2019年11月 4日 (月)

予想は外れたが

 ラグビーのワールドカップが終わりましたね。「にわかファン」よりは,少しはファン歴が長いかも知れませんが,ほとんど「にわかファン」に近い私も,日本の躍進に感動し,楽しませてもらいました。いまは「祭りの後」の寂しさですね。ただ冷静に出場国の顔ぶれをみると,これって大英帝国の運動会ですよね。そこに日本がゲスト出場して,ゲストの割にはかなり頑張ったというところなのかもしれません。
 実は,弘文堂から2017年に刊行された『AIがつなげる社会-AIネットワーク時代の法・政策』(福田雅樹他編)のなかに収録されている,私の「変わる雇用環境と労働法-2025年にタイムスリップしたら」というエッセイでは,冒頭にラグビーのワールドカップの話題をもってきて,日本は「予選免除による時間的余裕も得て,対戦予定国の情報を集め,さらに会場予定地の気象状況や競技場の芝の状況などのデータを徹底的に分析して戦術をたてて臨んだ結果,決勝では惜しくもニュージーランドに敗れたものの,準優勝となり世界に衝撃を与えた」という予言をしていました。南アフリカに勝って,ウエールズに勝っていれば,決勝はニュージーランドだったのですが,残念ながらベスト8どまりで予言は外れました。また今回のチームで,データがどれだけ活用されたかわかりませんし,外国人も含め他のチームの一体化といった精神的なものの重要性が強調されているので,デジタル技術の勝利というより,アナログ的なものが勝利をしたのかもしれません(もちろん,スクラムの組み方の強化などにもみられるように,デジタル技術を使った分析が当然役立っているとは思うのですが)。かりにそうだとすれば,もしデジタル技術をもっと味方につけていたら,さらに上をめざせるのかもしれませんね。次のワールドカップを楽しみにしています。
 私のエッセイに戻ると,上記の部分に続いて,「そこで活用された人工知能(AI)を用いた分析手法は,翌年の東京オリンピックでも,ほぼすべての競技や種目において取り入れられた。その結果が,それまでの最多だった前回の東京オリンピックの16個から倍増の32個の金メダルだった」という予言もしています。これは,あたるでしょうか。
 マラソンと競歩については,すでに対策をとるうえで有利と思っていた地の利が,会場の変更により,大きく損なわれてしまいました。会場の変更をいとも簡単に決めてしまえるIOCの巨大な権力のすごさをまざまざと見せつけられたと同時に,選手側は緻密な戦略を立てて対策を立てても,こういう大きな力によって,簡単にそれがひっくり返される非力な存在だということも思い知らされました。
 ただ私は,そもそも灼熱の東京でマラソンなんてやるのは正気の沙汰ではないと思っていたので,結果としては良かったのですが,それならもっと早く決めろよと言いたいです。マラソンはやはり冬にやるべきもので,冬季オリンピックの種目に含めたほうがよいのでは,などと思ってしまいます。どうしても夏にしたいのなら南半球でやるというのが,選手ファーストでしょう。
 ところで今回のラグビーでは台風被害も大きな問題となりました。オリンピックでの野外競技や海上競技では,当然,台風に何度か直撃されて影響を受けるでしょう。その対策はもちろんされているでしょうが,それでも今回のラグビーの日本対スコットランド戦では,スコットランドがルール無視で試合の中止はまかりならぬと恫喝したように,傲慢な国は何を言ってくるかわかりません。中止や順延の判断はきちんと事前にルールを決めて,それを例外なく毅然と実行してもらいたいですね。ゆめゆめ,アメリカでのテレビ放映の都合などによって左右されることのなきよう,お願いしたいものです。

2019年11月 2日 (土)

教育

 

 

 サバティカルから復帰して1カ月。学部,通常の大学院,そして法科大学院(LS)の三つを併行して授業をやっています。どれも労働法がテーマであることに変わりないのですが,やっている内容はかなり違います。学部は,オーソドックスな労働法の講義です。講義に出てくる学生はそれなりにやる気がある人が多いとみなして,講義のレベル面ではそれほど手加減しません。ワンステージ(90分の講義)は,私のもっているものをできるだけ伝えようという意欲をもって,しゃべり続けるので,終わればぐったりします。それが学生にとってほんとうに良い教育になっているかどうかはわかりませんが,それでも大学の教育は,まずは大講義でなければ,という気持ちです。そう書きながら,2年ほど前は,試験の答案の出来があまりに悪いことから,もうこういう形式の講義は止めようと思っていたことも思い出しました。教育効果がでない教育をしているのは良くないと思ったからです。そして,そのときは,学部生にとってほんとうに役立つ講義とは,もっと市民講座やカルチャーセンター的なもので,実用性を重視したものではないのか,という気分でした。しかし,やっぱりそれは間違いだと思い直しています。たとえ少数でも(かりに5名くらいでも),私の労働法を真剣に聞いてくれる学生がいるかぎり,その人たちに絞った講義をするのが大学教育の責務だと考えるようになっています。もちろん,労働法はいつかなくなるよ,といういつもの主張は冒頭にしているのですが。

 通常の大学院は,数年前から,アジア系の外国人が多数なので,外国語の購読はせずに日本の判例を読ませていますが,こちらは私が本気で臨むと学生が消化不良となるので,ある程度,手加減しなければなりません。もちろん,それは手を抜くという意味ではなく,受講生のレベルにあった授業を全力で行うという意味です。特訓についてきて,力を伸ばせるかどうかは,本人次第です。
 大学院というのは,世間では学部よりも高度なものを学ぶ場だというイメージがまだあるかもしれませんが,おそらく多くの大学(とくに文科系)で,そうはなっていないのではないかと思います。大学院は,研究の場のはずですが,研究をするスタートラインに立てるレベルに達していない者でも入学できてしまうという話も,よく耳にします。なぜそうなるかというと,一つは大学院の目的が,たんなる研究だけではなくなっているからでしょう。もう一つは,定員充足という強い要請があるからでしょう。もちろん優秀な院生もたくさんいるのですが,そういう人たちにとって,ひょっとしたら大学院は物足りないものになってきているかもしれません。日本の大学に本当に優秀な大学院生を集めるためには,定員を絞って,教授のやっている最先端の研究をともに行うことができるくらいのレベルの者に限定して入学させる,ということにしてもよいのではないかと思います(そうでない者は,それぞれの国の大学の学部を出ていても,まずは日本の学部で勉強してもらう)。

 法科大学院では,今年はケースブックを使っていますが,この方式が良いかはなお結論が出ていません。きちんと予習をしてくれば,一番効果的な学習方法であることは間違いないです。しかし,予習をしない学生にとっては,まったく効果が出ないでしょう。でも本当に優れた法曹を生み出すためには,この方法でやるべきだと思います。一方,法曹養成ではなく,法律の専門的知識のある者を民間や公務員に送り出すことをLSの主たる目的とすることにするならば,ケースブックを使う必要はないような気がします。ただ,そうなると,講義形式で十分で,それなら法学部はやめて,法科大学院に一本化して,そこで学部の講義のような形式で授業をするという方法もありそうです。

 私の持論は,法学の基本的な知識は,国民が広く共有したほうがよいので,それは大学よりもっと早い段階で学習できるようにすべきだというものです。その一方,専門的な知識は職業専門学校としての法科大学院(大学院と呼ぶよりも,「ロー・スクール」と呼んだほうがぴったりします)で教えるのです。大学院は残してよいですが,そこでは高度な研究ができる場とし,上述のように,大学院生は留学生も含め,そのレベルについてくることができるものに厳選すべきでしょう。

 以上は,私の日常の労働(大学教育)をしながら感じていることなのですが,でも私のほんとうの問題関心からすると,もっと大学,いや研究体制全体をAIシフトにすべきだということになります。大学入試の英語に関する混乱はバカバカしいです。英語に多くの時間を割くのは,これからのAI時代において,どれだけ必要かを吟味すべきです。おそらく英語が必要な仕事についたとき,いまよりはるかに効率的な学習法が用意されて,どうしてあんなことを高校生のときにやらされていたのかと後悔する時代が来るでしょう。そもそも日本人が英語を苦手にするのには,それなりの理由があるのです。100メートルを13秒でしか走れない人に,どんなに猛特訓を課しても11秒で走れるようになりません。無理なものは無理なのです。それならテクノロジーを使って英語能力をどう補塡するかということに注力して,苦手なことに時間やエネルギーを使わないほうがよいのです。英語コンプレックスを捨て,英語なんて学ばなくても使いこなせるよ,というのが日本らしいやり方ではないでしょうか。

 大臣は無能でもいいですが,文部科学省の役人は,これからの社会をしっかり見据えた教育プログラムを考えてくれなければ困ります。もしそれができないのなら,せめて余計なことはしないでほしいというのが心からの要望です。子供たちの時間が,無意味なものに費やされないようにしてほしいです。

 これからの教育は,憂国の士が「寺子屋」的なものを(ときには,それはネット上で)開設したりするということになるのではないか,と思います。ほんとうに学ぶべきことは,公教育では学べず,そうした「寺子屋」的なところでしか学べないという時代が来るかもしれません。

 

 

 

2019年10月21日 (月)

書籍紹介3

 『ベーシック労働法』(有斐閣)は, 浜村彰・唐津博・青野覚・奥田香子さんという著者の名前をみるだけで,その重厚さにめまいがしそうですが,そういう先生方が書かれた労働法の初心者向けの教科書です。早くも第7版です。好調ですね。わかりやすい教科書へのニーズは高いのでしょうね。ところどころにプロレイバー色がみられますが,これこそが労働法のスタンダードなのでしょう。


 『ウオッチング労働法』(有斐閣)は,今日,手にしました。編者は,土田道夫・豊川義明・和田肇さんという,上に負けず劣らず重厚な名前が並んでいますが,こちらのほうは,土田シューレ,和田シューレの俊英の若手研究者が勢揃いして,がっちりサポートしています。第4版ですが,世代交代がうまく進めば,いっそうの改訂が見込まれるでしょう。法学部のゼミ向きの演習本ですね。


 番外編として,『判例六法(令和2年版)』(有斐閣)も届きました。今年から編集協力者から外れることになりました。いつもこの仕事のために春ごろに判例を読み込む作業をしていたのですが,これからは自分でスケジュールを組んで勉強しなければなりません。


 上記の先生方および有斐閣には,いつもご配慮いただき,厚く御礼申し上げます。

2019年10月14日 (月)

「その日暮らし」の人類学

 


 


 小川さやかさんの『「その日暮らし」の人類学―もう一つの資本主義経済』(光文社新書)と『都市を生きぬくための狡知-タンザニアの零細商人マチンガの民族史』(世界思想社)を読みました。サントリー文化財団での仕事(学芸ライブ)でご一緒することになり,事務局の方から事前にお送りいただいていました。後者はサントリー学芸賞を受賞されている重厚な学術書です。そして,前者の新書は,その内容を中心としながら,さらに内容を追加して一般人向けに書かれたものです。


 これらの本から,タンザニアの商人たちの商売の仕方や生き方にディープに潜入した著者による,私たちが普遍的と考えているような資本主義とは違う,草の根のたくましい商人たちが支える資本主義があるのだという,強烈なメッセージが伝わってきます。著者は,別に彼らの生き方がよいと言っているわけではないのですが,この「もう一つの資本主義経済」のもつ私たちへのインパクトは非常に大きいものです。


 実は,私自身もサバティカル期間中,いまさらながらですが, 資本主義と労働というものをずっと考えていました。資本主義社会の到来により,雇われなければ生きていけない労働者が生み出されたところに今日の様々な問題の根源があるのです(それは労働法の原点でもあります)が,そうした資本主義社会に対して,共産主義に一気に傾斜するわけにもいかないなか,どのように向き合っていくかということは,私自身がこれから考えて行かなければならないことです。人間のとどまることを知らない欲望とどう向き合うか,物質的な欲望がもっと制御された,資本主義とは違う社会があるのではないか,という問題意識は重要だと感じています。


 もっとも,小川さんの紹介するタンザニア商人は,別に欲望を抑制しているわけではありません。資本主義の洗礼を強くうけないまま,ただたんに前向きに「その日暮らし」をしながら,グローバルな経済社会の底辺でたくましく生きているのです。だまされても,だました人の助けになっていたらいいし,ほんとうに困っているときに人を騙して窮地を脱することもあっていい。そういうことはお互い様である。でもやってはいけない最低減の道義のラインはある。そうしたラインが自然発生的に存在しているものの,国の規制として存在しているわけではなく,そこにある種の新自由主義的な経済社会があるともいえるのです。


 欲望がどんどん膨らみリスクの大きい資本主義のなかにいながらも,不安定さを嫌って,安心を求める日本人。いったん資本主義の洗礼を受けてしまった日本人がタンザニア人のようになることは無理だろうという気はしますが,なんとなく自分にまったくできそうにない生き方ではないのではないか,という気もしています。大学院生時代にイタリアに初めて留学したとき,それほど貧乏ではなかったものの,生存ギリギリのラインには,今よりもはるかに近いところにいたことは確かで,自分の将来がまだよくわからなかったあの頃の「その日暮らし」感は,ちょっと懐かしい気もします。


 いずれにせよタンザニアという,まったく想像もできないような国のことを,ここまで見事に私たちに描いてくださった小川さんに感謝すると同時に,体験と分析という肉体と知性の融合する研究のもつ迫力と面白さを存分に教えてもらいました。


 


 




 


2019年10月 7日 (月)

書籍紹介2

 労働法関係の本でご寄贈いただいた本の御礼とご紹介の続編です。今回も教科書関係を中心にします。

・森戸英幸『プレップ労働法(第6版)』(弘文堂)
 本の帯にある「最初の1冊はこれで決まり!」がぴったりです。改訂版は,自分の関心のあるところから読むということで,労働契約法20条関係から入ったのですが,いきなり「短時間労働者及び有期雇用労働者の雇用管理の改善等に関する法律」の略称が「パー有法」となっていてびっくり(150頁)。これって「ぱーゆーほう」と読むのでしょうか(水町さんが怒り出しそうですが)。大胆な略称の付け方に脱帽です。その次の頁にいって,真ん中から下の会話を読んで爆笑してしまい,そこでとりあえず終わってしまいました。読んで笑える珍しい労働法の教科書です。

・水町勇一郎『詳解労働法』(東京大学出版会)
 水町さんから重厚な本が届きました。索引なども含めて1500頁近くに及ぶ大作で,とても最初から最後まで読みとおすことはできないですが,辞典のように机の上に置いておくことを想定したものなのかもしれません。日本の労働法を完全に描こうとするには,これだけの分量が必要ということなのかもしれません。帯に書かれているように「労働法を詳しく知りたいすべての人の必携書」であることは間違いないでしょう。ただし,労働法を「深く」知りたい人のニーズを満たすかどうかは,評価が分かれるかもしれません。

・川口美貴『労働法(第3版)』(信山社)
 上の水町「詳解」に負けないくらいに迫力のあるのが川口さんの教科書の第3版です。第2版が出たばかりと思っていたので,実に精力的ですね。川口さんは,一流の教科書ライターだと思います。細かい論点にまで気がまわっていて学習者への配慮があるし,その反面きちんと自説も展開しているし(懲戒権の契約説など)。研究者のなかには,この本のファンが多いのではないか,と密かに思っているのですが,どうでしょうか。

 文字通り詳しい解説を求めるなら「詳解」,初心者向けなら「プレップ」,ディープな労働法を学びたいなら川口本というところでしょう。

 

 





 

 

2019年10月 2日 (水)

書籍紹介1(表題変更)

 今週から大学の通常業務に復帰しました。この間にも時々お送りいただいた本の整理はしていましたが,きちんとできていませんでした。できるだけ早く,お礼をかねてご紹介していきたいと思います。

・土田道夫『労働法概説(第4版)』(弘文堂)
  もう第4版になるのですね。土田先生の『労働契約論』(有斐閣)のエッセンスを凝縮した本ですが,それなりの分量になっています。精密な土田労働法の世界を堪能できます。土田先生には,今月の日本労働法学会のワークショップでもお世話になります。

・野田進・中窪裕也『労働法の世界(第13版)』(有斐閣)
  こちらは13版ということで,いまや労働法の教科書の定番中の定番です。登場したころは新しいスタイルという印象でしたが,もはや堂々たるスタンダードの教科書です。「はしがき」で「せっかく『働き方改革』が喧伝されたのであるから,それぞれの現場でお仕着せでない工夫と努力を重ね,真に公正でゆとりのある働き方へと繋げてほしいものである」という落ち着いた大家としてのコメントが印象的です。加えて,「第9版までの共著者である和田肇氏の声が随所に残り,本書の血肉となっている」という気遣いも印象的でした。  

・水町勇一郎『「同一労働同一賃金」のすべて(新版)』(有斐閣)
  同一労働同一賃金の伝道師である水町さんの本の新版が早くも出ました。改正法の施行半年前の絶妙のタイミングであり,多くの実務家が手にとることになるでしょう。私とはこの問題に関する立場は全く逆であり,もちろん水町さんのほうが正統派で,私は異端派ですが,異端派が火あぶりにならないように,もう少し抵抗を続けていきたいと思います。

・黒田有志弥・柴田洋二郎・島村暁代・永野仁美・橋爪幸代『社会保障法』(有斐閣)
  有斐閣のストゥディアのシリーズの教科書です。最初は,このシリーズに対して消極的な印象をもっていたのですが,初心者にとって,ちょうど分量,内容とも良いレベルであり,印象は大きく変わりました。これは企画の勝利だと思います。先日は,このシリーズの行政学の『はじめての行政学』と,平野光俊さんらの『人事管理』(Kindle)を買いました。どちらも私費で買ったのですが,たいへん満足しました。このシリーズは新しい教養書としての地位を確立していくのではないでしょうか。今回の社会保障法も,ざっと読んだだけですが,最初の第一歩としては十分です。もっとも,これを3日で読み終えて次にステップアップしようとするとき,どのような本を読むべきかとなると選択が難しいかもしれません。

 

2019年9月23日 (月)

全世代型

 昨年10月から始まった1年間の充電期間(サバティカル期間)が終わろうとしています。前半はそれまでの仕事の継続や欧州出張などでバタバタしていましたが,後半はひたすらインプットに取り組みました。インプットといっても法律書はほとんど読んでおらず,むしろ法律外的な価値観を吸収して,自分の労働法理論を再点検しようという試みをしてきたつもりです。自分改造の取組です。まだその途上で,すぐに成果は出そうにないですし,いまでも小出しで書いているものは,やはりこれまでの延長線上にあるものにとどまっていますが,自分のなかで思考の変化が起きつつあることは自覚しており,いつかそういうものが書いたものに現れてくればよいなと思っています。おそらく数年後は,若書きだけでなく,ほんの数年前に書いたものであっても,自分で否定していくプロセスに入っていくような予感もあります。

 それにしても,50代半ばでのサバティカルという制度をいただいたのは,有り難かったです(大学の同僚にはご迷惑をかけていますが)。もう少し若い時期にとれたほうが良かった気もしますが,それでも,まだ研究者人生がある程度残されている時期に,「改造」の機会を得られたのはラッキーでした。経営者の方々も,従業員を思い切って1年くらい日常の仕事から完全に解き放たち,充電させてみればどうでしょうかね。

 

 ところで,最近の活動としては,現在発売中のWedgeで,高度プロフェッショナル制度関係のことを書いています。ICTの活用により,働き方の変化がより本格的なものとなるなか,知的創造性を要する働き方の受け皿として,真の意味での「ホワイトカラー・エグゼンプション」が必要となる時代が来ているのではないか,という,いつもの問題意識によるものです(詳細は,拙著『労働時間制度改革-ホワイトカラー・エグゼンプションはなぜ必要か』(中央経済社)を参照)。今回の労働基準法改正で導入された「高度プロフェッショナル制度」では不十分であり,そのことが実際にも露呈してきているというのが,今回の特集の他の記事からも示されています。健康については,もっとテクノロジーを使うべきだという,(これまたいつもの)主張もしています(これについては,拙著『会社員が消える-働き方の未来図』(文春新書)115頁以下も参照してください)。今後は,自分の健康情報をクラウドで管理し,必要に応じて医師のアドバイスを,ネットを通して受けるということが当たり前となるでしょう。健康に不安があるときの医師への相談や診断はネットを通して行われるようになり,医療費の支払いはオンライン決済となり,過去の診断結果や薬の処方も電子的に記録されることになるでしょう。健康情報というセンシティブな情報は,できるだけ個人で管理できるようにすべきであり,それを可能とする技術がすでに実用化されているのです。そのことを前提とすると,会社員に対する企業の健康配慮義務のあり方も変わらなければなりません。当然,健康確保を目的とする労働時間規制のあり方も変わらざるを得ないでしょう。

 こうした健康テックの発達は,社会保障の医療保険制度のあり方の見直しを必要とするでしょう(例えば,健康保険と国民健康保険を分ける実益がなくなっていく)。政府は,「全世代型社会保障検討会議」なるものを立ち上げたようで,大変立派な方が委員になっておられますが,新しい時代に対応した新しい発想で社会保障を語れる人がどれだけいるかと考えると,ちょっと絶望的な気分になります。60歳以上の人が大半を占めるような会議に,将来を託すことができるでしょうか。有識者の「識」がどんどん陳腐化している現状を政府が十分に理解していない(あるいは理解しているが,改革を「やったふり」するだけで,本気でやることなど考えていない)のではないか,という疑念があります(まあIT大臣の人選などをみると,安倍首相は,先端技術をなめているとしか思えませんし)。

 ところで,ご連絡がおそくなりましたが,中央公論の9月号(先月号)に,ジャーナリストの田原総一朗さんとのインタビューが掲載されています(AI関係)。拙著の『会社員が消える』を読まれたということで,声がかかりました。 初めてお会いしたのですが,切れ味のよい質問を次々と繰り出されて,たじたじとすること度々でした。問題意識が鮮明で,鋭敏な時代感覚もあり,さすが一流のジャーナリストだということを,(スカイプを利用していたので)ネットを通してではありますが十分に感じられました。掲載されたのは一部分にすぎないのですが,私としては貴重な機会となりました。田原さんの年齢は,Wikipediaでみると85歳でした。周りのサポートはあるのでしょうが,スカイプのインタビューを普通にこなされているというのも,その年齢を考えると驚きです。

 つまり大切なのは年齢ではないのです。年齢が上でも田原さんのような「有識者」にふさわしい方もいれば,若い20代,30代,40代でも,新しい時代を語れる「有識者」がいると思います。「全世代型」というなら,本気で全世代の有識者を集めたらどうでしょうかね。

 

2019年9月19日 (木)

休み方の知恵

 

 今から30年近く前に,フランス労働法に詳しい野田進教授とドイツ労働法に詳しい和田肇教授の共著で,有斐閣から『休み方の知恵―休暇が変わる』が刊行されました。海外に留学したことのある研究者,とくに欧州に留学した人は,休暇文化の彼我の違いに衝撃を受けることがあります。私も,イタリア留学の経験から,日本の休暇文化の貧困さに嘆き,なんとかならないかと思い続けてきました。欧州留学験のある労働法学者は,ほぼ例外なく,休暇に関する問題意識を高めてきたと思います。

 最近は「働き方改革」の影響で,ようやく問題意識が高まってきているようですが,30年経ってもこの程度の進歩しかないのか,という気がしないわけではありません。

 「休みたい」と言うと,「では仕事がどうなるのか」。これは直接言われなくても,賢明な日本の労働者は,自分で忖度してしまうのです。さらに休まないで働く姿勢を見せることによって,上司の覚えをよくするといった屈折した行動を選択する人も出てくるのです。

 休暇をとるためには,他人に迷惑をかけてよいということが前提でなければなりません。お互い様の精神です。だから職場に休暇など取りたくないという人がいれば,「お互い様」が機能しづらくなり,休暇をとりにくくなるのです。とくに上司が休暇など要らないというような場合には,いっそうそうなります。

 だからこそ法律(労働基準法39条)は,年次有給休暇(年休)の「権利」を労働者に与えているのですが,日本の労働者はもったいないことに,この権利を使い切っていません。ついに2018年の労働基準法改正で,使用者に5日の付与義務を課すことになってしまいました。労働者が年休を取ろうとしないので,企業に取らせるよう義務づけたのです。

 ところで,17日の日経新聞の夕刊で,「自分を磨くスマート有休 職場の理解が第一歩」という記事が出ていました。そこで書かれていたように,年休を取るのには職場の理解が必要というのは,そのとおりだと思いますが,休日にやりたいことを書き出し職場でオープンするということが推奨されていて驚きました。そこまでやらなければならないのか,という感じです。日本の休暇文化を変えるためには,そういうことになるのかもしれませんが,これは伝統的な日本企業のメンタリティを引きずっているみたいで,ちょっと残念です。年休は取りやすくなるかもしれませんが,根本的なところで休暇文化の改善にはつながらないような気がします。

 育児休業のような目的特定型の休みと違って,年休の良さは,職場の誰にも知られずに,自分のプライベートを謳歌するところにあります。法的にも,最高裁の判例が,年休自由利用の原則を認めています。年休をとれば,職場の皆さんに「お土産」を,というのも,法的にいうと,望ましくないことかもしれません。

 前にも書いたように,ワーケーションが健全な(?),あるいは理想的な(?)休暇文化を育てることを阻害することになってはいけないように思います。

 ただ,欧米人だって,休暇中に仕事を持ち込んでいる人はいるぞ,と反論する人もいるでしょう。これはそのとおりです。トップ・エグゼクティブは寸暇を惜しんで働いています。休暇中も仕事を意識している人は少なくないでしょう。でも一般従業員は,そこまでする必要はないのです。そんなに給料をもらっていないのですから。

 もちろん,仕事が気になって休暇中にも仕事をするのは,本人が自由意志でやるかぎりは,他人がとやかくいうことではありません。私だって,年休を海外で過ごしているとき,プールサイドで大学からのメールをチェックしたり,原稿を書いたりすることはあります。でも,これは自分の判断でやっているもので,誰からも強制されたことではありません。強制されたら抵抗するでしょう。

 年休とは,このような意味で,自分の時間をどう使うかの「主権」を完全に個人の労働者に与えるものです。だから,その理想に向かって,私たち日本人は頑張って行きたいなと思っています。どの程度,共感してもらえるかわかりませんが。

 なお年休以外に企業が追加的に特定の目的の休暇を付与することはあり,その場合には,完全に自由な休暇ではなく,その付与目的に縛られるのは当然です。その意味で,休暇を論じるときには,労働基準法で付与されている(自由な)年休と,それ以外の法定外年休とは明確に区別して論じなければなりません。前記の日経の記事は,その点でちょっとミスリーディングじゃないでしょうかね。

 

2019年9月10日 (火)

若き日のマルクス

  不思議なことに(?),近年,マルクス(Karl Marx)のことを口にすることが増えてきました。世の中では,マルクスからまだ学ぶことがあるのではないか,という議論も有力です。『共産党宣言(Manifest der Kommunistischen Partei)』は読み物としても面白いですし,難解な『資本論(Das Kapital)』はよくわからない部分が多いものの,いまでも参照しなければならないことが少なくありません。
 ところで『資本論』の第1巻第3編第8章「労働日(Der Artbeitstag)」のなかに,労働者階級の資本家階級への憎悪をかきたてる有名な言葉があります。ルイ15世の愛妾(妾といっても公けの存在)で,贅沢三昧の生活を送り権力を握っていたとされるブルジョワ階級出身のポンパドール夫人(Madame de Pompadour)のAprès moi le déluge(洪水よ。私の亡き後に来たれ)を引用したあとの,「Das Kapital ist daher rücksichtslos gegen Gesundheit und Lebensdauer des Arbeiters, wo es nicht durch die Gesellschaft zur Rücksicht gezwungen wird.」(それゆえ,資本は,社会によって強制されない場合,労働者の健康や寿命を顧みたりしない)というフレーズです。労働運動家の好きなフレーズですが,西谷敏先生も,ご著書の『労働法の基本構造』(2016年,法律文化社)9頁で引用されています。
 私は,ここにみられる資本家「性悪論」的な立場からの労働法には根本的な疑問を感じており,ここはきちんと理論的に明確にしなければならないという意識をずっともっています。このことが,私の頭からマルクスがなかなか離れない原因の一つです(もちろん,唯物史観は,資本主義までの分析は実に興味深いものであることは事実です)。
 そういうことがきっかけだったわけでもないのですが,ビデオで2017年の映画「Le jeune Karl Marx」(なぜか邦題は,「マルクス・エンゲルス」)を観ました。ジャーナリストであったころの若き日のマルクスが,エンゲルス(Friedrich Engels)と出会い,『共産党宣言』を書くまでのことが描かれています。どこまで忠実に歴史を反映したものかわかりませんが,当時の時代の雰囲気を味わうことができたのが良かったです。佐々木隆二『カール・マルクス:『資本主義』と闘った社会思想家』(ちくま新書)を読んだあとにみると,より理解が深まると思います。

 

2019年8月24日 (土)

ワーケーション

 

  ワーケーション(workation)。「work」と「vacation」とを合体させた造語です (和製英語ではありません)。休暇と仕事を両立させる働き方ということで,最近注目されているものです。先日の87日の日本経済新聞における「「休み方改革」量も質も」という記事では,「有休は本来,個人の判断で取得できるが,周囲に気兼ねして十分に取らない人も少なくない。社内の制度とすることで,社員を休暇取得に積極的に誘導する仕組みだ。旅行を予定している期間に急な仕事が入っても,テレワークなどでこなせれば計画を変更する必要がなくなる」と紹介されていました。これだけ読むと,とても良さそうなのですが,もし法定の年次有給休暇中に仕事をさせるのであれば,労働基準法違反となります(その休暇日が,法律で付与する年次有給休暇の日数を上回る法定外年休であれば別ですが)。

 企業としては,どうせ年休をとらないのだろうからと考えて,これを取りやすくするために,こういう制度を設けようとしているのかもしれませんが,本来は,休みか仕事かはっきりしないようなことをするのではなく,きっちり労働から完全に解放させて休ませることを考えてほしいものです。

 こうした動きの背景に見え隠れするのが,2018年の労働基準法の改正で,新たに5日の年休付与義務が企業に課されたことです。このため,従業員の年休取得率が低い企業では,何とか年休をとらせなければまずいということで,仕事をしてもいいから休んでほしいという動きになってしまっているのかもしれません。とはいえ,何かあれば仕事をしてもらうという状況での休暇付与は,実際に仕事を命じなかったとしても年休の付与日数にカウントされないと思います(解釈問題ですが)。つまり企業としては,義務を履行したことにならないのです。

 私の身近でも,次のようなことがありました。これまで何年にもわたって,夏季の一斉休暇にしていたお盆近辺の日を,年休日に充当するというのです。これは,実質的には取得可能年休日を削減することになるので,明確には違法といえないものの,法の趣旨に反することです。ただ,企業側にも言い分があるのです。従業員が自ら年休を取得しようとしないから,企業としては労働基準法の年休付与義務違反に陥ることを回避するための苦肉の策として,こういうことをせざるを得ないというのです。企業ばかりを責めることができない点が,問題を複雑にしています。

 とはいえ,「ワーケーション」は,あくまで法定年休以外のところで広げるべきです。そして,その延長線上に,真の意味でのテレワークがあるのだと思います。時間的な場所的な拘束から離れ,休暇をどのようにとることも含め,時間管理や健康管理は自己責任というのが,これからの自由な働き方なのです。ワーケーションは,こうした自由な働き方の中から出てくるものです。この自由さを前提としない「ワーケーション」,つまり,「休暇をとってもいいけれど,仕事も忘れるなよ」ということでは,日本人の働き方は根本的には何も変わらないままでしょう。(よくあることですが)中途半端なことをするくらいなら,やらないほうがよいのです。 

 ところで,日経新聞の記事では,小見出しに「欧米では普及」となっていて,ワーケーションが欧州でも普及しているのだろうかとびっくりしてその後を読んでみると,普及していると国として紹介されていたのはアメリカとインドだけでした。「欧」はありません。欧州の常識では,休暇中に仕事をするなど論外です。あまりに雑な小見出しの付け方に,あきれてしまいました。

 

 

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