2020年4月 3日 (金)

オンライン診療解禁はデジタルファーストで

 今朝の日本経済新聞をみると,受診歴のない患者の初診からオンライン診療を解禁することに,厚生労働省や医師会が難色を示しているという記事が出ていました。「対面に比べ診察時に得られる情報が限られる」ということが,その理由でした。これは以前からも出されていた理由づけです。私は医師ではないので,これがどれほどの解禁の障害事由となるのかよくわかりません。でも「情報」の問題であるとすれば,もっと工夫する余地があるのではという気もします。生体データや顔の表情の画像分析をAIで行うという話もあります。技術的に可能なことはどんどん増えています。普通は現状を変える立場のほうが,エビデンスを用意して,変えるべきであるという提案の根拠を説明しなければならないのでしょうが,私はデジタル技術を使えるものについてはデジタル技術を使うのを原則とするという「デジタルファースト」を提唱しています。いわば「立証責任」を転換せよということです。デジタル技術を使って不都合があるなら,それを主張するほうがエビデンスを用意しろということです。社会がスタティック(static)なときであれば,もちろん改革を求めるほうが「立証責任」を負うべきでしょうし,私たちは何十年もそういう安定した社会で過ごしてきました。しかし社会が何十年あるいは百年に一度というくらいに大きく動いているときは,こうした「立証責任」のルールも変えなければなりません。すでに第4次産業革命,Society5.0,DX(デジタル・トランスフォーメーション)といったことが進んでおり,社会が急速にダイナミック(dynamic)に動いている時代に突入しています。つまり,これまでとは違った発想が求められているのです。ましてや現在は新型コロナのせいで異常時となっています。こんなときでも,いつもと同じようにやらなければならないなんて寝ぼけたことを言っている人たちが,社会の上層部にいるというのは恐ろしいことです。
 大学でも,かなり前からオンライン授業はどうかということを同僚と話していました。7~8割は反対でした。教育効果が上がらないのでは,ということです。でもそれは,これまでと同じような授業方法であれば効果が上がらないだけで,授業方法を変えれば飛躍的に効果が上がる可能性があります。今回,大学は迅速に対応して,オンライン化を決断しました。素晴らしいことです。教育効果を上げるために,どのようにすればよいか,私自身まだわかっていませんが,懸命に考えていきたいと思っています。長年やってきた方法を変えるのは大変です。でも,シラバスづくりのようなあまり意味のないことに振り回されるのは困ったことでしたが,オンライン化は教育の本質にかかわることであり,これは教師である以上,真剣にとりくまなければならないことです。少し大変だなという意識はありますが,頑張りたいと思います。しかも大学では執行部の方々が,新たなやり方の環境整備のために尽力してくださっていて,ほんとうに頭が下がります。
 医療は,大学教育以上に国民にとって重要なことです。これまでと同じ診療のやり方であればオンラインはダメだとしても,むしろオンラインでやるためには,どういう診療方法があるのか,どうしたら患者の情報をもっと収集できるのか,そこにデジタル技術を使える余地はないか,ということを検討し,それでもやっぱり限界があるという結果が出たときにはじめて,オンライン診療の初診はダメという結論に説得力が出てくるのだと思います(私は別に対面診療がいっさいダメと言っているわけではありません。ただ医師も患者も望んでいるのにオンラインはダメというのは行き過ぎだという主張です)。
 現在は「コロナ期」です。オンライン化への移行期間だと考えてもらいたいです。そして,これが「コロナ後」の本格的なオンライン時代,デジタル時代への橋渡しになるのだと思います。
 どうも見ていると,いまはいろんなところで,おじさんたちが妙に頑張っている組織が,改革にブレーキをかけているような気がします。デジタル時代についていけないなら,指導層から身をひいて,リーダーシップのある若い層(ほんとうは年齢には関係なく,改革マインドが高いことが重要です)に組織をゆだねるべきでしょう。政治も行政も医師会もそうです。身近なところでは,自治体もそうだと思います(私ももし指導層にいればそうすべきでしょうが,幸いそういう立場にないので,その必要がありません)

 

2020年4月 2日 (木)

久しぶりの投稿

  これは2ヶ月半前の 1月中旬に ,年末から咳の症状で苦しんでいて,ようやく治ったときに書いたものです。アップしようと思っているうちに,ずるずると今日になってしまいました。その間,多くの原稿を抱えていて,ブログをアップするという気力(?)が残っていなかったからですし,その間に,違う内容のブログを先にアップしてしまったことも理由です。

*************************************

<タイトル>かかりつけ医がほしい

 昨年末から医者に立て続けにかかっています。前にも書いたような喘息ぎみの症状は,結局1か月近く咳が出続けて,ようやく治りました。授業をするときにも支障があったくらいで,ほんとうに困ったものです。今後は,喉に負担がかからないような発声方法などの工夫が必要ですし,携帯用の加湿器を持ち込むなど,どのようにして授業のクオリティを下げないようにするか考えなければなりません。
 ところで一番困るのは,病院で待たされることです。近所に4件ほど行くところがあるのですが,そのうちの一つは,オンライン予約ができるので,待たなくてもいいのですが,窓口の女性のうちの一人が大変感じ悪い人なので,あまり行きたくありません。医師はよいのですが。もう一つ別のところは,いつもすいているので良いのですが,ちょっと医師の診察が適当な感じで,あまり気が進みません(インフルエンザの予防注射をするだけなら良いですが)。もう一つは,ものすごく人気があるので,いつも込んでいるため,待っているうちに風邪がうつされそうなところです。最後の一つは,近所で診察券を一度出しておくと,電話をかければ後何分くらいと教えてくれて,後1人くらいのところで行けば間に合うところで,医師も丁寧に話は聞いてくれるのですが,出してもらった薬が何一つ効かなかったので,信用度にクエスチョンマークがついています。ほとんど医者にかかることなどなかった私ですが,これからは医者にかかることも増えていきそうです。かかりつけ医師というのを決めたいのですが,なかなか決めきれません。
 咳がようやくおさまって安心していたら,今度は,左の背中と胃が痛むという症状が出て,いまも治っていません。鈍痛という感じで,日常生活にはまったく支障はありませんが,気持ち悪さがあります。尿道結石と思い,少し遠方の腎臓内科に行ってエコーをとってもらったのですが,腎臓も脾臓も問題はなく,石もなく,血尿もでていませんでした。結局,筋肉痛ではないかと言われたので,今度はハリに行きました。少しは良くなりましたが,劇的には良くならなかったので,まだ内臓疾患の疑いは消えていません。ネットで調べたら肋間神経痛の症状に似ているのですが,これも原因はいろいろです。いったいどこの医師に行けばよいかわからず,でも無駄に時間を使いたくないので,頼ったのは,大学の保健管理センターでした。治療ではなく,どこの医者に行くのがよいかアドバイスをもらうためです。その結果は,結局よくわからずということで,どうも残された可能性は整形外科のようですが,総合病院にいっていろいろ検査してもらったほうがよいかも,ということでした。たぶん筋肉痛なのだと思いますが,ちょっと気持ち悪いです。こういうのは,かかりつけ医師を作って,気軽に相談できればという感じにしたいのですが,どれも帯に短したすきに長しで,またなんだかんだ言って早いところでも1時間(長ければ3時間くらい)はかかるので,それだったら本当に痛くなるまで我慢しようということになりますよね。医療相談のチャットボットがあればいいのですが。ネットの怪しげな情報に振り回されている人も多いのではないでしょうか。
 ちょうど二宮敦人『最後の医者は桜を見上げて君を想う』(TO文庫)を読んで,重病系の人のリアルな話が出てきたので,自分も重病であったらどうしようなんていう気分になっていました。この本は医者が素材ですが,生きること,死ぬことの意味を考えさせてくれる良い小説でした。男の友情の世界もあって,こういうストーリー,結構好きなのですよね。それはともかく,今年の課題は,よき「かかりつけ医」をみつけることですね。いつも保健管理センターに頼るわけには,いかないでしょうから。

**************************************** 

 ということを2ヶ月半位前に書いていました。あのときの咳は,ひょっとしてコロナウイルスだったのか(同僚に中国帰りの人もいたし),という気もしますが,よくわかりません。それと左の背中の鈍痛は,結局2週間くらいで消えました。気候の影響であったのでしょうか。
 新型コロナウイルスを,私は本当に恐れています。常日頃,呼吸器系が弱い私にとって,大の嫌煙家ではありますが,自分の死因は肺の疾患になるのではないかと思っています。新型コロナは,インフルエンザと違って,まだワクチンや薬がありません。それに私は父が90歳近い高齢で,何かと接触があるので,絶対に感染できないという気持ちで張り詰めた毎日です。ということで,外出は極力控えています。最近は,労働委員会の受け持ちの審査事件や斡旋事件の期日だけです。事件当事者に迷惑をかけるわけにはいかないし,県はマスク着用の義務づけ,換気,social distanceの徹底ということまでしているので,安心はしていませんが,出席しています。ただ労働委員会の公益委員会議はオンライン会議での参加でお願いしています。これは出席にカウントされないのですが,ぜひ労働委員会規則で,定足数にカウントするようにしてほしいです。すでにサバティカル中のときも,海外からオンライン会議での参加をしていましたが,リアル会議と同じように議論に参加しています。オンライン会議では近くに誰がいるかわからないなど,秘密保持が大丈夫かという心配もあるかもしれませんが,そこは委員の良識を信頼してもらいたいです(信頼できないような委員は選ばなければいいのです)。こういうことも「デジタルファースト」の精神で臨み,問題点があればそれを解決していくという姿勢で取り組んでもらいたいですね。
 その他の外出は,近所に郵便の投函をしにいったり(学会誌の校正は初稿からPDFにしてもらいたかったですね),ちょっとした買い物に行く程度です。その他は,大学へは,3月の教授会には出席しましたが,教授会も4月以降しばらくは,Zoomの利用となりますので行く必要がありません。授業も第1Qは,オンラインでやることになりました。借りていた図書がもうすぐ期限となるので,そのうち1度は行く必要がありますが,これも延期してもらえないでしょうかね。もう一つは散髪です。散髪は決まったスタイリストに頼んでいるのですが,通常のペースより2週間遅れで,もう伸びすぎて我慢できないと思い,安全確認をしっかりしたうえで行ってきました。2ヶ月はもつように切って欲しいと頼みましたが,2ヶ月後でも,たぶん終息していないでしょうから,次回は訪問散髪をお願いできないかということを頼んでおきました(できるのでしょうかね?)。
 それで2ヶ月半前に書いたブログに戻るのですが,コロナ騒動で,ようやく オンライン診療が初診から解禁されそうな感じですね。コロナ関係だけの扱いかもしれませんが,でも,これで行けるとなると,一挙に一般的に解禁されることになるかもしれません。
 授業のオンライン化も,前から主張しているもので,コロナ以外にも,インフルエンザや台風休講の場合にも,できるようにしてほしいです。というか,オンライン授業を本格的にやろうとすると,授業のやり方がずいぶんと変わってきます。もしその方が教育効果が上がるということになると,オンラインを原則としてもよいという意見が出てくるかもしれません。テレワークもそうです。現在の業務態勢のままでテレワークにするとやりにくいことも多いでしょうが,業務の進め方そのものをテレワーク仕様に変えてしまうと,そのほうが生産性が高まる可能性もあります。新型コロナウイルスは,人類にとっての大きな危機であり,おそらく長い戦いになるでしょうが,インターネットは災害に強いのです。現在はインターネットなどのデジタル技術を使った生活や労働に切り替える格好の実験期間でもあるのです。いつかこの戦いは終わりが来ます。コロナ後の社会は,コロナ前とはまったく違ったものとなるのではないかと考えています。何もしなくてもデジタル社会がやってくるはずでしたが,予期せぬコロナによって,その到来が5年くらい早まったのではないでしょうか。

 

2020年3月11日 (水)

デジタルファースト

  「アメリカファースト」という言葉を聞くと,アメリカ以外はどうでもいいというような独善的・排他的なニュアンスがします(言う人のキャラクターもありますが)。「レディファースト」というと,まずは淑女の皆さんがどうぞ,という他人に勧めるというニュアンスで,ずいぶん違います。私は「デジタルファースト」という言葉を,行政手続以外にも広げてもらいたいと思っています。デジタルでできることは,まずデジタルでやれるか検討すべきだ,というニュアンスであり,これは要請という強い意味をこめています。
 サイボウズの青野社長が,36日の日本経済新聞の朝刊で,「かんばるな,ニッポン」という新聞広告を出して,テレワークを推奨していましたね。これも「デジタルファースト」の精神です。会社の宣伝であったとしても,私の心には,ささりました。デジタル技術を使ってリスクを回避し,できるだけこれまでの生活を継続するというのが,テレワークの社会的意義です。それを支える企業こそが,ESGSをきちんと担っていると思います。
 大学はどうでしょうか。春休み中なのでコロナ騒動による影響はあまり受けていませんが,日頃から悪天候で気象警報がでれば休講になってしまうなど,強制休講が増えているので,こちらもデジタルファーストでオンライン授業の正規化の検討を進めてほしいです。もちろん,こうした提案には,通信制との区別がつかないとか,対面教育の効用とか,多くの反論があるのですが,そうした議論をするところから,なぜ大学や学校という物理的施設にまで登校しなければならないのか,ということを確認していくことに意味があるのです。そうすることによって,現在のやり方の良さを再認識することができるかもしれません。
 ちょうどデジタル化が進むと人間の労働がなくなるという話があるなかで,人間らしさとは何かということを議論していくと,非デジタル的な活動の良さも見えてくるというのと同じです。
 そんなことを考えているとき,突然,小中高の一斉休校となりました。その判断の妥当性については専門家に任せたいのですが,そもそも専門家の意見を聞かないでやったことが驚きです。首相が責任をもつと言っていますが,それが当てにならないのです。現在の日本の首相の問題は,多くの人がわかっているように,言葉が軽いことです。首相の責任でやるといっても,これまでの多くの言動から,たぶん責任はとらないだろうと多くの人は思っているでしょう。つまり首相の「責任をとるから」は説得力がないのです。それに,そもそも「責任をとるから」を説得の言葉にしてはいけないと思います。専門家の話を聞いていろいろ議論した結果,意見が分かれたから,最後は自分が責任をとって決断した,ということであればわかるのですが,専門家スルーで責任という言葉だけを使うのは,実はきわめて無責任な行動なのです。
 それはさておき,一斉休校への批判として,保護者の不便さ(休業の補償も含む)や小さい子供たちの行き場所のなさに関する話は聞こえてきますが,子供の勉強の進行についてもっと配慮すべきという話は,当初はあまりされていませんでした。文部科学省は,「子供の学ぶ応援サイト」といったものを立ち上げていますが,なんとなく他人任せです。国難だから,教育なんて言っている場合でない,ということかもしれませんが,そもそも子供たちは重症化しないらしく,ぴんぴんしているので,教育のことを心配するくらいの余裕はあるでしょう。そう思うのは,中国では,教師たちがオンラインで授業をすることにより,子供たちが勉強を継続しているということが報道されていたからです。日本では,教育についての本気度が低いのではないかということが気になります。中国のほうが,この面では,どうみても先進国です。 
 デジタル・トランスメーション(DX)の到来により,子供たちが学ぶべきことは,今後大きく変わります。教育の役割は国家の将来を左右する,きわめて重要なことです。オンラインで学べるサイトがいろいろあるのは良いことですが,一斉休校をする際に,学校自体がどのようにしたら教育を継続できるかということについて,もっと検討してほしかった気がします(一部の意識の高い学校のなかには,オンラインで授業を継続しているところもあるようです)。文部科学省も,今回のことをきっかけに,デジタル時代に求められる知識は,デジタル技術を使って学ぶという,教育面でのデジタルファーストをぜひ本格的に推進して欲しいです。タブレットを配布するとか,そういうことだけではないはずです。
 感染リスクを回避するための休校はよいとして,そうしながらも,これまでの生活を継続できるということまでできて,はじめて先進国といえるのです。労働の面では,青野さんの呼びかけのように,テレワークによって感染リスクを減らしながらも,仕事を継続できるということができなければならないのです。
 コロナショック後に日本社会は大きく変わるだろう,という声が少しずつ高まってきています。そうなることを期待しています。

2020年3月 6日 (金)

Uberのドライバーは労働者!?

 フランスの最高裁に相当する破毀院(Cour de cassation)で,34日に,Uberのドライバーの労働者性を認める判断が出されました。ドライバーは,Uberからアプリの使用が止められたのが不当な解雇にあたるとして争っていましたが,労使審判所は,ドライバーは労働者ではないとして管轄を否定したので,その点が問題となっていました。
 破毀院は,自営業者としての地位(statut d’indépendant)は,みせかけ(fictif)であると結論づけました。「名ばかり自営業者」であったというのです。破毀院の判断や要旨は英語でも読むことができるので,詳しくはそちらを参照してください(https://www.courdecassation.fr/jurisprudence_2/communiques_presse_8004/prestation_chauffeur_9665/374_4_44528.html)。
 一応簡単に言うと,自営業者と認められるためには,自らの顧客関係を形成する可能性(possibilité de se constituer sa propre clientèle),料金の設定の自由,業務遂行条件を定める自由がなければならないが,本件ではそのどれもが認められない(とくに経路が決められていることが重要)とし,逆に,雇用労働者として認められるための従属関係の判断基準である,使用者の指揮命令権(指示をし,業務遂行を監督し,指示に従わない場合に制裁を与える権限)については,乗務の指示を3回拒否すると一時的にアプリが使えなくなり,さらに一定率を超えて拒否したり問題行動があったりすれば,アカウントへのアクセスができなくなる(つまりドライバーとして働けなくなる)し,またUberが一方的に条件を決定している運送業務組織に組み入れられているとみられることから,認定できるというのが,その理由です。
 フランスで従属関係が認められたからといって,日本でも当然に同じように認められるわけではありません。ただ私は,拙著『会社員が消える-働き方の未来図』(2019年,文春新書)の160頁で,Uberのドライバーは,「雇用労働者と認定される可能性は十分にある」と述べていたので,驚きはありませんし,今後同様の判断が世界中に広がっていく可能性はあるでしょう。
 フランスの破毀院の判断は,フランス法の構造によるものと思われますが,自営業者性を否定する判断(独自の顧客開拓可能性や料金・業務遂行の決定の自由について)をしっかりやっているところが注目されます。日本であれば,労働基準法や労働契約法の労働者概念においては,使用従属性があるかが大切なので,必ずしも自営業者かどうかという判断はされていませんが,ただ労働組合法上の労働者性においては,こうした判断要素が追加されているので,今回の破毀院の判断は参考になるかもしれません(拙著『最新重要判例200労働法(第5版)』(2018年)の第138事件「INAXメンテナンス事件」を参照。同書はもうすぐ第6版が出ます)。
 また破毀院のいう業務組織への組み入れ(組み入れは少し意訳で,フランス語では,”participate in” となっていて,直訳なら「加わる」といった感じでしょうかね)という要素は,日本の労働組合法上の労働者性の判断の最重要要素である「事業組織への組入れ」に相当する可能性があるので,Uberのライドシェアサービスが日本で本格的に導入されて,ドライバーが労働組合を結成すれば,この破毀院の判断が参照されるかもしれませんね。
 このほか労働者性とセットの問題として,デジタルプラットフォーム(フランス語では,platforme numérique)の使用者性が肯定されたことは,日本でも広がっているUber型ビジネスのプラットフォームの使用者性をめぐる議論を刺激する可能性があります(昨年,Uberイーツの労働組合が結成されていますので,問題はリアルになってきています)。デジタルプラットフォームに対しては,経済法の観点からの規制も言われており,これも最近よくある経済法と労働法との交錯領域の一つとなるでしょう。

2020年2月18日 (火)

いまこそデジタル技術の出番だ

 動かないで働くこと(ムーブレス・ワーク)を提唱したいと,このブログでも何度も書いてきましたが,新型コロナウイルスで,テレワークを認める企業が増えるなど,思わぬことがきっかけで,この動きが広がり始めています。これからの働き方は,原則として,自宅か自分の選んだ場所で働くということで,出勤させる場合には,よほどの理由がなければならないということになっていくべきだと考えています。東京の人たちが,いとも簡単に,東京での仕事を依頼してきますが,(若いころなら喜んで行っていましたが)いまはオンラインでお願いしますといって,それが無理な場合には断っています。今年は,いまのところ,東京どころか出張の予定はゼロです。出張ついでに観光もできそうなところなら話は違いますが,行って帰るだけのような用事に半日以上使うのはおかしいという気になっています。こうした態度なので,少しずつ交友関係も減ってきていますが,人を移動させることを当然と思っている人たちとは付き合いを減らしてもよいと思っています。
 大学のほうも,ほんとうにオンライン化を考えたほうがよいです。そもそも授業はオンラインにしなければ,難しくなるでしょう。いまは春休みですが,肺炎騒動が長引き授業シーズンに入ると,休講が続いて,とても授業回数を確保できません。夏が近づくと台風などの自然災害の可能性もあります(近年,いっそう回数が増えています)。今年も18日は,台風でも地震でもなく,たんなる強風だけで,警報のため休講となりました。教員がインフルエンザにかかって授業ができないこともあるでしょう。体調不良のときに無理をおして授業をするのは美談ではなく,迷惑行為です。授業回数を厳格に確保すべきと言われていますが,それはオンライン講義を解禁してからであるべきなのです。もちろん,オンライン講義やオンライン試験などでは,解決すべき問題はいろいろあります。とくに試験はそうでしょう。だからといって,やらないのではなく,やる方向で解決方法を考えていかなければならないのです。カンニングされることの危険性をいいますが,今日,他人の手などを使っても答えを導き出すことができれば,能力があると評価することも可能です。つまらない情報をひっぱってきたら,そのこと自体を能力がないと評価すればいいのです。クイズミリオネアの回答者は,知人に電話して答えを調べてもらうという権利を行使できましたが,それと似たようなことです。私は大学入試でさえ,場合によっては,こういう発想でやってよいと思っています。
 オンライン会議では,秘密の事項を扱えないという懸念もあるかもしれません。横に誰がいるかわからないからです。それなら,秘密の事項は信頼できるメンバーでやればいいのです。信頼できるメンバーならオンラインでも大丈夫です。信頼できないメンバーなら,リアル会議でも秘密をもらします。
 要するに,世の中のあらゆることについて,その目的とすることを,デジタル技術を使ってできないかと考え,それができるなら,現行の仕組み自体をそれに合わせて変えてしまうことが大切なのです。電気が発明されたときにも,工場で電気を活用するまでには,何年もかかったそうです。工場での生産体制が電気対応になっていなかったからです。いまから思えば,そんなのすぐにやればよいのにと思いますが,その当時においては,たいへん難しいことだったのでしょう。デジタル技術への対応も,同じようなことです。将来の人からみれば,なにをぐずぐずしていたのか,と思えるような状況ではないかと思います。

 新型コロナウイルスは,ほんとうに困ったことですが,この災厄をきっかけに,人々がデジタル技術を活用して,より快適に働いたり,生活をしたりできるようになれば,あとから考えれば良かったと思えるかもしれません(もちろん実際に健康被害にあったり,身内が亡くなったりしたら,そんなことは思えないかもしれませんが)。

 いずれにせよ,役所が,テレワークは使用者の目が届きにくいから,より厳格な時間管理をして過重労働が起きないようにすべきというような余計なことを言って,企業の意欲をそぐようなことを言わないことを期待しています。過剰な心配は,より優先度が高い新たな社会制度設計の構築にとって有害なのです(もちろん,合理的に予想されるリスクに備えることが必要なのは,いうでもありません)。

2020年2月 2日 (日)

死者を蘇らせてはいけない?

 ゾンビの話ではありません。
 前にAI美空ひばりに感動したと書きましたが,あのような死者を見世物にする行為については批判もあることでしょう。実際,あれはアーティストを冒涜するものだとして厳しく批判する人たちもいるようです。確かに,もし美空ひばりがいま生きていて,あの新曲を歌うとしたら,あのように歌っていたかどうかわからないのに,勝手に蘇らされて,人前で歌わされるなんて耐えられないだろうと想像した人からは,あれは許しがたい暴挙だと思えても不思議ではありません。でも私はあのAI美空ひばりに感動したのです。遺族である長男もファンも感動していました。私には,それが暴挙だとは思えないのです。もちろん,あれで金儲けをするというのは許しがたいことですが。
 あれは美空ひばりのような偉大なアーティストだから問題となるのでしょう。例えば私が死んだあとに,AIで私の画像や音声を使って何かの講演を実現するなんてことがあっても,私は別に何も気にしません。それで講演料がとれたら面白いだろうな,というくらいの感覚です。はっきり言って,死んだあとのことはどうでもいいです。むしろ,それで遺族やその他の皆さんが喜んでくれれば,それで十分だと個人的には思っています(私は美空ひばりのような偉大なアーティストではないので,同列に論じることはできないでしょうが)。
 人は,大事な人が亡くなれば,その喪失感に苦しめられます。その苦しみと悲しみは時間とともに軽減してはいきますが,完全になくなるものではありません。24年ぶりの映画の続編が話題になっている岩井俊二『ラヴレター』(角川文庫)は,亡くなった恋人の住所に手紙を送ったら,返事が来たという話です。これはちょっとしたミスと偶然から起きたことで,心霊現象でもなんでもなかったのですが,それはさておき,いつまでも亡くなった大切な人が忘れられないという気持ちはよくわかるのです。理由はともあれ,ただ返事がくるということで救われることもあるのです。
 ちょうど数日前,机の上を片付けていたところ,私が大学院のときにイタリアに留学してからすぐに母が送ってくれた絵はがきが出てきました。できるだけ紙は捨てるようにしている私でも,これは捨てられません。いまならLINEとかWhatsAppでのやりとりとなるでしょうが,手書きの字は懐かしくて涙が出そうになりました。アナログの良さです。もし母をAIで,画像も声も再生できるのなら,私ならお願いしたいですね(もちろん費用次第ですが)。大切な人を失った喪失感から,AIでも何でもいいから,少しでも救われたいと感じるのが人間ではないかと思います。
 と書いてきましたが,一般論としていえば,AIで死者を蘇らせることは,悪用の危険があるので,お勧めできることではありません。それにAIで蘇らせても,ほんとうに復活するわけではありません。その後の喪失感がより深くなるだけかもしれません。そう考えると,やっぱりこういうことは技術的に可能であったとしても,やらないほうが良いのかもしれませんね。

 


2020年1月30日 (木)

残念だがモノが違う

 日産の元会長のカルロス・ゴーンの国外逃亡は,日本人として恥ずかしいし,こんなことができるのかと驚いたりで,いろいろ考えさせられる出来事でした。彼にすれば,文明の遅れた日本で,会社に嵌められて不当に国家権力に拘束されていたのを,文明の進んだ国の人たちによって救出されたような気分なのでしょう。自分のようにカネも権力もある人間は当然,そういうことをする権利があるのだと言わんばかりです。よく映画で,白人の主人公が,中東や南米やアフリカで不当に拉致されて,それを白人の仲間たちが救出してハッピーエンドになるというようなストーリーがありますが,それを現実にやったというところでしょう。実際,今回の逃亡劇はハリウッドで映画化されるという話もあります。
 ゴーンは,日本の無罪率が異常に低いことも指摘していました。日本の識者らしき人は,必ずしも他国も高いとは限らないと説明し,ただそのなかでイタリアはなぜか高いということに言及していました。イタリア憲法112条は,「検察官は,刑事訴追を行う義務を有する」(Il pubblico ministero ha l'obbligo di esercitare l'azione penale.)と規定しており,起訴法定主義であることが,刑事訴訟法248条で,「犯人の性格,年齢及び境遇,犯罪の軽重及び情状並びに犯罪後の情況により訴追を必要としないときは,公訴を提起しないことができる。」と規定されて,起訴便宜主義である日本のような国との違いなのかもしれません。日本でも不起訴とすれば,検察審査会で起訴の当否が検討されることがありますが,ちょうど一昨日,日産の西川元社長の不起訴は相当とする判断が出ましたね。いずれにせよ,国民目線でいえば,起訴法定主義で無罪率が高いことが,良いこととは思えません。
 「人質司法」ということも言われました。私はその意味が必ずしもよくわかっていなかったのですが,冤罪事件に巻き込まれた元厚生労働省局長(その後,事務次官)の村木厚子さんの『日本型組織の病を考える』(角川書店)を読んだとき,よくわかりました。要するに,逮捕された被疑者に対して,自白をしなければ,家族らに会うことはできないぞと言われることであり,家族や自分の大事な人が人質に取られているような状態を指すようです。ちなみに村木さんの本は,自分が組織人であるということをあまりにも自覚しすぎていて,あれほどの被害を受けておきながら,同じ組織である検察への批判が甘いし,本の後半は自分のことばかりで(自慢話もかなり組み込まれています),本のタイトルである「日本型組織の病」に対する切り込みができていないのは残念ですが,前半の獄中記は,それなりに面白かったです。ただ,獄中記でいえば,かつて読んだことのある,佐藤優『国家の罠―外務省のラスプーチンと呼ばれて』(新潮社)や島村英紀『私はなぜ逮捕され、そこで何を見たか。』(講談社)のほうが,ショッキングでした(とくに島村教授の本は読んでいておそろしくて,多くの人に薦めて貸しているうちに,どこかに行ってしまいました)。
 村木さんの本では,話題の弘中弁護士が登場して,彼女を救ってくれた話が出てくるのですが,ゴーン事件では,彼は厳しい批判を受けているようです。ゴーンに逃げられてしまったことに責任がまったくなかったとはいえないでしょうから,弘中氏のこれまでの業績を汚さぬよう,もし何も批判されるべきものがないのであれば,堂々と真相を語ってもらいたいです。
 それにしても,ゴーンは,日産から桁違いのお金を引き出したことにせよ(それが適法かどうかは,私にはわかりません),今回の脱出劇の大胆不敵さにせよ,そしてレバノンから世界に向けて自分に都合のよいことだけを発信する厚顔無恥さや傲岸不遜さんにせよ,彼はモノが違うという気がします(逃亡者が美味しそうにシャンパンを飲んでいる映像を観るのは腹立たしいものです)。
 これだけ日本の司法制度をコケにされ,そして言いたい放題で批判されているのですから,日本政府もそれに負けないくらいの発信をしてもらいたいです(いちおう,『ウォールストリートジャーナル』の社説への反論などはやっているようですが)。そういえば,日本の法務大臣は,就任してすぐに妻の選挙での不祥事などがあって辞任した首相の「お友達」の後任でしたね。法相のポストの軽さも,こういう事件が起きたときの政治的対応の鈍さに関係しているような気がしますが,皆さん,どう思いますでしょうか。

 

2020年1月19日 (日)

久しぶりに小説紹介

 

  昔は,ブログで,読んだ小説の紹介をする読書ノートをよく書いていたのですが,最近はあまり書かなくなりました。読んでも詳しく紹介する時間がなくなっていたという事情もありますが,専門書を読むことが増えて,一般書を読むことが減ったことも一因です。数年前までは,お風呂で1冊という感じでしたが,最近はお風呂では必ず寝てしまうので,本も雑誌も持ち込んでいません。また本をKindleで買うことが増えていて,お風呂に持ち込めなくなったという事情もあります。お風呂という読書タイムがなくなったため,Kindleにダウンロードした本がどんどん滞留してしまっています。

 それでもこの12年以内に読んだ本を2冊ほど紹介したくなったので,記憶を呼び覚ましながら書いてみます。1冊目は,映画化もされているし,続編も出ている,志賀晃『スマホを落としただけなのに』(宝島社文庫)です(ネタバレあり)。

 麻美の彼が落としたスマホがとんでもない男に拾われて,その彼のスマホに残っていたデータから麻美のことが知られて,ストーカーされてしまうという話です。男が,情報を分析して徐々に麻美に近づいていくところが怖いです。スマホにほぼすべての情報を一元的に管理している現代人にとって,セキュリティに十分に気をつけているつもりでも,専門家にかかれば,簡単にプライバシーが暴かれてしまうというところが,小説の次元を超えて,リアルに怖かったです。

 小説は,これと併行して,連続猟奇殺人の話もあるのですが,こちらの話は犯人が誰かを推理するということではなく,いわば麻美に降りかかった災難のBGM的な流れで進行しています。麻美が自殺した友人(本当の麻美)の入れ替わりであり,友人の借金のためにAV女優をしていたというのは,麻美の少しエロいところが描かれていたところも含めて,ちょっとした男性読者サービスかなという気もしましたが,ただ友人の自殺の動機が弱いかなという印象ももちました。あっという間に読めてしまいますし,スマホを落としたら大変なことになるということを確認できる意味でも,読んでみて損はないでしょう。

 もう一冊は,村田沙耶香『コンビニ人間』(文春文庫)です。2016年上期の芥川賞受賞作です。36歳でコンビニ店員一筋の古倉恵子。彼女は,コンビニのアルバイト店員という「生き物」になることにより,自分を完全に空っぽにすることができました。現実の社会では,社会の掟なるものがあって,みんなそれにごく自然に順応しているのですが,どうしても順応できない恵子。でも彼女には自分が浮いていることはわかっても,浮いてしまう原因がわかりません。家族に心配をかけたくない彼女がとった自衛手段は,自分を捨てることでした。自分を空虚にしても,コンビニ店員としては,立派にやっていけます。マニュアルどおりにやればいいのです。そんな恵子が,ひょんなことから,白羽という男性と同棲することになります。白羽は,プライドはあるものの,コンプレックスの塊で,やはり社会にうまく順応できず,コンビニの店員もクビになってしまった男でした。彼は,世間(とくに社会的な常識を押しつけてくる兄嫁)から逃げようとしたところ,独身・処女ということで居心地の悪さがあった恵子と,仮面夫婦をすることで利害が一致したのでした。しかし,同棲を始めたことをコンビニの仲間に知られてしまったとたん,これまで恵子を「あっち側」の社会の人として敬遠していた仲間が,「こっち側」の社会の人間とみて,社会の掟を押しつけてくるようになったのです。いたたまれなくなった恵子は18年間勤めたコンビニを辞めますが,そのとたん彼女はからっぽの存在に戻ってしまいます。依って立つべき基準がなくなってしまった彼女は,生きる目標を失います。白羽は恵子に働きに出るように薦めます(自分がヒモで居続けるためなのです)が,その途中でコンビニ店に立ち寄ったとき,彼女は自身を再確認できたのでした。彼女はコンビニ人間であり,コンビニ以外では生きていけないのです。本質は縄文時代と何も変わっていない(白羽の言葉)社会で,しかし縄文時代と違い,性欲も食欲も極端に減退している若者が,(おじさんの目からみると)目的をもてずに生きている様子が,乾いた文章でつづられているという感想をもちました。

 

 

 

 

2020年1月13日 (月)

ミルクボーイ

 一夜にして人生が変わる,というのは,こういうことでしょうか。テレビ出演もほとんどなかった若手漫才師がM1のチャンピオンになって,たちまち大スターになりました。夢のある話ですね。私は,彼らの漫才をみて,それほど笑うことはできませんでした(サンドイッチマンのほうが面白い)が,それでも彼らが支持されるのはよくわかります。ボケ担当の駒場の「おかん」や「おとう」が何か忘れるという設定の下に,二人でそれが何かを推測するというのが得意のパターンです。M1では,「おかん」が忘れた好きな朝ご飯を当てるというネタです。特徴をきくとコンフレークのようだけど,でもそうでないという掛け合いをしながら,ツッコミの内海が徹底的にコンフレークを分析していきます。誰でも知っているコンフレークの特徴を,これでもかというくらい指摘しながら,内海がどんどん話を展開していくところが見せ場です。みんながそれとなく思っているところを強調して話すので,客との一体感が生まれ,それが徐々に高まっていくのがわかります。しらぬまに,駒場の「おかん」の好きなものを当てるというのはどうでもよくなっていて,それで最後に駒場が「おかん」が「コンフレークではないって言うてた」とあかして,それまでのやりとりは全く意味がないということがわかり,ずっこけます。駒場がそれをわかっていながら,内海が勝手にどんどん展開していく話に合わせていたというボケっぷりがわかり,さらに「おとん」はコンフレークとはまったく違う「サバの塩焼きちゃうかって」と言ってたというシュールなボケをかまして,「絶対ちがうやろ」と内海が言うのがオチでした。普通,ボケというのは,見た目や動きが変わったことをする人が多いのですが,駒場は,どちらかというと無個性で,体格のいいことくらいが目立つ普通の青年で,ツッコミ側の内海のほうが個性的な外見なのです(角刈り)が,そういう逆転も面白いし(しかも内容的には内海のほうがボケ的な面もある),コンフレークという普通の食べ物を,ここまで徹底的にイジるところも独創的でした。決勝では,同じような展開を,「最中」を素材としてやりました。最中業界を敵に回しそうな内容でしたが,それでも毒を感じさせないところが彼らの漫才の技でしょう。

 ネタ以外の面でも,最近では早口で何を言っているのかわからない漫才師が多い中,言葉がはっきり聞き取れ,内容も上記のようにわかりやすく,老若男女に支持されやすい安心できる漫才でした。

 彼らが真摯に芸磨きに取り組んで,ストイックに夢を思い求めてきた姿にも深い共感をおぼえます。一歩間違えれば,夢追い型ストーカーの失敗例となりかねないなか,大きな成功を遂げました。

 もちろん,ストイックに自分の芸を磨くのは,芸人である以上,当然のことのような気もします。ただ,芸人にかぎらず,誰でも,効率的にスキルを習得したり成果を出したりする方法はないか,ということを模索しがちです。そのこと自体は悪いとは思いません(意味のない苦労はやらなくてよい)が,それは楽をすればよいということではないのです。ミルクボーイの二人にとって,アルバイト以外の時間は,ひたすらネタを練り上げ,またテレビの声はかからなくても,舞台でお客さん相手にひたすら自分たちの芸を披露して,芸人としての技と感覚を磨きながら,徐々に力をつけていったのでしょう。こうしたやり方は,時間がかかったようにみえるものの,実は最短距離を走っていて,一番効率的なやり方であったのかもしれません。

 いまはまだ何もなし遂げていないが,夢はある。そのための努力もしている。そうしていると,神様が降りてくるかもしれないのです。茂木健一郎の対談集に『芸術の神様が降りてくる瞬間』(光文社)という本があります(初期のブログで紹介したことがあります)が,ミルクボーイにも漫才の神様が降りてきたのでしょう。もちろん,努力をしている人すべてに,神様が降りてくるわけではありません。世の中は不公平です。でも,ふさわしい努力をしていない人には,神様が降りてこないことも確実なことです。そのわずかな確実にすがりながら,不確実な将来に向けて歩んでいくというのが人生なのでしょう。成人となる若者に贈る言葉です。

2020年1月 7日 (火)

資本主義の行方

 

 日本経済新聞の新年からの特集で連載中の「逆境の資本主義」の2回目に少しだけ登場しました(紙媒体では13日)。昨年12月,神戸大学で1時間ほどの取材を受け,動画までとられました。動画は電子版で出ています(https://www.nikkei.com/article/DGXMZO53992140Q9A231C1000000/)。

 取材では,昨年10月のサントリー文化財団の学芸ライブで話したときのスライドをプリントアウトしたハンドアウトも使いながらお話をしました。そこまでやる必要はなかったのですが,資本主義を問い直すという趣旨の企画だと聞き,思わず力が入ってしまいました。
 なお学芸ライブの短縮版の動画は,https://www.suntory.co.jp/enjoy/movie/d/5714930400937.html?fromid=movlistでみることができます(私の太りすぎの醜い画像が残るのは辛いものがありますが,仕方がありません。現在では年末来の体調不良で2キロ以上痩せているのですが)。

 またこの学芸ライブの内容は,ノンフィクションライターの松本創さんが,東洋経済オンラインで紹介してくださっています(https://toyokeizai.net/articles/-/314682)し,兵庫県立大学国際商経学部講師の黒川博文さんのエッセイでコメントをしてくださっています(https://www.suntory.co.jp/sfnd/asteion/essay/vol39.html)。

 私の話は,人はなぜ働くのかというところから始まり,産業革命や資本主義の到来による労働の変質,株式会社制度の下で法人に仕える自然人という図式の登場,そのなかで資本家から切り離されて顔の見えるようになった経営者と労働者の間で構築された日本型雇用システムの登場とその危機,そしていま人間が労働をしなくなっていくというAI時代の到来のなか,未来はどうなるのか。人は狩猟採集時代のような小規模な共同体で,互酬関係のなかで生きていくというような形になるのか,という問いかけをして終わるというものです。労働とは自己の所属する共同体での貢献であり,バーチャルでグローバルな資本主義というのは,そうした共同体を極限にまで拡大して,そしてそれを破裂させてしまう運命にあり,そのとき生物としての人は,よりプリミティブな意味での生存のための共同体のなかで生きていくようになるのではないか,という話です。これがサバティカル中におぼろげに考えていたことです。

 なお前記の日経電子版の動画のなかのフリップで「個人中心の資本主義」と書いたのは,上記の話のなかのAI時代の到来の部分について,「企業中心社会から個人中心社会への変化」(拙著『会社員が消える-働き方の未来図』(文春新書)43頁を参照)という特徴を切り取って書いたものです。説明しなければ,なんのことかわからないですよね。

 

 

 

 

 

 

«脱出のすすめ