業です。ただ副業が,会社の社会的信用や体面を汚す場合には,会社は規制をしてよいというのが一般的な考えです。会社は,副業先がヤバいところじゃないかのチェックをしてもよいのです。ただチェックをするかどうかは会社の任意の選択であり,チェックをしないほうが従業員の職業選択の自由や私生活の自由を尊重することになりそうですが,一方で,そういうチェックをせずに,今回のようなことが起きてしまえば,会社は信用を損なうリスクを負います。リスク管理の面では従業員に自由に副業をさせることは危険ということでしょう。いったん起きてしまった以上,会社は,信用のリカバーのために全力を尽くすでしょうし,副業をした当該従業員は重い懲戒処分を免れえないでしょう。当該従業員が勝手な行動をして,さらに会社の信用を損なう危険性があるなら,会社としてはリスク管理の視点からそれを阻止することもまた当然でしょう。このようにみると,もし宮迫氏や田村氏らが,雇用関係にある従業員なら,クビになってもやむを得ない面があり,また会社が,従業員が勝手に謝罪会見をするのを阻止しようとするのは当然です。むしろ独自に謝罪会見をさせてしまい,その釈明のための社長会見まですることに追い込まれたのは,リスク管理としてかなり問題があったということになるでしょう。
 実際には彼らは個人事業主なので,これとは話が違う面もあるのですが,本質的にはそれほど問題は変わらないような気もします。ただ,宮迫氏や田村氏が吉本と縁を切り,これから独自に芸能活動をするのなら,彼らがイメージ回復のために謝罪会見をすることを,吉本も止められません。彼らがほんとうに縁を切るつもりなのかどうか知りませんが,もし縁を切るつもりだったのなら,実はマスコミは彼らのイメージ挽回戦略にうまく利用されたことになるでしょう。 
 最後に,もう一つ。反社会的勢力のパーティに呼ばれて芸を披露してお金をもらったことが悪いのか,という点です。これは場合を分けて考えておく必要があります。関西のホテルは,暴力団の会合に場所を提供するのは道義的に問題があるので拒否する行動をとっていますが,もし何らかの理由で実際に会合が開かれてしまった場合には,しっかり料金をとるべきでしょう。宮迫氏らについても,これと同じことで,実際に芸を披露してしまった以上,お金をもらわないほうが,かえって悪い気がします。被害者から吸い取ったお金からギャラをもらったから悪いというのは,感情論にすぎません。むしろボランティアでやっていたら,その反社会的勢力に寄付をするようなものなので,いっそう問題があるでしょう。あるいは,仲間だからノーギャラだったというになることかもしれません。仕事をして報酬をもらうのは当然で,それを非難するのは的外れですし,相当なギャラをもらうということは,反社会勢力と仲間ではないことの証明になりうるような気もします。ましてや反社会的勢力であることを知らなかったとすれば,なおさら報酬受領は問題ないでしょう。そう考えると,お金をもらっていなかったという虚偽発言についても,「嘘をついてはいけません」という普通の道徳レベルの話で,それ以上の非難はできないと思います。ただ,ほんとうに知らなかったかは疑問も残るところであり,知っていて行ったのであれば,道義的に問題が出てくるのは当然ですし,かりに知らなかったとしても,彼らが出演している番組のスポンサー企業が,彼らの商品価値が下がることを理由に文句を言うのは当然のことですが,それはビジネスの問題です。 

 

2019年7月19日 (金)

消費税の引上げは争点となるのか

 参議院選挙は,自民党の優勢が伝えられています。結果はどうなるかわかりませんが,消費税の引上げを争点とした野党の戦略ミスではないでしょうか。
 私の感覚がおかしいのかもしれませんが,消費税の2%の引上げというのは,どれほどのものなのでしょうか。たしかに消費税は逆進性があり,所得の低い人に相対的に打撃が大きい税金です。所得が高かろうが低かろうが,生活のための一定の消費は避けられないからです。だからこそ基本的な消費にかかわるようなものについては,軽減税率が導入されることになっていて,逆進性の影響を緩和しています。
 そのような配慮付きの増税において低所得者のダメージはどの程度なのか,ということです。たとえば月に15万円の可処分所得がある人を考えてみましょう。かりにその全額を消費にまわして8%の消費税が課されるとすると,実際に使える額は約13万9千円(15万÷1.08)です。10%に引き上げられると約13万6千円(15万÷1.1)です。3千円,使える額が減るということです。3千円でも痛いと言えば痛いのですが,野党が血相を変えて批判するほどの額ではないとみるのが常識的なところでしょう。しかも軽減税率もありますし,ポイント還元もあります。ということで,むしろ財政規律派からすると,増税の意味がないという批判が出てきても不思議ではありません。
 もちろん景気というのは「気」のものであり,増税が消費マインドを高めるものでない以上,景気にはよくないでしょう。そういう意味で,消費支出を増やし,デフレから脱却しようとするならば,増税は避けたほうがよいという意見もわからないわけではありません。ただ「気」というのであれば,今回の2%なんて不十分で,今後さらに増税があるかもしれない,という話のほうが実は問題は深刻でしょう。消費を控える誘因となるからです。その観点からは,もうこれ以上の増税が当面はないという範囲までしっかり税金を上げてもらったほうが良いという意見もありうるところです。
 一方で,年金2000万円問題は,深く考える人であれば,年金の保険料の引上げはできないから,年金給付も増やせないので,自助でやってもらうしかないというメッセージともいえます。社会保険料(これも広義には税金の一種)の大きな引上げがないと期待できるならば,「気」分的には減税に近いものといえるかもしれません。国民は誰でも,社会保険の財政が厳しいことは知っていますので。年金2000万円問題は,社会保険料の「増税」はしないということなんだと自民党は言うべきだったのかもしれません。
 ということで,自民党は(これ以外にも)多くの失策をおかしているのですが,少なくとも経済政策面に限定すると,冷静に考えると,与党のやっていることに不満がないと考える国民が多くいても不思議ではないのです。むしろ財政的な裏付けのない(あるいは現実性が乏しい)バラマキ政策には,信用が置けないと考えている国民が多いのではないでしょうか。
 たとえば最低賃金を上げますとアピールしている候補者がいます。では,どうやって上げますか,と聞きたくなります。そういう候補者は,最低賃金がどうやって決まっているかをわかったうえで言っているのでしょうか。もちろん理論的には,現在の最低賃金決定メカニズムを一新して政府が独裁的に決めたり,あるいは現在の最低賃金決定メカニズムのなかで,強制的に政府が介入して最低賃金を上げたりすることが,まったくできないというわけではありません(後者は,それに近いことを自民党がやっていると言えなくもありません)。でも,そんなの現在の野党が政権をとっても無理だろう(かつ望ましくもない)というのは,明らかです。
 そんなことより,先日もこのブログで書いたとおり,デジタル社会への対応をどうするかといった未来への投資という観点からの政策を主張すべきだったのです。いま最低賃金が上がっても,技術革新で雇用が奪われてしまえば,最低賃金なんて関係のないものとなります。
 そういえば,今朝の日経新聞の朝刊に,「増税前の駆け込み需要に関しては「(現在も今後も)ない」と答えた企業が48%となり,「既にある」「今後出てくる」を合わせた31%より多かった。」という記事が出ていました。国民が消費増税にそれほど反応していない証しでしょう。

2019年7月15日 (月)

日雇派遣規制の見直し

 昨日の日本経済新聞に「日雇い派遣は速やかに解禁を」というタイトルの社説が出ていました。「政府は規制改革推進会議の答申を受け,本業の収入が年500万円以上ないと認めていない副業としての日雇い派遣について,年収条件を見直す方針を決めた」ということのようです。
 2012年の民主党政権時に導入された労働者派遣に対する余計な規制は見直されるべきということは私も主張してきました(例えば,『雇用改革の真実』(日経プレミアシリーズ)の第4章「派遣はむしろもっと活用すべき」や『雇用社会の25の疑問-労働法再入門(第3版)』(弘文堂)の第23話「労働者派遣は,なぜたたかれるのか」を参照)。私以上に,明快に問題点を指摘していたのは,小嶌典明先生です。『労働法の「常識」は現場の「非常識」』(中央経済社)の第12話「『日雇い派遣』禁止の奇々怪々」では,2012年の法改正のおかしさを的確に指摘されています。
 日雇派遣のニーズの高い者(世帯収入500万円未満の主婦や定時制学校に通っている者など)に制限をかけて,世帯年収が500万円以上あって副業的に行う日雇派遣ならやってよいというようなおかしな法律があるのです(労働者派遣法35条の4,労働者派遣法施行令4条,労働者派遣法施行規則28条の3等を参照)。まさに小嶌さんが言われるような「奇々怪々」な規制です。日雇派遣をおよそ禁止するとまで言えば,まだわからないわけではありません(ただ派遣は臨時的・一時的なものであるのが原則とされているので(労働者派遣法25条),そうすると日雇派遣こそ望ましいことになるはずです)が,ニーズの低い者にだけ認めるという点で「常識」外れなのです。
 小嶌さんは,「政府や行政当局にやる気さえあれば,いつでも法改正はできる」と書かれています(「直接雇用のみなし」のこと念頭においた記述ですが)。今回は,労働政策審議会が動かないから,規制改革推進会議からの提案となってしまったのでしょうか。このルートが必ずしも良いとは思わないのですが,労政審がおかしな規制を自ら改めていくことができなければ,このルートが存在感をもつようになるでしょう。  
 いったん作ったものでも,おかしいものであれば,迅速に廃棄することが必要です。「直接雇用のみなし」にはいろいろな考え方の違いがあり意見が分かれるのはわかりますが,「日雇派遣」は論理的におかしい規制というべきなので,この時期の見直しは遅すぎたほどです。

2019年7月13日 (土)

反対意見

 712日の日本経済新聞夕刊のフリーランスに関する記事で私のコメントが1行だけ紹介されました。フリーランスに関する話は,緊急性を要するものではないので,何か記事に余裕があるときに掲載されるのだろうと思っていましたが,意外に1面で大きく扱われていましたね。
 ところで,今朝の日本経済新聞の朝刊で,小さな記事ですが,「政府は消費者庁の徳島県への全面移転を見送る方針だ。危機管理や国会対応に支障が出るおそれがあると判断した。」と出ていました。こんなことになるのではないかと危惧していましたが,それが当たってしまいました。危機管理をアナログ的にやろうとしているかぎり,また国会対応なるものを従来のようなやり方でやろうとしているかぎり,東京一極集中から脱することはできないでしょう。現状を変えようとするとき「変えない理由」はいくらでも見つけることができます。組織は上にいる人が変える気がなければどうしようもありません。消費者庁にどういう人が上にいるのかわかりませんが,とにかく結果は残念なことです(そういえば,少し前に厚生労働省が,議員への説明をオンラインでするということが報道されていました。これは大変良い試みだと思います)。
 季刊労働法の最新号(265号)に,「労働組合の資格審査は必要か-組合自治と行政サービスの効率性の観点からの再検討」という論文を発表しました。労働委員会の組織のあり方を根本的に見直すべきだというのは,労働委員会で仕事をしている者として強く感じていることです。私は3年前にも同誌252号で,「労働委員会制度に未来はあるか?」という論文で,制度改革の必要性を論じましたが,今回はより論点をしぼって書いたものです。労働委員会は,もっとスリムに効率的に,集団的労使紛争の解決という自己の専門性を生かしたサービスを提供することができるはずだという信念に基づいて書いています。
 今回の資格審査制度不要論は,労働委員会の何かの会合(同種のものがいろいろあるので,その名前は忘れてしまいました)で報告をしたものに,加筆訂正を加えて論文化したものです。
 現存する制度で少しでも無駄と思うものは,たとえ面倒であっても,その存在意義をしっかり検討すべきです。存在意義があると確認できても,同じ目的をより効率的に達成できる方法がないかを検討すべきです。それにより組織をスリム化できるときは,スリム化すべきです。スリム化することにより,マンパワーを,より重要な仕事に回すことができます。組織は,そういうスリム化を実行できた人を評価するようにすべきです。実際には,できるだけ組織をこれまでどおりに,次につないだ人が評価されることが多いようですが,これはほんとうに困ったことです。組織のために滅私奉公できる人が組織人としては立派なのでしょうが,そういう組織には,今後は良い人が集まらないでしょう。そして,やがて組織は衰退していくのです。
 大事なのは,労働委員会という組織ではなく,労働委員会が果たしている機能です。その機能の重要性は誰も否定しません。問題は,その機能を十分に発揮できるようにするためのシステムが,うまくできているかです。資格審査制度不要論は,労働委員会の本来の機能を発揮できるようにするためのシステムを構築し,労働委員会制度を延命させるための一つの理論的・実践的な提言です。
 とはいえ,労働委員会関係者からは喜ばれないでしょうし,残念ながら誰からも相手にされない論文であることは自分でも十分にわかっています。それでも書くことが自分の義務だと思ったのです。
 最近,アメリカの1905年のLochner(ロックナー)判決のことを少し調べました。ニューヨーク州でパン屋の労働者の労働時間を110時間,160時間に制限する州法に違反したとして罰金を科されたパン屋の経営者が,この州法は合衆国憲法の第14修正(修正14条)に違反していると主張したものでした(これは,第14修正の「デュープロセス」条項が,「実体的デュープロセス」にも及ぶのかという論点とかかわりますが,詳細な説明はアメリカ憲法の専門家にゆずります)。そして,この判決は,契約の自由を重視して,州法は違憲であるとしたのです。経営者の契約の自由を適正に制限したものではないというのが主たる理由です。この法廷意見に対して,Halms(ホームズ)判事は反対意見(dissent)を述べています。その最初のフレーズが次のものです。

I regret sincerely that I am unable to agree with the judgment in this case, and that I think it my duty to express my dissent.

「心から残念なことだが,私はこの判決に同意することはできないのであり,反対意見を述べることは私の義務だと思うのである。」

 アメリカの労働立法を冬の時代に追いやることになるLochner 判決に敢然と異議を述べたHalms判事の言葉に妙に惹かれるものがありました。同判事の考え方は,私と同じではありませんが,それよりも当時のアメリカの連邦最高裁判所の流れ(といっても,この判決は54の僅差だったのですが)に飲みこまれず,「反対意見を述べることは私の義務だ」というフレーズに勇気づけられたのです。 

2019年7月12日 (金)

参院選の争点に欠けているもの

 参議院は途中の解散がないので,今回選ばれる改選議員には,これからの任期6年を託すことになります。そうなると,6年間に起こりうる変化に対応できるような人を選ぶという視点が必要となってくるはずです。年金が争点となっていますが,現在の年金制度を前提としたとき,それをどう延命させるかは技術的な側面が強いので,政治の争点としても仕方ないでしょう。年金のあり方などを抜本から見直して,国民の老後の最低生活保障を再検討するというのなら政治的イシューとなるでしょうが,そういう議論はあまり出てきていませんね。
 今回の選挙では,生活の安定というのを各政党が競い合って言っているような気がします。どの政党も,国民の可処分所得を増やす政策を提示しています。こうした政策それ自体が悪いわけではなく,これにより消費を刺激し,デフレ脱却につながるシナリオを描くことができそうです。具体的な手法は,家計収入を増やす賃金引上げ,家計支出を減らす教育無償化や消費増税阻止(政府の消費増税はするがポイント還元や軽減税率をするといった方法もその一つです)が言われており,財源についても,消費増税分をまわすとしたり,景気改善による将来の税収に期待したりするものもあれば,国債の発行や大企業への法人税の引上げ・富裕層への累進課税の強化というような直接的な方法で財源をもってくる方法なども言われています。
 欧州では財政出動の足かせとなるEUの財政規律への不満が,反EUをかかげ,反緊縮財政(anti-austerity)を唱えるポピュリズム政党を生み出しました。イタリアでは,ここから反EU政権(Movimento 5 stelleLegaの連立政権)が誕生しました(いま連立は危機にあるようですが)。政府が国民の可処分所得を増やす政策は,受けがいいのです。
 国民の可処分所得にターゲットをしぼった政策は,振り返ると,アメリカでの労働法の誕生とも関係しています。ニューディール期のワグナー法(全国労働関係法:NLRA)が,労働組合の団結を認めたのは,団体交渉による賃金の引上げに期待したからです。同様の狙いによる公正労働基準法(FLSA)による最低賃金の設定などがなされたのも,この時期です。これはケインズ的政策の成功例とされました(ニューディールにケインズの影響が実際にどこまであったかは議論があるようですが)。
 アメリカのニューディールは,あの黄金の20年代の最後に大恐慌が起きて,どん底の不況となり失業者があふれている時期になされた緊急避難的な対策であったように思います(ちなみにアメリカの労働法は,あの時期のものから,大きくは変わっていません[差別禁止法は別ですが
]。むしろNLRAは,その後の法改正により,労働組合への規制が強化されました)。こうした強力な政策的な介入は一時的な効果はあっても,持続的な成長のためにはまた違った政策が必要となるでしょう。
 生活の安定というとき,最低限のレベルの保証は必要なものの,それを超えるレベルについては,中期的な視点からの政策が必要となると思います。そこで注目したいのは,生活に必要なインフラがデジタル技術を使ったものとなる以上,その部分の費用の引下げや無償化を打ち出す政策です。こうした政策のほうが,実はこれからの生活水準をよほどよくすると思います。
 先の国会でデジタル手続法(情報通信技術の活用による行政手続等に係る関係者の利便性の向上並びに行政運営の簡素化及び効率化を図るための行政手続等における情報通信の技術の利用に関する法律等の一部を改正する法律)が可決され,政府もいよいよデジタル化に向けて動き出そうとしているようですが,あまり本気度はみえてきません。
 そもそも選挙のやり方からしてそうです。過疎地域の問題がいわれていますが,オンライン投票を進めるべきです(リスクはありますが,それを乗り越える努力をしてもらいたいです)。それにより国民の政治への参加も広がります(それが悪いと考えているのなら別ですが)。思わぬ人が選ばれる可能性もありますが,(民主主義の支持者であれば)それが民意である以上受け入れるべきでしょう。また教育の無償化については,とくに高等教育のほうは,無償になっても,教える教育の内容が,デジタル経済社会に向けた適切なものになっていなければ,意味がありません。
 そもそもデジタル技術は,社会的弱者に優しい技術となりうるものです。国民全員にスマートフォンを無料配布したり,デジタル音痴の人をサポートする人材を配置したり,様々なデジタルサービスのプラットフォームの構築を政府がしたりするなど,安価で良好なデジタルサービスを享受できるような状況にすることのほうが,中期的にみた国民の生活の安定に役立つと思います。そうした公約を打ち出す政党が出てこないでしょうかね。
 その一方で,実は気になっているのは,「安定」という言葉の響きです。安定というのは現状維持というニュアンスがあります。国民が安心や安全(security)を求めるのは当然で,それを社会的に提供するのが社会保障(social security)ですが,それは「安定」とは少し違います。「安定」ばかりを求めると,転落への始まりとなります。変わる環境のなかでの「安定」とは,「変化」することです。国民に必要なのは,「変化」への適応能力なのです。それがあって初めて「安心・安全」が得られます。
 政党がデジタル経済社会への対応といった新しい問題に取り組もうとしないのは,将来に向けたsecurityよりも,現在の安定を重視する姿勢があるからでしょう。「そんなこと言ったって,当面は国民の可処分所得を増やして,デフレから脱却しなければ仕方がないじゃないか」という反論が来そうですが,何かそこに危険な匂いを感じるのは私だけでしょうか。

2019年7月 6日 (土)

労働法がなくなる前にやっておきたいこと

 『雇用社会の法と経済』(2008年,有斐閣)の巻末に,諏訪康雄先生と清家篤先生をお招きして,編著者を代表して一橋大学の神林龍さんと私がお話を伺うという形でなされた座談会が掲載されています。そのなかで,諏訪先生が,法学と経済学の違いについて,生理現象と病理現象という言葉をつかって説明をされています(英語でいえば,pathologyphysiology)。法学は,生理現象を意識しながらも,病理現象を扱わなければならないものであるのに対して,経済学は,生理現象を正面から扱うものであるが,ただ,立法のようなマクロの法政策を考える際には,法学も生理現象を扱い,その点で,経済学とすごく照応するところがある,ということです(291頁)。
 法は一般的なルールを定めるものではあるのですが,裁判の実践では,事案に応じた(casuisticな) 法の解釈・適用が必要とされます。法学のこのあたりの問題解決力を,清家先生は経済学の立場からみた法学の特徴として指摘されているのです(304頁)が,これはアリストテレス流にいうフロネーシス(φρονησιζ)であり,実践的な知恵なのだと思います。学問的知識であるエピステーメー(επιστημη)にとどまらない実践的な技芸も扱わなければならないのが法学であり,そこに経済学と法学の違いがあるように思えます。ただ,一般的なルールを定めようとするマクロ政策的な段階では,違いはあまりないのです。
 ところで,マクロの労働政策の立案では,その症状をきちんと診断する必要があり,病理現象が多く出てくる裁判や病理現象を好んで報道する一部マスコミからのミクロ的なエピソードをみているだけでは,診断を誤って過剰な治療をしてしまうおそれがあります。熱が出たときに,それが数日で治る風邪なのか,手術を要する重病が原因なのかでは大違いであり,そこの診断を間違ってはいけないということです (立法を根拠づける事実[立法事実]の存否の判断を誤ってはいけない,と言ってもよいでしょう)。11年前に,労働法律旬報1671号の巻頭言で「労働と法 適切な『診断』の必要性」のなかで,そのような趣旨のことを書いたのですが,これがプロレイバーには大変評判が悪かったようです(後にも先にも,労働法律旬報で執筆したのは,そのときだけとなりました)。
 診断を誤る危険性がある理由の一つは,エビデンスを無視するからということがあります。EBPMの重要性です。ただ何が信頼できる調査や統計かというのが,ちょっと揺らいでいる感じがしますので,エビデンスを基礎づけるデータの扱い方については,私のような統計や調査の素人は注意をしなければなりません。
 もう一つは,評価の視点にバイアスがかかってしまうからということがあります。この点で,依然として階級的対立を前提に資本家(経営者・株主)と労働者をとらえる伝統的な労働法研究者と,企業と労働者には支配従属のような身分関係が生じるとしても,その支配者は領主のような庇護をする存在でもある(日本やアメリカの「厚生資本主義」的企業経営を参照)という側面を注視する立場(主として,経営学者)では,評価がずいぶん異なることになります。労働法は,支配はダメで,庇護だけ拡張せよという発想になりがちで,それが非正社員への庇護の拡大(支配なき庇護)の話にもつながりやすくなっています。この企業内の労使関係という領域の分析は,経済学もずいぶんと発展していますが,労働法に本当に近い分野は,広い意味では経済学の一部といってよいのかもしれませんが,経営学,なかでも人事管理論なのだと思います。
 人事管理論は,支配をすることを前提に,そのなかでいかにして人に働いてもらうかを,経営効率の観点から考えていくものであり,そこでは労働者へのインセンティブが重要なファクターなので,そのような観点からは,労働法に言われるまでもなく,労働者の庇護にも取り組んでいるといえるのです。
 そのことを前提に,ただ,企業が自発的に庇護行動をとるときでも,なお労働法が介入すべき領域があるとすれば,それは何かというのが,「人事と法の対話」(以前に刊行した守島基博さんとの対談本のタイトル)における次のステップでの検討課題だと考えています。人事管理の標準的な議論では,労働法は,外的(環境的)制約の一つと位置づけられて,いわば固定点として君臨(?)していると捉えられていることが多いような気もします(コンプライアンスが強調されるといっそうそうなるでしょう)が,むしろ労働法は,そんなに出しゃばらず,良き企業経営を補完するくらいの役割が望ましいと考えています(なお,いわゆるブラック企業への対策は,拙著『君の働き方に未来はあるか?』(光文社新書)の第3章を参照)。ただ,このような役割をきちんと果たそうとするならば,現在の労働法をかなり修正する必要があります。
 私は第4次産業革命が進むと,企業のあり方が変わり,さらに個人での自営的就労が増えて,労働法は最終的にはなくなっていくと考えていますが,そこに至るまでにはまだ時間があり,その間にやることがあります。それが,上記のような観点からの労働法の見直しであり,それが結果として,労働法の(限界があるとはいえ)延命につながるのではないかと考えています。

2019年7月 4日 (木)

高齢者と支出管理,そして若者

 老後の生活設計を考えるうえで,実際に最も効果的なのは,支出を減らすことです。いったん上げてしまった生活水準を落とすのは難しいかもしれませんが,それではどうしても不足額が増えてしまいます。将来の自助を考えるうえでは,私たち高齢者予備軍は,資産形成と同時に,支出管理をすることも必要でしょう。私自身も,無駄なモノは買わないという物質面ではスリムな生活(体型はスリムではないのですが)を習慣づけようと試みています。ただ,こういう人が増えると,高齢者の消費に頼った経済ではいけないことにもなりますね。
 家計簿をつけて無駄な出費を減らすということは,多くの人がされているでしょうが,きちんと複式簿記をつけて,自分の資産状況を把握しながら,お金の出入りを管理するということが,大切かもしれません(私自身はつけていませんが,いつか将来,事業者として独立して青色申告をしようとなると,複式簿記をつけることが必要となりますね)。これからのフリーワーカーの時代の到来を考えると,子供のときから複式簿記を学んでおいたほうがよいかもしれません。ドイツの詩人Goethe(ゲーテ)も,学校で複式簿記を教育することを勧めたそうです。これもお金の教育の一つで,私たちが安心して生きていくために必要な技術といえるでしょう。
 ところで,支出を固定して収入不足を論じるのではなく,収入を固定して,支出削減を検討するというのは,言われてみれば当たり前のことであり,いまは若者であっても,堅実志向となり,そういう生活をしているのだと思います。たとえば私の周りの大学生は,限られた親の仕送りのなかで,バイトをしたりしながら,なんとかやりくりしています。昔なら就職して数年も経つと消費生活を楽しめるようになるということもあったのですが,いまの時代はなかなかそのレベルにまで給料が上がらないので,就職後も,収入に見合った支出をするなど当たり前のことでしょう(そこで借金をして消費を増やせば泥沼に陥りかねません)。飲食店でも,若者とシニア世代の行くところははっきり分かれてきていて,若者は飲食にあまりお金をかけていないような気がします(特別なイベントのときは別でしょうが,そういうときでも,若者が収益率が高いアルコールを飲まなくなったと嘆いている飲食店オーナーが多いです)。
 また時代の流れは,モノからコトへということで,モノを作って消費する経済から脱皮しようとしています。生きていくうえで必要なこと以上にモノを消費して欲望を充足していた時代から,より精神的なコトを消費することで欲望を充足できる時代への移行ということでしょう。若者が,昭和世代のおじさんたちからみて,どことなく覇気がないようにみえても,実はより洗練された欲望のコントロールと消費生活を楽しんでいる可能性は十分にあります。
 国の財政に目を転じれば,政府は,まず支出(歳出)ありきで,収入(歳入)不足は税金の引上げや国債などの公債の発行でまかなうという発想になりがちのようですが,支出を減らすことから考えなければならない,というのも,いまの話と同じことです。
 消費税引上げは必要だとは思っていますが,支出管理に慣れている若者からは,歳出で削れるところがあるんじゃないの,そっちが先じゃない?,ということで拒否反応が出てきても不思議ではありません。若者は,消費税が上がることについては,余計な消費をしなければいいだけと考えるかもしれませんが,それよりも歳出をコントロールせずに,教育無償化とか,アメリカからの戦闘機購入とか,財布のひもを緩めすぎているようにみえる政府の姿勢に対して,ノーをつきつける可能性はありますよね。

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