2019年4月22日 (月)

通年採用化の動きについて思う

 「経団連と大学側は22日午前に開く産学協議会で報告書をまとめ、通年採用を進める方針を示す。」という記事が,日本経済新聞に出ていました。「従来の春季一括採用に加え、在学中は専門分野の勉強やインターン(就業体験)に傾注した学生らを卒業後に選考するなど複線型で柔軟な採用を促進する。」ということのようです。
 経団連は会長が代わり,日本型雇用システムにチャレンジする姿勢を高めていたので,思い切ったことをするのではないかとみていましたが,今回の通年採用化は,昨年の「就活ルール」廃止に次ぐ注目すべき動きです。私は近著『会社員が消える-雇き方の未来図』(文春新書)のなかで,新卒定期一括採用の見直しという動きについて,「日本型雇用システムをその入口部分から見直そうとする動きであり,このシステムの崩壊への序曲が経団連の手によって奏でられた」と書いていました(8889頁)。 
 新卒定期一括採用から通年採用に移るのは,たんに学生の就活の時期が変わるとか,企業の採用時期が変わるとか,そういうことだけを意味するのではありません。今後,実際にどこまで企業が通年採用を広げていくかわかりませんが,理念的には,この変化は,日本型雇用システムにとって本質的な意味をもっています。新卒定期一括採用は,中長期的な雇用戦略に基づいて,即戦力としてではなく,企業が人材を育成することを前提に雇い入れるために行われるものであり,まさに「就社」型の採用であったのに対して,通年採用は,ポストや職務が先にあり,そこに空きが出たところで,あるいはそうしたポストを新たに増やした場合において,人材を補充したり確保したりするためのものであり,文字どおりの「就職」型の採用となるのです。後者は,仕事が先にあって,そこに人をあてはめるということなので,人のほうは,その仕事をするのに適した技能をもつことが求められます。経団連は,勉強する学生を求めると言っていますが,これは企業のほうでゆっくりと人材を育て,つくりあげることはしないというメッセージでもあります。もちろんOJTによる育成はなくならないでしょうが,何も特別な勉強をしてこなくても,組織に順応できる能力さえあれば,あとは企業のほうでしっかり育てるというような従来のやり方は止めるということです。
 これはたんに採用の方法が変わるというだけの話にとどまりません。育成をせず,即戦力を求めるようになると,賃金は職務に連動するようになっていくでしょうし,長期雇用へのインセンティブは不要となります(優秀な人材を引き留めたり,短期的な成果を上昇させるためのインセンティブは残るでしょうが)。日本型雇用システムの中核とされた長期雇用や年功型賃金は,すでに変容してきているとはいえ,いよいよ消滅へのスピードを高めることになるでしょう。平成や令和ということと結びつけて話すのはどうかと思いますが,あえてジャーナリスティックに言うと,令和時代の雇用システムは,「日本型」という形容語がとれてグローバル化するのです。そのあとに,どのような働き方の未来図があるかは,上記の拙著をぜひ手に取って読んでいただければと思います。

2019年4月15日 (月)

高度プロフェッショナル制度について思う

 労働政策について,私が,いろいろ政策提言をしても,それが実現する可能性は極めて低いです。労政審ルートで労働政策が決まるかぎり,私の政策提言が実現するチャンスはゼロです。内閣府ルートが動き出してから,私にもほんの少しだけ意見を述べる機会がありましたが,どうも内閣府ルートは急進的すぎて無理筋が多く,そのなかに放り込まれても,実現に多くの期待はできませんでした。結局,いわゆる「同一労働同一賃金」のような筋の悪い法律が通されただけです(これに対する批判は,『非正社員改革』(2019年,中央経済社)を参照)。
 それじゃ,政策に影響のない研究者が,政策提言をしても意味がないのかというとそうではないのだと思います。政策は,厚生労働省の正規軍に任せておけばよいということでもないと思います。正規軍が間違った方向に進んでいないのか,さらに正規軍さえ支配する上位の権力の動きも,監視する役割は必要だからです。それは専門家の責任でもありましょう。
 ただ本音では,監視だけでは物足りないので,もっと発信してシンパを増やし,いつか私の政策を取り入れてくれるような有力な政治家が登場することを祈りたいと思っています。私のゼミの卒業生にも政治家を目指している人がいるので,こっそり(?)見守っていくつもりです。
 ところで,この4月から高度プロフェッショナル制度が導入されています。誕生したときから,自由に羽ばたけないように重しをいっぱいつけられた可哀想な鳥のような制度です。私は『労働時間制度改革』(中央経済社)で,より純粋なの日本版ホワイトカラー・エグゼンプションの提言をしています(188頁以下)が,それと比べると,高度プロフェッショナル制度は,きわめて残念な内容になってしまいました(ちなみに私の提言は,アメリカのホワイトカラー・エグゼンプションとは直接の関係はありません)。
 325日の日経新聞の経済教室で,日本大学の安藤至大さんが,高度プロフェッショナル制度を労働時間規制の適用除外とする説明は不正確だと書いていました(健康確保の仕組みが変わったことが本質だということのようです)が,実務的にはそうなのかもしれませんが,法律家の目からは,この制度の本質は適用除外にあることは否定できません。むしろ健康確保関係の規定は,規制の適用除外を受け入れさせるための政治的妥協のようなものです。
 本来,適用除外であることの意味は,時間外労働の抑制手段として,割増賃金を使わないところにあります。割増賃金を使わなくていいのはなぜかというと,法律により時間外労働を抑制する必要がないからです。なぜ法律により時間外労働を抑制する必要がないかというと,健康確保などのための時間管理は,法律ではなく,労働者本人に任せてよいからです。したがって論理的に考えると,この制度を適用してよいのは,時間管理を本人に任せてよい労働者となります。そうした労働者の範囲をどのように画するかについての基準は,いろいろありえるのですが,イメージは,知的創造的な仕事に従事している人です。頭脳を働かせている時間は,そもそも他人は管理できません。法が介入してはいけないのです。だから健康管理も自分でやってもらうしかないのです。そのために,本人が休息をとりたいなと思ったときに権利として取れるようにしておく必要はあるというのが,私の提案です。これが現在の高度プロフェッショナル制度と大きく違うのは明らかです。
 私の提言の一つのなかに,年次有給休暇は,普通の労働者には,使用者主導か計画年休にしろというものがあります(今回の改正で5日は使用者主導となりましたが,この改正の評価についてはすでにこのブログで書いているので,ここでは省略)が,エグゼンプションの対象者については,制定当初の労働基準法39条の規定どおり,労働者にすべての年休について時季指定をさせる方式でよいというのが私の主張でした。むしろ必ず休ませるべき労働者には,使用者が無理矢理にでも休ませることが必要なのであり,一方,もともとの労働基準法39条の規定のように労働者に主導権がある休暇は,実は自分で健康管理ができる人に適した制度だったのです。
 今回の高度プロフェッショナル制度での健康管理のあり方は,こうした点からみてもおかしいのです。自分で健康管理をできないかもしれないから,法が休息や健康管理に配慮してあげなければならないということでしょうが,私の考えでは,そういう人は,そもそもエグゼンプションの対象としてはならないのです。エグゼンプションの対象とするから,休息や健康管理はより厳格に法が配慮するというのは,論理的におかしいのです。これは政治的妥協だから起こったことです。こういうおかしな制度を前提に法解釈をしなければならないというのは,研究者としてファイトがわくことではありません。
 もっとも,今回の改正で,少しずつではありますが,私の政策提言どおりの方向に向かっていると言えなくもありません。ただ,ゴールはまだ遠いですね。それに私の問題関心はすでにもっと先に行っていることは,『会社員が消える』(文春新書)でも書いています(108頁くらいから読んでいってみてください)。労働時間規制なんて過去のことになるだろうと考えているからです。テクノロジーを使って自分で健康管理することが,もう少しすると普通のことになるというのに,労働時間規制の問題に多くの研究エネルギーを割くのは無駄なことではないかと,いまでは考えています(高度プロフェッショナル制度の導入は,労使委員会制度への関心が高まるきっかけとなるかもしれないとは考えています)。

2019年4月 8日 (月)

名刺交換はやめませんか

 社会人になると名刺交換が大切なようですね。4月に入社した新入社員もそういうことを教わっているのでしょう。でも私は名刺交換が嫌いで,ついに名刺をもつことを止めました。営業などで自分が何者であるか示すときとか,自分の名前を売り込まなければならないときとか,そういうときには,名刺が必要なのでしょう。しかし,私は狭い社会に生きていて,あまり新しい人と会うことはないですし,会うときは,少なくとも先方は私のことをすでに知っていることが多いので,あまり私のほうから名刺を出す必要があることはないのです。困るのは,相手が名刺を出してきたとき,こちらに交換するものがなければ失礼ではないのか,ということです。私の言い分は,あなたの名刺は要らないので,私の名刺がなくても許してね,というものです。
 日本では,初対面のときには,名刺を交換するのは当然のようになっています。いつ頃からそうなったのでしょうか。ペーパーレスの時代なので,名刺はなしにしませんかね。私は名刺をもたないことにしたので,名刺交換はできないことを,あらかじめお断りしますが,いちいち言わなければならないので,とても面倒です。名刺を交換しますか,と聞いてほしいですね。初対面のときは名刺交換という慣習は止めにしましょう。なお私の場合には,どうしても私の名刺が必要という方には,名刺をいただければ,そのメールアドレスに,電子名刺をお送りします。
 そもそも名刺交換は,アナログ的な仕事の仕方をしているから可能なものです。テレワークをしている人は,名刺を直接渡す機会がないはずです。東京での会議で,オンライン会議にしか出席したことがなかったときは,会議の参加者との名刺交換はもちろんありませんでした。日本法令のビジネスガイドの原稿をずっと担当してくれている編集者の方とは直接会ったこともありませんし,もちろん名刺も交換していません。でも仕事に何も支障はありません。
 そんな私も,大学のロゴとかが入っていない職業に関係のない私的な名刺は作ろうかなと思ったりもします。気に入った店に自分のことを覚えてもらうために渡すことが目的です。やっぱり自分を売り込むときには名刺が必要と言うことですね。でも,いまならラインの友達になることとかで,名刺代わりになるので,やっぱり名刺は要らないかもしれません。
 私の名刺をもっている人は,もし私が有名人になれば価値が出るかもしれませんよ。そういえば大学院生のころ,菅野和夫先生に頼まれて何かの仕事をしたときに,先方に見せるために,先生の名刺をいただくことがあったので,後生大事にもっています(もしかしたら先生に返還すべきだったのかもしれないのですが)。院生が自分の指導教員の名刺をもらうということは,普通はないので,私には貴重なものです。
 そう考えると,名刺も悪くないかもしれません。でも,私は名刺を復活させるつもりはありませんが。

2019年4月 6日 (土)

サイボウズ青野社長との対談

 文藝春秋社のサイトで,私の『会社員が消える』(文春新書)の刊行にあわせた企画として,サイボウズの青野慶久社長との対談がアップされています(https://books.bunshun.jp/articles/-/4706)。現在,青野社長は,ご存じのように,婚姻時の選択的夫婦別姓制をめぐって裁判を起こしています(青野社長の主張は,https://note.mu/yoshiaono/n/n34c1a9b3d596 を参照)。ちょうどその判決が出る前の多忙な時期に1時間だけ割いていただいて実現した対談でした。裁判では負けてしまいましたが,青野社長はまだまだ戦うつもりのようです。青野社長の主張は賛同者が多いと思うのですが,裁判を通して実現するとなると,その道のりは大変そうです。国会議員のなかから,どれだけ賛同者を集めることができるかがポイントでしょうね。難しいのは,現時点では,青野社長は民法レベルでの夫婦別姓までは求めず,戸籍法レベルでの別姓の実現を主張するにとどまっているところです。民法改正を求めている論者からは生ぬるいと批判を受けているのです。青野社長は,民法改正を求めていたら,いつまで経っても実現しないので,無理がなく,コストも低く,そして青野社長のいま抱えている問題も解消できる(旧姓を使っていることに法的根拠を得られる)戸籍法改正というところから,まず攻めていこうとする戦略なのです。
 裁判には政策形成訴訟というのがあるので,こういう戦い方もあるでしょう。こうした訴訟(国家賠償訴訟)で原告が勝つのは難しいでしょうが,青野社長は,勝訴するかどうかより,世論が喚起されることを狙っているのだと思います。もっとも世論喚起ということならば,民法改正で攻めたほうがよいのでは,という気がしないわけではありませんが。経営者とのマインドとしては,最初から負け戦はしたくないということなのかもしれませんね。
 さて私との対談の方に戻りますと,実は対談前は,拙著に対して,法律家ごときが偉そうなことを言うなと,お叱りを受けるかと思っていたのですが,全くそうではなく,すっかり意気投合してしまいました。結局,サイボウズ自身が,個人が自立的に働くというスタイルをとっており,会社員のようだけれど,会社員ではない,組織のようだけど,組織ではない,という会社だからなのだと思います。会社は,各人の幸福追求の場を提供しているのだという,青野社長のスタイルが,成功する会社経営のこれからのモデルなのです。拙著で説いた水平的ネットワークは,サイボウズでは,会社レベルですでに実現しているのでしょう。
 今回は,バリバリ活躍されている第一線の経営者との対談ということで,私にとってとても刺激となりました。青野社長には心より感謝しますし,今後もその活躍を見守っていきたいと思います。

2019年3月31日 (日)

改元について思う

 世間では,「平成最後の○○」というフレーズが乱舞しています。元号が変わることに,何か新しさを感じている人が多いようです。私は,個人的には改元にまったく関心はないですし,むしろ元号が変わるのは困るのです。すでにいまでも,平成○○年の数字と西暦の下2桁とを混同することが多いのに,これが新しい元号になったら,もうパニックになりそうです。そう感じている人は,少なくないのではないでしょうか。
 昭和が長かったし,平成も30年も続いたので,改元の弊害は実感しにくいかもしれませんが,もし今後,天皇の在位期間が短くなり(生前退位もありうるので),頻繁に元号が変わるようになると,困ったことが出てこないでしょうか。歴史文献をみるとき,元号しか書いていないものもあって,それがいつ頃のことかさっぱりわからないということもありました。私の教養不足ということかもしれませんが,不便です。
 ということで,改元は自由にやってもらっていいのですが,せめて公式文書に元号を使うのをやめてもらえないでしょうかね。判決も西暦にしてほしいです。私は,自分の書くものについては,出版社の編集方針に反しないかぎり,これからはできるだけ西暦を使っていきたいと思っています。日本人なんだから西暦じゃないだろうというのなら,せめて皇紀でやってくれ,と言いたい気分ですが,それはそっち系の方が喜ぶだけなのでやめておいて,グローバル時代なのですから,まあ西暦でよいでしょう。
 元号は,天皇が武士に政治的な権限を奪われた後も,暦の制定と官位の授与と並んで,天皇の対外的な権限として残されていました。明治になってから,旧皇室典範では,「踐祚ノ後元號ヲ建テ一世ノ間ニ再ヒ改メサルコト明治元年ノ定制ニ從フ」とされ,天皇の即位(践祚)により元号が制定されることになっていましたが,戦後の皇室典範の改正により,その条文が消えてしまい,1979年に元号法が制定されたときに,あっさりと「1 元号は、政令で定める。 2 元号は、皇位の継承があつた場合に限り改める。」という内容となりました。政令で定めるので,これは憲法の定める内閣の所管事務となり(736号),天皇が関わるのは,政令の公布の場面だけとなるようです(これは,天皇の国事行為です。71号)。
 改元が,いまや内閣の行事のようになり,故小渕首相の官房長官時代の元号発表があまりにも印象的だったこともあり,今回も首相や官房長官は,新元号の発表を格好のアピールの場として使いたそうな感じです(などと言うのは勘繰りすぎでしょうか)。なんとなく天皇を政治的に利用しているように思えてしまうのは,私だけでしょうか。
 「天皇は国政に関する権能を有しない」となっているので(41項),内閣がやるのだということでしょうが,元号と国政の関係はよくわかりませんし,少なくとも天皇が「おことば」を発したり,災害見舞いなどのための行幸をしたりすることは,国事行為として列挙されていないものの,実際には行われています。こうした「象徴としての行為」(公的行為)は,内閣のコントロール下にあれば認められるというのが,憲法学で有力な見解のようです。それだった新元号は,(現天皇による)政令の公布だけでなく,国民への公表も,新天皇が,即位時の「おことば」と同じときに,内閣の助言と承認の下にやってよい,という考え方は出てこないのでしょうかね。これは,憲法の解釈として,やはり無理なのでしょうかね(普通に考えると,天皇にそういうことをやらせることこそ,政治利用だということかもしれないのですが)。
 ところで,天皇の権限といえば,暦もありました。織田信長の本能寺の変の背景には,信長が改暦を迫ったという事情があるという話もあります。天皇の大権に触れようとしたからではないか,ということです。明智光秀は朝廷との関係が深かったので,朝廷側の人間が光秀に信長暗殺を命じたという俗説です。
 現在,私たちはグレゴリオ暦(太陽暦)で,すっかり満足しているのですが,でも旧暦は悪くないのです。季節感を味わうなら旧暦のほうがいいはずです。桃の節句は33日ですが,これは旧暦なので,桃の花は咲かないです。新暦にすると,今年でいえば47日ですよね。こういう伝統行事(なんとかの節句とか,正月とか)は,旧暦でやるのも悪くないと思うのですが(中国がそうですよね)。
 改元も改暦も天皇制と密接に関係しています。平成が終わろうとしているいま,日本人は天皇に,どのようなことを託してきたのかを振り返ってみるのも悪くないでしょう。

2019年3月26日 (火)

雇われない働き方

 世間では41日に施行される改正労働基準法に関心が高まり,働き方改革がらみの本や講演が目白押しですが,私個人では,フリーランス・ブームです。先月の『会社員が消える』(文春新書),ジュリスト1529号の「雇われない働き方」に続き,今月に入り,NIRAのオピニオン・ペーパーで「『フリーワーカー』に対する法政策はどうあるべきか」が出ました。同じようなテーマを,媒体に応じて,いろいろな方法で発信しています。さらに今朝は,Huffpostにも,インタビュー記事が出ました(私のHPhttp://www2.kobe-u.ac.jp/~souchi/index.html の「News & Topics」から見つけてください)。この媒体には初登場です。
 ライターの加藤さんが,どうも以前に私が書いていた雇用的な働き方は「奴隷的」というフレーズが気に入ってしまったみたいで,ちょっと困ったのですが,それはともかく,フリーランスを使う側の人が,フリーランスにも社員と同じように接することに問題があるのでは,という目の付け所は,さすが現場の感覚というところで,こういう視点からの切り口はとても面白いし,また実務的にも重要です。スカイプでのインタビューでは,使う側もフリー側も意識改革が必要だし,とくにフリー側にはそのための準備が必要ですよね,というところで終わったのですが,この意識改革や準備というのが簡単なことではないのです。記事では,それをやるのがランサーズということで,ランサーズのFB事業の紹介につながっていって,なんとなくランサーズの事業の宣伝に使われてしまったような気がしないわけではありませんが,個人的には民間企業において,こうしたサービス事業が出てくるのは望ましいことだと思っていますので,別にかまいません。むしろ私の議論を使っていただけるなら,どうぞお使いくださいという感じです。
 『会社員が消える』を読んでインタビューしたいという依頼が,まだ数件あります。どれも観点が異なったもので,著者としても,非常に興味深く思っています。編集者やライターの人が,どのような関心をもって,どのような質問を私にしてくれるか,今から楽しみです。



 

2019年3月24日 (日)

残念な神戸

 私が神戸生まれだと書いているのを知った父はぽつりと「そうだったっけ?」と言ったのには驚きました。私にはもちろん記憶はないので,「2歳までは神戸にいただろう」と父に確認すると,そりゃそうだけれどと言いながら,なお釈然としない様子。まあ父としてみれば,宝塚市で約6年間,その後はつい数年前までずっと西宮にいたので,息子の出身地としても神戸という部分は欠落していたのでしょう。でも,川上麻衣子が1歳までしか住んでいないスウェーデンの生まれって言っているのですから,2歳までいた私が神戸生まれといっていいでしょう。まあ,いま父が住んでいる芦屋と合わせて,神芦西宝(造語ですが,「しんろせいほう」と読んでください)の出身とでもしておきましょうか。

 そんなことはさておき,自分の老後は,神戸に拠点を据えて生きていきたいと思っているのですが,それを真剣に考え始めると,不安も出てきます。この沈滞気味の神戸にほんとうに居続けてよいのかという不安です。
 不安の内容はさまざまです。最近の神戸市の職員の組合専従などからもわかるように,税金がきちんと使われているのか大いに不安です(税金の一部を他の自治体にふるさと納税しているので,偉そうなことは言えないのですが)。さらに気になるのは,神戸には華がないことです。神戸というとおしゃれなイメージはあるようですが,神戸はそのもつ潜在的な魅力を十分に発揮できていません。ぱっと思いつくだけでも,空港はしょぼいし,三宮駅近辺もガチャガチャしていて猥雑(新開発中)。やくざ屋さんの本拠地もある(近隣住民とは仲良くやっているようですが)。

 南をみると,石炭火力発電所の煙突から白煙が出ています。某大企業の煙突です。環境に影響がないということですが,これがあるかぎり,神戸はクリーンな町というイメージから遠いままでしょう。しかも,さらに2基建設されるということで,いま大きな問題となっています。この時代に石炭火力発電か,という素朴な疑問を禁じ得ません。建設推進派にも,言い分はあるでしょうが,せっかく地震から復興して輝く未来を模索しようとしているのに,残念です。電力問題の利害関係者は,私たちの子孫であることをよく考えておかなければなりません。子孫たちの代弁者として,いま私たちにとって何が賢明な選択なのか,英知を結集して考えていく必要があります。

 神戸ワインも,頑張っているようですが,まだレベルが低いです。神戸ビーフは世界的に名が通っています。昨年,欧州に行ったときも,どこに行っても,神戸ビーフの知名度は高く,驚きでした。外国から来た客に但馬牛を食べさせると,みんな大喜びでしたが,ワインがそれについてきていないのです。昨年の国際セミナーの後の懇親会で,せっかくだから神戸のワインをと思って自腹で買って持ち込んだのですが,ほとんど手がつけられず,そのまま持って帰るはめになったショックから立ち直れていません。

 昨年から個人的には日本のワインを,できるだけ飲むように心がけています。クオリティが上がっているので,生産者を応援したいからです。大分の安心院ワイン,山梨の甲州ワインなど,なかなかのものです。ただ,そのリストのなかに神戸ワインはまだ入っていません。口に入れるものですから,気に入らないものは選びません。気に入れば,多少高くても日本のものなら選ぼう,と思っているのですが。ちなみにヴィッセル神戸に来てくれたイニエスタの所有する製造所のワインも,まだ飲んでいないのですが,プロのソムリエの間での評判は悪いです(ごめんなさい)。あまりにも評判が悪いので,まだ口に入れていません。でも飲まなければ批評もできないので,いつかグラスで飲めるチャンスがあれば,チャレンジしてみようと思っています。

 神戸を盛り上げるために何ができるか。市はあんまり頼りになりそうにありません。だから,勝手連的に,神戸で頑張っている人たちと連携して,いろいろアイデアを出していければなあと思っています。

2019年3月18日 (月)

明石市長選挙に思う

 明石市長選挙が行われて,泉房穂前市長が再選しました。暴言問題がマスメディアで叩かれて辞職し,しかし市民の声に押されて立候補し,再選しました。テレビでは「火をつけてこい」などといった過激な発言部分が何度も報道され,パワハラ市長というイメージが植え付けられました。ただ,比較的早い時期に,神戸新聞で泉氏の発言の全体が報道されて,個人的には,こりゃ当該職員に対して市長が怒るのも当然だという印象をもっていました。そもそも以前から,隣の明石市は頑張っていて,市長が良いという評判を聞いていました。そうしたことから,今回の選挙で泉氏が立候補すれば再選されるであろうことは,ほぼ予想できることでした。

 もちろん,外面はよくて,内には厳しいというのは,よくあることです。日頃から口が悪くて,傷ついている職員が多いということもあるのかもしれません。ただ(私は明石市民ではありませんが)市民からすると,とっても職員に評判がいいけれど,何もやってくれない市長と比べると,どっちがいいのかは明らかです。職員の叱責の仕方は改めるべきだとしても,この程度のことで(というと怒られるかもしれないのですが)辞職をして,市長選をやるほどのことなのでしょうか。いったい,いくらの費用がかかっているのでしょうか。私は税金をもっと大切にしてほしいのです。

 ということで,泉氏は辞任する必要はなかったと思います。彼は感情に動かされて過激な発言をした自分を恥じたのかもしれませんが,もしそういうことでしたら,自分本意の理由での辞任です。投票率は半分程度ですが,7割近くの得票率を得て圧勝した選挙結果をみると,今回の選挙は税金の無駄使いだったのだと思います。泉氏は歯を食いしばっても辞任せず,1円たりとも税金の無駄が生じないようにすべきでした。4月には,また選挙があるそうです。余計な費用が発生しないようにすることこそ,市民への責務だったのです。

 一方,マスメディアにも言いたいことがあります。マスメディアは,権力を批判するのが仕事です。そのために,広範な自由が保障されるべきだと考えています。私も他の人に負けないくらい報道の自由は大切だと思っているつもりです。しかし,マスメディアも一つの権力です。それにともなう責任があります。自由を保持するためには,同時に責任を守らなければならないのです。それを忘れれば,権力の側は,目障りなマスメディアの自由を制限しようとしてくるでしょう。
 かつてフランスのマスメディアは,ミッテラン大統領の私生児問題を報道しなかったといいます。スキャンダルにしようと思えばできたのでしょうが,それがミッテランの政治手腕とは無関係であり,国民のためにならないと判断したからでしょう。

 もちろんマスメディアも万能の裁判官ではありません。判断ミスもあるでしょう。しかし,自分が報道しようとしていることが,どの程度の問題なのかを,自分たちの報道のもつインパクトもふまえて,判断するだけの最低限の力は必要です。その力をもたない者は,マスメディアを使って報道してはならないでしょう。

政治家の進退にかかわる問題は,芸能人の離婚とかそういったレベルのネタではないのです。

2019年3月17日 (日)

労働組合と総有

 法人格を取得していない労働組合は,「権利能力なき社団」に該当し,その財産は組合員全員の「総有」となる,というのが,判例の立場であり,どの労働法の教科書にも書かれていることです(学説としては,単独所有説も有力です)。 

 そこでいう判例とは,昭和321114日の品川白煉瓦事件の最高裁判決です。同判決は,「思うに,権利能力なき社団の財産は,実質的には社団を構成する総社員の所謂総有に属するものであるから,総社員の同意をもつて,総有の廃止その他右財産の処分に関する定めのなされない限り,現社員及び元社員は,当然には,右財産に関し,共有の持分権又は分割請求権を有するものではないと解するのが相当である。」という一般論を述べて,これを法人格なき労働組合にもあてはめています。組合から脱退した組合員が,たとえそれが集団的な脱退であって,事実上分裂したような場合であっても,元の組合の財産の分割請求はできないのが原則なのです(ただし,例外的に分割できる場合があるとする,昭和49930日の国労大分地本事件・最高裁判決もあります[学生が好きな論点]が,その例外の要件は厳格です)。

 それで「総有」ということなのですが,これは民法で共同所有権のところで出てくるものです。共同所有の形態には,共有,合有,総有があると説明されます。民法の条文として出てくるのは共有だけですが,(民法上の)組合では合有,権利能力なき社団では,先ほどの判例のように総有とされています。総有の特徴は,持ち分がなく,共同所有者は目的物の管理処分権はなく,使用収益ができるだけとされています。

 総有の典型事例が,入会地です。入会権は民法上の物権であり,林野などの土地に認められることが多いものです。これは古ゲルマンの村落共同体の所有形態にまで遡ることができ,農地などを共同体のメンバーが共同体的な規制の下で所有していた時代にあったものです。現在の日本でも入会地はあり,勝手に構成員が持ち分を処分できない点では,古き良き土地を守るために重要とされる一方,必要な買収ができない(全構成員の承諾が必要)などの問題もあるようです。

 話を元に戻すと,総有のもう一つの典型例が,権利能力なき社団です。前述のように,法人ではない労働組合も,これに該当するとされています。

 ところで,判例によると,「権利能力のない社団といいうるためには,団体としての組織をそなえ,そこには多数決の原則が行なわれ,構成員の変更にもかかわらず団体そのものが存続し,しかしてその組織によって代表の方法,総会の運営,財産の管理その他団体としての主要な点が確定しているものでなければならない」とされています(最高裁判所・昭和391015日判決)。

 菅野和夫『労働法(第11版補正版)』(2017年,弘文堂)の792頁の注30では,この要件は,労働組合の定義における「団体」と同じであると書かれています。私もずっとそうだろうと思っていました。ただ,もしかしたら民法の社団概念は,もっと厳しいのではないか,と思わないわけでもありません。

 権利能力なき社団については,民法上,もう一つ重要な最高裁判決があります。それによると,「権利能力なき社団の代表者が社団の名においてした取引上の債務は,その社団の構成員全員に,一個の義務として総有的に帰属するとともに,社団の総有財産だけがその責任財産となり,構成員各自は,取引の相手方に対し,直接には個人的債務ないし責任を負わないと解するのが,相当である」とされています(最高裁判所昭和48109日判決)。

 権利能力なき社団となると,第三者との関係での責任財産は,構成員個人から離れるという重要な効果があります。労働組合ではあまり注目されない部分ですが,財産的取引を重視する民法では重要なポイントとなるでしょう。というのは,法人格がない団体という点でみると,権利能力なき社団と民法上の組合(民法667条以下)は似たようなものですが,前者であれば,責任財産は社団財産(社員の総有財産)に限定されるのに対して,後者であれば組合員の個人財産にも及んできて,取引の相手方にとってその違いは大きいです。

 そうすると,権利能力なき社団は,もともと民法学における概念であることを考慮すると,その定義では,財産の管理という点が重要となり,責任財産が明確化されていないような形で活動をしていると,社団性を満たしていないということにならないのかが心配になってきます(ただ,この点は民法の先生に確認してみる必要があります)。おそらく労働組合の団体性の定義では,財産の管理は内部的なものが重要で,対外的な責任財産という視点は希薄ではないかと思うのです。

 万が一,ある労働組合の社団性が否定されて,民法上の組合の規定が適用されると,違法争議行為のときの損害賠償責任について,個人責任を負うかどうかという著名論点はさておき,組合が責任を負うときに,組合員も直接無限責任を負うことになってしまいます。
 初めは,沿革的にも慣習の支配する(民法263条を参照)村落共同体的な入会地で適用される総有概念が,(法人格のない)労働組合に適用されることへの違和感から始まった話だったのですが,法人格なき労働組合が,当然に,権利能力なき「社団」で,その財産が総有となり,持ち分が否定されて,個人財産から分類されるということでよいのか,その前に一度,社団性の内容を確認する必要があり,それと労働組合の「団体」性(労働組合法2条)の解釈との照らし合わせをしておく必要があるのではないか,という話に行き着いてしまいました。昔の学説は,こういうことをきちんと議論していたのかもしれないのですが,もう教科書から消えている論点ですので,ほじくってみました。

2019年3月15日 (金)

義務か,権利か。

 ビジネスガイドで連載中の「キーワードからみた労働法」の最新号(2019年4月号)のテーマは,「年次有給休暇の時季指定義務」です。これは,昨年の労働基準法改正により導入されたもので,この4月から施行されます。ということで,今回の原稿は,新法の解説という意味もあるのですが,実は川島武宜流の「日本人の法意識」の議論に立ち返るような問題意識も,挿入しています。

 労働基準法では,「権利」という言葉は,第7条(公民権),第23条(金品等の権利者),第83条(補償を受ける権利)に出てきますが,労働者が使用者に対して保有するものを「権利」として定めた部分はありません。つまり,労働基準法は,労働者の権利を保障した法律であるという表現は,条文の文言だけからみると,不適切ということになります。労働基準法は,使用者に義務を課しているのであって,労働者に権利を与えているわけではないのです。義務の反対は権利ではないか,という批判をしようとされている方は要注意です。労働基準法が使用者に課している義務は,公法上の義務(国に対する義務)であるというのが,普通の考え方です。その意味で,労働基準法は,まずは行政法なのです。労働者は,この公法上の義務規定による反射的利益を受けるだけで,使用者の義務違反行為がただちに私法上も違法になるとは限らないのです。だから,裁判所は,このあたりのことをよくわかっていて,労働基準法違反の私法上の効力を否定する場合に,民法90条を持ち出すことがよくあります。労働基準法が私法上の効力をもつかどうかは,行政法規の私法上の効力という問題の一つであり,当然には無効となるわけではありません。もちろん実質からみれば,労働基準法違反を無効とすることでよく,結果として強行規定となるのですが,労働基準法がアプリオリに強行規定となるというわけではなく,ここは一本,論理をはさむ必要があるのです。繰り返しますが,行政法規なのですから(たとえば,労働基準法104条に違反する解雇をした場合の私法上の効力は,普通の行政法学者であれば,いちおう同条が強行規定かどうかを検討したうえでなければ,無効とはいわないはずです)。

 これについては労働基準法13条があるではないか,という意見もありそうです。これは少し前に書いた論文(「「就業規則の最低基準効とは,どのような効力なのか」『毛塚勝利先生古稀記念 労働法理論変革への模索』(2015年,信山社)所収)でも論じているのですが,私の理解は,労働基準法13条は,同条違反の契約が結ばれた場合のサンクションを定めたものです(同条の見出しも参照)。労働基準法違反の制裁の内容として,労働者は,労働基準法の定める基準を使用者に対して,労働契約の内容として主張してよいということなのです。これも,結果としては,労働者に権利があるということになりそうですが,厳密には,間接的な付与と言ってもよいものです。

 こうした長いイントロは,紙数の関係もあるし,マニアックすぎる議論なので,ビジネスガイドでは書いておりません。本題は39条です。39条は,労働者に年休の権利を与えた規定とされていて,最高裁も昭和48年の判決(林野庁白石営林署事件)で,そう述べているのですが,やはり条文上は,どこにも労働者の権利とは書かれていません。「使用者は,・・・与えなければならない」という義務規定しかないのです。時季指定権や時季変更権といった「権利」があると言われていますが,その根拠を条文から見いだすことはできません(5項を参照)。一方で,同条には,「使用者は,・・・与えることができる」という規定もあります。これは,「時季指定」により年休を「与えなければならない」という1項・2項(年休の発生要件と日数についての規定)と5項の本則の例外を定めるときに,使われている文言です。たとえば4項は1日単位の年休付与の例外である時間単位年休の付与を認めるため,「与えることができる」となっています。先ほどの5項ただし書も,事業の正常な運営を妨げる場合には年休を取得できないという例外を定めるものなので,「与えることができる」なのです。計画年休を定める6項も,時季指定による付与の例外なので,「与えることができる」なのです。一般的なルールの下では「できない」ことを,「できる」としているのです。

 今回の改正で追加された7項(使用者による年休時季指定義務)は,「与えなければならない」という規定です。本則に関係する規定だということです。こうして39条は,使用者による年休付与義務の内容として,労働者の時季指定によるものと「並列」して使用者の時季指定によるものを定めたことになります。ただし,後者は,労働者の時季指定や計画年休付与がされない場合の補充的なものなので(新8項),いわば非対等な「並列」というべきでしょう。

 ここまではビジネスガイドのコラムで書いた内容です。それで川島の話に戻るのですが,やっぱり年休は義務のほうがよいのでは,という話です。川島が『日本人の法意識』(1967年,岩波新書)で例にあげる有名なエピソードに,日本人は貸した物を返してもらう場合にも遠慮するというものがあります(79頁以下)。これは所有権に関連して述べられているものですが,年休権という強大な権利(一方的に行使して有給で休める権利)にも,あてはまるような気がします。年休取得率が低い理由はいろいろあるのですが,まずは権利構成をやめて義務構成でいくほうがよいのでは,ということです。そして,労働基準法って,そもそも文言上も義務構成じゃないの,ということが言いたかったのです。義務構成であれば,付与義務だけでなく,時季指定も使用者の義務とすることは,それほど違和感がないでしょう(労働者の意向を尊重した時季指定は必要ですが)。

 日本人にとっては,権利なんて言わないほうが,かえって実利を得やすいのではないか,ということです。「利益」を守るためには「権利」という主張を引っ込め,いかにして相手の「義務」意識を引き出すか,というほうが戦略的に良いのです。労働紛争でも,このことをわかってくれない弁護士が関与すると,和解がうまくいかないというのが,日頃感じていることです(もちろん和解すべきでない事件もあるので,あくまで和解のほうがよい事件のことです)。

 労働基準法に使用者の時季指定義務が入ったことで,この古い議論をちょっと蒸し返したくなりました。

 なお,この号では,半日年休について,平成20年改正で時間単位年休制度が導入された後は,それまでのように労使協定がなくても認められるという行政解釈はおかしいのではないか,という疑問を投げかけています。なぜ半日年休は,時間単位年休ではないのか,という疑問です。この点は,今回の改正により,実は使用者の時季指定義務との関係で,問題となる可能性があると考えていますが,その点は掲載号(20194月号)で確認してください。

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